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私
:著者は、 原始時代の教育
を考えるときに 、(1)出産、育児
、( 2)生産、生活技術の伝承、(3) イニシエーション
の3つを基本観点としているという。
A氏
: イニシエーション
というのは、成人となり、大人の仲間に入るときの「 通過儀礼
」だね。
肉体に傷をつけたりして、これに耐えるテストに合格
すると成人として認め、大人の仲間に入ることが許される。
今、 成人式
がこの伝統をわずかに残しているね。
私
: 縄文時代
の遺骨に多い「 抜歯
」は縄文人の イニシエーション
のあとではないかという説が有力であるという。
ただ、これは罰とか「体罰」とは異質だね。
縄文時代 の子どもは裸同然で山野を走り回っていただろう。 だから、現代人よりは動物に近い皮膚を持っていただろうから、「 体罰 」という意識はなかっただろうね。
しかし、 奈良・平安時代
になると、「 体罰
」が鮮明になる。
「 万葉集
」に当時の里長が、民衆を ムチ打つ
ことが出てくる。
奈良時代後期
に官吏養成機関である 大学(寮)の規定
には、 ムチ打ちの罰
の規定がある。
当時は 貴族の家庭
でさえも、 ムチ打ち
が行なわれていたという。
「 律
」
の 規定
では、祖父母、父母の教えに従わない子どもを 殴打
して戒めることが許されていたという。
A氏 : 古代国家 では「 体罰 」的風潮が強かったようだね。
私
:しかし、 天台宗
の開祖
、伝教大師 最澄
は、今日、知られている わが国最初の「体罰」否定論者
だという。
「 手で児童を打ってはならないし、違反するものは同志でない
」としているという。
後の江戸時代に一般的となる 「体罰」忌避の先駆
となっている。
しかし、中世では、まだ、下の者に対する「 体罰 」は存在していたようだ。
A氏 : 禅宗 はどうかね。
私
:中国化され、もっとも中国人的な仏教とされる 禅宗
は、 6世紀
に 達磨
によって始められる。
「 悟り
」の境地に達するには、艱難辛苦を耐えねばならず、「 悟り
」の契機として師から「 体罰
」を含めた 無理難題
、 苦痛
を課せられることを必要不可欠としていた。
しかし、中国の 北宋
時代には、「 体罰
」の抑制を考える方向も出てくる。
日本の禅宗史上
、注目されるのは 道元
だね。
道元
は、「 他の人の間違いを見て、いけないと思ったら、相手が腹を立てないように教え導くべきである
」と言っているという。
A氏 : 道元 は、「 体罰 」の 完全否定論者 ではないが、「 体罰 」の 本質的な非教育性 を洞察し、教育としては抑制すべきだというわけだね。
私 ;明日は、日本の近世の「体罰」に移ろう。