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地質学から若杉山遺跡を読み解くと題して、石田先生の講演会があった。先日の加茂宮ノ前遺跡の現地説明会で朱の付着した土器が出てきたと知り、辰砂がどのようにして出来たのか、この疑問を解決できると、楽しみにしていた講演会。付加体の分布と赤色顔料遺跡群の分布若杉山から津乃峰山塊は、中世ジュラ紀の付加体。中生代前半以前(3憶年前~1.5億年前)の低緯度深海底のチャートや海底火山頂部周辺の石灰岩が分布していて、それらの割れ目に新生代(1400万年前頃)になって、熱水脈が貫入し、辰砂が形成されたそうです。少しボヤケてます<m(__)m>加茂宮ノ前遺跡で縄文時代後期前葉の土器に辰砂が付着していた。この時すでに、かなりの量の辰砂が採掘されていたらしい。若杉山辺り一帯で採れた辰砂の供給地はどこだったのか?日本国内か?大陸か?想像は膨らむばかりです。鋭利な破片の辰砂砕かれたり、すり潰されたりしたことの表れ。左は平場で採れた辰砂。黒辰砂ではなく赤い辰砂だそうです。右は坑内で採れた辰砂。平場と坑内でこんなにも色が違うのが面白い。石田先生の話を伺っている時は、わかったつもりでいても、伝えようとすると、きちんと伝えられない。全然、わかっていない証拠ですが、とにかく、すごい遺跡が阿波から出てきました(^^)/と、いうことで。おわりです。
2019.03.23
故、大國主の神、出雲の御大の御前に坐す時に、波の穗より天の羅摩の船に乘りて、鵝の皮を内剥に剥ぎて、衣服と爲て、歸り來る神有り。 爾くして其の名を問えども答えず。 且た從える諸の神に問えども、皆「知らず」と白しき。 爾くして多邇具久白して、「此は久延毘古必ず知りたらん」と言うに、即ち久延毘古を召して問いし時に、答えて、「此は神産巣日の神の御子、少名毘古那の神ぞ」と白しき。 故、爾くして神産巣日の御祖の命に白し上げしかば 答えて、「此は實に我が子なり。子の中に我が手俣より久岐斯子なり故、汝 葦原色許男の命と兄弟と爲りて、其の國を作り堅めん」と告げき。 故、爾より大穴牟遲と少名毘古那、二柱の神、相い並に此の國を作り堅めき。 然くして後は、其の少名毘古那の神は常世の國に度りき。 故、其の少名毘古那の神を顯し白しき所謂久延毘古は、今には山田の曾富騰なり。 此の神は足は行かねども、盡く天の下の事を知れる神なり。上記は、古事記での少名毘古那の神様の登場シーン(^-^)小さなガガイモの船に乗って、少名毘古那神が颯爽と風を受けながら近づいてくる・・・そんな風景が目に浮かびます。※ガガイモ・・・一説には、かがみ草が変化してガガイモになったとか。※ガガイモの実・・・長さ10センチ、幅3センチ程の大きさだそうです。Wikiより舟の形です(^^)/しかし、けれども、「波」とか「船」とか・・・・という文字があるせいか、海の上をやってきたようになっていますが・・・そうではありません!←言い切った(゚∀゚)「波の穂より」と、は、風にゆれる波のような稲の穂・・・・広い広い田んぼの上を、ガガイモの船に乗ってやって来たと、するほうが・・・・辻褄が合ってきます(^^)vまず、少名毘古那神が乗っているガガイモの実。ガガイモは水田などのあぜ道に生える草であり、稲の生育には邪魔な雑草なのでは?と・・・・そして、衣服としている「鵝」←「ひむし」とされていますが・・・「ひむし」って何のことやら?調べてみないとわかりません(=_=)※蛾(ひむし)・・・蚕のさなぎ。また、その羽化したもの。ひひるむし。 漢字が「鵝」から「蛾」に変わっています。 少名毘古那神はガガイモの実の船に乗れるくらい小さいので、 鵞鳥の羽では大きすぎるということで、 「蛾」に変わったようです。が・・・ガチョウの皮を内剥ぎに剥いだ衣服で私は良いと思います。※ガチョウは、野生の雁を飼いならして家禽化したもので、 家禽としてはニワトリに並ぶ歴史を有しており、 古代エジプトにおいてすでに家禽化されていた記録がある (Wiki)ガチョウは、稲の生育を邪魔するガガイモのような雑草や害虫を食べてくれるのです。今で言う「カルガモ農法」ならず「ガチョウ農法」をしていたのでは?と・・・・そして、次に登場する「多邇具久」←ヒキガエルの古名。ヒキガエルは、雨水のたまった田んぼや浅い側溝、神社やお寺、公園の池などで繁殖するそうです。田んぼに「カエル」はセットですよね(^^)vカエルもまた、ガチョウと同じように害虫を食べてくれるし・・・(^-^)最後に出てくる「久延毘古」は、今に言う「山田の曾富騰なり」案山子!!ですよね(^-^)稲を守ってくれる頼もしい神様。。。。古代中国の黄帝が軍鼓の材料とした「キ」山海経:第十四大荒東経には、「キ」の姿は、牛のようだが角はなく、脚は一つ。体色は蒼。水に出入りすると必ず風雨を伴い、光は日月のように強く云々とある。一本足は雷を表していると、何かで読んだような。この「キ」が久延毘古の元ネタではないかと思うのです。雨や風を運んできてくれる「キ」=久延毘古。作物には欠かせないものです。少名毘古那神は酒造りや薬の神様としても有名ですが、効率のよい精米の仕方や、植物や動物などの「薬効」など、あらゆることに精通していたのではないかと?※例えばガチョウ・・・脂肪を精油したものを、白鵞膏と呼ぶ。 白鵞膏は、皮膚を保湿し、腫れ物やしこりを散ら す作用があり、主に手足の荒れ、化膿性の腫れ物 でき物の治療に用いる。また、古代エジプトでは 発熱と咳のある患者に、豚の脂肪、小麦、ガチョ ウの脂を混ぜて夜露にさらしたものを4日間食さ せた(Wiki)※膠飴(こうい)・・・イネ科糯米(もちごめ)を大麦芽汁で発酵した水飴 を濃縮したものに、さらに麦芽を加えて精製したア メである。膠飴は消化機能が低下して、食物からの 栄養分を十分に吸収できない時に用いられる。 2000年以上前より、膠飴は小建中湯、大建中湯の 主要な構成生薬として記され、今、尚用いられてい る。 参考:東邦大学医療センター 大森病院 東洋医学科 田中耕一郎先生の漢方薬と身近な食材 日本の土壌と文化へのルーツ 稲 1 よりなど・・・など・・・・子孫繁栄、五穀豊穣するには、少名毘古那神のような人が、必要だったのでは?と・・・民は国。まさに、国造りです・・・ よね(^-^)なので、御大を「みほ」(大を「ほ」と読ませる?)御前を「みさき」なんて、三保の岬という海にする必要なんてありません。これは、衣食住に関わる大切なシーン。。。。日本人の主食である「米」水田での風景だと思うのです。私のオリジナル少名毘古那神!!通説とは違って、??????と、思われるかもしれません。が。。。少名毘古那神の着ている服も登場しているカエルも案山子も全て意味があると思うのです。古事記の中に書かれている一文字、一文字に意味を持たせている・・・韓人(からひと)が力を持っている時代の中で、どのように苦心して古事記を完成させたのか書き手の心を、正確に読みとりたいと思います。豊玉比売が出産時にワニの姿になったことや、コノハナサクヤビメが炎の中で出産したことは、その出自をあらわしているように、少名毘古那神の登場シーンも、この神様の自己紹介をしているのだと思います。
2015.12.22
昨日から一人で行くと決めていた、大俣の八幡さん。「私の好きな道を通って、ずーーーっと行ったら右に西条大橋が見えるだろ?そこを通って・・・鳴池線に出るのが一番迷わんよな?」ブツブツ・・・ブツブツ・・・・1人でどっか行く時のいつもの会話。旦那に道の確認('◇')ゞそのおかげかどうか・・・無事に目的地の大俣の八幡神社にたどり着くことができました。最近、古事記を読み直していて「何で、菟神のうさぎの漢字にクサカンムリがついとんだろう・・・」と・・・思って調べて目についたのが、大俣の王の子供である「菟上の王」菟上の王は、第9代開化天皇の孫で、お父さんは日子坐王、お母さんは山代の荏名津比売。日子坐王のお母さんは、意祁都比売:おけつひめ(又の名を姥津媛)。意祁都の「祁」は、「け」と読めるのだろうか?私には、しっくりこないので、「き」と読むことにします(笑)意祁都比売:おきつひめ!意祁都比売のお兄さんは丸邇氏の日子国意祁都命です。日子国意祁都命の曾祖父は第5代 孝昭天皇。御真津日子訶恵志泥命ですね。そんなこんなで、難しいことはわからんなりにシンプルに「菟」という漢字を追ってみたら・・・自分なりには収穫があったような・・・(^^)vそして、豊国に鎮座されている宇佐八幡宮。私はまだ行ったことがないけれど(泣)境内の春宮社に「菟道稚郎子」が祭られているではないかぁ。。。。と・・・宇佐とはぶっちゃけ・・・ウサギの「ウサ」と思っている私(短絡的で恥ずかしいけど)難しいことがわからん私が古事記にはまったもんだから・・・こんな考えしか浮かばない(笑)菟道稚郎子・・・古事記では宇遅能和紀郎子。お父さんは第15代 応神天皇、お母さんは、宮主矢河枝比売。丸邇之比布礼能意富美の娘。丸邇氏ですね。菟を調べていたら、丸邇氏につながっていく。当たりまえと言えば当たり前だけど、今まで気が付かなかったよ~。後は、木の国が絡んできたりするのだけど、イマイチ、整理できないというか・・・つながらないというか・・・・(=_=)大国主命と八上比売の子供が何故、木俣神、又の名を御井神というのか・・結論が出ていません。八上比売が木の国の人だからだろうな・・・とは思うのですが、接点が見つからない(一一")淡路の御井とか・・・三井寺とか・・・紀三井寺とか・・・少し調べたけど、ピンときません。大俣小学校横に鎮座されている、高部神社です。祭神は奥津彦と奥津媛。奥津媛が日子坐王の母、意祁都比売:おきつひめだったらな~という希望で写真掲載です。今日は久々に古事記探訪をしました。お義母さんが今月初めに天国に逝き、しばらく家でこもっていましたが、そろそろ動き始めようかと・・・(暑いけど)旦那はまだ、そんな気分になれないだろうな・・・・。もうそろそろ、梅雨入りですね。皆さん、お体ご自愛ください。
2015.05.30
太陽の光を浴びながら、風に身を委ねているチガヤ。この季節はツツジもキレイだけど、私はチガヤの方が好きかなーーー。ウィキペディアよりチガヤの海の中にフー(うちのネコ)を連れて行ったら、どのチガヤで遊んで良いやら???と、あっちこっちへ目移り・・・じゃなくて体移りしてヘトヘトになってしまいそうです(笑)茅は身近な植物で、古来から生活必需品に始まり呪術的なものまで余すことなく使われてきました。私の好きな神様の1人に「鹿屋野比売」という野を治める神様がいらっしゃいますが、茅は害悪を防ぐ植物とされていることから、鹿屋=茅野比売様ではないかと思います。照葉樹林帯に生きている茅は中国でも「茅社」「茅旌」「茅蕝」「蕭茅」「白茅」「茅蒩」「神藉」「茅狗・茅龍」など宗教的なものに使われていたそうです。中でも1番気になったのが「茅蕝」朝会の儀に使う「カヤ」で作った座席のしるしとされているもので、茅蕝は南方の楚の礼儀の習慣だったそうです。海人のことを、アレヤコレヤと探っては妄想している私には「オッ?」と思える情報です。そういえば、神事の時に使われる敷物って茅で編んだような座布団だったな・・・(天理教も茅のようなものを編んだ円座です)茅の敷物で地中からの悪霊を防いでいたのでしょう。五月五日の子供の日には「柏餅とチマキ」チマキは中国の屈原のお話が出てきますが、チマキを悪霊に見立て、それを縛り上げて食べ、退治してしまうという意味もあるようです。茅を調べることで鹿屋野比売神の手がかりが何かあるかな~~っと思いましたが、・・・・・です。せめて貴女の旦那様だけでもわかれば、多少 霞がはれると思うのですが・・・。大山津見神なのか大麻比古神なのか大年神なのか・・・まさか全員?(うっ・・・うらやまぢい・・オット)では、ないですよね・・・・イヤ・・・わからんじょ・・・モテそうやし・・・)(笑)
2013.05.09
徳島市入田町の伊勢神社神宮の元の元の元の元・・・・の神社が、こんな小さな祠だったと言えば、一部の人を除けば、きっとのけぞるくらい驚くか、一笑して終わりというところでしょうか・・・・。昨日、20年に1度の式年遷宮に沸く神宮を参拝しながら、「こんなに立派な神社になって」と、畏れ多いことですが、こんな風に思ってしまいました。帰りのバスの中で、旦那がスマホで地図をチェックしていたら、「志摩の磯部町に、阿津摩里崎神社っていう神社があるぞ」と、言ってきた。「あずま?ふ~ん」と私。ネットで御祭神を調べてみましたが、わかりません。伊勢神社が鎮座している入田町に「安都真」という地名があるだけに、何かニオう・・・・ヨォ。。。。(笑)度会氏と磯部氏が、伊勢では物凄い氏族らしい。「磯」の「部」と書くくらいですから、磯部氏はきっと海の人たちでしょう・・・・。安曇さんたちの仲間でしょうか?安曇さんの仲間だとしたら、(阿の津にいた人たちが、黒潮に乗って伊勢へ移住してきたのか・・・) ↑ ↑これは私の勝手な解釈です。やっぱり、その地を訪れますと何かしら収穫があるものですね。さあ、今晩は海の人たちを思いながら、黒潮に乗った気分で、志摩で買ったイカや魚の干物をアテに、旦那とビールでも飲もうっと・・・・。泡だけに(笑)何のこっちゃ(笑)
2013.04.01
阿波沚(あわはえ)釣り好きの佐川男子、Tさんからもらった出羽島のパンフレットを見ていたら阿波沚の記念碑というのが目にとまりました。☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆出羽島では、1914年の夏以来不漁続きで、漁師は、その日の米代にも困る状況にあった。その年の11月19日、出羽島山村組の大正丸(24t)は、島民の最後の頼みの綱としての期待を背負いつつ、四国沖を南に航行していた。父雪太郎に代わって舵を握っていた山村源太郎は25 歳の血気盛りで、25 名の乗組員と共に、のるかそるかの気持ちで漁場を求めてさまよっていた。そして、大正丸は偶然シビの大群に遭遇し、大漁旗をかかげて出羽島に意気揚々と帰港することになる。 その後、その漁場での大漁が続き、本物の好漁場であることが確認されると、当時の出羽島漁業組合長であった雪太郎は、私すべきでないと考え、県の水産試験場に連絡する。県は、翌年1月に早速その漁場周辺調査を実施、その結果、室戸岬から南40 余海里の地点に漁沚を発見したのである。そして、その漁沚を、「阿波沚」( 現在の土佐碆) と命名した。 しかし、漁民たちは、発見した大正丸の功績をたたえて、「大正沚」と呼びならわしているという。この好漁場には、その後広く、高知、和歌山、三重、静岡の各県から漁船が続々とつめかけ、今日に至るまで、わが国における鰹一本釣りの好漁場となっている。 昭和8年、出羽島の人びとや徳島県遠洋出漁団組合は、山本雪太郎の功績をたたえ、感謝の心をこめて、出羽島漁港口の正面に「山村雪太郎君業績の碑」を建設した。とあります。「はえ」って阿波沚のように良い漁場のことだけでなく、岩場や磯場のことも「はえ」と言うそうですね。阿波南部の鞆の浦には、地図や地形図には記載されずに、口頭伝承で伝わってきた「はえ」を使った地名がけっこうあるそうです。ー阿波学会紀要ーかわはぎ碆(カワハギバエ)お多福碆(オタフクバエ)大碆(オオハイ)ぶだい碆(エガンバイ)丸碆(マルバ)狸碆(タヌキバエ)などなど・・・たくさん!!この「碆」は、四国南東部、南部にたくさんあるそうです。第三代、安寧天皇の后、阿久斗比売の父親が「県主波延:はえ」というのですが、前々から「はえって変な名前やな~、蝿のこと?」などと、無礼かつ馬鹿なことを思っていましたが、謎に思っていた「はえ」は、たまに耳にしていたはえ縄漁法などの「はえ」だったのか~と・・・・一人納得したのでした。阿久斗比売は日本書紀では、渟名底仲媛命(ヌナソコナカヒメ)事代主命のお孫さんになります。漁業の神様の孫であり、子供だもの。「はえ」ってこの「はえ」だと思ってもいいですよね????そして日本書紀の第一の一書では、安寧天皇皇后、磯城県主葉江の娘である川津媛とあります。この「磯城:しぎ」って、マグロの子供「しび」のこと?なんて・・・・思ったり。でも、これはちょっと言い過ぎ?古代に想いを馳せて、あれやこれやの空想・・・・楽しいですね~(^.^)追記※他にも第六代 孝安天皇后の 姪忍鹿比売(めひおしか)命も→忍鹿→おしか→アシカかも?魚や海関係で調べたら面白そうです(^O^)/(悪しをオシに変えた?)
