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武蔵野航海記
邪馬台国
日本に国家というものがいつ出来たのか、という問題を考えるのは非常に楽しいことです。
私も邪馬台国に関する本を夢中になって読んだ時期がありました。
江戸時代から300年以上にわたって、多くの素人や専門家がその謎の解明に挑戦してきました。
新井白石などもこの謎解きに参加しています。
高等数学を使ってその位置を推定したものや、邪馬台国というのは間違いで、正しくは邪馬壱国と読むのだという説もあります。
大きく分けて、近畿にあったという説と九州にあったという説に分けられます。
この位置が重視されるのは、それによって統一国家成立の時期が異なってくるからです。
近畿にあったのなら、その邪馬台国とは後の大和朝廷につながるので、邪馬台国のあった3世紀には、日本に統一国家があったことになります。
ところが九州にあったのであれば、近畿にもそれに対抗している国家があったということになり、日本の統一はもっと後ということになります。
邪馬台国のことは、チャイナの正史である三国志にしか書かれていません。
その中の魏書東夷伝倭人の条、俗に言う「魏志倭人伝」に邪馬台国が登場します。
その内容が曖昧で矛盾だらけなのが大論争の原因です。
邪馬台国のあった3世紀初めのチャイナは、魏・呉・蜀の三つの国に分裂し互いに覇を競い合っていました。
この三国の争いは、劉備玄徳、諸葛孔明、曹操などの豪傑の登場で日本人にも良く知られています。
一番有力な曹操は、後漢を滅ぼして魏を建国しました。
実際は曹操の息子が魏を建国したのですが、くどいのでここでは曹操にします。
魏など認めない豪傑たちが建てた国が、呉と蜀でそれぞれ皇帝を名乗りました。
本来皇帝は世界中で一人のはずですが、三人が同時に名乗ったのです。
三人とも他の二人を皇帝と認めないわけですから、互いに他を滅ぼすまで終わらないデスマッチになりました。
魏には実力者が二人いました。皇帝の一族の曹爽と司馬懿です。
司馬懿は名将でしたが、蜀の総理大臣だった諸葛孔明にはかなわず、戦いで負けてばかりいました。
孔明は自分がまもなく死ぬことを占いによって知っていました。そして死後、司馬懿が司令官になって魏が攻めてくることも分っていました。
孔明は、自分の人形を作らせ、司馬懿が攻めてきたら人形を使って自分が生きているように見せかけろと命令しました。
孔明が死んだとき大きな星が落ちました。それを見た司馬懿は孔明が死んだことを知り、蜀に攻め込みました。
ところが蜀の軍を孔明が指揮しているのを見て、司馬懿は戦わないで逃げ帰りました。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」ということわざは、ここから生まれたのです。仲達は司馬懿のニックネームです。
司馬懿は、魏の東方の軍事と外交を担当していました。
彼のライバルである曹爽は西の軍事と外交が担当でした。
当時、チャイナの北方には騎馬民族である匈奴や鮮卑がいて、魏にとっては厄介な存在でした。
匈奴や鮮卑の西に別の騎馬民族である大月氏族がいました。
曹爽はこの大月氏族と同盟を結ぶことに成功しました。
これは大手柄ですから、ライバルの司馬懿はあせりました。
自分の担当である東方でも、有力な国と同盟関係を結ばなくてはなりません。
そこで司馬懿は邪馬台国という大国をでっち上げました。日本のどこかの酋長で占い師でもあったヒミコに、使いを魏の都に派遣させたのです。
そしてヒミコの使いを魏の都をパレードさせ、邪馬台国がいかに強大な国であるかを宣伝したのです。
そしてこの同盟を結んだ司馬懿が、大政治家であることを人々に悟らせたのです。
魏志倭人伝は、邪馬台国の都が魏の都から1万2千里離れており、会稽郡東冶の東だと書いています。
東冶は現在の福建省福州付近ですから、邪馬台国は台湾にあったことになってしまいます。
そして、総人口は15万戸としています。百万人ぐらいですね。
当時の魏の総人口が三百万人と推定されていますから、三分の一です。
魏の敵国である呉は南方の国ですから、邪馬台国と同盟できれば呉を北と東から挟み撃ちできるのです。
大月氏国の都がやはり魏から1万2千里のところにあるのです。
そして人口は10万戸です。
要するに、邪馬台国は大月氏国に匹敵する大国だったと宣伝したのです。
司馬懿はこのようにしてライバルの曹爽を蹴落とし、彼の孫は魏を滅ぼして晋を建国しました。また呉や蜀も滅ぼしてチャイナを統一しました。
三国志の著者である陳寿は晋の役人でした。そして晋が滅ぼした魏・呉・蜀の歴史を書くことを命じられたのです。
チャイナでは、現王朝が滅ぼした前の王朝の歴史を書く習慣があります。
晋もその伝統に従って三国志を書くことを陳寿に命じたのです。
晋の役人である陳寿が、創業者である司馬懿がデタラメを言ったなどと書けるわけがありません。
チャイニーズは日本人と違って事実をあまり重んじません。
事実よりも、あるべき理想を語ることを好みます。事実が理想に合わなかったら、事実を変えて理想に合わせます。
晋の皇帝にとっては、先祖である司馬懿が大政治家であることを証明する方が、事実よりも大事なのです。
日本の歴史学は、事実を重んじることを重視しています。
この態度は間違いではありません。しかし極端なのです。
書かれていないことは事実として認めないのです。
例えば、織田信長は琵琶湖のほとりに安土城を築きました。
