武蔵野航海記

武蔵野航海記

「日本人のための憲法原論」を読んで 4

小室博士は、齋藤代議士を除名した昭和15年3月に戦前日本のデモクラシーは死に、明治憲法も死んだとしています。

戦前の日本が軍部によって戦争に引きずり込まれた原因は色々ありますが、明治憲法や当時の制度に致命的な欠陥があったという説がよく言われています。

例えば、明治憲法第11条には「天皇は陸海軍を統帥す」という規定があり、政府が軍隊の作戦行動に干渉するのは憲法違反だとされて軍の独走を許したという意見です。

また「軍部大臣現役制」は、陸軍大臣・海軍大臣になれるのは現役の将軍に限るという規定です。

陸軍の言うことを聞かない人物が首相候補になったとき、陸軍は「この首相では陸軍大臣の引き受け手がない」と宣言しました。

陸軍大臣がないと組閣が不可能なので、その首相候補は任命を辞退するしかないわけです。

しかし小室博士は、これらの制度上の欠陥は致命的なことではないとしています。

人間の作った制度である以上、欠陥のあるのは当たり前で、法や制度の抜け穴を悪用する連中は必ず出てくるのです。

その制度上の欠陥をカバーするのが議会です。

昭和15年当時の議会に齋藤代議士を守り抜く覚悟があれば、それはできたはずだと小室博士は主張します。

議員に不当な圧力をかけた内閣に対する不信任案を可決するのです。

そうしたら内閣も対抗上、衆議院を解散して総選挙になるはずです。

この総選挙で議員たちが軍の横暴を非難する選挙運動をして当選し議会に帰ってきたら、国民が議員たちを支持している証拠になります。

およそ憲法の歴史で、これに逆らうことのできた権力者はいないと博士は強調します。

そして博士は昭和12年に起きた事件を証拠としてあげています。

林銑十郎陸軍大将が総理大臣になり、陸軍べったりの政治をやろうとしました。

これに対して議会は抵抗したのですが、林首相はいきなり議会を解散してしまいました。

ところが林首相の期待に反して、選挙に当選した議員の顔ぶれは変わりませんでした。

そして在職4ヶ月で林内閣は総辞職したのです。

陸軍が送り込んだ首相でさえ選挙結果には勝てなかったわけです。

ですから昭和15年の「反軍演説」のときも「総選挙をするぞ」と陸軍を脅せばよかったというのが小室博士の結論です。

今まで説明したように議会というのは非常に強い力を持つもので、国家予算を決める権限もあります。

金を握っている者には対抗できませんから、陸軍を押さえるには軍事予算を承認しないという方法もあったのです。

しかし議会は、国民の意思に逆らうことはできません。

浜田代議士の「腹切り問答」や林銑十郎内閣の総辞職はすべて支那事変の起きる前でした。

この段階では国民はまだ軍に対して警戒感を持っていたので、議会も軍を抑えに廻っていました。

しかし支那事変が起きると国民の意識ががらりと変わってしまい、支那事変は「聖戦」だということになりました。

現代になってよく言われているような「戦前の国民もマスコミも軍の弾圧を恐れて何も発言できなかった」というのは真っ赤な嘘です。

昭和12年に日本軍が南京を陥落させた時は、日本中が興奮しマスコミもこれを煽ったのです。

こういう状況で「反軍演説」をした齋藤代議士は除名されたのです。

結局、軍部が戦争をすることにしたのも国民が原因だったというわけです。

山本七平先生は「空気の研究」という名著を書いています。

文庫本で200ページほどの小さな本ですから興味のある方は読んで下さい。

この中で彼は、「日本は空気が支配する国だ」といっています。

「この戦争は正しい、軍部を批判するものは卑怯者だ」という空気が世間に充満してくると、誰もそれに逆らえなくなってくるのです。

本心ではそれに反対していてもそれを口にすることが出来なくなる。

こうして日本はずるずる戦争に突入することになるのですが、こういう空気が出来たのは日支事変の時だと小室博士は考えています。

私は山本先生の言う「空気」とは「あるべきようは」の思想そのものだと思っています。

各人は自然の中で自分のいるべき場所があり、そこにいるのが正しいと考えるのが「あるべきようは」です。

いるべき場所にいれば、周囲と調和し軋轢は起きずすべてがうまくいきます。

周囲と摩擦が起きるということは、その人間が間違った場所にいることを意味します。

ですから自分の考えが周囲と違うと罪悪感を持ち、それを口にできなくなるのです。

こうして皆が同じことを云い、「空気」が発生していきます。

小室博士は、「空気」に支配される日本人の本質は今も全く変わっていないと主張しています。

そして戦前に、齋藤代議士を除名処分したことにより議会が「自殺」したのと同じように、戦後の日本は田中角栄を追放したことで憲法を殺したと言っています。

近代デモクラシーが成り立つための条件は、議会政治が機能し、議会での言論の自由が保障され、自由な議論を通じて法律や予算が決まることが必要です。

角栄は新米議員であった8年間に26件もの法律を提案し可決させたそうです。

角栄以外の議員が法律を提案することなどなく、役人が作った法律を採決するだけです。

コネもなければカネもない角栄が法律を作ることができたのは、演説がうまく説得力があったからです。

また彼は役人を使うのが上手でした。問題意識と知識があったから役人とまともな話が出来、適切な指示を与えることが出来たのです。

田中角栄はデモクラシーを体現した政治家だったというのが小室博士の評価です。

その角栄は1974年、金権政治の批判を受けて首相をやめました。

その後「ロッキード事件」で全日空の新機種導入の選定に当たって、彼がロッキード社から5億円の賄賂を受け取ったという疑いが出てきました。

そして金脈問題で辞めた首相なら、このくらいの賄賂を受け取っても不思議ではないという「空気」が日本を覆いつくし、新聞やテレビは「田中を一刻も早く逮捕しろ」と叫びました。