2012.12.08
古事記「しかれども、くみどに興して生みし子は水蛭子。この子は葦舟に入れて流しうてき。次に淡嶋を生む。是もまた子のたぐいに入れず。」流し雛3月節句に川や海へ流し送る雛人形。鳥取市周辺では竹骨に貼った小型の一対の紙人形を、三月節句に飾り祭ったうえ、3日の夕方供物の苞ともども、桟俵にのせて川へ流す。現在は郷土玩具とし流布もするが、なお罪穢れを流す「祓え」の形代の古意をとどめるもので、岐阜県などにも粗製の土人形を流し送る風習が残っている。また関東・中部の各地には、三月節句に子供たちが野外に雛人形を据えて祭り、名残を惜しみつつ「雛送り」をする風習がかなり見られた。さらには古びた雛人形を神社や辻に送り納める習俗も広くみられ、流し雛と一脈のつながりを示している。(京人形商工業協同組合公式サイト)桟俵(さんだわら)俵の両端につける円形の藁ぶた。桟俵は神座や神饌の容器として、正月には年神の幣束をさしたり、鏡餅をのせるのに使われる。しかし、最も顕著なのは、疱瘡や麻疹にかかったり、はやったりした時に、桟俵に御幣、赤飯、神酒などをのせて、辻や村境に捨てたり、川に流す風習である。3月節句の流し雛も桟俵にのせて流す。また胞衣(えな)を埋める際に桟俵にのせ埋め、葬式で枕飯や枕団子を作った道具や灰は桟俵にのせて辻や庭先に捨てる。(コトバンクより)唐突の「桟俵」ですが、神山町史を見ていたら、「サンダーラの淵」というのが目に入りました。サンダーラ?何じゃコレ!ガンダーラじゃないのか?何のことやらわからないので調べてみると、「サンダーラとは石井町や出雲で使われていた方言で桟俵のこと」と出てきました。なるほど~「サンダーラって桟俵のことなのかぁぁ」桟俵→さんだわら→さんだあら→さんだーら→サンダーラ(↑「わ」が「-」になっただけですね(笑))桟俵は「流し雛」に関係があるみたいで、各地に残っている流し雛を検索してみると、阿波に関係ありそうな場所ばかりが出てきましたよ。1 奈良県吉野川の流し雛 吉野川のほとり奈良県五條市阿田の流し雛。 竹の皮で作った船に乗せて吉野川に流すそうです。 千代紙のお雛様は、吉野川から紀ノ川を下り、 女性の病封じ・安産・子宝の神様である紀州淡島神社まで旅をするそうですよ。 (有名すぎる吉野川とか阿田とか、気になります)2 鳥取県の流し雛 鳥取県八頭郡用瀬町の流し雛。 (用瀬は「ようぜ」じゃなくて「もちがせ」とよむそうです) 用瀬町では旧暦の3月3日に紙雛や花、菱餅などを載せた桟俵を 近くの千代川に流して、無病息災を祈るそうです。 (用瀬のお隣は岡山県阿波村です)3 龍野の流し雛 兵庫県揖保川沿いの龍野では、春分の日に雛流しが行われるそうです。 折り紙で作った衣装の雛人形に紙粘土の顔を付け、桟俵の上にのせ、 菜の花や春の花を添えて揖保川に流すのだとか。 (揖保川沿いの宍粟市に伊和神社:祭神大己貴命が鎮座しています)4 埼玉県岩槻市の流し雛 岩槻市は、お雛様や五月人形の産地として有名で、 毎年4月のみどりの日に岩槻城址公園の池で流し雛のイベントが 行われているそうです。 岩槻の地名の由来は、「巌をもって築けるがごとき城」という意味から起こり、 古くは「岩付」や「岩築」の文字が用いられ、 「岩槻」になったのは宝暦明和の頃(1751~1771の間) からなのだとか。 また一説によると、岩槻には「久伊豆神社」があることから、 神を祭った土地の意味とも云われているそうです。 (久伊豆神社の御祭神は大己貴命、伊和神ですよね。 伊和神が尽きた所・・・北限?)その他には、岡山県笠岡市北木島大浦では、旧暦3月3日に海に流す流し雛が行われたり、京都下鴨神社では盛大に流し雛が行われているそうです。岡山も下鴨も阿波に関係ありですよね。神山町阿川にある「サンダーラの淵」から流し雛の話になってしまいました。何故、サンダーラというのか名前の由来は私にはわかりませんでした。でも、やっぱりとういうか、当然というか・・・阿波に関係ありそうな場所で流し雛の風習が残っているようですね。サンダーラってガンダーラか、はたまた、神山町にいたローカルなヒーロー「サンダーラマン」か?ぐらいにしか思いませんでしたが、思わぬつながりが出てきて、ワタクシ・・・サンダーラウーマンもびっくりでした(笑)・・・って誰がサンダーラウーマンやねん\(-o-)/
2012.11.27
気になる名前のお城を見つけました。「筑紫城」☆☆市場町史より☆☆「阿波志」阿波郡山川の部に筑紫城 亦大影村に在りとあり、「阿波郡誌」などに筑紫城跡 大字大影八町坂の南端にあり、東西20間(約36m) 南北凡60間(約110m)平坦にして中央に二塚あり、一を経塚といひ他は詳ならす、西南は大影谷を環らし、東方は境川回り、周囲七町(約770m) 高さ凡50間(約90m)山頂を経野といふ、城主姓名伝はらす。とあるが、全ての条件を満たす場所は見つかっていない。また遺物が出土したり遺構が残っていないので、どこに城があって、だれが居館していたのかわからない。郷土研究家の人たちは、総合的に考えて赤●の地点であろうかと言っている。その理由は、1、昔の讃岐から阿波への通路(讃岐ー御番所ー平間ー大影ー大楢番所ー 日開谷の谷川沿いの蛇行した道)2、大影村関係3、熊野神社関係など。一方地元の人たちは、古老からの伝承として黒●の地点であろうかと聞いている。八丁坂の峠から三割くらい下がった南斜面にあったが、昔大雨があって崩壊した。そこには番所をちょっと大きくしたような建物があったという。大影地区で古い石造文化財を調査している地元の人が、五名への昔の道 赤● へ案内してくれた。今はあまり人の通らない古道の両側に、凝灰岩製の五輪塔が土に一部うずもれて散在していた。これら五輪塔にかかわる人たちは筑紫城のことを知っているのでなかろうか。☆☆以上市場町史より☆☆何で筑紫城という名前なのでしょうか?ここら辺は神武さんに関係ありそな所だし、ひょっとして東夷伝に載っているという「筑紫城」だったりするかも?(それはないかな(笑))地図の●印の所は多少のズレがあると思いますm(__)m方向オンチは、地図上でも方向オンチです(笑)あっ・・・・それともう1つ筑紫城に関係ないのだけど、鹿江比売は何で野椎の神なのかと思い、Wikiで調べたらこんなのを見つけました。ツチノコは、京都、三重、奈良、四国北部などで用いられていた方言。だと。鹿江比売の神社は徳島県北部に鎮座ですよね。ツチノコ=鹿江比売・・・・何かイヤなんですけど(笑)茅をたたく横椎から野椎?草原に居そうなツチノコが横椎に似ているから?(私の)イメージでは草の妖精のような感じなのですが、ツチノコではちょっと違いすぎです(笑)でも「ツチノコ」が方言だとは知りませんでした。
2012.10.26
のらねこさんのわかりやすいPHOTOナビのおかげで、迷わずに丹田古墳まで行くことができました。今年の春、三加茂の役場で開かれた説明会に参加させていただいて以来、ずっと気になっていた場所。加茂山の中腹にある丹田古墳です。 大国主命とタキリビメの間に生まれたアジシキタカヒコネ神は、加茂の大御神。アジシキタカヒコネ神が三加茂の辺りを治めていた方なのかどうか、私などにはわかるはずもなく・・・とりあえずお母さんが何処にいるのか捜してみようと思い、徳島県神社誌をパラパラ・・・ 三所神社(三野町太刀野山)・・・田心姫(タキリビメ)、湍津姫、市杵島姫の三女神。八柱神社(三加茂町西庄山田)・・・三女神西照神社(脇町西大谷)・・・三女神八坂神社(貞光町貞光辻)・・・三女神八幡神社(貞光町西端成谷)・・・三女神熊野十二所神社(貞光町太田西)・・・三女神八幡神社(山川町川田八幡)・・・三女神八幡神社(石井町浦庄諏訪)・・・三女神宇佐八幡神社(神山町下分上山)・・・三女神八幡神社(徳島市助任町)・・・三女神と・・・・徳島県西部がほとんど。やっぱり・・・アジシキタカヒコネ神はこの辺りにおったん?←急に阿波弁。加茂山の近くに志貴岳(1073.3m)もあるし・・・・(関係ある?)アジシキタカヒコネ神の子供(タキツヒコ)は、田寸神社にお祀りされているし。やっぱこの辺りかな? アジシキタカヒコネ神の妹、下照姫が兄の名前を顕すために歌った歌があります。阿米那流夜 淤登多那婆多能 (天なるや おとたなばたの)宇那賀世流 多麻能美須麻流 (うながせる 玉のみすまる)美須麻流邇 阿那陀麻波夜 (みすまるに 穴玉はや)美多邇 布多和多良須 (み谷 ふた渡らす)阿治志貴多迦比古泥能迦微曾 (アジシキタカヒコネの神ぞ) (天上の若い機織女が 首にかけておられる御統の玉それは御統であり 穴玉だよその玉のように 谷二つを渡られるアジシキタカヒコネの神です)私の持っている本に書かれている意訳です。何か意味が分かったようで分からない(笑) なので無理やり五・七調にしてみました。 阿米那流夜 淤登多那婆多能 (あめなるや おとたなばたの)宇那賀世流 多麻能美須麻流 (うながせる たまのみすまる)美須麻流邇 阿那陀麻波夜美 (みすまるに あなだまはやみ)多邇布多和 (たにふたわ)多良須 阿治志貴多迦比古泥能迦微曾 (たらす アジシキタカヒコネのかみそ)調子は整って読みやすくなりましたが、意味は??????(笑) でも1つだけ、大発見をしましたよー。(←もし合ってるなら(笑))最後の「多良須:たらす」のところ。ネットで調べていたら「垂らす」で出てきました。茨城県の方言。もう、茨城で「エッ?」ですよね♪茨城の方言で「垂らす」とは、「目下の者や後世の人に表し示す」という意味があるそうです。 だったら、多良須阿治志貴多迦比古泥能迦微曾って変じゃないですよね?意味的にもつながりますよね。 でも、残念ながらこれ以外は全然×「多邇布多和」の「多邇布」が香川県の旧大川郡の「丹生村」で「多和」が旧寒川郡の「多和郷」かな~と思ったり・・・でも意味が全然つながらんし・・・と・・・ いつものように、あやふやに終わる私のブログでした。まっ!いいかっ(笑) 丹田古墳の詳しいことは、上記記載ののらねこさんやすえドンさんのブログに書かれています。
2012.09.15
9日間のお盆休みも今日で終わり!明日から仕事です。「会社へ行く道、忘れてしまうな」と・・・いつもお決まりの冗談を言っていたのが昨日のよう。こんな※たるんだ状態で明日から大丈夫かな~・・・(※たるんでいるのは気持ちです(笑))さてお盆休みのフィナーレに、伊笠神社へ行ってきました。久しぶりのプチ山登りで、バテバテ状態になりながら行ってきましたよー。県道2号線を車でブイブイ・・・行くと・・・「犬墓大師堂」と書かれた看板が見えてきます。大師堂とは反対に、そこを左折すると・・・・こんな道に。この道を少し行くと変則の小さな交差点に行きあたります。その交差点の左側に犬之墓時計台があります。そして、その右斜め前には「林道ヤカエ線」と書かれた看板が・・・この道を登って行くと、1分足らずで妙見神社が左手に見えてきます。妙見神社を越えるとただ・・・ただ・・・走るのみ。豚舎関係の建物を横目で見ながら、ひたすら走るぅ。。。。時々、分かれ道があるけれど、ほとんどが豚舎関係の建物へ通じる道。数少ない伊笠神社への道案内の看板。伊笠山の道は、細くて草がいっぱいだけど、鳥居さんのところまでは車で行けるみたいです。私たちは少し山登り気分を味わいたかったので、ちょっと手前から歩きましたけどね(←なので、バテたー)伊笠神社鳥居です。半分、木で隠れています。鳥居さんのところから、徒歩10分くらいで・・・伊笠神社が・・・見えてきました。伊笠神社改築記念碑。伊笠神社の狛犬さんは小さくて可愛かったです。社殿。神社の裏を少し登ると、伊笠山頂上に到着。あーーっ達成感!!(ほとんど車だけど(笑))さて、この伊笠神社は式内社の建布都神社に比定されていますが、現在のご祭神は、天二上命なのだそうです。天二上命は天村雲命のこと。天村雲命の別名は射楯神。五十猛の別名も射楯神。ということは・・・天二上命=天村雲命=射楯神=五十猛。天村雲命の奥さんは伊自波夜比売。伊自波夜比売のおじいちゃんは建御名方神。頂上から見える景色です。お隣の山、城王山。木が生い茂っているので、見晴らしは残念ながらよくありません。伊笠山途中から見える高越山と剣山。写真真ん中が高越山。その後ろ、雲に隠れそうなのが剣山です。最近はおにぎりやちょっとしたおかずを持って出かけてます。社殿の前でお弁当を広げていると、目の前で蜘蛛が巣作りを始めました。カミキリ虫の恋も見学してきました。灯籠には大きな蛾が止まって一休み中。めったに人が来ない山頂、虫や鳥や木々たちの生活の場を、ほんの少し間借りして、同じ時間を共有してきました。帰りはオニヤンマの道案内。少しだけ秋を感じることができた伊笠山でした。
2012.08.19
