武蔵野航海記

武蔵野航海記

山崎闇斎

17世紀後半に明が滅びた後、日本が儒教の中心になったと多くの日本の朱子学者は考えるようになりました。

このような雰囲気の中で登場したのが山崎闇斎(あんさい 1619年~1682年)です。

闇斎は最初京都で仏教の僧侶になりました。その後京都から土佐のお寺に移りましたが、ここで「南学」と出会います。

「南学」は朱子学の一派ですが、幕府の儒教顧問である林家とは別の系統です。

仏教の僧侶が中心になり、土佐藩の家老がパトロンでした。

僧侶が中心でしたから個人の内心の問題を重視する傾向がありました。

儒教は体制をどのようにしたら良いかという政治思想ですから、この時点で本場の儒教から逸脱し始めています。

このような学風のなかで山崎闇斎は自分の考えを作り上げていきました。

個人の内心の道徳と社会などの外界との関係を、本来の儒教とは全然別のものにしてしまったのです。

「誠」というのは朱子学の言葉ですが、日本人も大好きです。

新撰組は「誠」をユニフォームに描いています。

しかしこの「誠」は本場の朱子学と山崎闇斎の日本的に変容した朱子学では違うのです。

朱子学では「誠」とは静止した状態を言います。

動かないということから宇宙の中心を指します。

また、人間の本性をも指します。

人間が外界から影響を受けない静止した状態では、人間の本性と宇宙のルールは一致するのです。

しかし凡人は絶えず外界から刺激を受け欲望を持ちます。この状態では個人の内心は、宇宙のルールと一致していません。

そこで様々なルールを守ることによって個人の内心の状態と宇宙のルールを一致させるように勤めなければならないのです。

この様々なルールを「礼楽」といいます。

この中には、皇帝と官僚を中心にした政治体制も含まれているし、親や友人に対する態度といった個人的礼儀も含まれます。

個人がいくら内心では正しいと思ったことでもこの客観的なルールである「礼楽」に合わなければ正しくないのです。

「聖人」とは「礼楽」を意識せず自由自在に振舞ってもそれが「礼楽」に合致している人を指します。

このようにどんな場合でも宇宙のルールから外れない「聖人」が皇帝になって地上を支配すべきだと考えるのです。

このような儒教の「誠」を闇斎は我流に解釈してしまいました。

自分の心を正しくするために一所懸命に修養した結果えられた結論は、宇宙のルールと一致すると考えたのです。

この結論を「礼楽」のような外観から判断できる基準によってチェックしなければならないという考えはないのです。

この闇斎の考え方は皆さんもお気づきのように、明恵上人の「あるべきようは」と同じです。

無欲になれば自然のなかで自分の占める位置が分るというのが「あるべきようは」ですから。

そして自分が正しいと考えたことと現実が違えば現実を自分の考えに合わすように行動を起こさなければならないとしたのです。

社会を変革するエネルギーを秘めている積極的な考えなのです。

また当時の一般通念だった日本こそが儒教の中心だという考えも持っていました。

そこから、今の日本の現状は儒教の考え方に合致しているのだと考えました。

朝廷と幕府が並存している状態が正しいと考えたのです。

日本の現状の社会体制を認めていますから、天皇が日本の正統な支配者であることを認めました。

そしてその天皇から征夷大将軍に任ぜられた徳川将軍も正しい存在だと認めました。

従って武力で朝廷や幕府を打倒して日本を支配するようになってもその正統性を認めません。

このように天皇が日本の正統な支配者であることで社会の秩序を維持しようとしました。

この考えは幕府にとって全然危険ではありません。むしろ歓迎すべき学説です。

幕府に逆らう大名達は正しくなく反逆者だとしていますから。

このため幕府の重鎮だった保科正之の先生となり、彼を通して当時の日本全体に大きな影響力を持ちました。

保科正之は三代将軍家光の腹違いの弟で会津藩主でした。

保科正之は兄である家光に愛され、その死(1651年)に際して、後事を託されています。

陽明学者で闇斎の論敵だった熊沢蕃山が、弾圧され蟄居させられたのも闇斎の差し金らしいのです。

余談ですが闇斎の学派(崎門)はそののちどんどん勤皇化しますが、彼の影響を受けた会津藩は最後まで佐幕でした。

それは保科正之が兄家光の信頼に感激して「会津家訓十五箇条」を定めたからです。

「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」と書いたのです。

