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九州旅行① 広島から熊本今回は熊本・宮崎・鹿児島訪問の予定九州新幹線は久留米駅以降貸し切り車両となりました。熊本駅に到着路面電車でホテル近くまで移動今日のホテルは法華俱楽部熊本さん朝食会場「清正」加藤清正公は熊本ではヒーロー扱い法華俱楽部の朝食はご当地グルメがたくさん品揃えしてある点と1品1品に説明ポップが提示してあり分かりやすい。さすがに馬刺しはないが馬肉料理はあり熊本以外ではみかけない辛し蓮根定番惣菜もあり手間のかかる自家製ぬか漬けも用意馬肉カレー完熟パイン九州名物辛子明太子鮭の塩焼きもワンサイズ大きいボリューム満点朝食食べすぎました法華俱楽部さんの朝食は郷土料理中心のメニュー構成で味も良い、またご郷土料理の中でも人気メニューは他エリアの法華俱楽部でも食べる事ができる全国展開しているホテルのメリットや情報が共有されている。大浴場もあるのでいつも利用翌朝の熊本駅立派な駅ですが人は少ないレンタカーで阿蘇に移動道の駅大津乳製品売り場に丁度納品されていた地元牛乳懐かしい瓶詰めタイプ学校給食がメインの卸し先でしょうか?低温で長時間殺菌した牛乳200ml210円昔では考えられない価格時代が替わったこの牛乳で思い出したのが広島県福山市のスーパーで販売されていた無殺菌牛乳(生乳)全国でも数件しかない酪農家さんの生乳噂では聞いた事があったが実際にみるのは初めて20年前北海道の酪農家に訪問時に絞りたての無殺菌生乳を飲んだ時の感動がよみがえります。小さな頃から飲んできた牛乳の味とはまったく違う飲み物だった。牛乳は出荷前に高温で殺菌するので風味や味が生乳と比較すると別物になっていた、その時はじめて本物の味を知った。200ml550円清涼感がある独特の味、料理に使用するともっと活かせると感じたが価格的に難しいか?阿蘇の中腹にある杉養蜂園観光バスが立ち寄る観光スポット蜂の生態や蜜の採取方法が詳しく展示してあります全ての商品が試食できる丁寧な接客お客さんも少なかったので詳しく聞く事ができましたローヤルゼリーの結論は長生きできるこれで寿命が3日伸びたはず阿蘇の中岳に近づきます阿蘇草千里ケ浜阿蘇の観光スポットこの日は規制があり火口には行けず中岳からはかなりの噴煙が上がっていました阿蘇らしい風景大分の竹田市に向かいます
2021.06.23
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鹿児島 旅行⑩ 天草から島原 口之津民俗資料館 原城(世界遺産)今日は天草市内にある「天草キリシタン館」からのスタートです資料館は天草市を見下ろす山の中腹にあります天草四郎像1549年にザビエルが鹿児島上陸、その後1566年にこの天草にキリスト教が伝来、1637年に勃発した島原の乱、その後の天領時代の潜伏キリシタン遺物などが展示されています。その中で一番貴重な資料が「天草四郎陣中旗」この旗は島原の乱で天草四郎が使用した軍旗と伝えられています。この資料館には本物を所蔵されていますが、通常はレプリカの展示、年間の少しだけ本物を展示、管内写真撮影禁止の為写真は資料写真のコピー。その他は時系列で島原の乱を中心にまとめられており分かりやすい展示内容でした。その後フェリーで島原に移動します。②の島鉄フェリーで口之津に向かいます。天草の鬼池港30分の船旅、遠くには湯島(談合島)が見えます湯島で島原側と天草側の一揆勢が話し合いを行った島原と天草の中間にある小島今回乗船したフェリーかなり大きい船でした今年リニューアルされた口之津港港近くにある「口之津民俗資料館」口之津港は1562年開港、翌年にはイエズス会のルイス・アルメイダが来航し布教活動を行う。1567年には南蛮船が入港、明治時代には三井三池炭鉱の石炭を輸出する中継港であった。内陸部に向かうには浅瀬で不可能であった、小舟で口之津まで運び、大型船に積みなおされた。その後は整備が進み三池港まで大型船が入港、口之津港は規模縮小となった。口之津民俗資料館は元は口之津税関の跡三池炭鉱は三井財閥が単独で利権獲得し貿易を行っていた。当時の貿易船明治時代の商店再現明治時代の美人100人やっている事は今と変わらない口之津は大変栄え遊郭などもたくさんあった遊郭の請求書また口之津港からは多くの「からゆき」さんも外国に旅立った。からゆきさんは19世紀後半に東南アジアや東アジアに渡り娼婦として働いていた日本人女性の事彼女たちの多くは貧乏な家庭で生まれ手引き師に安く買われ(騙され)貿易船に隠れて海外に送られた。娘一名預置証彼女たちは中国やマレーシア、シンガポール、遠くはアフリカまで連れていかれた。