「田中角栄は悪党だ」という「空気」が日本を支配した結果、冷静な議論は封じられて暗黒裁判が行われデモクラシーの精神は踏みにじられた、と小室博士は憤慨しています。

角栄に5億円の賄賂を送ったとされているのはロッキード社のコーチャンですが彼は証言を拒みました。

日本の法廷で証言したら共犯として起訴される可能性があるから当然です。

コーチャン副社長の証言がなければ角栄を有罪にすることはできなかったのですが、検察は彼が証言を拒否することは最初から分かっていたことです。

物証も証人も手元にそろっていなかったのに、テレビや新聞が逮捕しろといったから逮捕したということです。

これは近代国家がすることではありません。

アメリカには司法取引という制度があります。

情報を提供することなどを条件に、自分を起訴しないということを検察に認めさせる制度です。

日本からやってきた検事に対してコーチャン副社長はこの司法取引を提案しました。

贈賄罪、偽証罪で日本の検察が彼を起訴しないのであれば証言に応じても良いと言ったのです。

日本の刑事訴訟法には司法取引の制度などありませんが、なんと東京地方裁判所がこれを認めてしまったのです。

近代裁判とは、検察が不法な取調べをしていないか徹底的にチェックするのが目的です。

権力というものは無実の人間を罪人にしかねないからです。

ところがロッキード裁判では、裁判所と検察がグルになって刑事免責という法律に明文化されていない条件をあたえてしまいました。

物証も証人もいないのに角栄を逮捕してしまった検察が泣きついたから裁判所が助け舟を出したのです。

このときに日本のマスコミは、刑事免責の特例が出たのをびっくり仰天するどころか大喜びしました。

裁判所が刑事免責を与えたので、検察はアメリカに行きアメリカの裁判官の前で証言させてその調書を日本に持ち帰りました。

アメリカの裁判所で行われた証言に立ち会ったのは、アメリカの裁判官と日本の検事だけで、角栄の弁護士はいませんでした。

その後も被告側はコーチャン副社長に反対尋問を行う機会を与えられませんでしたが、これは明白な憲法違反です。

日本国憲法の第37条2項には下記のような規定があります。

「刑事被告人はすべての証人に対して審問する機会を十分に与えられ、また公費で自己のために強制的手続きにより証人を求める権利を有する」

証言がウソであることを証明する手段が反対尋問であり、これを認めないというのは検察のでっち上げがそのまま証拠として通用してしまうということです。

ロッキード裁判で角栄は一審・二審で有罪になりました。コーチャン副社長の証言が証拠として認められたということです。

これに対して角栄は最高裁まで争いましたが、判決が出る前の1993年に彼は亡くなり、公訴棄却となり裁判そのものがなくなりました。

角栄が死んだ後の公訴棄却のときに、最高裁は「コーチャン証言には適法性がなかった」と言っています。

つまり最高裁もコーチャン証言が憲法違反だということが分かっていたのです。

それならば、角栄が最高裁に控訴した段階でただちに「コーチャン証言は憲法違反だからこの裁判は無効とする」というべきだったのです。

ところが角栄が生きているうちにこの当然の判決を出すということは、最高裁判所が世論と違う見解を表明するということです。

その結果の反応を恐れて、最高裁は角栄が死ぬまで結論を先延ばしにしていました。

ロッキード裁判は見事なまでの暗黒裁判だったのです。

結局角栄が5億円の賄賂を受け取ったのか否かは闇の中ですが、これはむしろ小さな問題で、最大の問題点は日本の裁判所がその任務を放棄したということです。

小室博士は、マスコミの態度も問題だったといっています。

裁判所の態度も大問題ですが、それを許してしまったのは結局のところ権力を監視するはずのマスコミまで「角栄憎し」の風潮に乗ったのです。

小室博士や数人の学者・弁護士はこの裁判の進行中に、角栄裁判の憲法違反を指摘する論文を発表したそうですが、これに対するマスコミの反発はすごかったそうです。

このような裁判が行われたのは結局マスコミの責任であり、ひいては国民の責任ということになります。

小室博士は、ロッキード裁判は戦前の斉藤代議士が除名されたときより、たちが悪いといっています。

戦前のケースは、軍部の独裁という形が誰の目にも明らかでしたが、戦後日本の場合は日本国憲法が死に、近代裁判の理念が無視されていることに気づいている人が非常に少ないからです。

この章の最後で小室博士は非常に厳しいことを言っています。

「みんなは日本が民主主義の国だと思っていますが、これは大変な間違いです。

日本政府は北朝鮮との関係改善を最優先して、拉致された日本人を取り返す努力を放棄しています。

憲法の急所は「基本的人権」です。基本的人権が守られていなければその憲法は死亡宣告を受ける。

その中でももっとも大切なのが、生命・自由の権利です。

だからこそ日本国憲法第13条にも「生命、自由、幸福追求に対する権利」が謳われ、「国政の上で最大の尊重を必要とする」と強調されています。

ところがいきなり「生命、自由に対する権利」を奪われ外国人に拉致され、しかも被害者がどこにいるのか分かっていながら、日本政府は「国政の上で最大の尊重」をしていない。