大坂峠から見える引田の町です。写真奥の手前の方に見える半島?に誉田八幡宮が鎮座されています。その奥に見えるのは松原、伊座方面、与治山。そして松原、伊座、与治山の向こうは難波津です。難波といえば大阪をすぐ連想しますが、香川県の津田町辺りは、難波と呼ばれていたのだそうですよ。(プチ情報:津田町立鶴羽小学校は明治5年から昭和16年まで難波小学校と呼ばれていた。鶴羽鵜部岬に仁徳天皇皇后の陵に比定されている古墳がある。そして私が越えてきた大坂峠は奈良坂、犬の墓経由じゃなくて、板野郡吹田経由の大坂峠を越えてきました。大坂峠って2つあるんですね。吹田は「すいた」じゃなくて「ふきた」と読みます)東かがわ市引田2873番地1祭神は応神天皇。境内にあったご由緒承和8年(841)、大内郡の領主である忌部正國(手置帆負命の25世孫)が、貢を奉じて都に赴いたその帰途、河内国の誉田八幡宮を参拝した際、神託により神宝二品を授かる。一品は伊座中山に、もう一品は忌部中山家の後園に祀る。その後、延久元年(1069)伊座中山にある神宝は引田亀山の頂に遷座され、引田七郷の鎮守神とされる。と、ありました。(一部略してます←性格出てる(笑))誉田八幡宮の近くに亀山会館というのがあるので、引田亀山は、誉田八幡宮が鎮座されている山だと思います。そして「河内国」は、タブン大阪の河内国じゃないよー。と思います←性格出てる(笑)そして勧請元である河内国の誉田八幡宮は、応神天皇陵のすぐ南に鎮座されているそうです。(この陵は本当に応神天皇陵?)←心の声(笑)誉田宗廟縁起(1433)には、誉田宗廟の社壇は欽明天皇の勅定によりて、応神天皇の御廟前にはじめて賽殿をつくり給ふ其時の社壇は南向き欽明天皇二十年己卯二月十五日に八幡大菩薩をあらたに勧請し給ふなりとあります。河内国の誉田八幡宮は元々、神宮寺「長野山護国寺」という寺院だったそうです。Wikiには、日本最古の八幡宮を称しているが、実際にはもっと後の八幡信仰が盛んになった時代に建立されたものと見られる。永承6年(1051)、元の鎮座地から1丁(約100m)ほど南の現在地に遷座した。とありました。なので、河内の誉田八幡宮のご創建は1051年かな~?と・・・私は思いたいです(笑)阿波の宮川内ダムや御所を越えて鵜の田尾トンネルを抜けると与田山があって、少し北に与田川や與田寺、そして誉水(よみず)小学校があります。本当は「誉田山」「誉田川」「誉田寺」だったのかな~なんて思ったり(^〇^)でも誉水村の歴史は・・・・ネットで調べた限りでは新しいそうですので、ワクワクも7分程度(笑)ちなみに・・・與田寺ですが、寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基を開山として醫王山薬王寺薬師院の号で法相宗の寺院として創建され、後に空海により宗派を真言宗、寺号を神宮寺に改められたそうです。(Wikiより)「神宮寺」とか「誉田」とか、「ん?」と思うことが交錯するのですが・・・交錯するだけで・・・・私のブログは終わってしまいます(笑)武内宿禰が祀られていました。福の石です。阿波の神様オオゲツヒメが祀られていました。近くを流れる小海川と翼山。大坂峠で人懐っこいワンコに会いました。毛並みもよく元気なので、心配ないとは思いますが、この子はどうやって生きているのかな?
2012.07.31
今日は徳島県南部に鎮座されている神社を廻ってきました。阿津神社、御室神社、花姫神社、そして新野の室津神社です。でも、今日は神社のことではなく、由岐にある島のことをご紹介したいと思います。箆野島:ぬのしま西由岐にあります。何と、この島は2億円で売り出し中なのだそうです(誰か買いませんか~?)注)日本では無人島を買う場合、ローンはダメ。※日本では海岸線の長さが100m以上の島を正式な島と認定。《箆野島の地名のいわれ》「箆:へい、へら、の」という字は、矢竹の事。昔この島にたくさん自生し、利用されていた。このことから「箆野島」と書いて「ののしま」と呼ばれていた。一般的には「しまの」の呼び名で親しまれているが、理由はわからない。これがいつの頃からか「箆野島」を「ぬのしま」と呼ぶようになってしまった。これは昔の人が島の奇岩である「布かけ岩」がある島ということから、「ぬのしま」と呼んだともいわれている。いま一つは明治の頃、この島の守りをしていた人が、苗字を許されたとき、この岩にちなんで「布島」とつけたことにより「箆野島」を「布島」の苗字にあわせて「ぬのしま」と呼ばれるようになったともいわれている。ー田舎暮らしの実践会 株式会社ビブレコア様ホームページよりー箆:へら という難しい漢字。書けと言われても書けませんが・・・・この漢字を使った島が何と、兵庫県相生市にもあるんですよー。(相生にも反応してしまいます(笑))那波浦に浮かぶ島、箆島:のしま です。《相生の伝説と昔話より》抜粋させていただきます。那波浦(なばのうら)には、神功皇后の祈願により、三島大神が鎮座している三島神社があります。神功皇后が新羅国を攻撃する時、那波の入江の那波浦は、中国鎮護の水軍の要港でした。神功皇后の第三先鋒の小千宿禰(おちのすくね)三並の兵団が、この那波浦に停泊しました。神功皇后は、小千宿禰三並に命じて、箆島(のしま)にある箭竹(やだけ)を採らせました。また、神功皇后は、神託と勅命により、赤地向鼻に三島大神を分霊しました。播磨国風土記によれば、神功皇后の寄港地として旧揖保郡に属する字須伎津(魚吹津)、宇頭川(揖保川)、伊都(御津町伊都)、御津(岩見港)、萩原の里(揖保町萩原)などが点々と並んでいます。阿波の地名・・・特に鳴門辺りの地名が・・・相生の「箆島」と西由岐の「箆野島」同じように「矢竹」が出てきます。神功皇后は阿波にいたかも?と思っている私にとっては、今日の収穫はメチャクチャ嬉しいことでした。神功皇后は阿波の箆野島で「矢竹」を採ったのかな~妙に禊っぽい名前のこの島が気になって、来るだけ来てみたのですが・・・思わぬ収穫に、三参七拍子~(笑)です(笑)
2012.07.15
鮎という字は「魚」で「占」う。神武東征のときに、こんなお話があります。神武天皇が、吉野川上流の「国栖」から大和に進攻中、引佐山で敵に包囲された時、天皇は不思議な夢をみます。「天の香具山の土で、酒瓶を作って酒を入れ丹生川に沈め、魚が浮き上がってくれば、武器なしで大和を平定できる」神武天皇の従者だった「ヲトウカシ」も、この時同じ夢を見るというお話。阿波人は、鮎と言えば「鮎喰川」と「八倉比売神社」を思い浮かべますよね。大嘗祭の時に「万歳幡」というものを紫宸殿の前に立てるそうです。「道は阿波より始まる」には、万歳幡のことのこう書いています。阿波特産の荒妙又は太布の布に、大国主命が天照大神に差し上げた鮎喰川の鮎、その下には丹を入れた小さい壷がかかれた幡だと・・・・凄いですね。画像が見たくて捜してみましたが、はっきり分かるものは、見つけられませんでした。天皇にまつわる儀式は、「阿波」関係が多いような気がするよー♪万葉集より鵜河立 取左牟安由能 之我波多波 吾等尓可伎无気 念之念婆うかはたち とらさむあゆの しがはたは われにかきむけ おもひしおもはば(川に立ちこんで鵜飼で獲ったその鮎を、万歳幡に画かれた鮎と酒瓶ではないが、良いことが起きるようにと、願いを込めて鵜飼の鵜をあなたに送ってあげた私の心配りを思ったならば、獲れたその鮎と共に万歳幡を(画き上げ)私のところへ(画き向け=持ってきて)共に幡のもとで酒を酌み交わそうではないか!!天皇の即位式や朝賀の祝賀式には、5匹の鮎と1個の酒瓶を画いた「万歳幡」という幡を立てる習慣があり、鮎のことを「国栖魚」と呼ぶようになった逸話がある。丹を入れた壷が酒瓶に変わっていますね。この歌は大伴家茂が詠んだ歌です。家持さんは700年代の人ですから、この時代には、丹を入れる壷から酒瓶に変っていたのかもしれませんね。そして神武天皇の夢。天香具山の土で酒瓶を作るといっても、まだ辿り着いていない大和の香具山の土をどうやって取ってくるんだろう・・・なんて・・・阿波人としては思ってしまいます(^o^)丿今日は「万歳幡」のことを知りました。楽しすぎます\(^o^)/※青字のところは「野村玄良様ホームページ:鮎の名前」より抜粋させていただきました。転載不可でしたら、お手数ですがご連絡下さいませ。すぐに削除いたします。
2012.07.12
鳴門へすももを買いに行ったので、ついでに近くに鎮座されている葛城神社へ行ってきました。 ↑↑(バチあたりな)主祭神:一言主命ご由緒:不詳飛地境内社として白山神社がある。(徳島県神社誌)葛城氏は天皇の后や妃を送り出し、外戚関係になって、強大な権力を手にしていたそうです。ウズヒコの娘である山下影日売の子供が竹内の宿禰(古事記)竹内の宿禰の子供に葛城の長江の曾都毘古がいます。鳴門に葛城神社が3社も鎮座されているし、長江という地名も、お隣の大津町にあるんですよ。大和葛城宝山記。知識がないままに、目を通しました。よく意味もわからないのに、日本人の心を感じました。この神社のすぐ裏には、古墳があります。木の奥に少しだけ、こんもりしているのが古墳です。天井石が露出しているらしいのですが、草がいっぱい生えていて、蛇が怖いので近づくのはやめました。古墳時代後期の円墳。鳥井龍蔵博士により「かつらぎ原の塚穴」として報告されているそうです。この古墳は大谷川扇状地東側の丘陵先端部に立地。周辺には十数基の円墳があったが、大谷焼の陶土採掘や宅地開発によりほとんどが破壊。墳丘の破壊が著しいので、昭和49年に測量調査が行われたそうです。残存墳丘から推定すると、直径約15m。埋葬施設は、左片袖型横穴式石室で石室の1部が露出。羨道部は損壊し、石室内に大量の土砂が流入しているそうです。石室の平面プランや構築技法には、大麻町萩原のぬか塚古墳との類似が認められるそうです。阿波の古墳は小さいのが多いですね。小さいがゆえに、古さを感じます。きちんと調査したら、日本中が吹っ飛ぶくらいにビックリするかも?早くそんな日来ないかな~・・・・いや・・・やっぱり来なくていい・・・いや・・・・やっぱり来て欲しい・・・・(笑)複雑なんです・・・乙女心じゃなくて・・・・熟年心・・・・(笑)
2012.07.10
岡山県津山市・・・・「阿波」「吉備」と検索をかけたら、津山市阿波(あば)村が引っかかってきました。阿波村は岡山県北部、鳥取県との県境にあります。以前は苫田郡阿波村でしたが、平成の大合併で津山市阿波村に仲間入り。他に、「加茂」「久米」「勝北」の各村が津山市に入ったそうです。加茂とか久米とか、凄い名前ばかりが並びました。「阿波の歴史」心のふる里に、弥生中期から定住今の阿波入口にあたる、下沢、竹之下の両地区からはそれぞれ、弥生中期・後期の土器片が出土している。この時代に、標高の高いこの奥地にも、すでに人が生活を営んでいたのである。その後、出雲族によって開殖され、加茂氏が栄えた事から加茂郷と呼ばれていた。律令制度の元では苫東郡に。阿波の里の中央部を南北に、吉井川の上流にあたる加茂川が流れ、これに阿波落合、尾所(おそ)、西谷、廻(めぐり)の諸川が合流しています。この流域の随所には滝や渕を見る事が出来ます。タタラ吹き製鉄阿波には古代の製鉄法「タタラ吹き製鉄」が行われていた名残もある。木炭を大量に必要としたため、良質な材木の豊富な阿波は格好の地であったのだろう。この砂鉄採掘、タタラ吹き製鉄は明治中期まで続いた。鉄穴内かんのうち、金屋寺(かなやじ)、福籠、金山、タタラ谷といった、今に残る地名が名残である。と、あります。阿波村って山深そうですね。阿波国西部、祖谷地方の風景が浮かんできますが、阿波村は祖谷に似ているような気がします。八幡神社(写真なしですm(__)m)苫田郡阿波村字位登山。ご祭神:誉田別命(応神天皇) 足仲彦命(仲哀天皇) 息長足媛命(神功皇后)ご由緒:705年、大ヶ山の東麓字小宮(現在の米山)に、鴨神社(祭神:味咀高彦根命)が創祀され、その後、806年、筑紫の国宇佐神宮の分霊を勧請し、合祀して八幡宮と称して現在の地、位登山に移遷される。以下略。古いご創建です。以前、大和と播磨国宍粟市の神社を巡った時に、大和の神社より播磨国の神社の方が歴史を感じました。阿波村の八幡さんも、播磨国の伊倭神社のように、雰囲気が阿波に似ているといいな~阿波・・・・日本に「阿波」とか「粟」とかいう地名や山はどれくらいあるのでしょうか?面白そうですが、簡単に調べられるのかな~?追記《阿波村の民話》「天から褌がさがってきて、長崎からおこわが届いたとさ。そればっちり」長い物尽くし。「はなしははげる、昔はむける。爺はじっとせえ、婆はばっとせえ。そればっちり」語呂合わせ遊びの小噺だそうです。「そればっちり」は「そればかり」「それまで」といった意味だとか。「天からふんどし」・・・・って「天帯」のことかな?
