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私
: 1969年
の 逮捕
から 1997年
の 死刑執行
までの 28年間
、則夫は獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を行い、多くの作品を遺す。
1971年
に手記「無知の涙」、「人民をわすれたカナリアたち」を発表した。
この 印税
は4人の被害者遺族へ支払い、そのことが 1981年
の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、 無期懲役
という減刑につながった(のち差し戻し審で 死刑判決
、 最高裁の上告棄却
により 1990年4月17日
に死 刑確定
)。
1980年
、かねてから文通していた 在米日本人
・ 和美
(フィリピンと日本のハーフ)と 獄中結婚
。
1983年
には小説「 木橋(きはし)」
で 第19回新日本文学賞を受賞
した。
A氏 :文才があったのだね。
私 :ところで、 最高裁 は、2審を破棄し、 則夫の死刑が確定 するが、判決文に次のような箇所がある。
「 環境的負因による影響 を重視したためであろうが、被告人同様の環境的負因を負う 他の兄弟 が必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく 立派に成人 していることを考え併せると、 環境的負因 を特に重視することは疑問がある」
A氏 :最高裁の言うように他の兄弟は事件後、果たして「 立派に成人 」したであろうか。
私 : 長男 は、 則夫 が逮捕される前年、 詐欺罪 で逮捕され、宇都宮刑務所に 服役 後、出所してから実家には帰っていない。
学生時代、成績が常にトップだった 次男
は、則夫が逮捕後も稼ぎのある女性を乗り換えながら、 パチンコ三昧
の日々を送った。
しかし、その日暮しの生活に限界が来て、 トラックやタクシーの運転手
をする。
白タク
で稼いでいるというのが最後の証言で、 川崎市内の路上
で倒れているのを病院に運ばれた時は、すでに 末期胃ガン
で、間もなく誰にも看取られることなく、 42歳
で亡くなるが、父親同様の行き倒れだね。
三女 は、離婚して水商売をし、北関東にある雀荘のおかみとなるが、その後は連絡がとれなくなる。
三男
は、出版社に勤めていたが、 40歳
の時、則夫の裁判で兄姉の中でただ一人裁判に証人として出廷する。
その証言を最後に 退職
し、永山姓を捨てて妻の姓となり、周囲との連絡を断った。
四女
は、名古屋で針子をしていたが、則夫の事件から5年後、母が倒れたので青森に戻る。その後、弘前市で看護婦見習いとして働き始めたが、 23歳
の時、望まない妊娠をして未婚のまま男児を出産。 バーのホステス
として働きながら、借金を重ね転職を繰り返した。
結局、青森に帰ったものの、母の世話は一切していない。 しばらくして 心の病
を発病し、子どもは乳児院に預けられた。
姪 は、埼玉県にある工場に集団就職し結婚するが、その後離婚し、相談しに行った次男の手によって置屋に売られ、 行方不明 となる。
彼らの誰ひとり、年老いた母のいる板柳へは戻ってこなかった 。
A氏 :最高裁の判決文の「 立派に成人している 」という指摘はある意味違ったね。
私
:青森の病院に入退院を繰り返していた 長女セツ
は 1992
年、 63歳
で死亡。
母ヨシ
は、 1993年
、 83歳
で死亡。
則夫
は、 1997年
、絞首刑執行で死亡、 48歳
。遺骨はかっての妻の手によって、生前の遺言通り、 網走の海
に撒かれた。
A氏
:振り返ってこのファミリーの歴史を見ると、最後には則夫は新日本文学賞をもらうなどの姉兄妹姪の9人では一番、名を上げたね。
その能力は、殺人で監獄に入るという環境でしか発揮できなかったがーーー。
私
:人は出生の親も場所も時代も選べない。
日露戦争、戦前の農村の貧困、太平洋戦争、戦後の貧困、高度成長など,時代の波にも抗することもできない運命だ。
その大きな波のなかでも、もし、父親が博打におぼれなかったら、もし、もっと母親が則夫の幼少時代にスキンシップをしていたら、もし、長女セツがもっと則夫の勉強の面倒をみることができたらーーーー。
人生、うまくいかないものだね。
死後、弁護人たちにより「 永山子ども基金 」が創設され、これは著作の 印税 を 国内と世界の貧しい子どもたちに寄付 してほしいとの、永山の遺言によるもので、 貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願い が込められているという。