これほど明確なそして悪質な憲法違反はありません。

それなのにマスコミも憲法学者も、憲法違反を指摘しないとは奇妙奇天烈としか言いようがない。

こんな国のどこが「人民主権」といえるでしょう。もはや日本は民主主義国でも近代国家でもない。

憲法が死んだ結果、日本のデモクラシーは完全に死に絶えてしまった。

皆さんはそんな国に暮らしているのです。残念ですがそれが現実なのです。」。

最後の13章は「憲法はよみがえるか」というタイトルです。

明治憲法に始まった戦前の「デモクラシー」は軍部の台頭とともに滅びたわけですが、今日の日本で軍部の代わりに現れたのが霞ヶ関の官僚です。

霞ヶ関の官僚たちは、議会を乗っ取って議員たちの代わりに法律を作り、内閣を乗っ取って首相や大臣の代わりに政策を決定しています。

ここまでは皆さんもよくご存知ですよねと小室博士は言っていますが、さらに裁判所も乗っ取ってしまったといっています。

筑波大学の加藤教授が下記のような例を紹介しているそうです。

地方条例で「牛や馬は通ってはならない」と決まっている橋があります。

そこを、象を連れて渡りたいと思うのですが、条文には象については何も書かれていません。

そこで役場に行き相談したら、「あの条例は昔作られたもので今は橋も丈夫になっているから大丈夫」だと言われました。

そこで象を連れて渡ろうとしたら別の役人が来て、「牛や馬さえ渡っていけないのに象が通って良いはずがない。条例違反だ」と騒ぎました。

こうなったらどうするかという問題です。

アメリカやイギリスであれば、裁判所に行ってどちらが正しいか決めてもらいます。

裁判所だけが法令の解釈を最終的に決めることができるというのが、デモクラシーの常識なのです。

ところが日本では、県庁に訴えるのです。

すると県庁の役人はその解釈についてのご託宣を述べます。

しかしそこで結論がでなければ今度は中央官庁にお伺いを立てます。

そうするとエリート官僚様が出てきて「このように解釈せよ」とお告げを出します。

「これにて一件落着」というのが日本的あり方なのです。

市町村役場が第一審で、県庁が第二審、霞ヶ関が最高審で、ちゃんと三審制になっていると小室博士は駄洒落をとばしています。

日本人は長い間、官僚はエリートで有能だと考えてきました。

彼ら官僚も自分たちはエリートだという自負からその独裁権力を拡大してきました。

ところが現実は、現代日本の独裁者たちは経済のイロハも知らない連中で、近代精神のかけらもありませんでした。

「無能な独裁者に率いられた大国の悲劇・・それが日本の現状なのです」と小室博士は大いに嘆いています。

なぜ、エリートであったはずの官僚たちがかくも堕落してしまったのか?

日本の官僚制度はなぜ、これほどまでに腐りきってしまったのか?

この問題に小室博士は多くのページを割き、支那の例も挙げて説明しています。

官僚制には家産官僚制と依法官僚制の二種類があります。

家産官僚制とは支那の王朝やヨーロッパの絶対主義王朝のように国土と国民を王の財産としている王朝に仕える官僚の制度です。

これらの官僚たちは、王の財産(家産)である国土・国民から税金を徴収するのが目的の王の私的な家来です。

その一方で国家を治めるという公的な仕事もしなければなりません。

この矛盾した二つの役割のために公私混同が常態でした。

徴収した税金にしても、王様のものの様でもあり、国家という公共のものの様でもあり、また自分のものの様でもありました。

絶対主義王朝では王様が全てを決めるというのが原則で、法律も王様が決めました。

家産官僚は王の名代として自分で法律を決めることができたのですから、その権力も強大でした。

ヨーロッパで政治体制がデモクラシーに変わってくると同時に官僚制も依法官僚制になっていきます。

依法官僚は法に従って行動し、公私の別をわきまえて税金を着服するようなことは絶対にあってはならないと考えるもので、「公僕」です。

そして小室博士は日本の官僚制は未だに家産官僚制であり、それも最悪のもので公私の区別がつかないだけでなく、日本経済全体を自分の所有物だと思っていると憤慨しています。

つい最近まで行われていた「護送船団方式」という銀行行政は、「一行たりともつぶさない」という美名の下、銀行の経営に口を出してきました。

つまり大蔵省の役人が実質上銀行を「所有」していたわけです。

「行政指導」は法的な根拠があるものではありません。

この状態は大蔵省の役人に限った話でなく、あらゆる官庁の役人は日本経済を俺のものだと思っています。

そんな官僚が司法・行政・立法の三権を独占し、日本経済を私物化しているから日本の経済は絶対よくならないと小室博士は断言しています。

官僚というものは放っておけば自分の権力をどんどん肥大化させ腐敗していくものです。

これは古今東西どんな官僚組織でも例外はありません。

官僚とは本来悪だと考えたほうが良いのです。

官僚というのは「機械」です。

前例や既存の法律はよく知っていても、今までに経験したことのない事態に遭遇した時は、何の役にもたちません。

「最高の官僚は最悪の政治家」なのです。

どれだけ優秀な官僚も指導者たる資質はなく、官僚に政治を行わせることは、サルに小説を書かせるよりも難しいと小室博士は言います。

では、よい政治家を作るのはどうしたら良いか?

