老師の言葉 0
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父親が入院したと聞いた。前立腺がんを抱えて12年。ひょっとしたらがんが暴れ出したか、転移でもしたのかと思った。そうではなかった。たぶん、薬の影響だと思うけれども、腸の動きが悪くなり、便秘が続き苦しくなって病院へ駆け込んだようだ。たかが便秘とバカにできない。あまりひどいと、腸に穴が開いたり、破裂することもあると言う。ぎりぎりのところだったらしい。強い下剤で便を排出し、絶食をして腸内の検査をしたようだ。腸には異常はなかったが、強い薬と絶食で体力はガタ落ち。やっと歩けるという状態だと言う。あんなに働き者で人が好きだった人が、思うように動けなくなるかもしれない。さみしいだろうと思う。つらいだろう。母親、妹、弟が、交代で病院へ行き、面倒を見てくれている。離れている身としては何もできなくてもどかしい。生命力のある父親だからこのままということはないとは思うが。ぼくが61歳、父親が87歳。こういう状況は当たり前と言えば当たり前だが、ちょっと切ないね。ぼくも老年の域に入っているわけだから、きちんと老いを受け止め、いい年の取り方をしたいね。弱ってしまった父とのかかわりから、いろんなことを学ばせてもらうことになると思う。近いうちに会いに行こう。(写真)何年前だったか一所懸命に桃作りをしてた。
2017年10月18日
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実家に電話をした。母親が、「お前に電話しようと思っとたんや」と、声をはずませる。「実はな、今日、病院の検査に行ってな」父親は、10年も前から、前立腺がんを抱えている。放射線とホルモン療法で小さくして、そのまま落ち着いている。しかし、1年ほど前からマーカーが上がってきたようで、病院からは抗がん剤が処方された。まじめな父親は、主治医の言うことはよく聞く。きちんと薬を飲んでいた。マーカーは下がったけれども、体調はどんどんと悪くなっていった。薬のせいかどうか、血圧が安定しなくなってきた。そして、血圧が下がってしまうのか、食事中とか休んでいるときに、突然、意識を失って倒れてしまうことが何度かあった。そうなると、さすがに父親も考えたみたいだ。薬を飲むのをやめた。2か月ほどがたった。昨日、検査に行った。老夫婦は、どんな結果が出るかとびくびくしていたらしい。薬を飲まなかったので、マーカーはドカーンとあがり、転移もしているのではと思ったようだ。ところが、ところが。マーカーは下がっていた。父親も、体調が良くなっていることを感じていたみたいだ。でも、薬を飲まないことへの不安が大きかった。30人ほど、がんの体験者にお話を聞いたが、抗がん剤の治療を受けた人は、みなさん「きつかった」とおっしゃっている。2人だけ、平気だった人がいるが、この人たちの体験もとても参考になるので、また、改めて紹介したい。抗がん剤は使い方が難しいのだと思う。がんに勢いがあるときには、いったん勢いを止めるために使うのは有効なようだ。しかし、父親のがんようにおとなしいタイプのものは、結局、だらだらといつまでも使うことになるので、徐々に体力が低下する。諸刃の剣。肉を切らせて骨を切る。そういう治療法だということを認識して、情報を集め、よく考えて、それなりに覚悟を持ってのぞまないといけないのだろうと思う。父も母も、薬を飲まなくてもマーカーが下がった経験は、とても大きかったようだ。胸のつっかえが取れた感じだ。
2017年06月02日