この資料館の展示物は非常に貴重な物ばかり特にからゆきさんコーナーは地元でも反対の声が上がった(今でも)この地には今でも彼女たちの子孫や親せきの方がたくさん住まれている。からゆきさんの出身地では神戸や北九州、長崎の方が多かったそうです。海外の娼館へと橋渡し役であった手配師「村岡伊平治」からゆきさんたち、彼女たちょの中のはお金を手に入れ自身で娼館を経営したり他の自営業で成功した人もいました。確証はないですが当時鉄砲の火薬を入手するために藩が中心となって彼女たちを火薬と引き換えに外国に売り渡していた事もあったようです。日本に里帰りしたからゆきさんもいたようですがあまり歓迎されなかったそうです。世界各地でからゆきさんの墓地があります。資料館の方のご厚意で撮影も可能でした、マレーシア、サンダカンのからゆきさん墓地彼女たちのお墓は日本に背を向けて建てられています。今回呼んだ本、様々な本が出たことで今でもからゆきさんについて色んな方が研究や調べたりしているそうです。資料館の方の話では今は学生さんからの問い合わせも多いですが、資料だけ送ってくれという学生さんもたくさんいてお断りするそうです。映画にもなっています。からゆきさんは日本の近代化(富国強兵)により1920年ごろにはほどんどの娼館が閉館しその後歴史の闇に消されていましたが、本や映画で存在が再びクローズアップされました。続いて訪れたのは口之津から車で10分世界遺産「原城跡」原城は島原の乱の最後の地、一揆勢3万7千人が原城に立て籠り 幕府軍12万5千人と戦った地三の丸跡城跡ですが、天守閣や櫓もない平地と畑が広がる今はのどかな場所二之丸跡3万7千人が籠城していた割には少し狭い感じです幕府側の責任者であった板倉重昌のお墓原城は海に面した要塞であった。海からも幕府からの要請を受けたポルトガル船が大砲で攻撃しました。本丸近くは田んぼが広がる本丸今は何もない、案内書ではタブレットの貸し出しがあり当時のお城のバーチャルが見れます。一揆勢の3万7千人は兵糧攻めにあい1638年2月27日幕府軍の総攻撃により一揆勢は天草四郎はじめ皆殺しにあった一説には全員この地に埋められたそうです。天草四郎像天草四郎はこの地で討ち取られ、長崎などでさらし首にされます。3体の地蔵が海を見つめています。遠くには雲仙が見えますこうして江戸時代最大の一揆は終焉しキリシタンの取り締まりもさらに強化されましたが、キリシタンたちは隠れキリシタンとして明治時代になるまで250年館活動を続けました。この後はちゃんぽんで有名な小浜温泉に向かいます。
2020.10.03
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鹿児島 旅行⑨ 天草 ホテル四季咲館 富岡城跡今日は天草の富岡に宿泊です。地図では②の斜め下の突き出た半島にあります富岡城の麓の海水浴場に数件ホテルがあり「あまくさ温泉ホテル四季咲館」さんへ宿泊します。あいにくの天気ですが水平線が広がります本日のお品書き合鴨ロースサラダ想像通りの味熊本名物 馬刺し霜降りではなかったですが旨みは十分平目刺身 少し小ぶり醤油とポン酢好みでいただきました活あわびは子供サイズレアに焼くと柔らかくいただけます味付けはレモンだけで十分でした多分韓国産の養殖和牛ステーキ霜降り具合も丁度良い平目の唐揚げイサキの煮物これが一番おいしかった味が濃厚おくら饅頭食事日向夏の葛餅今回は国のGoToキャンペーンプラス苓北町(自治体)の宿泊補助も利用できたため食事にお金をかけました。食事分は国と苓北町におごっていただきた感じです。ごちそうさまでした。翌朝の散歩の一コマ今日もあいにくのくもり遠くに人がいます堤防で飛んだりしている2人よく見るといろんなパターンで撮影されていましたホテルでの朝食ご飯とみそ汁以外は手作り感ゼロ残念でした。(でも味は普通)富岡城跡です。島原の乱では一揆勢に攻め込まれましたがなんとか食い止める事ができた城です。その後一揆勢は島原に渡り原城を占拠します。富岡城二之丸、三の丸地理的に海外からの侵入を防ぐお城でもあった天草四郎像島原の乱後にこの地を治めた代官鈴木兄弟島原の乱の原因を調査し年貢(獲れ高)の修正を幕府に願い出て住民の暮らしを豊かにした富岡の英雄。勝海舟や頼山陽もこの地を訪れた天草市のキリシタン館へ向かいます。
2020.09.30