その答えは「よい政治家を作るのはよい国民だ」ということです。

しかし、残念ながらそれが非常に難しいのも事実です。

戦後の日本人はみずからデモクラシーを放棄し、憲法を殺してしまいました。

田中角栄を暗黒裁判にかけ、官僚の跳梁跋扈を許したのも結局は日本人自身なのです。

その結果、日本はもはや身動きが取れないところまで来ていますが、それは読者自身が何よりもよく分っているはずです。

家庭崩壊や学級崩壊、治安の悪化も日本人がデモクラシーを放棄した結果であり、日本という巨船が沈没するのは何年後かわからないが、そのときは刻一刻と近づいていると小室博士は断言しています。

そして、こうなったのも日本国憲法に構造的欠陥があるからだといっています。

昭和22年に日本国憲法は施行されましたが、これは当時の占領軍によってその原案が作られたことはいまさら述べるまでもありません。

当時のアメリカ人は「日本人には民主主義憲法を作るだけの能力はない」と判断して、彼らの原案を日本に押し付けたのです。

こうした経緯で作られた憲法ですから、その正当性・合法性に対して賛否両論があって未だに決着がついていません。

小室博士はこれに関して「今はこのことについてあえて述べません。それよりも今、私が問題にしたいのは、こうして作られた憲法がデモクラシーにどのような影響を与えたかということです」と書いています。

私は、日本の憲法が成立していないことから問題が始まると思っているので博士の説には賛成できないのですが、ここでは博士の書いた内容にそって説明していきます。

そして結論を先に言うと戦後の日本でデモクラシーが失われることになった真の原因は、憲法そのものにあったのです。

日本国憲法の本当の問題はアメリカ人がこの憲法の原案を作ったところにあるのです。

といっても「押し付け憲法だから駄目だ」というような簡単な話ではありません。

「地獄への道は善意で舗装されている」といったのはダンテですが、憲法を作るのにアメリカ人ほど相応しくない民族はいないのです。

アメリカでは民主主義や資本主義は空気のように当然のことなので、日本人が近代国家の原則である民主主義や資本主義を根付かせるのにどれだけ苦労したか、考えても見なかったのです。