2012.07.06
(渡嘉敷村 ホームページよりお借りしました)アヂマサ別名:ビロウ 漢名は蒲葵(ホキ) 沖縄ではクバヤシ科の常緑高木。古名はアヂマサ。葉は掌状に広がる。ワシントンヤシに似ているけど、葉先が細かく裂けて垂れ下がるのが特徴。以上 ウィキペディアです。垂仁記に「檳榔之長穂宮:アヂマサのながほのみや」って出てきます。この長穂宮は、垂仁天皇の皇子である 本牟智和気命を迎えるための宮で、出雲にあると書かれています。でも、アヂマサは四国南部、九州、南西諸島に分布。日本海側での北限は福岡県宗像市の沖ノ島なのだそうです。垂仁天皇の時代が今より1度~2度高いとしても、出雲にアヂマサって自生してたのかな~?なんて、疑問に思ってしまいます。仁徳天皇が詠まれた歌にも「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば淡島 自凝島 檳榔(アヂマサ)の島も見ゆ さけつ島見ゆ」仁徳天皇が、大好きな黒日売(吉備の海部の直の女)に会いたいので、「淡路島が見たい」と皇后に嘘を言って、淡路島にて詠んだ歌です。アヂマサの島ってどこなのデショーカ?平安時代には牛車の屋根をアヂマサの葉でふいて、「檳榔の車」と呼んでいたそうです。また、大和朝廷では古くから珍重され、阿波や淡路島のアヂマサの木が献上品になっていたそうです。現在でも、大嘗祭において、天皇が禊を行う百子帳の屋根材として用いられているとか。大嘗祭や禊の時って、何か阿波絡みが多いような気がするよー(笑)ついでに・・・・「ビロウ 阿波」って調べたら、渡嘉敷村 阿波連(あはれん)って出てきました。渡嘉敷村に阿波連ってあるのですねェ。。。ビックリしました。アヂマサは沖縄では神木で、「クバの御嶽:ウタキ」や「クボースの御嶽:ウタキ」と呼ばれているそうです。生活にも使われていて、古くはクバの葉で水を汲むつるべを作ったり、今もうちわや漁師さんが被る「クバ笠」を作っているのだそうです。アヂマサの語源は、麻が集まっている様、アヂマ(集)サ(麻)とする説が有力なのだとか。アヂマサの葉っぱって、麻に似ていますよねェ。。。。麻といえば「阿波」仁徳天皇が歌った「アヂマサの島」四国のような気がしませんか?
2012.06.24
褌とは、日本の伝統的な下着。日本の※一部の地方では、通過儀礼として、一定年齢に達すると、成人を迎えた証として初めて褌を締める「褌祝」と言われる私的祭事がある。※西日本を中心に行われるが、東日本では長野、千葉、茨城県でも散見されている。昔から褌は成人の下着として位置付けられており、一定年齢に満たない幼児や子供が下着として褌を使用することはなかった。関西地方では「フドシ」 関東では「フンドシ」仙台では「ウチオビ」 盛岡では「コバカマ」常陸地方では「テコ」 徳島では「テテラ」高知では「フゴメ」 長野では「モッコ」と呼ばれていた。(以上、ウィキペディアより)徳島・・・「テテラ」???私・・・知りません。折口信夫の「水の女」を読んでいたら、羽衣の元は褌だというようなことを書いていましたので、抜書きしますね。神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。この七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひもを解き奉るためである。「ひも」の神秘をとり扱う神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持たねばならなかったのである。一番親しく、神の身に近づく聖職に備(そなわ)るのは、最高の神女である。しかも尊体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひもを解き、また結ぶ神事があったのである。 七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行(ヒギヤウ)の力は、天の羽衣に繋(かか)っていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があった。その神の威力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神をやや忘れるようになる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣のごときは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則(のっと)る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」という名に拘(かかわ)って、上体をも掩(おお)うものとなったらしいが、古くはもっと小さきものではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐(ゆあ)みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があった。・・・・略・・・・みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。瑞(ミヅ)という称え言ではなかった。このひもは「あわ緒」など言うに近い結び方をしたものではないか。と書かれています。(物凄く省略してます。全文、読まれたい方は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/16031_14239.html の、兄媛弟媛、ふぢはらを名とする聖職、天の羽衣のところを読んで下さい)あのキレイな羽衣と褌が・・・・だったなんて、目から鼻血状態(←コレコレお下品な)形がホント、イタモメンみたいで・・・(笑)でも・・・海部の人たちの香りが漂ってきます。そして「あわ緒」「あわ」ってつく言葉だけで「怪しい・・ムフフフ」と思ってしまう私。その「あわ緒」は、平安時代初期に書かれた「伊勢物語」に出てきます。伊勢物語 三十五段玉の緒を あわをによりて 結べれば 絶えての後も あはむとぞ思う(宝玉を結び合わせる糸の玉の緒は、はかなく切れてしまうことが多いけれども、緩く縒った「あわ緒」に結んでおいた私とあなたは、いったん絶えてしまったその後も、また結び直したいと願っている私なのです。)伊勢物語古意(賀茂真淵1753年頃の成立)にも「あわ緒」のことを解説しています。興味のある方は「伊勢物語古意 あわ緒」で検索してみて下さい。他にも紀郎女が詠んだ歌で、玉の緒を 沫緒に縒りて 結べらばありて後にも 逢はざらめやも(玉の緒を「沫緒」のように緩やかに縒り合わせて結んでおけば、生きて後には、いつかお会いできないわけがありましょうか?)「あわ緒」って緩く結んでいるのに、絶対に解けないって感じを受けます。栃木県小山市に鎮座されている「安房神社」安房神社では、毎年11月21日の例大祭では、「アワガラ神輿」が担がれるそうです。粟の穂を飾り、神輿全体を紅白の「粟むすび」と呼ばれるひもで、独特の飾り付けを施した神輿が、獅子舞とともに氏子地域を巡幸後、境内や参道を練り歩く行事で、この例大祭のハイライトだそうです。太陽を「アワ」と言ったり、「あわ緒」や「粟むすび」「あわうた」・・・阿波って凄いです。これって、やっぱ手前みそ?
2012.06.22
古事記、日本書紀には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では非時香菓を「是今橘也」とする。タチバナはミカン科ミカン属の常緑小高木で、別名、ヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ。古代のタチバナがヤマトタチバナなのかどうか解りませんが、タチバナは日本に古くから野生して日本固有のカンキツなのだそうです。和歌山、三重、山口、四国、九州の海岸に近い山地に稀に自生。自生地の北限は、静岡県沼津市戸田地区なのだとか。(以上 Wikiより)古事記の時代と現在の気温って・・・・?検索・・・検索・・・検索・・・古代温暖期 紀元前200年~200年中世寒冷期(古墳寒冷期)200年~700年4世紀ごろから温暖な時代が始まり、4世紀後半から6世紀初めにかけて低温な期間があったそう・・・でもその後、温暖化していき、8世紀~10世紀は「気候の小最適期」または「気候の小最良期」と呼ばれる温暖な時代だったそうです。弥生時代は今より、約2度ほど暖かかったそうで・・・・だとしたら・・・タチバナの自生はやっぱり茨城あたりまで?・・・・って漠然と思ってます(笑)長い間ブログを休んでて、いきなり「タチバナ」?( 一一)・・・・なんですが・・・古事記研究会のUさんが、先月、出雲風土記の研究発表をされたので、なんとな~く・・・ぼーっと、ネットで出雲風土記を見ていたのです。そして、なんとな~く・・・ぼーっと、「樋速日命」で検索したら、丹後の「撥枳神社:からたち」が出たのです。所在地:京丹後市峰山町橋木千原 ご由緒:垂任天皇の御宇、姫宮大明神の御神託により新羅の国の王子天日鉾命が持ち帰った九品の宝の一つである橘を譲り受け、社地に植え、以て撥枳神社とする」と伝えられている。姫宮大明神は、崇神の御代から鎮座する風土記の天女天酒大明神であり豊受賀能め命である。 常世の国から橘を持ち帰ったのは、天日鉾命の玄孫の田道間守(たじまもり)との説も有名である。田道間守は、第11代垂仁天皇の勅を奉じて非時香果(ときじのかくのこのみ)を求めて常世の国へ渡り、帰り着いたのは10年後の第12代景行天皇元年3月であった。着船した所が「橘の庄」すなわち現在の網野町木津だといわれている。田庭の郷様ホームページを参考にさせて頂きましたhttp://www.geocities.jp/taniwajunf/index.htmこの神社には阿波独特と云われる「五角形の地神塔」もあるそうで・・・。出雲の阿波枳閇委奈佐比古命・・・丹後のわなさ翁・・・・阿波の和奈作意富曾神社・・・タチバナの日本海側北限は山口県(←現代)「江南の橘、江北の枳となる」・・・は、ちょっと意味違う?(笑)でも、古代の人たちは「タチバナ」が日本固有のモノだと知っていたのかな?なんて・・・思います。しかし・・・私の頭では・・・・????む・・・難しい!!!最近・・・・大変な世界に興味を持ったもんだなと思ったりするんですが・・・やっぱ、楽しいんですよね♪里帰り出産していた娘も、17日に宇都宮へ帰りましたので、これから少しはブログ更新できるかな?皆様、またまたよろしくお願いいたします♪
2012.06.20
この前の日曜日、鳥取山だけじゃなく明神山にも行ってきました。伊座利峠に案内板があります。 ↓ ↓ ↓ ↓阿南市と美波町の境にある山で、標高441.6メートル。頂上の峯神社と巨石を目指して登りました。途中で車を停めて、自分の足で登るつもりが・・・・駐車場を探しているうちに頂上手前まで来てしまいました。少し・・・残念!沢登り・・・してみたかったんだけど・・・。峯神社です。ご祭神は?忘れてしまいました。ニニギ命とコノハナサクヤ姫だったかな?でも・・・今回はご祭神より何より・・・景色が素晴らしいのです ↓ ↓ ↓ととととと・・・・・ワザとらしい間違いをしてしまいました。絶景の前に可愛いイノシシ君の像でした(笑)なにぶん・・・携帯カメラなので・・・きれいな景色の10ぶんの1もお伝えできないと思いますが・・・伊座利方面←(伊がついてますね)伊座利より少し右方面←(こんな説明・・・?ですね)ザックリ言うと・・・室戸方面。橘湾・・・・ザックリ言うと・・・剣山方面。(ザックリばっかり(笑))次は巨石群です。峯神社から西の方へ歩いて行きます。1番西にある電波塔を目指して行くと・・・ゴロゴロ。。。。ゴロゴロ。。。。大きな石が・・・・巨石群の前には真新しい鳥居と祠がありました。神様は新しすぎると少しガッカリしてしまうのはどうして?確かに・・・・巨石ですが・・・・あまり歴史の重みを感じられないのは何で?でもーーーーーーーーーー景色は最高なんです♪ホラ、旦那も短い足を精いっぱい広げて頑張ってるでしょ?(笑)←私 (怒)←旦那高所恐怖症の私も・・・頑張ってよじ登りました。そりゃあもーーーーへっぴり腰で。巨石の上に座ってみる景色。遠慮なく強風が吹いてくる。ここで・・・・ずっといたい・・・・帰りたくない・・・・と・・・・私の気持ちを知ってか知らずか・・・巨石は黙ったまんま。無表情の巨石と相反する藪椿。明神山の3月は・・・・・まぶしかったよ。
2012.03.26
何気なく徳島県神社誌を見ていたら、羽落神社の「古くは鳥取大権現と尊び奉り・・・」と書いてあるのが目に入ってきました。「これってもしかして大国主命の奥さん?」と・・・・・思ったのですが・・・・短絡的で単純な私の考えなど、合ってるはずもなく・・・撃沈っぽいです(笑)羽落神社と杉尾神社鳥取山(ちょうとりざん)の麓に鎮座されています。まずは麓の羽落神社と杉尾神社参拝です。普段は静かで寂しいくらいの徳島の神社ですが、昨日の羽落神社は、境内にある浦ノ内公民館にたくさんの人が訪れていました。さーっ、頂上の羽落神社目ざして登り始めます。地図上で出雲大社を見つけた時は「えっ?」と・・・・思いましたよーーー。出雲大社は橘湾の方を向いて鎮座されていました。登り始めて約30分弱・・・頂上の羽落神社が見えてきました。鎮座地:阿南市桑野町西谷126-2ご祭神:天牟良雲命由緒:創立年代不詳。阿波国の開拓祖神として、ご功績顕著なるに依り、古くより鳥取大権現と尊び奉り、寿命守護神悪魔除の神様と信仰四方に聚め御神徳御霊験は厚く、県内は勿論県外より参客あり。燈明千番を献り日夜絶えない。「寛保帳」に「桑野村 帳取権現 別当桑野村万福寺」と。また「阿波志」に「蝶鳥杉尾二祠 浦内に在り」とある。以下略。「ととり」じゃなくて「ちょうとり」なのね・・・やっぱり。ご神木の根元で休まれている神様の夢の中で鳥が光を放っています。私も神様の真似をしてご神木に寄りかかって座ろうと思ったのですが、バチあたりなことなのでやめました(笑)羽落神社・・・チョコチョコっと調べましたが、な~んにもつながりません。桑野という所は昔の地名でいうと・・・伊豆美(イヅミ)(山代かもしれないけど、桑野でも手前の方なので願いを込めて伊豆美だと・・)大阪の和泉地方の地図を見ると、鳥取がいっぱい。「桑畑」や「幡部」もあります。養蚕に関係ありそな地名ですね。ご祭神の天村雲命は、ニギハヤヒ命系列。この神社の近くには「蛭地」という地名。気になることがいっぱいあるのに、な~んもわかりません。これって全然見当違いなのかな~?頭がゴチャゴチャになってきたので、今回はこれで考えるのをやめにします(笑)また、日を改めてチャレンジしなくっちゃね♪先週の土曜日、徳島古事記研究会の遅い新年会がありました。桜咲古事記研究所の設立のお祝いにと、お花をいただきました。名ばかりの研究所に、こんな可愛いお花をいただいて痛み入ります。ありがとうございました。