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親父が前立腺がんと診断されたのは10年前のこと。そのときで77歳だったから、十分に高齢で、そろそろそういう時期かと、ぼくも覚悟を決めた。一連の検査をしたあと、結果を聞くのに、来てくれないかというので、帰郷した。診察室で、両親と一緒に医者の話を聞いた。そしたら、まだ初期で、手術をすればいいのだけれども、親父の場合、心臓に少し問題があったので、手術はやめて、放射線とホルモン治療をするという説明を受けた。初期ということで、ほっと一息だ。このとき、母親が、医者にあれこれと質問する。心配性の母は、すぐにでも父親が死んでしまうような恐怖にかられたみたいだ。「お風呂はどうですやろ」「仕事はしてもええんやろか」子どもがかぜをひいたときのような質問をしている。そんなとき、父親が言った。「うるさいな。俺は急にがんになったんと違う。半年前もがんはあったんや。今までと同じにやればええんや」これを聞いて、ぼくは大丈夫だと思った。がんと宣告されるとがんになる。昨日まで元気にしていた人が、病院で「がんです」と言われると、とたんにがん患者になって、元気がなくなってしまう。昨日と今日と、体はそれほど変わっているわけではない。でも、気持ちひとつで、元気になったり、病人になったりする。ここまで考えて医療をしないと、本当の病気治療はできない。あれから10年、父親は、定期的に診察をしながら、元気にしている。ただ、気持ちは、あのころより弱くなっているかな。マーカーが上がったからと、きつい抗がん剤を処方されて、それを飲んで体調を崩したり。ここまで生きたんや!好きにせえ!と、薬を捨ててしまうときが、もうすぐくると思う。さてさて、親父は、どんな人生の幕引きを考えているのか。長生きするのはめでたいことだけど、ただ生きることだけに執着するのではなく、ある年齢になれば、ラストシーンを意識しながら生きると、より充実した高齢者生活が送れるはずだ。
2016年05月28日
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父親は、今年で86歳になる。元気でいるが、10年ほど前に前立腺がんになって、放射線とホルモン療法を受け、高価な冬虫夏草も飲んで、完治とはいかないが、コントロールされた状態で、定期的に病院に検査に行っている。このごろ、数値が少しずつ上がっていると言う。それでも、そんなに高い数値ということもない。もう86なのだから、すべてが正常値におさまっているなんてことはないのが普通。父は、前立腺がんのマーカーであるPSAだけが、ちょいと高めで、ほかは、血圧もコレステロールも、すべて正常値なのだから、その方が驚きだ。だけど、健康な人は、ひとつ不健康なところを見つけると、そこが気になって仕方がなくなる。何とか正常な数値にしようと、悪あがきをして、逆に、良くない方向に向かったりする。父も、悪いところが気になって仕方がないようだ。挫折もなく、完璧に近い生き方をしてきた人が、ちょっとしたつまづきで、ガラガラと奈落の底へ落ちてしまうというのは、よく聞く話だ。息子としては、父親には、少しでも長生きしてほしいと思う。だから、知り合いの医師に頼んで、冬虫夏草を送ってもらった。同時に、心の片隅でいいから、「死」を意識して生きてほしいと思う。そういうこともあって、正月には、帯津良一先生の「ドクター帯津の健康暦365+1」(海竜社)をプレゼントした。とても読みやすい本なので、父も少しずつ読んでいるようだ。ぼくの誕生日 3月6日の言葉「腹囲1メートル。メタボ? そんなの余計なお世話だ!」腹囲を気にして食べたいものも食べず、お酒もセーブして生きるなんてまっぴら。検査数値を気にして生きるなんて窮屈。そんな帯津先生の流儀に、父も感じることがあったはず。幸せに生きるよりも、幸せに死ぬ方が難しいのかもしれない。これからの、父の課題であり、母の課題であり、ぼくの課題でもある。
2016年01月14日
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たぶん、あの世では、この世の常識は通用しないだろう。昨日のお話会で過去世の話が出た。ぼくは、過去世はあると考えている。しかし、魂が輪廻するとして、その魂は、ぼくたちの肉体のように、固有化とは違うようにも思う。つまり、ぼくという人間がいて、そこに魂があるわけだが、ぼくが死んだあと、その魂が、そのまま次の肉体をまとうというのは、ないのかもしれない。ぼくの魂は、いったん、あの世へ行くわけだが、魂は、あの世で再構成されるのではないだろうか。と言うのは、過去世がわかるという人と何人もあって、ぼくの過去世を見てもらったが、見る人によって、言うことが違うからだ。