そして民主主義というのが、キリスト教から発生した極めて特殊な思想だということが分らないのです。

伊藤博文は憲法の本場であるヨーロッパで勉強して、日本が憲法を持つのは並大抵のことではないことに気付きました。

そして色々考えた挙句に天皇教を作ったのです。

さてアメリカ人は日本を占領するに当たって、当然ながら日本の近代史を検討しました。

そして大正時代にデモクラシーらしきものが出てきたがそれが離陸しなかった原因は、天皇が現人神であるという馬鹿げた信仰にあると思ったのです。

そして明治の指導者が必死で作り上げた「天皇教」を徹底的に取り除いてしまいました。

昭和21年に昭和天皇は「人間宣言」をして、天皇教は崩壊しました。

占領軍の「誤解」に対して多くの憲法学者や政治家が明治憲法の欠陥を修正するだけで十分だと反論しました。

そして占領軍が作った憲法によって日本が「真の民主主義国」になれたかどうかは、現実を見れば明らかです。

伊藤博文は、憲法には「機軸」が必要だと考えましたが、この機軸とは平等という概念です。

ヨーロッパではこの平等は「神の前の平等」という形でキリスト教から出てきたものです。

それを明治の指導者は、「天皇の赤子」=「天皇の前の平等」として日本人に定着させようとしたのです。

そのためには天皇が「現人神」でなければならなかったのです。

天皇という絶対的な存在に比べれば、すべての日本人はどんぐりの背比べで同じだという発想です。

ところが戦後になって「天皇の前の平等」がなくなり、「平等」だけが与えられたのですが、この「平等」のイメージが掴めないのです。

このことによって、戦後の平等は、「結果の平等」という非常にいびつなものになってしまいました。

「結果の平等」という悪平等がもっとも悪い形で現れているのが教育現場です。

「みんなが同じでなければならない」という、およそ民主主義では考えられないような思想が支配しています。

キリスト教の神でさえ、人間を全く同じには作りませんでした。

デモクラシーにおける平等とは、「法の下の平等」というものです。

人は身分によって適用される法やルールが違ってはならないということです。

小学校の徒競走では、「みんなが精一杯走らなければならない」という同じルールが適用されるべきです。

ところが、これでは結果に差がついてしまうので、「早く走れる子供は力を出し切ってはいけない」というルールが適用され、遅い子とは違ったルールが適用されるのです。

これはヨーロッパ式の平等に反する行為です。

同じことは「自由」についても言えます。

デモクラシーにおける自由とは「権力の制限」という意味で、絶対君主の権力を制限するために使われたものです。

「信仰の自由」とは「権力者は個人の信仰に口を出してはならない」という意味です。

そして、権力を制限する機関が議会でしたから議会は「自由の砦」といわれ、そこからデモクラシーが出てきました。

それを戦後の日本では、自由とは「何をしても良い」という意味に誤解され、自由と放埓が同義語になっています。

自由にしても平等にしても与えられるものではなくて、権力と戦って勝ち取るものです。

そのプロセスを抜きにしていきなり自由や平等を与えられたものだから、戦後の日本人は権力を監視することを忘れてしまいました。

その結果、官僚が日本を支配することになり、民主主義とは国家権力との戦いなのだということが忘れられて、自由や平等の意味も変質してしまいました。

こうした誤解が生まれたのも、アメリカ人が「善意」からアメリカ流の民主主義憲法を日本にもたらしたからだと小室博士は書いています。

戦後の日本に起きたのは「急性アノミー」です。

アノミーというのは自分の居場所を失ったときに起きる現象で、心の病気ではなく原因は社会にあります。

アノミーを発見したフランスの社会学者デュルケムは、生活水準が急上昇した時に自殺が増えるという事実に注目しました。

急に豊かになって生活スタイルが変わると、それまで付き合っていた友人たちとの連帯はなくなります。

その一方、以前から豊かだった人は彼を「成り上がり」と蔑み友人にはなりません。

そのため彼は連帯をどこにも見出せず、ついには自殺してしまうというのです。

上記の事例は通常のアノミーですが、他にも特殊なアノミーがあり、特に深刻なのが、世の中の権威が否定されることによって起こる「急性アノミー」です。

「権威」とは単に威張っているだけでなく、何が正しいかを決める存在で、規範を定めるものです。

人が殺人を犯さないのは、法律で定められているからではなく、「権威」が殺人を正しくないと判断しているからです。

幼児にとって父親は全知全能の存在で、何でも知っているように感じます。

そこで幼児は父親に権威を感じます。

その幼児も大きくなれば父親が全能でないことに気が付いて、家庭の外に父親の代替物、すなわち権威を求めるようになります。

キリスト教社会においてその役割を果たすのが神で、神は人間に「十戒」を与えて、これらの決まりを守ることが正しいと教えました。

キリスト教の神はまさに「われらが父」であり権威なのです。

こうした権威が否定されれば社会は無秩序になります。

その結果、ある者は暴力的になり、ある者は無気力になります。

人間は自分の意思で動いているようについ思ってしまい、権威など不要だと思ってしまいがちですが、実際は違うのです。

戦後日本に起きたのがこの急性アノミーだと小室博士は断言します。

戦後の日本が「父なき社会」、つまり権威なき社会になったことを象徴するのが高度成長と受験戦争だと小室博士は書いています。

何が正しいかの尺度をなくしてしまった日本人にとって尺度はカネだけになってしまいました。

カネを儲け豊かになることは分かりやすい尺度だから、それを目指して高度成長が始まりました。

そして父親は「いい学校に入れば、いい生活が出来る」と子供に受験勉強を強いるようになったのです。

父親が「勉強することは正しい」というのであれば、これはモラルになります。

しかし「勉強すれば儲かる」というのは単なる損得勘定です。

損得勘定を越えたところからモラルが始まるのに、損得だけを言ったのでは、子供は父親を権威とは思いません。

かくして子供は親を尊敬しなくなり、怖くなくなりました。

怖くない親がガミガミうるさくしたら、邪魔だから殺してやろうということになります。

またアニミー社会には連帯感がありませんから、友達をいじめてもなんとも思わないのです。

そうしてこのアノミーを作り出した原因をさかのぼっていけば新憲法にたどり着いてしまうわけです。

戦後の日本の行き着く先がアノミー社会であったことを天才的な感覚で予見したのが三島由紀夫でした。

彼は昭和45年に市谷の自衛隊で切腹しましたが、彼が憂えていたのは日本の機軸の喪失でした。

彼は「などて、すめろぎは人となりたまいし」・・なぜ天皇陛下は人間となってしまわれたのですか(人間宣言などしたのですか)と書いています。

彼のような頭脳明晰な男が荒唐無稽な天照大神や神武天皇の建国神話を信じていたわけはありません。

日本から「権威」がなくなれば、滅びるしかないと正確に未来を見通していたのです。

このあと小室博士はもう一度明治維新をやるしか日本を復活させる方法はないと書いてこの本は終わりになっています。

前回まで、小室博士の「日本人のための憲法原論」の内容を紹介しました。

私はこれを読み終わって違和感を持ちました。

小室博士は民主主義をキリスト教、その中でもプロテスタントの信仰から生まれたものだと論証しています。

明治の日本はキリスト教に代わるものとして天皇教を作り上げ、日本を近代化させたとも説明しています。

そして日本人は第二の明治維新を起こして民主主義を復活させ、日本を建て直さなければならないと力説しています。

確かに、民主主義がプロテスタントの信仰から発生したことは事実ですが、もう一つの要素には小室博士は触れていません。

ヨーロッパの民主主義はギリシャ・ローマ以来の2500年に及ぶ伝統の中から生まれてきたということです。

ヨーロッパの文化というのはキリスト教を横軸に、ギリシャ・ローマ以来の伝統を縦軸にして出来上がったものです。

私の論旨を一つの例を挙げて述べることから始めます。

1804年、ナポレオンは国民投票を経て皇帝になりました。

賛成が357万票に対して反対が2569票といいますから圧倒的なフランス国民の支持があったのです。

そしてローマから法王ピオ七世を呼びつけてパリのノートルダム教会で戴冠式を行いました。

法王が神の代理人としてナポレオンに帝冠を授けるはずが、彼はその帝冠を法王から奪い、自分で冠ってしまいました。

そのあと、妻のジョセフィーヌにも冠をかぶせています。

この情景はダヴィッドの「戴冠式」という名画で有名です。

皇帝になった当初、ナポレオンはフランス・リパブリックのエンペラーと名乗りました。

リパブリックもエンペラーも英語ですが、もともとがラテン語でフランス語とは殆ど発音も意味も同じなのでここでは英語を使います。

日本の歴史家はフランス・リパブリックをフランス共和国、エンペラーを皇帝と訳しています。

「フランス共和国の皇帝」というわけです。

日本語の「共和国」というのは皇帝や国王といった君主がいない国家体制をいいますから、「フランス共和国の皇帝」は徹底的に矛盾しています。

だからナポレオンは国民の非難を避けるために、辻褄の合わない名乗りを上げた詐欺師だという意見が出てきます。

しかし少し待ってください。1804年というのはフランス革命が始まって15年後で、有権者の殆どは革命騒ぎを経験しており、民主主義がいかなるものか身をもって体験しています。