2012.03.26
徳島県内にある島の中では最も広い大毛島。私の中では、もはや「島」ではなく、徳島本体と地続きという感覚。大毛島一周を歩いてみよう!!!と・・・・急に思い立ち、旦那に言うと、「それっ、ええな~」と、ノリに乗った返事♪お湯とお茶とおにぎり。カップ麺とコーンポタージュスープ。チョコレートにクッキーにシュークリームをリュックに詰めて大毛島まで車を走らせました。(食べ過ぎ~っ(笑))歩いたコースはザックリとこんな感じです。海岸線に沿って、スタスタ・・・テクテク・・・正確には1周ではなくて、3分の2周ってとこかな?まずは大毛島の八幡神社。今は麓に鎮座されていますが、元々は三ツ石山に鎮座されていた神社。八幡さんの境内で、早々と昼食(笑)コーンポタージュスープ、美味しかった~小鳴門橋の下を歩いて通るのは、初めてだーーー車で早送りのように見てきた景色を、静止画像に切り替えてじっくりと見て歩きます。小宰相の局のお墓。一の谷の合戦で討ち死にをした通盛の後を追って、2月14日、冷たい鳴門の海に入水した小宰相の局。この時、小宰相のお腹の中には通盛の子供を宿していたのでした。通盛29歳、小宰相19歳。小宰相の局のお墓からすぐのところに新羅神社が鎮座されています。「シンラさん」と言われ親しまれている神様。阿波志には「新羅祠、土佐泊に在り土佐泊神と称す」と記載されています。立派な槇の木が2本。写真には撮れていませんが、久しぶりに大きな槇の木に会いました。中津峰の如意輪寺に生きていた槇の木以来かな~海岸線の道を歩いていたら、途中で行き止まり。低い堤防を乗り越え、大きな石混じりの砂浜を歩いて行きます。対岸には岡崎城が・・・。うっすらと大鳴門橋が見えます。ずっと海岸を歩いてきましたが、南海病院の裏側で、向こう側が見えない恐怖に負けて、すぐに諦める私です。旦那だけならスイスイと行けるのでしょうが、身重の私には(違う意味で(笑))ムリッ!無理!南海病院の正門前の道を通って、歩いてきました。恐怖に負けて諦めた海岸を反対側から見てみると・・・「行けたかもしれない」と・・・何だか人生に似ているような・・・。竜宮の磯まで来た時は、足の付け根が・・・・足の指先が・・・・イ・・・タ・・・タ・・・イタタタタタ・・・運動不足だぁ~~歩いた距離はタブン10キロくらい。一生行くことがなかったかもしれない道を、歩くことが出来ました。大毛島・・・潮の香りと・・・競艇のボートの唸りと・・・正反対な静けさのうちの海・・・歩いてみなければわからない、町の呼吸。スーハー。スーハー。肺いっぱいに大毛島の空気を入れてきました。
2012.02.06
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山BY 持統天皇この歌は通説では「奈良県」で読まれたことになっていますが、いったい・・・実際・・・ホントは・・・どこなんでしょうかねーーーー(笑)先日の日曜日、めっちゃ天気がよかった日。山に登って下さい、こんな日は。と言わんばかりの青の空の日曜日。きっちりと誘いに乗って行ってきました。こんなトコ・・・・金毘羅さん。穴吹の神明神社から続く「しらたえの道」の最終地点の金毘羅さんです。前々から1度は歩いてみなくっちゃ!と思っていた道です。頂上の金毘羅さんからの眺めはこんな感じ。奥の山は「奥野々山」右の手前は「半平山」だと思います。順番がアッチコッチ飛んでいますが、金毘羅さんの鳥居です。しらたえの道がゆるやかで、とっても気持ちが良かったものだから・・・ここからの道があ~んな道とは思わなんだ・・・のです。気持ち的には傾斜角度が70度くらいありそうな登り道。四つん這い・・・・両手両足をフルに使って、登っていきました(笑)小さな祠だけの神様に心もホッコラ(笑)何か・・・こういのってやっぱり好きです。首野の集落です。ここは忌部の首長クラスの方が住まわれていた地。道を丁寧に教えて下さった首野の方、ありがとうございました。帰りにお礼を言うと「金毘羅さんまで行ったのに、奥の方は行かんかったんで?勿体無い・・・」と・・・金毘羅さんの奥には、剣山遥拝所があるのでした。最近・・・と言うより・・・・ダイブン前から・・・・平地の神社では物足りなくて・・・・高い場所にある神社ばかり、行きたくなります。〇〇は高い所が好きって・・・よく言いますがが・・・どうやら・・・当たっているようですよー(笑)冬は空気も澄んで・・・・眺めを楽しむには、1番良いですね。
2012.01.10
今日は珍しく旦那が早く帰ってきたので、この時間で(8時)全て用事が終わりました。時計を見て・・・「えっ?まだ8時?」いつものペースじゃないので、変な感じです。昨日は「Let's go 焼山寺~」ということで、「焼山寺」とキーボードをたたき検索!目が・目が・目が・えっ?片道5時間?1に焼山、2にお鶴、3に太龍。。。。何だとーーーーーーーー?めっちゃ難関なコースじゃないか!あっさりはやめて、山登りのためにお弁当作ったのにィ~(得意の残り物やけど)(入れ物はパックやけど)寒いしー、風が強いしー、で結局、の中で食べました。1日かけて山登りする計画だったので、時間が余る余る余るなので、いろんな所へ行ってきましたよー。(と言っても神社ばかりですけどねー)今日は1つだけご紹介させていただきます。平八幡神社鎮座地:吉野川市美郷字別枝山字平御祭神:誉田別命、足仲彦命、息長足姫命享徳3年(1454)の棟札があって、元社は現社地から約2キロ西方の宮ヶ太尾という峠にあったそうです。松田太夫清春の時に平の地に遷座され、後花園天皇の時代に創建されたのだそうですよ。阿波志に、八幡祠、別枝山平名に在り、享徳3年の梁銘ありと記されていて、寛保改神社帳には、別枝山平名八幡宮、神主別枝山松田信濃とあるそうです。この神社は中枝小学校の校庭に鎮座されていましたよ。立派なイチョウの木が鳥居の横に立っています。まだ緑が目立つかな~?下にはギンナンがいっぱい!踏んだら車の中でにおうよな~と言っていたら・・・案の定、私か旦那か・・・踏んでいました。クサイよーと言いながら・・・気にしませんけどね(笑)そして平八幡神社の境内には「美奴間(みぬま)神社」この小さな神様は、延喜式内小社「天水沼間比古神天水塞比売神社」に比定されている古社だそうです。祠の背後には経塚跡が・・・・大正5年の調査で、銅が腐食した経筒1個と、経筒に代用した鏡、東側から土器経筒や経筒の外瓶1個、盤又は土瓶が発見され、現在は東京国立博物館に所蔵されていると云われているそうです。この神さまの南方に聳える山は山柱と呼ばれ、立石などが置かれているそうですが、残念ながらそこまでは行きませんでした。また、美郷へ行くことがあれば行ってみたいですね。どこかへ行くたびに、行きたい所が余計に増える。行ったところを黒点で塗りつぶしていっても、白点が余計に増えていく。。。。終わりがない!だから楽しいのかもしれない!ですね
2011.11.21
美馬市脇町拝原に鎮座されている春日神社。ご祭神:天児屋根命、武甕槌命、斎主命、比売大神昔はこの地より約300mほど南方に鎮座されていたそうですが、洪水を避けて現地に遷座されたそうです。マムシ・ヒルの害を除き、また安産を祈るため、遠近からの参詣者が多く、特に深夜の祈願者があるという。(徳島県神社誌)伯耆神社もお祭りされていました。こんな姿になっても分身の葉っぱをいっぱいつけています。樹齢500才のクスノキがいると書かれていましたが、もう1本、立派なクスノキがいたので、このクスノキが500才なのかどうなのか?こういう木の姿から無言の教えを受けます。この写真は大国敷神社から撮りました。左側に写っている小さな森は春日神社です。この地は古代の遺跡がたくさん眠っているところです。この地にゴミ処理施設が・・・・壊すのは簡単ですが、1度壊してしまったものは、もう元には戻せません。大切な倭の地を守って欲しい。。。。この地にゴミ処理施設を作ることを考え直して頂けないでしょうか。。。どうかお願いします。と・・・今回はお願いの為の神社参拝となりました。西の方へ行く時は、私の大好きな道、吉野川沿いの土手の道を行くんですよねー♪前方に見える山々・・・近くの山から遠くの山へと・・・だんだん透明感を増していく山の姿。自然が作り出すグラデーションにテンションが上がりっぱなし(笑)そして、春日神社、倭大国敷神社、天都賀佐比古神社、西照神社。「ゴミ処理施設を作らないで下さい」どうか・・・願いが叶いますように・・・と・・・車の中とは打って変わって、真剣にお願いしてきました。
2011.11.13
那賀郡鷲敷町に鎮座されている蛭子(ヒルコ)神社です。いきなり立派な大きな夫婦スギのお出迎え。。。御祭神:蛭子大神、天照皇大神、素戔嗚神(徳島県神社誌)鷲敷町史には、天照大神、蛭子命、大巳貴尊等十柱を奉斎しているとあります。この蛭子神社は、蛭子尊が楠の丸木舟に鷲の羽根を敷いて天下ってきたという伝説があります。約1200年前の承和3(836)年、真然僧正の書かれた太龍寺縁起にも、和食明神をあがめ鎮守となすとあり、金剛遍照の書かれた太龍寺縁起には、今に鷲敷社あり、天櫲樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、和修吉龍、拾いとり奉り養育す。愛敬神あり、名を戎と奉る。(鷲敷町史)と・・・・・書かれています。脇宮は水神社と月讀神社です。そして大きなクスノキ。蛭子神社へ行ったのは10月9日・・・10日がお祭りということで、お神輿やたくさんの提灯、舞台の用意がされていました。私が写真を撮っていると氏子さんらしき方が「夜はもっときれいよ」と・・・・誇らしそうに教えてくれました。太龍寺の山はすぐ目の前・・・・この日はお天気も良くて・・・そうそう10月とは思えない暑いくらいの日でした。大きな木が息づく・・・・聖地・・・雰囲気ありありの蛭子神社です。今の私の頭の中は「ヒルコ」がグルグル・・・回る・・周る・・・廻る・・・「名を戎と奉る」・・・・これを素直に受け取っていいんですよねっ・・・ねっ(゜レ゜)徳島の神社って・・・何て凄いんだーー有名になって欲しいけど・・・なって欲しくない・・・微妙な心持ちになるのですけど・・・「おっ!凄い」って思ってもらえるのは、やっぱり嬉しいことであって・・・・間もなく・・・徳島はメジャー入りかな?(
2011.10.22
どうして・・・・こんなにも憧れるのでしょうか・・・・いろんな生物の拠り所となり・・・母となる巨樹たち・・・赤羽大師のエノキ樹齢 800才幹周り 8.7メートルエノキの枝とおもしろい形の山白山神社のもみの木樹齢 600才幹周り 6.31メートル樹高 38メートル木に性別があるのなら・・・このもみの木君は・・・男の子かな?なんとなく・・・そう思いました(笑)600才のもみの木に「男の子」は失礼ですかね(笑)地蔵森のカゴの木樹齢 不明幹周り 17メートル樹高 9.4メートル悲しい歴史を見守ってきたカゴの木です。桑平のトチの木樹齢 500才幹周り 8.5メートル樹高 28メートル大きいがゆえの強さと弱さ・・・動かないがゆえのたくましさと優しさ・・・何百年・・・この地で生き続けてきた巨樹たち・・・私もこれくらい長生きしたら?と・・・・いろいろ妄想してみるのもおもしろいものです(笑)今日は・・・たくさんの巨樹たちに会う事ができました。巨樹パワーで先ほどまで元気満々でしたが、めっちゃ眠くなってきましたZzzzz(笑)貞光から剣山の麓まで行き、東祖谷から西祖谷へ・・・・大歩危・小歩危を通って帰ってきました。紅葉を見にたくさんの方が来ていました。私たちはひっそりとした神社を巡ってきましたよ。。。。人目を避けるように・・・(笑)人が多いのは苦手なのかなぁ?今さらながら、自分にこんな所があるのかぁと・・・・思った次第です(笑)
2011.10.16
http://goutara.blogspot.com/2011/01/blog-post_06.html ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑今年の初めにぐーたらさんのブログを読ませていただいてから、1度は行ってみなくては!!と思っていた太龍寺に、やっと行ってきましたぁ~私の家からそんなに遠いところではないのですが、鶴林寺から行く遍路道を歩いて行きたいなどと・・・思っていたので・・・なかなか行けずにいたのです~(笑)で・・・・結局、歩きは実現せず、駐車場までの3キロほどの道は車でブイブイと・・・楽な方へ流れたのでした(笑)歩いたのは1キロちょっとかな?太龍寺は太龍寺でも、私が行きたかったのは、「舎心ヶ嶽」天照大神や神武天皇の祠があるところ。。。。 ↑ ↑ ↑天照大神をお祀りする祠です。 ↑ ↑ ↑神武天皇をお祀りする祠です。そして。。。。お大師さんの横で記念撮影。お大師さんの眼に映っていたのは・・・・東の方。。。。「山さきもり」というオブジェもありました。ここからはロープウェーが見えます。手を振ったけど・・・・ロープウェーに乗っている人から私たちの姿・・・・見えるのかな~?北の舎心嶽にも行ってきました。北の舎心嶽からは、大川原高原が見えます。肉眼ではうっすらと風車が見えたのですが・・・今日は少し「もやっている」ので、遠くの方はボーッとしか見えません。那賀川がかろうじて見えました。今日は・・・楽しかったです♪お大師さんのところへ行くのに、1メートルほどの崖を登ったり・・・北の舎心嶽への参拝には、グラグラする梯子を登ったり・・・高所恐怖症の私には、おっかなびっくりのスリリングな体験ができました。高所恐怖症で倍、楽しい思いができました(笑)あとは・・・・若杉山遺跡を見学するだけ・・・かな?