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鹿児島 旅行⑧ 天草へ(コレジオ・崎津教会)今日は鹿児島を離れて熊本の天草に向かいます。鹿児島最終日のホテルは「南洲館」さんでした天文館からも近く中央公園横の便利な立地リーズナブルな価格で宿泊でき、白熊アイスのサービスや1階フロント横で焼酎やお菓子の無料サービスもあります朝食です黒豚しゃぶしゃぶや玉子料理はその場で作っていただけるライブキッチン様式。宿泊料金を考えるとコスパが非常に高いホテルおすすめです中央公園横の西郷隆盛像その横にはちゃっかり西郷隆盛さんの親族経営のお店があります、寄りたくなります引き続きキャンバス号で天草に向かいます今回の旅のルート、本日は川内、阿久根を通過し鹿児島の蔵の元港から船で天草の牛深にわたります①のルート航路を使用途中で寄った道の駅カンパチや伊勢海老などが大量に販売されていました。鹿児島県の長島の景色段々畑が一面に広がり海とのコントラストが映えます蔵之元港(天草行)予想より大きな船でした、鹿児島から天草へ最短ルートなのでお客さんも多い30分の船旅天草、牛深港から車で15分天草コレジオ館に到着コレジオはキリスト教の宣教師を養成する神学校のこと1591年から1597年まで開校され西洋文化が花咲きました。またコレジオはポルトガル語、英語で言うとカレッジ(学校)になります。コレジオとセミナリオの違いセミナリオは10歳から18歳までのキリシタンの男子が対象の中等教育機関、コレジオはセミナリオを卒業した学生が入学対象となった高等教育機関(大学)戦国時代の天草勢力図ルイス・アルメイダ神父天草で活躍したイエズス会の神父であり医師、1581年から天草地方の病院院長も務め人々から尊敬をあつめました。キリシタンの聖器として使われた鮑の貝殻洗礼を受けるときの聖水器としても使われた南蛮船ポルトガルやスペインなどから来日する貿易船当時西洋人の事を南蛮人と呼んでいた南蛮文化は西洋から宗教、芸術、学問、技術医学、風俗などあらゆる面影響を及ぼした。天草でもオルガンや時計、西洋楽器も輸入され宗教劇の各地で行われていた、パン、ビスケットカステラなどもこの頃伝わった。カステラは今でも長崎の名産品。天正少年遣欧使節団キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代の使節として4人の少年がヨーロッパに渡りました。彼らはヨーロッパ各地で大歓迎を受け、ローマではローマ教皇にも会い8年の歳月の後1590年に帰国しました、その後彼らは神父になるためコレジオに入学しました。当時ベルギーで作成された最初の日本地図九州が中心に描かれている天正少年使節団が持ち帰った「グーデンベルク印刷機」天草本様々な教材やキリスト教布教のために印刷されました、これらはローマ字や和文で綴られた活版印刷物であり「平家物語」なども印刷された天正少年使節団が持ち帰った西洋楽器少年たちは演奏も習いました世界遺産 崎津集落コレジオ館から車で15分、崎津教会を中心とする世界遺産「崎津集落」に到着しました。崎津は厳しい禁教下に、日本の伝統宗教とキリスト教が共存しながら信仰を継続した潜伏キリシタンの集落として高く評価されています。崎津教会1934年に建てられたゴシック様式の教会内部は畳が敷いてあります、この場所は元々庄屋宅で禁教期には踏絵が行われていた場所ハルブ神父は1927年に津崎教会の司教として着任、禁教期に厳しい取り調べを受けていた庄屋跡を買い取り教会の建築に尽力禁教の高札を撤廃したのは1873年(明治6年)その後崎津・大江にフェリエ神父が着任1883年旧大江教会建設1888年旧崎津教会建設崎津諏訪神社有名な「天草崩れ」の舞台となった神社1805年、潜伏していたキリシタンたちも各地で発覚します、代官所の役人は諏訪神社で異物の取り調べを行い、境内に設置した箱に自ら信心具を投げ捨てるように指示し、捨てた信者たちは「宗門心得違い」という事で無罪放免になりました。5000千人が取り調べを受けました。1637年に起こった「島原の乱」の事もあり幕府や役人たちも禁教なので決まり事の取り締まりはするがそれ以上は追い込まないギリギリの攻防が「宗門心得違」の無罪放免につながる。神社境内から見た崎津教会崎津教会から車で10分大江教会天草地方に最初にキリスト教を伝えたのはルイス・アルメイダ神父。小高い丘の上に立つ教会下には集落が広がります。禁教期の後この地に赴任したのがフェリエ神父でその後を引き継いだのがガルニエ神父ガルニエ神父像教会内は自由に入れますが撮影は禁止どこの教会でも人が自由に入る事ができるのは人間は皆「神の子」という考え方の為。これから富岡のホテルに移動します。その⑨に続く
2020.09.28
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