そしてその有権者の99.9%が「フランス共和国の皇帝」に賛成しているのです。

明らかに国民を騙すような称号であれば、これほど多数の賛同を得られるはずもありません。

私は日本語の訳のほうに問題があると思います。

つまり、リパブリックという民主主義の根幹をなす用語を日本人は正確に理解していないです。

リパブリック(Republic)という英語は、ラテン語のres publicaから来ています。

「公共の利益のために」という意味で君主の存否とは本来無関係の言葉です。

単に人間の集団という状態ではなく、共通の正義によって結ばれた国家を指します。

政府と国民が同じ価値観や法を持ち、双方が一体感を持っている状態です。

フランス革命が起きる前は、ブルボン王家がその正統性が神に由来すると言う王権神授説を唱えて、国民には徹底的に支配者として臨んでいました。

王家と国民との間には一体感が無かったのです。

革命後、自由・平等・博愛という新しい思想を支配者たる政府と国民が共有することにより両者に一体感が生まれ、フランス・リパブリックになったのです。

またエンペラーという英語の語源もラテン語のインペラトールです。

インペラトールとは凱旋将軍という意味です。

その卓越した軍事的能力によってリパブリックの敵を打ち破った将軍に与えられた称号で、代々のローマの支配者も自らをインペラトールと名乗っていたので、「皇帝」という意味も持つようになったのです。

ナポレオン当時、ロシアやオーストリアにもエンペラーがおり古代ローマのインペラトールとは違ったものでしたが、理念としてはローマ式で、軍事的実力によってその国家を守るという存在でした。

ですからエンペラーと天から地上の支配を委託された道徳的に優れた聖人たる支那の「皇帝」とはおよそ別のものです。

それを明治になって「皇帝」と訳してしまったので、日本人はこの違いが分らないままになっています。

ナポレオンは革命を潰そうとした外国軍を打ち破った将軍でしたから、まさに本来の意味のエンペラーだったのです。

ヨーロッパの高等教育は、ギリシャ・ラテン文化を徹底的に叩き込みましたから、フランス人にはフランス・リパブリックのエンペラーの意味が分っていたのです。

これから古代ギリシャ・ローマの歴史を書いて、ヨーロッパでできたリパブリックという概念がどういうものか説明していきます。

すこし複雑かもしれませんが、勘弁願います。

紀元前492~479年  ペルシャ戦争

紀元前431~404年  ペロポネソス戦争

紀元前399年      ソクラテス死刑になる

紀元前386年      プラトン40歳

紀元前344年      アリストテレス40歳

紀元前334年      アレクサンドロス大王がアジア遠征に出発

紀元前296年      ゼノン40歳

ギリシャ人は海洋民族で地中海全域の沿岸に植民市を作って繁栄していましたが、中近東にペルシャ帝国ができ今のイラン・イラク・パレスチナなど広大な範囲を領土にしました。