2011.10.09
会社からの帰り、夕飯の買い物が終わって、車の運転席から見上げた空に、キレイな三日月が・・・。冷たさを感じる月光に、もう秋なんだな~とすこ~し、しんみりしながら帰ってきました。さて・・・嵯峨天一神社です!!神社の横に流れている川は「嵯峨川」「嵯峨」という名前・・・・京都っぽいですが・・・・ここは徳島県名東郡佐那河内村。佐那河内村は、確か・・・徳島唯一の村だと・・・・。祭神は天照大御神、月読命、太白星神。「太白星神」大将軍=方位神=太白神(日本の陰陽道)大将軍は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。古代中国では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚または「太白」と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。ーウィキペディアよりーなぜかこの神様が気になったのですが・・・私の頭では・・・ここまで(笑)神社では長生きしている木たちに会えるんですよね。ここ嵯峨天一神社にも、樹齢約350年の榧(かや)の木が生きていました。まるで・・・・縄目のような樹肌。変わった樹肌に目が釘付けになりました。乾燥した樹肌とはウラハラに、内部ではどれほどの水液が流れていることか・・・。徳島の神社は・・・・静かです。やっぱり私はこんな静かな神社が好き・・・ですね♪
2011.10.01
神山町の柴小屋。柴をいっぱい詰めたログハウス風の小屋が立ち並んでいるところだと思っていたら:::::アレアレ。。。。。違うのですね~何かと思い込みのはげしいお年頃(笑)正しくは、柴小屋山にある柴小屋展望台でした(笑)徳島平野が一望できる・・・ものすごく「View」のいいところ←何で英語?(笑)遠くに見えるのは阿讃山脈・・・うっすらと板野辺りの町も・・・・大川原高原がめっちゃ近くに見えます。風車の鈍い音も風に乗って聞こえてきます。そうそう・・・風といえば・・・柴小屋山の風はもうすっかり秋。7分丈の薄手のセーターでは肌寒いくらいでした。一番遠くに見える小さな山は眉山。肉眼で「パコダ」が見えるほど・・・・車で移動した距離が嘘みたいに感じる近さ。徳島の山のてっぺんとてっぺんをリフトで移動できたら・・・なんて・・・考えてしまうほど・・・です。柴小屋山と眉山は、お味噌汁の冷めない距離・・・手をのばせば届く距離・・・になるかもです(笑)柴小屋から上勝へ・・・・左側には悲願寺へ登る途中から見えた山・・・ソフトクリームの先っちょのような三角山が見えます。もうここからは上勝へ抜けて家に帰るだけ・・・と思いきや・・・・こんなことに・・・・台風の爪あと・・・表層崩壊がおこって道を塞いでいました。人工的に植えられた杉が土とともに崩れ落ちていました。やっぱり「宮脇先生」がおっしゃるように、多種多様の木々が生存競争をしながら生きている山が強いのだと、思い知らされました。同じ道を走るのがあまり好きではない旦那ですが・・・これではもう引き返すしかありません。土須峠の方に抜けるスーパー林道もありましたが、時間はもう5時・・・・来た道を引き返すーーーーー(笑)最後に・・・・道の両脇にはススキ・・・ススキ・・・ススキ・・・ここにはススキとセイタカアワダチソウの生存競争は見られません。開きかけた穂が風にゆれて・・・もうこの地は秋まっただ中でしたよー。
2011.09.25
今日、行って来ましたとも~(喜)(嬉)(笑)神山町神領高根の悲願寺へ。。。。。。。3度挑戦するも、時間がなかったり、天気に恵まれなかったり・・・雨乞いの滝だけでバテバテになったり・・・と、なかなか行けなかった悲願寺へ♪車で行くのはイヤだったのです(体力ないけど)雨乞いの滝からのルートで行きたかったのです(脚力ないけど)では・・・携帯で撮った画像の悪いお写真を・・・山道と言えば・・・こんな道ばっかり!少し見づらいですが、石塁が見えるでしょうか?こんな山奥に見事な石塁です。三角山のてっぺんが木で隠れてしまいました。下に見える町は寄井です。こんな風に滑り止めを・・・非常にありがたいです。ありがとうございます♪岩屋みたいなところで記念撮影(笑)歩くこと1時間弱。。。。やっと悲願寺まで200メートルのところに。。。。(うるうるっ)雨乞いの滝の源流に近いのでしょうか。。。。200メートルのところからはこの沢を右に見ながら登って行きます。悲願寺への道は、水の音と。。。ミンミンゼミの鳴き声と。。。。ずっと一緒でした。おーーーーっ山門が。。。。いきなり元気になる。。。。小走りだ~(笑)山門をくぐって・・・光る悲願寺に到着♪常夜燈です。由来記には・・・・邪馬台国阿波説の中心女王ヒミコの居城跡と言われる高根山の中の謎として、古代燈台跡(現存する)より、明治の初期境内に移されたと伝えられる。以下略です。逆行のおかげで、なんか・・・・神々しい写真が撮れました。光の帯がいっぱいです♪悲願寺。由緒記には。。。。高根悲願寺開基以前は山神社で、巫女が神を祀っていたと古い伝承があり・・・とあります。十二社神社です駐車場から見た常夜燈。若ススキが風に揺れていました。悲願時で約1時間半ほど・・・ゆっくりさせていただきました。さあ。。。。雨乞いの滝まで1.1キロ。。。。下りは・・・・天国ですよーーー(笑)少し足先が痛いですけどね(笑)最後に。。。。「大嘗祭より」古来養蚕の神として知られ、境内に天照大御神を祀るヒミコの山城。剣山脈東北斜面の横谷が最も開けた鮎喰川上流域にあり、昔から信仰の山として知られている。平安時代の武将、多田満仲が入山したとの伝えがあり、その息子の美女丸が開基とされる。麓の長満寺には今も多田満仲の位牌を祀る。悲願寺は標高700メートルにあり、境内に天照大御神の祠を祀り、ヒミコの宮居跡と推定される。神山町には「昔は山の上から上から拓けてきた」との伝承が遺っており、高天原に通じる伝承と思われる。あ~~夢が膨らみます♪
2011.09.11
相生町のもみじ川沿いに鎮座されている「天満神社」神社史にも掲載されていない感じだし・・・相生町史にも載っていない感じ・・・とーーっても素敵な神社なんですけど、おかしいな~私の見落としなのかな~・・・天満神社は皆様ご存じのとおり、祭神は菅原道真、学問の神様ですよね。怨霊にされていた道真公ですが、だんだんと時代を経ていくにつれて「慈悲の神様」「正直の神様」と信仰されるようになり、江戸時代には学問の神様として信仰されるようになったそうです。よかったですねー・・・道真公・・・生きている者に勝手に怨霊なんかにされたままでは、いつまでたっても浮かばれないですものね。私は風流なものにはとんと縁がない者でございますが、道真公が詠んだこの歌・・・「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は・・・大好きです。梅をこよなく愛した道真公。さしずめ・・・道真と梅の遠距離恋って感じでしょうか・・・それにしても・・・山深い地に鎮座されている神様は・・・寂しげ・・・雨水をたっぷり含んだ苔・・・歌っているような葉っぱ・・・両手を広げて迎えてくれているような神殿・・・・明日も会いに行きます。
2011.06.04
紅葉川沿いの素晴らしい景色で、すっかりテンション↑↑この日は雨が降ったり止んだり・・・曇ったり晴れたり・・・目まぐるしく変わるお天気。こんな日は山が笑っています。喜びが山の木々から伝わってきて・・・・だからなのでしょうかねェ~いつになく私のテンションマックス状態!!例えば・・・こーんな景色を見ただけで・・・↑ ↑ ↑ ↑ハイ ハイ ハイ・・・なのです(笑)さてさて・・・千引岩の所に行く途中で、私の心臓にハートマーク付きの矢が突き刺さるような、素敵な神社が鎮座されていました。何の下調べもせず出かけたので(←いつものこと(笑))突然、現れた神様に感動しっぱなし・・・那賀郡相生町西納かくれごや75番地村社 八面神社車窓から見えた階段・・・これは行くっきゃないゼよ←何で高知弁?階段をのぼると・・・大きな岩のお出迎え。「うわぁ~」「うわぁ~」うわぁ~としか言葉が出ない・・・・大きな盆栽の出現に、感嘆詞でごまかすっきゃない(笑)いつの時代のものか・・・・いかにも古そうな板碑が・・・これはきっと弥生時代のものに違いない(笑)←ハハハきっとそうだ!!この燈籠は・・・歴史ありです。今から約160年ほど前のものだそうです。農村舞台・・・ですね・・・コレハ・・・6月5日に、何かされるみたいですよ。興味のある方は是非・・・行ってみて下さい。そうそう・・・こんな素敵な巨樹にも会えたのですよ。手前が「ケヤキ」後が「カシの木」西納の村をずっと見守ってきた巨樹です。さわさわ・・・さわさわ・・・・巨樹たちの笑い声が・・・本殿です。祭神:高皇産霊神、神産霊神、生産霊神、足産霊神、玉留産霊神、大宮比売神、食津神、事代主神。八神を併せ祭るのは宮中の八神殿と同じ御祭神だとも言われている。またこの神社は、高知県野根町の大夫さんがご神体を奉持して、今のところへ遷座したもので、本殿の右側に野根子大夫を祭る小社がある。(相生町史) ↓ ↓ ↓八面神社の詳しいこと・・・相生町史に載っているかな~と思ったのですが、思いのほか、少ない情報量でした。それにしても・・・素敵な神社でした。タブン・・・雨上がりで洗われた空気が余計に際立たせてくれたのでしょう。。。。ありがとうございました。八面神社・・・さま。パンパン←手を叩いている音です。
2011.05.25
上記地図は、日曜日に歩いたコース。懲りもせず、2週連続で大麻山方面へ・・・・そっ!階段・・・階段・・・また階段。とは言っても、この前のコースとは違い、今回は「天城越え」ならぬ「卯辰越え」大麻比古神社の駐車場に車を置き、いざ!出陣!(行く前は元気)卯辰越えのゆる~い坂道。この前の大麻山の恐怖の階段よりぜーーーんぜん楽!少々・・・ゼエゼエ言うくらい。なのに・・・私より年上っぽい女の人が軽やかに走って登って行く。あーー人間って凄い。鍛えれば私もあんなになれるのですね。神様っ30分くらい登ると、このような案内が・・・「よしっ・・・足がなるゼ」アップダウンの道を行くこと15分あまり・・・をたつ峠のをたつ祠に到着。またまたアップダウンの道を行く・・・登ったり降りたり・・・息が上がってきた頃に下りになる道。なんと思いやりに満ちた道だろうか・・・(うるうる)をたつ祠から10分くらいだったかな?三角点到着。予定ではここでお弁当を食べるのだったけど、まだお腹がすいていない。まだまだ運動が足りないみたい(笑)景色はこんな感じ。ガビーン!!(ガビーンって・・・)見通し悪っ。。。。来た道を引き返すのはしんどいので、大麻山目ざして行くことに・・・途中、こんな可愛いお地蔵さんが・・・「やっほー地蔵とな・・・」ドレドレ・・・・「ヤッホー」瀬戸内海が見えるはず・・・播磨灘が見えるはず・・・うっすらと見えるオレンジの建物は、グランディ鳴門ゴルフ。ケルン到着。何やら・・・ここから山の雰囲気が変わる・・・こんな風に。 ↓ ↓ ↓木が違う。神秘的。ここまで頑張って登ったご褒美かも?この森に会うためにもう1度登りたい・・・神秘的な森の道からだんだんと明るくなってきたと思ったら・・・大麻山との合流地点到着。ここからはもう階段を下りるのみ。大麻比古神社目ざして・・♪歩こう、歩こう、私は元気♪鼻歌さえ出てくるこの余裕さ・・・「神様、ワタクシ・・・1週間で体力つきました」(感激っ)10時半頃出発・・・駐車場到着は2時頃。約3時間半の旅人気分。車の中でお弁当食べて・・・(背中に背負ったお弁当は何だったの?)その後、樫原神社へ行きました・・・とさ(笑)
2011.05.17
大麻山へ登ろう!!高さ538メートル。「んなもん、しよい、しよい・・・・朝飯前」と・・・・・登る前まで鼻息あらく、「ピースーブースー」甘く見ちゃあいけなかった大麻山。遊歩道が作られ、登って下さいと言わんばかりに階段が・・・これは・・・ちょっと・・・・「私、山登りがしたかったんですけど・・・」「階段登りに来たんじゃないのですけど・・・」・・・・みたいな。私にとっては有難迷惑な階段。(作ってくれた方ごめんなさい)2690段もあるのですよーーーーっ体力の有り余る私は・・・数えました(笑)ってのは嘘っ!!数える体力なんぞありましぇん。僕は死にましぇん←余分?538メートルを階段の高さ約20センチで単純に割った数。です。タブン・・・これくらいはあっただろうと・・・山菜ハンターと化した旦那は、ぜんまいにこしあぶらに・・・と・・・すっかり日本猿に先祖返り(笑) ↑ ↑コシアブラです。スローモーションのような私の動作を振り向いては見て・・・「情けないのーー」と・・・笑う!!いやっ!笑われているっ!あーーっバテました。昨日は久しぶりにバテバテです。中腹から見た景色。あれには見えるは眉山じゃないか・・・チョンチョンです。霞んでいるのが残念です。奥の宮です。頂上にいたニャンコ。すえドンさんちの「チョビ」に似ているカナ?この子はおひげが不完成ですかね?写真は全て下りで撮りました。登りではただ足を持ち上げることだけに専念。で・・・何が言いたいかと申しますと・・・私って体力ないなーってことです。2690歩のマーチじゃなくて、2690歩のラプソディか?セレナーデか?・・・コレは・・・あーーっこの重い体。痩せなくっちゃ(笑)
2011.05.09