違うから、そんなものはないとか、見る人がインチキだということも言えるけれども、ぼくは、どうもそうではないような気がする。魂というのは、非常に複雑に入り組んでいて、見る人によって、アクセスする場所が違うのではないか。群盲、ゾウをなでるということわざがあるけれども、悪い意味ではなく、ある人は、鼻を見て、その人の過去世を語り、また別の人は、耳を見て語っている。結局、肉体をもって、この世に生きている以上、そこが限界なのではないだろうか。過去世ばかりではなく、霊的な世界は、ぼくたちが想像するよりも、はるかに巨大で複雑で、やっぱり理解できないんだよ。ぼくたちは、能力者の、ある人は長い鼻を象といい、別の人は大きな耳を象といい、また別の人はゴワゴワした皮膚を象といい・・・といった話に、混乱させられてしまいがちだ。あの人は正しいと決め付けて、ほかを否定したりもする。だけど、彼らはうそを言っているわけではない。多くの能力者がすばらしい能力をもっているのだけれども、それにも限界があるということだ。と言うことは、いろいろな能力者の話を聞いて、そこから、全体を見い出せる人が、実は、一番、霊界の全体像を語ることができる人ということになる。そんな人が出てこないと、霊界の本当の姿を、ぼくたちは知ることができないような気もする。ぼくたちの魂は、雨のひとしずくみたいなものかもしれない。それが、水溜りに落ちたとき、ひとしずくはひとしずくとして残らない。水溜りの一部になるわけだ。くっつきあったまま水溜りの中にある分子もあるだろうし、バラバラになってしまう分子もあるはずだ。ひとしずくとして、空から落ちてくるときの記憶や情報も、水溜まりのどこかにあるはずで、水溜りの水が、水蒸気となって空へ上っていくとき、さて、記憶や情報は、どうなって、次にひとしずくになるときには、どういう法則でしずくが作られるのか。人の輪廻というのも、ぼくには、そんなイメージで、浮かんで消えていく。この世のことだって、わからないことだらけ。まして、あの世のことが簡単にわかるはずがない。ぼくは、「こうだ」と断言する人よりも、わからないことを前提に語る人を信じることにしている。わけのわからない話になってしまった。
2013年01月27日
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第二次世界大戦のさなか、作家の永井荷風は、日記にこんなことを書いているそうだ。これは世紀の見ものだから十分に見物する。いざとなれば、命を落としてもいいと思っている。今、日本で起こっていることが、もし、映画や小説だったらどうだろうか。衝撃の作品として賞賛され、たくさんの人が映画館で列を作ったり、書店には山ほどこの小説が積まれるかもしれない。それは、映画とか小説といった、自分に実害のない世界で起こっていることだからだ。だから、ぼくたちは安心して、その悲劇や悲劇の中で生まれた感動的な話におののいたり、涙したりできる。しかし、今の日本というのは、だれもが、その映画や小説の世界に放り込まれたようなものだ。現実に、家族が亡くなり、財産をなくし、避難を余儀なくされ、遠く離れていても、放射能の恐怖にさらされる。起こっている現象は、映画や小説と同じであっても、自分の立ち位置によって、心持ちはまったく違ってくる。こういう中で生きるコツは、荷風が言うように、「世紀の見ものだから見物する」という客観的なものの見方と、「命を落としてもいいと思っている」という現実感だろう。荷風は、東京大空襲で逃げ惑い、その後、あちこち避難するのだけれども、どこへ行っても、空襲にあったりして、不安神経症になったという体験をしている。その体験をへて、「世紀の見もの」であり「命を落としてもいい」という心境になったのだ。今回、ぼくは被災者にはならなくてすんだが、いつ、その立場になるかは、だれにもわからない。そんなとき、荷風の心境というのは、頭に入れておきたいと思う。被災者の方が、一時帰宅で防護服を着て、家の中で必要なものをそろえている写真を見たが、まるでSF映画のようだ。しかし、それはまぎれもなく現実であるということ。自分の家へ帰るのに、なぜ、防護服がいるのだ。2時間と制限されるのだ。切なさが募る。しっかりと記憶の中に入れておかないといけないと思う。