そしてギリシャ人の植民市の多かったトルコ沿岸を巡ってペルシャとギリシャが戦争を始めたのです。

このペルシャ戦争というのは世界史上の大事件で、ギリシャ側が勝ったことによって、ヨーロッパというものができたのです。

それまでは東地中海地域はギリシャ人・ペルシャ人・エジプト人などが渾然一体としていて、ヨーロッパ的な文化がはっきりとできていたわけではなかったのです。

ご存知のようにギリシャは各ポリスが独立していてお互いに仲が悪く、外部に対して結束してあたるということがありませんでした。

しかし、ペルシャが大軍でギリシャ本土に侵入してきたので、各ポリスは今までのいきさつをひとまず置いて、一致してペルシャと戦うことになりました。

紀元前490年、アテネ近郊のマラトンでアテネ軍9000と侵入してきたペルシャ軍2万が戦い、アテネが勝ちました。

アテネ側の死者192人に対して、ペルシャ軍の死者は6400人と伝えられていますから、アテネの圧勝です。

このときエウクレスというアテネ兵が重さ20キロはあったであろう武装のまま42.195キロを走って、アテネに味方の大勝利を伝えました。

彼はマラトンで戦い疲れきった体で、武装のまま長距離を走ったのですから、伝令の役目を果たした直後に息絶えてしまいました。

オリンピックのマラソンはこれを記念して行われるようになったのです。

エウクレスは何も好きでマラソンをしたわけではありません。

アテネ軍が負けたのならペルシャ軍はアテネに押し寄せるでしょうから、守備を固めなければなりません。

アテネ軍が勝ったのなら、アテネに残っていた守備隊は外に出て、敗走しているペルシャ軍を追撃し戦果を拡大しなければなりません。

アテネ軍が勝ったという情報は一刻も早く、もたらされなければならなかったのです。

またエウクレスの周囲にはペルシャの敗残兵がうようよしていましたから、彼は武装を解くわけにはいかなかったのです。

紀元前480年、再度ペルシャ軍はギリシャ本土に侵入してきました。

スパルタ王レオニダスは300のスパルタ兵を率いて、テルモピュライでペルシャの大軍と戦い全滅しました。

スパルタ兵は剣が折れたら、素手や歯で戦ったと伝えられています。

テルモピュライは両側を山と海で挟まれた隘路で15メートルほどの幅しかありませんでした。

だからペルシャの大軍もスパルタ軍を包囲することができず、スパルタ軍は前面の少数の敵と戦い続けたのです。

スパルタ軍が前面の敵を倒しても新手のペルシャ兵が現れて、ついに全滅してしまったのです。

このときのペルシャ軍が何人ぐらいだったのかは記録が無いようですが、300のスパルタ軍とは比較にならない大軍だったことは確かです。

このときのペルシャの戦死者は2万だったという言い伝えがありますが、どんなもんでしょう。

マラトンの戦いやテルモピュライの戦いでも分るように、当時のギリシャ人にとって、自分たちのポリスは命と引き換えでも守らなければならない大切なものでした。

当時のギリシャ人の考え方をアテネの大政治家であったペリクレスは次の様に語っています・

「アテネ人はアテネの為にあるのであって、アテネがアテネ人のためにあるのではない。 また、アテネとは城壁などの建造物のことではなく、アテネ人のことである」

近代国家では国家が国民のためにあるのであって、国民が国家のためにあるのではありません。

だから当時のギリシャ人の思想は正反対だったのです。

その一方、国家とは建造物や組織という外面的な物体ではなく、人間の集団であるという認識があります。

この点は今の日本人が国家とは自然物だと思っているのとは違います。

また「自由」という言葉もありました。

近代国家の「自由」とは、国家権力の干渉をはねつけ、その力を制限するための言葉です。

しかし当時のギリシャの「自由」とは、市民が積極的・自発的に公共生活に参加するという意味の言葉でした。

つまり当時のギリシャの市民にとっては、ポリスという国家は個人に対立するものではなく、積極的に参加するものでした。

そしてポリスとは別に価値のあるものは無く、ポリスが全てだったのです。

ですから、そのポリスを守ることが正しいことだと信じて疑わなかったのです。

当時のギリシャ人は、今の日本人が「会社人間」であるように、「ポリス人間」だったのです。

当時のギリシャ人は「ポリス人間」で、ポリスに良いことが正義であり、ポリスは善そのもので、運命共同体だったのです。

そして、この自分たちの思想を若い者に伝え、ポリス人間に仕立て上げる役割を果たしたのが「ギリシャ悲劇」でした。

ギリシャ悲劇は、日本人にとっての「源氏物語」「古今集」や「平家物語」のようなものです。

ポリスの中でも最大のものはアテネとスパルタでしたが、どちらも総人口は20万人ぐらいでした。

アテネの場合、参政権を持つ市民は1万人で、彼らは成人男子であり兵役の義務がありました。

すなわちアテネの総兵力は1万だったのです。

市民の家族を含めると3万人ぐらいになり、あとは外国人と奴隷でした。

このアテネとスパルタの規模はちょうど現在の日本の大企業と同じ大きさです。

連結の年間売上高が1~2兆円の大企業の従業員は4万人ぐらいで、そのうち幹部は1万人ぐらいです。

また従業員の家族や下請けを含めると、その企業によって生計を立てている人間は20万人ぐらいになります。

家電メーカーのシャープや建設機械メーカーのコマツぐらいの大企業です。

幹部同士がお互いに面識があり、そこから来る仲間意識を感じられるのはこのぐらいの規模が限界です。

2500年前のギリシャはこのような現代日本の大企業に相当するような大きさのポリスが独立して多数存在していたのです。

これらの異なるポリスの市民はお互いに同じ言葉を話し同じギリシャ人だと思っていました。

これは現代の大企業の従業員が同じ日本人であるのと一緒です。

そして、その市民達はポリスの利益を最優先に頑張っていたのです。

マラトンから42キロを走破したエウクレスやテルモピュライで全滅した300のスパルタ兵はさしずめ企業戦士です。

日本の大企業は社訓や社歌、更には有名な演歌歌手を呼んでの従業員慰安会を通じて独特の企業文化を作り上げていますが、これは各ポリスが伝えていた悲劇と同じ性格のものです。