昨日はじっとしてられない天気でしたねー(笑)日曜日になると早く目が覚める!「子供かっ!」と自分に突っ込みを入れたくなるほど喜びでテンション↑↑になる私です。昨日は高越神社と奥の院・・・そしてぼろぼろの滝に行ってきました。このブログを読んでくださっている方は高越神社も奥の院も何回も行ったよーという方がほとんどだと思いますので、今回は「ぼろぼろの滝」のことを書きまするー。字はこう書くんです。「母衣暮露」これでぼろぼろと読むんだそうですよー。場所は美郷・・・高越山の下り道を途中ではずれて193号線(?)だったかな?を行きます(めっちゃ適当やし・・・そして下りでなく上りでも良しですよね?(笑))ぼろぼろの滝という面白い名前・・・徳島県人の心を妙にくすぐるこの「ぼろぼろ」この地域の修行者の方々が、滝の飛沫で濡れるのも構わず、日が暮れるのも忘れて祈願してこの名が生まれたと伝えられているそうです。私のすばらしい携帯カメラで滝の迫力を感じって下さいマシ。どうです?音まで聞こえてきそうでしょ?(笑)「・・・・・・」聞こえない?これではどうだ!!水がかかりそうなくらいの臨場感?ふふふ・・・そうでしょ!!・・・て冗談はそのくらいで置いといてェーフラッと気の向くままに立ち寄ってみた「ぼろぼろの滝」ですが・・・改めて思うこと・・・・素晴らしいですね・・・徳島は・・・未来に残したいですね・・・・政治家よ・・・与党だ・・野党だ・・・と言ってる場合かっ!!こんなときこそ「和」の心だっしょ?みんなで力を合わさないであなた達・・・いつ合わすの?原発の保安院や東電上層部のお偉いさん方・・・言い訳ばかりしないで・・・福島の人たちのことを第一に考えてくださいよ!「原発は安全だ」はもう通用しませんよっ!本当のことを言って下さいね。こんなことになってから知った本当の学者さん・・・京都大学准教授の「小出さん」毎日放送ラジオの月~金「たね蒔きジャーナル」(午後9時から10時まで)で・・・原発反対の立場で原子力の研究をされている小出さんがお電話で原子力のことをいろいろ答えて下さっています。皆様・・・よければ聴いてみてください!!熊取六人衆のうちのお一人ですよ。あれれっぼろぼろの滝の話から原子力の話になってしまいました・・・でも・・・未来にきれいな自然を残したいですよね・・・人が住めなくなるような・・・動物たちが暮らせないような・・・そんな土地を人間が作るべきではないですよね・・・本当に大切なものって何だろう・・・日本のお偉いさん方・・・考えてみて下さい!
2011.04.18
古事記を読んでいると、「阿波のことを隠そうとしているな・・・お主」と、本に向かって言いたくなるくらい(笑)神武東征・・日向(ひむか)が何で「ひゅうが?」「速吸門」が古事記の地理誤認とされている?道案内となった「槁根津日子:しいねつひこ」は「大和国造」・・・だったら「槁根津日子」は「宇豆彦」だしーーーー。そして神武天皇が日向(ひむか)に居た時に結婚したのは、「阿多の小椅の君:あたのこばし」の妹で名前は「阿比良比売:あひらひめ」阿多は鹿児島県加世田市周辺って・・・?国生みで鹿児島は生まれてたっけ・・・?読めば読むほど?????しっかり1文字1文字、慎重に読んでいかなければ、藤原不比等と古事記注釈の罠にかかりそう(笑)板野郡には「伊比良め神社:いびらめ」が鎮座されているそうですが、この神社の祭神が「阿比良比め命:あひらひめ」になっています。「道は阿波より始まる」には日本一社と書かれています。※「め」は口へんに羊です。「機種依存文字」なのでブログに載せられないそうです。神社誌には式外の古社。貞観14年(872)12月29日阿波国正六位上伊比良め神社に従五位下を授けた旨が「三代実録」に見えていると書かれています。私はまだこの神社には行ったことがありません。眉山中腹に建立されている神武像。子供の頃、何でこんな所にあるのだろう?と疑問に思っていました。意味があるのですよね。神武像の東側には明治天皇像もっともっと・・・勉強せねば!・・・です。
2011.02.24
八万村史に・・・・太古、先住民族(神代以前)の巨石崇拝にして当時巨巌を以て御神体とせしが後に至り、社を建てて祀る。之れ黒岩神社の起源ならんと。フムフム・・・な~に~?神代以前だと~?ってことで・・・・行ってみたくなった黒岩神社。鎮座地は徳島市八万町福万山51番地御祭神は大山津見命と猿田比古命駐車場はないです。カルロスさん!ここに1台だけなら駐車できます。多分、ここにとめても許していただけるだろうと思います。タブン・・・黒岩神社、最初の鳥居。さあ・・・いよいよ登るよーゼエゼエ・・・ってまだ登ってないし・・・(笑)この一の鳥居の左横に凹っとなったところが・・・・腕の良いカメラマンが撮った写真でわかるでしょうか?凹っと・・・なっているのが・・・天照大神の第一王子の祠跡だと思うのですが・・・?「えーっ!何でないん?ショックー!」などと・・・言いながら・・・山登り開始です。二の鳥居です。この山はとにかく石が多いですよ。そして所々に動物君たちの穴掘り後が・・約20分。黒岩神社に到着です。本殿です。写真を撮ろうとして、落ちそうになりましたよ。これから行かれる予定の方、気をつけて下さいね!(って・・・大丈夫ですよねー)大切にされています。名前を記帳してきました。毎月1回、80才代の方が参拝に来られてました。(覗き見したのかい?(笑)由緒略記もいただきましたので、少し書いておきます。黒岩神社縁起に曰く《宝永年間約298年前地方民衆の伊勢参宮せし記念として当時の先達の発議により守護神として愛媛県大三島より勧請せりと》その後天保年間(約172年前)常覚院奉仕を為し現在もって県内外の崇敬者頗る多しってことで・・・私の期待する神代以前のことは何1つわからなかったので・・・困った時のぐーたらさん!ってことで、何卒お願い申し上げます(笑)先住民族のことをネットで調べていたら、徳島新聞の民話に「古代の阿波人」というのがあったので、書いておきます。紀元前の日本には何種類かの民族が住んどった。関東、東北にはアイヌ族、山陰には出雲族、西国には隼人、倭人、日本中心部の天孫族、海岸には漁業に従う海部が住んどった。古代の阿波にもアイヌ、天孫族、海部、出雲族がおったようだ。イザナギ、イザナミの国産み神話によると、阿波国を大宜都比売といい、忌部が国を拓いた。アイヌも奈良時代まで住んどったようで、出土品や言葉にもうかがえる。また、佐伯部もおった。これは日本武尊が蝦夷を討ったときの捕虜を伊勢神宮へ献上したが、礼もわきまえず、やかましかったんで神宮も困って大和三輪神社へやったそうな。乱暴が止まらなんで、三輪神社もいらんちゅうて、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波へばらまいたそうな。佐伯部はもともと阿波の先住民じゃったが、後から入ってきた支配者によって棄てられたちゅう説もある。お~しまい!ってことで・・・・私のブログもお~しまい。後はぐーたらさん、よろしくお願いいたしまする~~P.S ぐーたら様八万村史 275ページの貴船神社読みましたよ。無知ながらも「何で?」と思ったのでメモしています。
2011.02.15
神ノ前と申所一、三社 若宮 黒本明神 弁財天上御供田と申伝へ候田地 市郎右衛門と申者所持仕に附 今以神事之節彼者より法楽地蔵院へ相願御供料今以指上申候一、上三社へ相付まと免又は神子免と申田地今に申へ御座候(阿波志案文)上の写真は若宮と黒本明神です。神ノ脇というところに鎮座されています。場所は下記のとおりです。少し小さくて見にくいですが・・・・初めて地図を載せることができました。PAPAさんに教えて頂いた、何とかtoolを使いました。ぐーたらさんがYAHOO地図なら載せられそうと教えて下さったのですが、私ではやり方がわかりませんでした。ぐーたらさん、せっかく教えていただいたのに、ごめんなさい。左上の神ノ前という所の青印のところに鎮座。ちょうど方上集会所のお隣にひっそりと・・・10メートルほど離れたところに弁財天が・・・山の斜面に・・・崩れ落ちそう・・・全体的にはこんな感じです。三社の祠は神ノ前山の麓に鎮座。若宮の祭神は誉田別命(応神天皇)であろう・・・と書かれています。この祠が方上八幡神社の前身であると言われているそうですが、大谷町には別の伝説があるとか・・・黒本明神の祭神は不明。神ノ前、神脇の地名があり、祭田(〇〇免と称す)があったということは、室町時代以前には立派な神社であったのだろうと・・・方上地区の歴史より。神ノ前山の上には古墳時代の石棺があって、鎧が出土したそうです。東海寺三界万霊碑の板石がこの時の石棺のふた石であったと言われているそうですが、東海寺のご住職は「それは聞いたことがない」とおっしゃっていました。これが板碑です。どうでしょうか・・・?石棺のふたに見えるでしょうか・・・・方上地区には「神」のついている地名があったのですね。「方上地区の歴史」という本を読むまで、知りませんでした。上の地図で勝占神社にも〇印を入れましたが、この山は昔「神路山」と言われていたそうです。「神」「神」「神」ですよー。あやしいーーーー♪(なみがしらさんの「何もあやしくない。あるからあるのだ。」という声が聞こえてきそうです(笑))最後に方上八幡神社の写真です。きれいな神社でした。大切にされているのがよくわかりました。キャー!逆光!すみませ~ん!ご神木です。古文書などの文献を活用し、ご自分の考えを論理的にまとめられている、ぐーたらさんやのらねこさん。お2人のようには、なかなかなれません。早くお2人のようになれるように、頑張りたいと思います。
2011.02.11
ぐーたらさんやのらねこさんのように、ブログにグーグル地図を貼って、カッコイイブログに・・・・と思って、色々試してみましたが、楽天ブログには張り付けられないのですね。残念です!さて、渋野町伊予王子に鎮座している伊予王子神社です。地元の人は、「伊予王子」を「いよじ」と言っています。徳島県神社誌を見ても、この神社は載っていなかったです。渋野町八幡神社の飛地境内社として載っていました。祭神は多分、伊予皇子?(第7代孝霊天皇の第3皇子)伊予皇子は「越智姓」の祖と言われているのですね。(越智:古代豪族の1つ)この神社は「阿波国勝浦郡村誌」には「河の上神社」と記録されているそうです。河ノ上・・・・・川之江・・・?渋野の丸山古墳は、韓背足尼(からせのすくね)の古墳だろうと言われているそうですが、韓背足尼は第5代孝昭天皇の9世孫。佐那河内には孝昭天皇を祀った御間都比古神社・・・伊予皇子は孝昭天皇のひ孫・・・・なんか・・・頭の中がモヤモヤ・・・疑問に思ったことを書き連ねただけで、何の結論もだせません。やっぱりぐーたらさんやのらねこさんのようにはいきません。でもこの地って何か気になります。伊予皇子と関係があるのか、それとも中世に伊予からたくさん移り住んできて、その人たちが伊予皇子をお祀りしていた神社なのか・・・どうなんでしょう!???????自分なりの考えは出せず・・・です。ごめんなさい!興味のある方は是非行ってみて下さい。竹林の中にひっそりと鎮座されています。場所は相変わらず説明できないのですけどね・・・(笑)
2011.02.07
先週の日曜日に続き、今日も旦那が仕事だったので、神社巡りはせずに、文化の森にある図書館へ行ってきました。ぐーたらさんに言われた通り、阿府志や阿波誌で初臼不動尊のことを調べよう・・・と意気揚々と出かけましたが・・・・・ぐーたらさ~ん、私にはわかりません(笑)漢文が嫌・・・って・・・・こんな泣きごとを言っていたのでは、古代史なんか勉強できませんね(笑)こんな状況なので、無理をせず(苦笑)今の自分のレベルに合わせて、現代文で書かれている本から初臼さんのご紹介をしたいと思います。神山の名勝旧跡より由来:年代は定かではないが、鎌倉時代、平家の残党がこの山に立てこもっているのを、源氏方が神領青井夫の隠れ岩より攻め、平家方は悉く討ち死にしたという、古戦場跡であると言い伝えられている。神山の歴史探訪より隠れ岩と初臼山・・・・神領・青井夫の通称中山の頂上の東端に、秋葉神社の祠がある。この神社より峯伝いに約200メートル程行くと、「隠れ岩」がある。初臼山に平家の残党がこもり、源氏はこの隠れ岩から攻め、平家方の武士は悉く討ち死にして初臼山に埋められたといわれている。その後、死者を埋めたところに供養の為、不動明王を祀ったと伝えられている。と・・・・上記のとおり、源平の話ばかりです。残念!でもこの初臼さんの近くに立岩神社があるのが気になります。(根拠はありませんが・・・汗っ)立岩神社の山の麓の青井夫は、タタラ踏み音頭が現在も残っているところ。そして昔、元山の村人が蛇を討ち、血の海になったといわれている蛇渕が今も残っているとのこと・・・・鉄関係はスサノオ命ですよね♪ここに何かあるから平家が籠ったのかな~なんて・・・勝手に想像を膨らませております(笑)私で調べられたのはここまでです。ただ読んだだけです(苦笑)ぐーたらさん、ごめんなさい!あと、初臼不動院の霊験あらかたであることを書いたものがあったので、転載しておきます。鬼籠野村誌から・・・です。初臼不動院神山町鬼籠野字西分399由来と信仰この不動院の核となる塚が、いつ頃つくられたものなのか、祭神は誰なのか、憶測はいろいろされているが、定かではない。しかし、霊験あらかたで、祈念すれば何事も叶わないものはないと、昔から言い伝えられてきた。そうした中、昭和5年に郷土史に興味を持った農業学校在学中の少年が、初臼山の霊験あらかたさと由来の項に接し、ただちに探訪した。雑木林の中から塚を発見した彼は、間もなく近所の友人を誘って塚へ行った。少年たちは病弱であったり病気で悩んでいたので、子供心に古老の話を思い出し、真心込めて拝み病気の平癒を願った。すると2・3日で御利益があって病気が治った。少年は喜び家族に報告し、家族は塚の霊験あらかたさを事実と知り驚いた。このことが口伝えで四方に広がり、願いを叶えるために、祈りに来る人が引きも切らずの状態になったという。なみがしらさんが15年くらい前に訪問された時は、スサノオの爪を連想させるような小さな石碑がたくさんあったそうです。スサノオを封じ込めるためか!?