城の近くにアヅチという地名があったから、信長が城を安土と名づけたのだと大多数の歴史家は説明しています。
小字程度の部落にアヅチという名前のところがあるらしいのです。
これに対して、平安京に対抗して安土と名づけたという説を唱えた人がいました。
「平安楽土」という儒教の古典の言葉の前半分を取ったのが平安京です。
当時の資料に、この名づけのいきさつを説明した資料があるのです。
信長は、平安京に対抗する都として、この平安楽土の二番目と四番目の二文字を取ったというのです。
歴史学会の大勢はこの説を無視しました。信長が平安楽土を根拠にしたという証拠がないからという理由です。
安土城を作る前の信長の拠点は岐阜城です。
従来は稲葉山城といっていた城を攻め取った信長は、これを岐阜城と改名しました。
これは信長にこの名前を推薦した禅僧が記録を残していますので、歴史学会も認めています。
岐阜というのは、岐山の都という意味です。岐山は古代のチャイナで新しく王朝を創設した周の都の名前でした。
縁起がいいというので、信長はその提案を受け入れたのです。
信長にとって、城とは自分の理想を実現するための拠点でした。
そして城の名前はその理想を宣伝する広告塔でした。
「天下布武」をスローガンにした信長が、数軒の家しかない部落の名前を城に付けるでしょうか。
「魏志倭人伝」に対しても歴史学会は同様の態度をとっています。
魏志倭人伝の内容がデッチアゲだという証拠がないから、魏志倭人伝は正しいというのです。
しかしヒミコの都が台湾にあるという記載そのものが、魏志倭人伝が信用できない証拠ではないのでしょうか。
300年以上日本中で大騒ぎしても、未だにどこだか分らないという事実そのものが、魏志倭人伝のいい加減さを証明しているのではないでしょうか。
「邪馬台国は日本のどこかにある」という思い込みから、邪馬台国探しが始まったのです。
そして魏志倭人伝の矛盾を自分に都合よく解釈しているのです。
方位は間違っているが距離は概ね正しいとするのが畿内説です。
「太陽と北斗七星を頼りに旅をした古代人が方位を間違えるはずはない。
距離は畿内説派が原文の読み方を間違っているのだ」と主張するのが九州説です。
弥生時代の村の遺跡は日本のいたるところにあります。
しかし邪馬台国の都と認められるほど大きな町は発見されていません。
なにしろ、邪馬台国本国は戸数7万で、ヒミコの住んでいた宮殿には女官が千人おり、城壁があって兵隊が守っていたと書かれています。
以前にこのブログで、チャイナの皇帝は農業ではなく商業を基盤としていると説明しました。
商人団の頭が皇帝であって、古代ギリシャ人のように古代チャイニーズも蛮地に植民しては新しい県を作っていきました。
チャイナの商人にとって日本は魅力的な市場でした。
日本は人口・面積ともコリアの二倍で、気候が良いので農産物も豊かで重要な市場だったのです。
チャイナ商人は朝鮮半島を南下して市場開拓を進めましたが、目標は日本でした。
日本にやってきたチャイナ商人は、はじめは日本に根拠地を作りませんでした。
しかし、取引が増えると一年を通じて滞在するようになり、日本の女との間に子供を作りました。
こうなると食料が必要になり、需要に応じて農業生産力が上がってきます。
こうして都市が発生すると、それまで階級差がなかった現地人の間でチャイナ商人と交渉する酋長の権力が増大し、奥地の部落を経済的に支配して一つの小王国を作り上げたのです。
コリア、ベトナム・フィリピン・マレーシアなど東アジアの国々の起源は全て、チャイナの商人との交易から始まりました。
日本だけが例外ということはありえません。
古代のコリアンが日本に文化を伝えたという説が流布しています。
しかし実際は、チャイナの商品を持った商人が、朝鮮半島を経由して日本に来ただけです。
古代においては日本と同程度の文化水準であったコリアの文化を、日本人が歓迎することなど考えられません。
文化的先進地帯の物は、後進地帯の人間には光り輝いていたのです。
漢の武帝はコリアに15の県を建設し、商人を大量に送り込みました。
彼らは定期的に日本に来航し、日本人の有力者が用意した市場に来て取引を始めたのです。
こうして日本の至る所に国と称する商業都市が成長していきました。
それが漢書地理志にいう「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる」という状態です。
その後のチャイナの戦乱と人口減により、朝鮮半島の植民地は廃止されました。
こうなると、日本人の方からチャイナに商品を買いに行くようになりました。
資本力のない小部落には長途の航海は負担が多すぎるので、大部落が小部落の貿易を受託するようになっていきました。
このようにして最初に出現した商社が博多の奴国で、漢書地理誌に「漢倭奴国王」の金印を授けられたと書かれています。
後漢末の混乱時に、漢と癒着していた倭王に代わり邪馬台国が友好商社に選ばれたというのが実際の話です。
このように邪馬台国はチャイナとの貿易商社であり、軍事力と領土を持った国家には程遠い存在でした。
都にやってきた邪馬台国の使いを、司馬懿が大国の使節団にでっちあげただけだったのです。
ヒミコという年老いた占い師が日本のどこかにいたかもしれませんが、現在の我々が想像するような、強大な国家の女王というわけではありませんでした。
邪馬台国などなかったのです。
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