勿論、2500年前のギリシャの市民と現在日本の大企業の従業員が同じわけがありません。

私が誤解されることを承知でこのようなことを書いたのは、当時のギリシャ人は「ポリス人間」だったことを強調したかったからです。

ペルシャ戦争は、ギリシャ連合軍がペルシャ兵を追い出したことで成功裡に終わりましたが、また何時ペルシャ軍が攻めてくるか分りません。

そこでギリシャの全ポリスが同盟を結んでペルシャの侵攻に備えようというデロス同盟という組織を作りました。

ところが今度はそのデロス同盟の主導権を巡って、両横綱のアテネとスパルタが対立し、それぞれ群小のポリスを味方につけて戦争を始めました。

これがペロポネソス戦争で、ペルシャ戦争終了後50年して起きました。

アテネの市民は、ギリシャの中ではアテネが政治的にも、文化的にも軍事力でも一番優れていると自負していました。

しかし、このアテネがペロポネソス戦争でスパルタに負けてしまったのです。

そして貴族的なスパルタはアテネの完全平等な市民政治に反感を持ち、傀儡政権を作って、アテネの制度をスパルタのような貴族政に改めさせました。

アテネは、一万の市民が投票権を平等にもった民会で戦略を決めていたために意思決定に時間がかかり、貴族政のスパルタに戦略で遅れをとったことが大きな敗因です。

また派閥争いで有能な指導者を互いに国外追放しあったという衆愚の様相を呈してもいたのです。

いつの時代でもどこでも敗戦によって人心は荒廃しますが、アテネも例外ではありませんでした。

それまでは、個人的な利益よりポリスたるアテネの利益を優先して疑問を持たなかったのがアテネ人です。

それが敗戦によって、このような価値観で行動しても負ける時は負けるのであって、万能の思想ではないことが分ってしまいました。

そして伝統を馬鹿にし、個人的な利益を追求する風潮がアテネだけでなくギリシャ全土に広まっていきました。

こういうときに出てきたのがソフィストという教師の一群です。

彼らは謝礼を取って若者たちに弁論術を教えましたが、生徒たちはこの雄弁によって状況を自分に有利なように導こうという利己的な目的に弁論術を使いました。

彼らの教える弁論術は、ポリスの伝統的な考え方を否定して、その上に自分たちの論理を展開するというやり方でした。

ですから、ポリスの伝統を重んじる考えの市民はソフィストを、若者を堕落させる連中だと白眼視していました。

こういう時代に生きていたのが、かの有名な哲学者であるソクラテスでした。

ソクラテスはかなり上層のアテネ市民で、若い時はペロポネソス戦争にも重装歩兵として従軍したこともありました。

そしてペロポネソス戦争後のアテネ人の精神の荒廃を嘆き、何とかして若者をポリス人間に戻そうと考えました。

そして思索にふけった結果、ポリスの伝統的な考え方によって若者をポリス人間にすることは出来ないと考えました。

ギリシャのポリスはそれぞれ独立しており、その伝統文化もポリスによって異なります。

その結果、アテネでは伝統的に正しいと考えられていたことも、コリントやミケーネなど別のポリスでは正しいとはされないこともあったのです。

若者は弁論術を学んでいますから、相手の矛盾点をついてきます。

「そんなことを言っても、先生の仰ることはアテネを出たら通用しませんよ」と反論されて終わりです。

そこでポリスという狭い運命共同体の中だけで通用する価値観を、ギリシャ人全体やもっと広い世界に共通する価値観にしようとしたのです。

最終的に彼は「主知主義」を主張しました。

「善」や「美」は客観的に存在し、それを認識できれば正しい行いをすることが出来るというものです。

こうして市民が、何が正しいかを判断できるようになれば、それがポリスの新しい思想的な基盤となり、ポリスは復活することが出来るというわけです。

このソクラテスの哲学はアテネの多くの若者をひきつけ、多くの若者が彼の弟子になりました。

この弟子たちは、お互いに哲学的な議論をしましたが、普遍的な善に合わないアテネの伝統的な考え方を大いに批判しました。

ところが、この弟子たちの議論を聞いた従来の伝統的な価値観を尊重する者たちは、ソクラテスをソフィストの親分と思いました。

そしてソクラテスを、伝統的な価値観や宗教を非難し若者を堕落させる者だとして民会に告訴したのです。

民会はこの訴えを聞き入れソクラテスに死刑の決定をしてしまったのです。

弟子達は驚いて牢獄に居るソクラテスを訪れ、「不当な判決だからそんなものに従う義務は無い。先生は外国に亡命して命をまっとうすべきだ」と説得しました。

しかしソクラテスは、「日頃君たちに法に従えと教えている。この自分の教えに自分で違反してどうするのだ」と反論しました。

そして「悪法もまた法なり」という有名な言葉を吐いて毒杯を飲み、死んでしまったのです。

プラトンは毒杯を飲んで死んでしまったソクラテスの弟子でした。

彼は師のソクラテスの学説を体系化した哲学者です。

また師のソクラテスが民会で死刑の判決を受けてしまったので、教養のない連中が数で支配するデモクラシーを「衆愚制」として徹底的に嫌悪しました。

このデモクラシーに対する嫌悪はプラトンの弟子のアリストテレスも同じでした。

プラトン、アリストテレスという古代ギリシャを代表する大哲学者の著作は、およそ教育を受けたヨーロッパ人は皆読んでいます。

この二人がデモクラシーを嫌悪しているものですから、ヨーロッパではデモクラシーや普通選挙には根強い反感が伝統的にあります。

プラトンもソクラテスと同じく、伝統的な価値観ではポリスを復活させることは出来ないと考えました。

そしてイデア(idea)という普遍的な概念を発明し、これで世界を説明したのです。

イデアというのは、個々の現象の根底にある変わらないものをいいます。

そしてイデアは実在すると考えるのです。

少し分りにくい説明になってしまいましたが、プラトンは幾何学が好きでこのイデアも幾何学から思いついたものです。

例えば、直線というものがあります。

我々が紙の上に定規を当てて鉛筆で線を引くと直線が描けます。

しかしこれは厳密には幾何学の直線ではありません。

幾何学上の直線というのは線の太さがないもので、目に見えないものですが、紙に書いた線は鉛筆の芯の分だけの太さがあります。

この幾何学の直線がイデアの世界にあるもので、紙に鉛筆で書いた線が個々の現実世界の現象なのです。

しかし人間は紙に書かれた線を見て直感的に「これは直線だ」と分ります。

それをプラトンは、人間はイデアの世界に住んでいたことがあるからだという説明をします。

つまり人間は霊魂と肉体からなっており、霊魂は不滅で死後は天上にあるイデアの世界に帰るからだというのです。

人間が紙に書かれた線を見たとたんに、かつて自分の霊魂が住んでいたイデアの世界に実在した直線の記憶が甦るのです。

このイデアの世界には図形だけでなく、正義や美というものも実在します。

だから人間は正義や美を感じ理解する能力が備わっているのです。

そして人間はイデアを理解すれば全ての物事の本質を理解することが出来、何が正しいかという判断も出来るようになるのです。


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