2011.01.16
手力男は佐那の県に坐す。古事記に出てくる神様では、手力男命が好みかな~?なんて・・・軽いことを言っておりますが・・・月曜日にお忙しいお二人(なみがしらさんと朱鷺さん)にお願いして、渋野の経塚、佐那河内の天石戸別神社・御間都比古神社、神山の初臼不動尊へ案内していただきました。(初臼不動尊でのお話は朱鷺さんのブログに詳しく書かれていますのでご訪問下さい)阿波の古代史を研究されている方には超ポピュラーな天石戸別神社。奥の院。。。写真にはきれいに写っていませんが、こんもりした山の上に祠が2つ・・・明らかに古墳ですよね。手力男命の子孫が眠っているのでしょうか・・・そしてこの奥の院のすぐ横は広い空き地・・・「ここは井開さんが住んでいたところ」となみがしらさん。「横に段々畑の名残があるだろ?」と・・・この地をずっと守ってきたのですね。親から子へ・・・何代もの繰り返し・・・・しばし感動。。。。。。気は優しくて力持ち。手力男命に対する私の勝手なイメージ!最近はこんな男の子少なくなってきたかな?んー・・・眠くなってきました・・・支離滅裂のまま、ブログ終了です(笑)夢で手力男命に会ってきます。さて。。。私はどんな役回りで登場するかな?(笑)おやすみなさい!
2011.01.11
みなさま・・・お久しぶりでございます(笑)この3日ほど忙しかったわけではなく・・・疲れていたわけでもないのに・・・23時を過ぎるともの凄い眠気に襲われ・・・パソコンの前に座ると眠ってしまっていました(笑)さてさて・・・11月最後の日曜日に中津峰に行ってきましたーー♪中津峰の中腹には新四国曼荼羅の81番札所、如意輪寺があります。この写真は如意輪寺から見た徳島市内・・・この日は午後から少々曇り気味・・・景色はかすんでよく見えませんが、紅葉は美しかったです!中津峰版「天岩戸」ここは潜り抜けることができます。中津峰は標高773m山頂に鎮座する天津神社を目指し、如意輪寺から登り始めましたが・・・これがなかなか・・・「ゼエゼエ・・・ハアハア」息切れしながらの登山となりました(笑)山頂まで私の足で1時間ちょっと!タブン、運動をして鍛えている人は40分くらいで登れるでしょう!あーーー運動不足だーーー石がきの暴風壁に守られるように鎮座している天津神社。御祭神:天之御中主神日峰山、津峰山とともに阿波三峰と称され、海の守護神として信仰されているのだとか・・・三山に灯す火は暗夜でも海に望まれ、その相互の関係から自分の位置を知ると云われるそうです。如意輪寺で生きている杉です!やすらぎの杉です。懐の深い杉です。この杉・・・大好きです。「観音杉」杉の中に観音様がいらっしゃいました。
2010.12.01
今日は寒かったですね~体に脂肪はあっても寒いものは寒いです(笑)こんな日はやっぱりお鍋!今日は餃子鍋にしました。餃子は30個くらい作りました。餃子からおだしが出て美味しいですね~久しぶりに2人でビールも頂きました。さて今日はむか~し昔、沖洲にいたと言われる「番屋の八兵衛」という狸君をご紹介したいと思います。私の住んでいるすぐ近くに八兵衛君の祠はあります。お姿はこ~んなかわいいのです。「ドロン」今にも化けそうな八兵衛君は、人間に愛された、よい狸君であったみたいです。エピソード1沖洲といえば海と松原。その松原の中に「灯明松」というのがあったそうな。この灯明松のてっぺんに明かりがともることがちょいちょいあった。人間は誰もそんなことをしないので、「ああ、また八兵衛がやっとる」と、近所の人たちが言っていたそうな。この心やさしき八兵衛君は、いたずらでこんなことをしているのではないそうな。夜、新町川へ入ってくる船の目標になるためにやっていたのだとか・・・エピソード2また、津田山の見晴らしのよい所に灯籠があって、夜になると、明かりがついていた。沖から帰ってくる船の目印ということで、この山を「とん山」と呼んでいた。(灯籠山が短くなってとん山)ところが、急に天気が悪くなり、灯籠山の明かりが見えなくなることがあるそうな。早く帰ろうと思うのだが、方角がわからない。困っていると津田山に何十もの狸火が出て、それが右へ左へにぎやかに動いてくれる。「ああよかった。助かった。」と、津田港へ帰ってきた漁師が何人もあったという。この津田山のことは、番屋の八兵衛君の仕業かどうかわからないが、やはり人助けに灯明松の上で火をたいたのだから、八兵衛君はえらい狸ということじゃ。津田山の狸火も、きっと八兵衛君の仕業じゃろ。エピソード3また、ロマン派でもある八兵衛君。くるりととんぼ返りで、パッと菜の花畑。もう1つくるりで、パッとレンゲ畑。砂原でも葦原でも、それは美しい花畑を見せてくれたそうな。驚いたことに、うっとりするような、花々の香りまでしたというから・・・八兵衛君は本当によい狸じゃった。おしまい。
2010.11.16
ほとんど、海であったであろう沖洲・・・どのようにして人々が暮らしていたのでしょうか?今は亡きお義父さんに聞いたところでは、「昔は石を投げて、飛んだところまで土地を貰いよった」と、言っていたのですが・・・少しほら吹き癖のあったお義父さん?(ごめん!お義父さん)どこまでが本当なのか(笑)でも、昔の沖洲は今では考えられないほど、人家もまばらで寂しいところだったようです。さて、時は変わり慶長?年、富田浦の平助さんという人が開拓を目的として移住してきたといわれているが、残念なことに史料に乏しく詳しいことはわからないそうです。ムムッ!残念!なので・・・沖洲浦の草分け的存在になるのは、和歌山から16世帯の家来とともに沖洲の元浦というところに移り住んだ太田太郎次郎という方だそうです。太郎さんなのか次郎さんなのか・・・2人の人が合体しているような名前です。この太郎次郎さんは、天正年間に羽柴秀吉の軍勢に水攻めにされ敗れた紀州太田城の城主さんだったそうです。後に蜂須賀家正が僧籍に入り、高野山に隠遁した時、身の周りのお世話をしたそうで、そのお礼として茅原だった沖洲一帯を貰ったのだそうです。その子孫の方は9代まで沖洲に住まわれていたそうですが、今はお墓があるだけなのだとか・・・・沖洲の昔話をよくお義父さんやお義母さんから聞いていたのですが、なぜか沖洲出身ではないお義母さんのほうが色々と知っていました。今や、沖洲の生き字引的存在になっているお義母さんです。貴重な存在です。しっかり聞いて、引き継いでいきたいと思いますよー(笑)
2010.11.09
吉野川市山川町岩戸に鎮座している岩戸神社は、房総半島に鎮座している「安房神社」の元社と考えられているそうです。この神社のご祭神は、天石戸別命(子)、天太玉命(親)。境内の南側には、数個の巨石が並んでいますが、西端の巨石・・・おごけが御神体となっているそうです。(多分、この写真の巨石は違うかも?いつものようにいい加減ですみません)御神体である巨石の上には、直径約30センチの穴が穿たれ、その中の水は大干ばつに枯れることがなく「延命水」と呼ばれ、皮膚にその水をつけると皮膚病が治ると伝えられているそうです。また、土御門上皇がこのご神水を飲んで病を癒されたので、その感謝の意を込めて延命水と名付けたともあるそうです。(天日鷲宮縁起)これは麻さらしの池(おざらしの池)神代忌部の大御神麻を晒した聖なる場所だそうです。最後にいつものように巨樹です。悲しいことに木の名前がわかりません。図鑑を買って勉強しなくては・・・・!!ここを訪れたのは、夕方・・・葉っぱが囁くように風に揺れていました。この木は何年前から生きているのでしょうか?※参考:日本の建国と阿波忌部 著者:林博章氏
2010.11.04
白人神社です!美馬市穴吹町口山字宮内に鎮座。稲田家の守護神。戦中・戦後は戦いの神様として知られていたそうです。訪れてみると、穏やかな佇まいの神社ですが、昔は鎧の音、馬のいななきが聞こえるような勇ましい神社だったのでしょうね。稲田家といえば庚午事変がすぐに浮かんできます。版籍奉還で蜂須賀さんは士族に、しかし稲田家は士族にしてもらえなかった。これに不満を持った稲田家家臣たちは新政府に、「稲田家は尾張からの蜂須賀の客分であり、勤王運動に洲本藩として参加した」ことなどを訴えたそうです。稲田家の家臣の方たちの気持ちからすれば、「何で士族になれないのか?」って思うでしょう。。。勤王の志士として働いたのに、幕府寄りだった蜂須賀さんの方が士族なのだから・・・稲田家の動きを知った阿波藩の人たちは、稲田家をうつために160人もの人が脇町を目指したそうです。それを知った阿波藩の下条勘兵衛・牛田九郎が説得に向かったが、勇みきった160人が聞き入れなかったため、2人は切腹。それでも、一行は鎮まらず、蜂須賀が取潰されると聞いてようやく思いとどまったそうです。一方、洲本へ向かった一行は稲田家襲撃を実行。首謀者10人に斬罪のところを武士の情けで切腹。これが日本の公式儀法による最後の切腹となったそうです。この木は、この騒動を葉っぱで感じ・・・枝で感じ・・・風からも感じたことでしょう。開拓という名目で北へ去って行った稲田家の人たちのことを根っこの奥の方で、記憶しているかもしれません。
2010.10.31
白人神社の境内に捨てられていた瓦です。武田の紋章と忌部の鷲の紋章を撮ったつもりでしたが、何を撮ったのでしょうか(笑)せっかくここまで来たのに、最後の詰めがいつも甘い私です。連続ドラマの最終回をいつも見逃してしまうのですが、それとよく似ています(笑)さて、何で白人神社に武田氏の紋章?武田氏は遠く離れた「甲斐の国」の人なのに・・・・武田氏は錬金技術導入のため、鉱山の管理のため脇城の城主として迎えられたそうです。脇城は、1532年に岩倉城の三好康永が、岩倉城の脇の城として、三好長慶のために築城。その後、城主として信玄の義母弟である武田上野介信顕(のぶあき)が迎えられました。信顕は、長宗我部勢が中富川合戦に向かう時に、脇城から讃岐に逃れたが、白鳥で追捕され斬首されたのだそうです。その墓碑は東かがわ市大内町の東昭寺にあるそうです。戦国とはいえ・・・武将たちの哀しい最期を知るたびに心傷みます。何気なく捨てられているものにも歴史あり!見ようと思ってみれば、見えてくる。意識って大切ですね。※三好康永・・・長慶のおじさん。
2010.10.26
天気が良ければ高越山に登る予定でしたが、残念ながら天気予報は曇りのち雨。晴れた日には瀬戸内海までも見渡せるおこーっつあん。どうせ行くなら景色を拝まねば・・・・ということで、予定を変更して穴吹町の忌部関係の神社を巡ることにしました。穴吹町口山に鎮座している白人神社の前を流れている穴吹川です。ここは「白人の瀬」夏になると家族連れや若者でにぎわうこの川も今はせせらぎの音のみ。静かさが余計に募り、穴吹川は寂しがっているのか・・・それとも日常に戻ったことでホッとしているのか・・・残った橋げたに、生命力旺盛な植物たち。たくさんの人や車が往来したであろうこの橋も今は植物の楽園となり、穴吹川の番人のようです。森を守ることで、川を守り、川を守ることで、海を守る。この山もこの川も、いつまでも清らかでありますように・・・・祈ります。アーメン・・・・でなくて(笑)南無・・・・でなくて(笑)かしこみ、かしこみ・・・・です(笑)※この記事は10月24日の記事です。コメントを入れて下さっていた朱鷺さん、ごめんなさい。私の名前で登録し直しましたので、今までの分が全部消えてしまいました。
2010.10.25
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