以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守ったからです。

幕末の藩主松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦いました。

闇斎は天皇が日本の支配者であると考えましたが、これは日本の支配者として代々続いている血統に価値を置いている考え方です。

そして統治者としてふさわしいか否かという支配者の能力や徳という要素を無視しています。

支配者の家系の交代を意味する「易姓革命」を否定しているわけで、本場の儒教とはまるで違います。

以下「易姓革命」を説明します。

チャイナでは一番偉いのは天子でなく「天」です。

天は「聖人」を天子即ち皇帝にして地上を道徳的にしようと考えます。

そこからある家系の者が代々天子を継承していてその最後の者が悪逆な場合は、天は別の家系の聖人に天子を交代させるのです。

これを「易姓革命」といいます。

これには二つの方法があります。

一つは平和裏に天子が別の男に天子の位を譲る場合でこれを「禅譲」といいます。

悪逆な天子が禅譲することを拒む場合は、武力で討伐し天子の家系を入れ替えます。これを「湯武放伐」といいます。

夏という古代王朝最後の桀王は悪逆だったため、殷の湯が天命を受けて桀王を武力で打倒し自ら王となりました。

殷最後の紂王も悪逆だったため、周の武が天命を受けて紂王を打倒し王となったのです。

この湯王と武王の名前を取って「湯武放伐」というようになったのです。

いずれの場合も「天」が絶対的な権威を持って「禅譲」や「湯武放伐」を行うのです。

闇斎は「易姓革命」を否定するために、「臣下は主君に反逆してはいけない」という儒教の原則を援用しました。

チャイナでは何回となく王朝が交代していて、本来の正統な王朝が断絶しているという歴史的な事情からしかたなく放伐を認めているだけだと言うのです。

もしも孟子が日本に来たら古くから連綿と続いている天皇家を正統と認めるはずだとしました。

そして「臣下は主君に反逆してはいけない」という原則だけで良いとし湯武放伐論を否定するだろうと考えました。

儒教の大原則は、地上に道徳的な政治を敷き人々を幸せにするというものです。

その大原則から、「臣下は主君に反逆してはいけない」という原則と「易姓革命」という原則の両方が出てきたのです。

社会を安定させるためには、みだりに臣下が反逆しないようにするのは意味があります。しかし天子が悪逆な場合は天子を入れ替えることも必要です。

どちらも人々を幸せにするための方策です。

この両者を上手く使い分けるために、「易姓革命」が成り立つのは新しい天子が道徳的に優れた「聖人」であることを条件にしているのです。

この二つの原則の関係を儒教のナンバー2の大先生である孟子は次のように説明しています。

「天子が不道徳な行動を重ねた場合、天はその男を天子から解任するのでそれ以後の彼はただの犯罪者である。

新しく天命を受けた者が殺すのは天子ではなくただの「犯罪者」なので、臣下が主君に反逆するわけではない」

本場の儒教では、主君は道徳的でなければならないのです。

主君がその義務を果たさず変なことばかりしていたら臣下はそれを諌めなければなりません。

しかし三度諌めても聞き入れなのであれば、君臣の契約関係を解除して去っていいのです。

しかし闇斎の考えでは、道徳的に立派であることは君主の条件にはなっていません。

昔から家系が続いていることだけが正統の条件です。

地上に道徳的な政治を広め人々を幸せにするのが儒教の目的だということを軽視しているのです。

このように闇斎は昔から日本では儒教の教えが行われているという立場から、日本に存在するものを肯定します。

そして日本の神が天皇家を日本の支配者としたという神話に注目して、日本の神道はチャイナの儒教と同じだと考えたのです。

ついには垂加神道という神道まで作り出しました。

チャイナの儒教と日本の神道は本来同じだというのです。

神道は古来のままの素朴さを維持しているのに対し、儒教は理論的に整理され体系化されたという違いがあるだけだというのです。

結局闇斎は、存在しているものは自然の一部だから認めるという明恵上人と同じ発想を、朱子学という道具を使って理論化しただけなのです。

この闇斎によって捻じ曲げられ、もはや儒教とは言いがたい物となった学説を弟子の浅見絅斎がさらに発展させました。


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