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2011年01月02日
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カテゴリ: 顕正会
鎌倉2
【鎌倉における御化導を偲び奉る】

上掲の写真は空から見た鎌倉の全景である。
 鎌倉は中世に幕府が置かれた古都で、三浦半島の西側付け根に位置する。
東・北・西の三方が緑深い山々に囲まれ、南には青一色の相模湾が広がり、かなたには霊峰・富士も見える。

【大聖人の主戦場】

 この鎌倉を政都とした相模の国は、大聖人一代御化導における生戦場であった。
 大聖人は立宗ののち、直ちに房総半島の西海岸より船で三浦半島に渡り鎌倉へ向われた。そして名越の松葉ヶ谷に小さな庵室を結ばれた。以来、竜の口大法難までの十八年間、この地で、身命を捨てて弘通あそばされたのである。
 すなわち、大聖人が正喜元年の大地震をごらんになったのもこの鎌倉、また松葉ヶ谷の草庵が襲撃されたのもこの鎌倉、諸宗に公場対決を迫られたのも、良観と祈雨の勝負を決せられたのも、この地であった。
 そしてついに大型人は竜の□において、久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏として成道を遂げ給うたのである。四条抄には
 「娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜の口に、日蓮が命をとどめをく・・・」と仰せられている。

鎌倉1

【竜の口の大法難】


 左の図は文永八年九月十二日、大聖人が武蔵守(佐渡守護職の北茶宣時)の邸から、頸の座に至る経路(赤線)を、同抄に基づいて推定したものである。
 同抄によれば、十二日の深夜(午前零時ごろ)、大聖人は武蔵守邸を出発され、刑場へと向われている。

【八幡大菩薩をご叱責】

 ご一行が若宮小路にさしかかったとき、大聖人は馬を止めさせた。警護の兵士たちは"なにごと"と騒いだが「各々さわがさせ給うな、別の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」と仰せられ、馬から降り八幡宮に向い、大高声で仰せられた。
「いかに八幡大菩薩はまことの神か。……日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ
起請を用いぬ神にて候いけれと、さしきりで教主釈尊に申し上げ候わんずるぞ。いたしとおぽさば、いそぎいそぎ御計いあるべし」と。

【四条殿を召し出す】

 再び馬に乗られた大聖人は、由比ヶ浜に出たところで、兵士たちに「しばし殿ばら、これに告ぐべき人あり」とて、熊王という少年を四条金吾殿のもとに遣わされた。
 急報に驚愕した四条殿は裸足のまま駆けつけ、馬の轡(くつわ)を取って竜の口までお供申し上げた。
 大聖人様は四条殿の肩越しに、諄々と仰せられた。
「今夜頸切られへまかるなり。この数年が間願いつる事これなり……」と。
 四条殿は顔も上げ得ず、ただ泣きながら馬の轡をとりた。
 頸の座における大聖人の師子王のごとき御振舞いについて、浅井先生は「下種本仏成道御書」講義で、次のように述べられている。

 四条殿はこのとき重大な決意をしていた。"もし大聖人様に万一のことあらば、直ちに追い腹切って御供申し上げん"と。
 四条殿のこの命かけての大忠誠を、大聖人様は後々までお誉めになっておられる。四条殿にこの大信心あればこそ、御本仏の成道に立ち会いが許されたのである。
『只今なり』と泣き伏した四条殿に大聖人様は『不覚のとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし。いかに約束をば違へらるるぞ』と仰せられた。
 四条殿は弟子であり凡夫だから泣いた。しかし大聖人様は仏様なるゆえ悦び給うたのである。
 大聖人様は静かに頸の座に着かれた。時刻はちょうど午前三時ごろ、陰陽中間の丑寅の刻である。

 その光りがいかに強烈であったか。太刀取りは眼くらんでその場に倒れ伏した。またその衝撃がいかに凄まじかったか。刀はいくつにも折れてしまった。
 この光景を見て、取り囲んでいた兵士たちは恐怖のあまり、一斉に百メートルあまりも逃げ出し、あるいは馬から下りてかしこまり、あるいは馬上にうずくまってしまった。
 その中に大聖人ただ御一人、大音声で叫ばれた。
『いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや』と。
 だが、誰一人として近寄る者とてない。さらに大聖人は叫ばれた。
 『頸切るべくは急ぎ切るべし。夜明けなば見苦しかりなん』と。
 しかし返事をする者もいない。まさに全員が腰をぬかし、へたり込んでしまったのである。
 国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切らんとして切れず、ついに御本仏の御威徳の前にひれ伏してしまったのである。
 このような不思議の光景が、地球上において、人類の歴史において、果してあったであろうか。これこそ、宇宙法界を我が身と開き給うた下種御本仏の成道のお姿であられる。
 まさしく"仏様とはいかなるものか"を、理屈抜きに一切衆生にお示し下されたのが、この竜の口の大現証であった」と。
 まことに大聖人様の、鎌倉における身命も惜しみ給わぬ御化導を偲び奉れば、ただ拝跪合掌するのみである。





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最終更新日  2011年01月02日 12時37分05秒
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