2011年05月11日
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今日は、親父の79歳の誕生日。よく働く人で、田植えもがんばったみたいだ。5年ほど前に前立腺がんになったけど、もう克服だな。器用な人で、何でも自分でやってしまう。見よう見まねでマスターしてしまうのだから大したものだ。俺に学があったらと、ずっと言っていた。だから息子を大学まで行かせるのが生きがいでもあった。大学を出た息子は、期待にこたえているのかいないのか。親父は、たぶん、大企業とか公務員として出世するのを望んでいたのだと思う。でも、職人の息子は、やっぱり一人でやる仕事を選んで、それに満足して生きている。働き方は違うけど、一生、働き続ける人生だ。このごろ、たまにだけど、親父に本を送ってやっている。戦争物が好きで、楽しみながら読んでいるみたいだ。タケノコがあがりはじめた。せっせと掘って、送ってくれるのだろうと思う。うちのタケノコは、自慢じゃないけど、ものすごくおいしい。今日は、79歳の親父に乾杯だ。
2009年04月12日
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娘3人で留守番。お昼ご飯も夜ご飯も、ご飯だけ炊いておいて、おにぎりでも作れと言っておいた。そしたら、4合炊いたご飯を、ぺろりと食べて、足りないというのでパンまで食べたと言う。こっちが悪戦苦闘しておかずを作っても、「あんまり好きじゃない」と言って、3人で1合程度しか食べないのに、驚きだ。「粗食のすすめ」の幕内秀夫さんは、「とにかくご飯を食べていればいい。おやつもおにぎり」と米食をすすめているけど、それが一番、おいしいのかも。自分たちで好き勝手に作れたというのも、彼女たちの食欲を刺激したのかもしれない。おいしいものを作ってやろうと肩に力を入れなくても、ご飯だけ炊いておけば、彼女たちは適当に工夫するのかもしれない。予定より早く帰って、温かいご飯を食べようと楽しみにしていた家内は、炊飯器が空っぽになっているのにショックを受けたみたい。「カップラーメンだったよ、私は」と、寝るまでプリプリしていた。
2008年04月20日
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親父が前立腺がんになって1年以上たつかなあ。ホルモン療法に放射線、それに冬虫夏草を飲んで、元気になった。たまに帰ると、検査の結果を見せてくれる。77歳だけど、悪いところがほとんどない。前立腺のマーカーもまったく正常。ちょっと慌てたけど、なかなかの生命力だ。がんこ者は長生きするのかもしれない。本屋さんへ行った。「植物と話ができる!」が置いてあるかのぞきにいったのだが、僕の本は置かれてない。小さな本屋さんだから仕方ないと思いつつ(小さな本屋さんだからこそ、ちょっと毛色の違うものを置いた方がいいと思うけど)、ブラブラ本棚を見ていると、「余命三ヶ月のラブレター」が目に止まった。この間、肝臓がんで亡くなった鈴木ヒロミツさんが残した本だ。新聞に紹介されたとき、僕は読んでみたいと思った。あまり、闘病記というのは好きじゃないけど、これにはひかれるものがあった。余命三ヶ月と宣告されて、悩み苦しんだ末、残りの人生を家族と過ごそうと、きつい治療をせずに自宅で過ごそうと決心する。そのときの思いが非常にリアルに伝わってくる。重くなく軽くなく。喜びも悲しみも自然に受け止めながら、彼は逝ったような気がする。自分の命は自分でけじめをつける。彼は最期までロックンローラーだった。この本は、亡くなる一週間前、3日間、ホテルで彼にインタビューしたものをまとめたようだ。3時間もしゃべり続けたと言う。しゃべる中で、自分の人生が整理されていって、すごく気持ちが楽になっていったとも書かれていた。黄だんでまっ黄色の顔が、奥さんや息子さんのことを話すときには赤みを帯びて血色がよくなったそうだ。後ろの方に4P使って、インタビューと構成をした神舘さんという方の文章が掲載されている。彼は名のある音楽ライターだそうだが、この4Pがあることで、鈴木ヒロミツさんの話に命が吹き込まれたような感じがした。