国によって教育の目指すところは実に様々だ。例えば、近代国家とはいえない昔ながらの原始生活を送っている地域の教育の目指すところは「子供が自分で魚を採ることができるようになる」ということだったりするのではないか。そのために自分で釣り具や銛などをこしらえること、魚のいそうな場所を探すこと、餌はどのようなものをどのタイミングで水に入れるか・・・などなどを大人(=先生)から教わるのだろう。これはこれでレベルの高低はともかく、教育の目指すところがはっきりしている。もちろん、この例は分かりやすくするために私が空想したものではあるが。
さて、我が国の教育は何を目指しているのか。根本である「大人から子供への生活力の伝達」という最終目標はあるのだが、そこにたどり着くまでに具体的にどのような思いがこめられているのか?
私は長らくこれが疑問であった。何故、歴史の年号を覚えなければならないのか?歴史的事象の流れをこれによって把握できるようにするのであろうが、学者レベルならまだしも子供にこれを強いると流れが把握できるようになるどころか、事象の一つ一つが年号を覚えることによって頭の中で完結してしまい、事象を数字化してはい終わり、となってしまう。でも、この年号が試験に出るから覚えない訳にはいかない。歴史は本当は物語であるにもかかわらず年号の記憶という数字化によりその本分から学生を遠ざけているような気がしてならない。
また、英語についても会話できるようには決してならないのにそのような教え方をし、単語はともかく、文章体のグラマーを押し付けるのは何故だろうか?英語の必要性は痛いほど分かる。しかし、肝心の話すことができるようにならなければあまり意味はないのでないか。人間は書くことより言うことの方が先にできるようになったのだから。
大多数の人が苦手だったという数学。ものの原則やことわりを定理などとして教えるのはいい。これが実生活で何に当てはまるのか、簡単にいうとどういう意味なのかを教えないから回答パターンの暗記とその組み合わせによる応用でこれに耐えられない人が続出し、「苦手科目」となる。ほんの一例だが、たとえば山道にある勾配5%の標識。これは1メートル水平に進んだら5センチ高さが高くなるということであるが、これが勾配角度の「タンジェント」だと教えればまだ苦手意識も幾分やわらぐのではないか。数学が得意だった人も「これが何」という意識が少なければ今のように応用はできないであろう。
いくつか科目ごとの疑問点などを挙げてみたが、共通して我が国の教育について言えるのは「頭でっかちになってしまい、それを応用して使いこなすことができない」のではないかということだ。これではせっかくの知識が宝の持ち腐れとなってしまう。知識は知識。知恵とは違う。知恵こそが人類の宝なのだ。
さて、我が国の教育は何故このような知識偏重で知恵に結び付かないことを一生懸命にやらせるのか。
私見ではあるが、「我が国の教育システムは官僚を作りだすことを最終的な目標としている」から。つまり、官僚にふさわしい人間を見出すために半ば無意味なこと、やたらと苦しいことを若者にやらせて知識を問う。その知識たるや、振り落とすのが目的の試験を通るためだけに一時的に頭の片隅に置いておくものも少なからずある訳であるが、この無駄な「知識」を持っている者に高得点を与え、優秀な学生としているのだ。
これはこう考えるとすっと胸に落ちる。
官僚に必要なものは何か。1.上意には疑問を持たず淡々と業務を遂行するまじめさ 2.下の者(一般国民)に対して説得や言い訳をするときに必要な「難しい言葉や専門用語」。これを同時に満たすことができる教育が我が国の教育ではないか。
特に1.の「疑問を持たず」というのは国民性もあってか、上から下まで万延している。「これはこういうものだから・・・」「役所の人がこう言ったから・・・」など誰しも持つ意識ではないかと思う。もちろん、これはこれでいいところもあるのであるが、このような国民の態度が官僚に好き放題に金を使わせ役所のどこを開けても不正の臭いがするという状態を招いているのは否めないところだと思う。為政者(=官僚)にしてみれば国民というのは疑問を持たない方が都合がいい。右を向けといったら右を向く大衆というのは支配しやすい。ただし、昨今のように外国からフリーで人が入ってくると右を向けと言っても「なぜ?」という輩に直面し、警戒しなければならなくなる。日本人がこのような疑問を呈したらその瞬間「変な奴」ということになりこれが続くと村八分にされてしまうだろう。
特に我々の専門領域である税に関しては疑問を持たれない方がいい。「上が決めたことだから・・・」で通ってしまえばいくらでも好きなだけ税を取ることができるからだ。我々も租税教育事業をやっているが、本当は税について国民に興味を持たれて一番困るのはほかならぬ日本政府ではないか。
次に難しい用語についてであるが、先ほどの例で挙げたタンジェント。これ自体が半ば専門用語だと思うが、これを漢字に置き換えて「正接」と言ったりすると言った人自体が高貴だという印象を与える。大体、漢字や訳の分からない英語で説明されるのは言った人を「雲の上の人」とすることにより分かったんだか分からなかったんだかすら分からないうちに説得されてしまう、さらには反論できなくしてしまうという国民支配術にかけられているといっても過言ではないだろう。説明している本人(=官僚)だってつつかれたくないところは多々あるはず。それをごまかすという働きも難しい用語や専門用語にはある。
このような教育をしてその「疑問をもたないまじめさ」と「難しい用語、専門用語」をどの程度習熟しているかを試験で計り、頭でっかちで学んだ知識がない人も点数が高ければ「優等生」として東京大学(北朝鮮でいえば金日成総合大学)というところに「仲間入り」させ凝り固まった官僚システムへのご招待、となっていくのだろう。
私は官僚が憎い訳ではなく、官僚システムを変えていかないと我が国の未来は暗いものになると考えている。世界は刻々と変化し続けているのに「我々政府が決めたことは間違いがない」とばかりに国民に意見をさせず疑問すら持たせないやり方というのは日本が島国であった時代はお山の大将でよかったのであろうが、世界の日本となって久しい昨今、これではあまりにもお粗末ではないか。我が国は官僚の国だということは受け入れざるを得ないが、教育の「なぜ?」にもこのような意図が施されていたのかな、と思い書いてみた。
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