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―作文―


大人に好まれるテーマというのがある。
というのは、小2あたりでぼんやり気づいたことだ。

感想を書け、というのがうまくできない。「おもしろかった」だけになってしまう。もっと豊かに表現しろといわれ、いくら考えても「とてもおもしろかった」しかでてこない。
「かなしかった」「はらがたった」ということを書いたらいいのか、と気づいたのだが、でも、それだけを書いたら「文句ばかり」と文句を言われるのだ。
つまり、そのあと「うれしかった」「よかった」に結びつく変化があって、完成されるのだ。それで「おもしろかった」に至る前に、無理矢理対比をいれてみるのだが、これもあまりよろしくない。表現が「つまらなかった」となるからだ。

大人から良いと評価される作文を見ると、ひとつのパターンがあることに気づく。
「困難な事態への直面→努力と実践→達成感」
逆上がりとか、本人や親の病気とか、人との出会いと別れとか、あるいは昆虫や植物を育てた話とか、よくありそうな体験によって「心の成長」があるストーリーが求められるのだ。
このストーリーに合致する事態には、めったに遭遇しなかった。
困難があったとしても、解決された瞬間にその過程の感情を忘れてしまうか、あるいは解決を求めず放置してしまうので、達成感をかみしめるということがなかった。
たぶん、こういうところが「カンジュセイにとぼしい現代っ子」なんだろうな、と思ったりもした。

両親は、「子供の心を知ろう」というような、大人向けの啓発的な読み物を
好まない人だったので、学校で「ぜひ読んでもらうように」ともらってきても「いらない」という人だった。
こういうのが無関心な親といわれるものかもしれんと不安になって、全文はわからないのだが、自分では読んでみたりもした。
「大人は子供の心がわからない。大人になると子供の心を忘れてしまう」
「子供は大人をよくみていて、大人のことを実によく知っている」
「子供の成長を子供とともに喜ぼう」
というような主旨は理解できた。
単純なのは大人のほうで、子供のほうが複雑な思考をもっている、というように理解した。
いろいろな言い方をするかもしれないが、大人が子供に望むことはたしかに単純である。
子供を通じて、手っ取り早く反省や感動をしたい、ということだ。

小3のとき、1匹の昆虫を一人称にしてその成長を描いた創作文で、地域では比較的大きい賞に入った。
しかし、「子供の作文」という一つの枠組みでのレースでは、それ以上の段階にはあがれなかった。技巧的にまとまりのある文ではあっても、体験に基づいたものではないからだ。
上位に選ばれていたのは、どれも、世の中の多くの人は一生遭遇することがないような困難を、解消されないまま一生つきあっていく覚悟を決めた、という強烈な体験をしている人の話だった。

高学年になると、テーマは「戦争」「環境」など、社会的な問題に絡めたものばかりになる。
子供という社会を動かせない立場だから社会の矛盾に対処できないのだ、という「やるせない怒り」をあらわし、未来を担う自分は、「思いやり」や「いたわり」をもって、よりよい社会を作りたいとしめくくるのだ。

こんなのは、子供の立場・視点を利用しただけの、大人の作文である。
「自分は何もできない弱者」という甘えは、大人になってしまえば公言することができなくなるはずである。

涙も怒りも必要のない文章だったら、書けるんじゃないか、と思った。

記憶が曖昧なずいぶん昔の過去問だが、当時、大阪大学の小論文は、個性的な問題が多かった。
ある年度のは、テーブルの上にガラスの容器にはいっている卵が置いてある、というような設定が文字で簡単に説明してあって、「これを描写せよ」というものだった。
イメージは、やたら白くて妙に硬質なものばかり、字数制限が400字か600字か非常に短く、「擬音語や擬態語を用いないこと」とあった。
16、7の頭だったので、物質の様態をあらわすだけの文を、この制約で書くことが難しかった。
擬音語や擬態語がはいると、素人っぽい幼稚な印象の文になる。
対照的な素材がないところで、固さ・まぶしさといった特徴的な形容を際立たせることは難しい。

感情表現をいっさいかかず、モノを順番に説明していく作業は気が楽である。
ならばもっと書けばいいのだが、長いものになると、「論理」の組み立てが必要になり、それがまたものすごく下手なので、なかなか量産できない。




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