僕も人の本を書くという仕事はたくさんやった。表に出ることはない。でも、書いている間、著者になりきろうとして、著者の気持ちを思いつつ、筆を進めて行く。僕たち、ライターの思いも、陰ながら、本に埋め込まれているのだ。単なる芸能人の本ではなく、ライターが著者に同化して、この人の思いを文章でしっかりと残したいという気持ち。伝えきれないもどかしさも含めて、そこには共同作業のコラボレーションのエネルギーが感じられる。幻冬舎という出版社は、たくさんのベストセラーを出しているが、こうしたエネルギーを見ることができるから、大成功しているのかなとも思ったりする。僕は、今、ひとりの天才的な学者であり治療家であり宗教家の本を作ろうとしている。彼の理論や実際の活動を、彼の言葉でまとめる作業に入りつつある。鈴木ヒロミツさんの方式でやろうと思う。立場としては、僕はゴーストライターだけど、医療の世界をずっと取材してきて、この男のすごさを感じて本にしようと思った。この過程は、彼を描くには必要不可欠だと思う。そのためには、僕も表に出なければならない。鈴木ヒロミツさんにはお会いしたことはもちろんないし、僕は音楽や芸能界には疎い人間だから、あまり興味はなかったけど、彼は素敵な生き方、死に方をした人だと、あの本を読んで思った。ふと手にした本からいいヒントもいただいた。彼は熱烈な中日ファンだった。彼のためにも、中日は日本一にならないとね。モップスは、アニマルズの「朝日のあたる家」をカバーしているそうだ。無農薬りんごの木村さんが大好きな曲で、彼にインタビューしているときに、たまたまその店の有線から流れてきた。それで、僕の気になっていたのだが、この本の中でお目にかかれるとは思ってもみなかった。めったにCDは買わないけど、モップスを買ってみようかな。
2007年06月06日
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犬と一緒にすると、きっと、親父は怒ると思うけど、家を守る、先祖を守るという親父の心理は、年老いたワンちゃんの気持ちによく似ています。一匹の老犬の話です。彼(オスです)は、腰を痛めて歩行も困難でした。だから、飼い主さんは、まるで、赤ちゃんを扱うように手取り足取りの面倒を見ていました。こんなに優しくしてもらって言うことはないと、まわりの人は思っていました。ところが、ワンちゃんの心の声を聞くと、それがとんでもない誤解だったことがわかりました。つまり、このワンちゃんは、年をとって、体も不自由になっているのだけれども、「自分は家を守るんだ」という使命感をずっと持ち続けていたので、どれだけかわいがってもらっても、自分は家を守れないと思うと、自分が生きている価値がないのではと思うようになっていたのです。こんなワンちゃんにどう接すればいいのか?守ってくれていることを認めることです。「かわいそうに。私が面倒見るからね」というのでは、彼はどんどんと落ち込んでしまっています。いくら年をとって体が不自由でも、そのワンちゃんがいることで、安心できる気持ちがあれば、それを伝えてあげることが大切です。「お前がいるおかげで、僕は安心して外で仕事ができるよ。これからも、ルスを守っていてくれるね」この一言で、ワンちゃんは救われるのです。元気を取り戻します。親父が家にいてくれるから、僕は外で好きなことができます。僕が外で思う存分、働くことが、先祖さんも望んでいるとしたら、そのためには、先祖さんは、父に家を守るという役割を与えたはずです。それを親父はまっとうしようとがんばっているのです。その頑張りを、まわりも認めてあげる必要があるでしょう。家のため、子どものために、生きてきた親父は、決して不幸ではなかったのです。それが、彼の使命だったし、その働きによって、さらなる発展があるからです。これからも、親父には家や先祖さんを守ってもらうことにします。
2006年08月28日
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妹から電話があった。困ったがんこ親父だ! と憤っていた。田んぼの手伝いに行ったのだが、思うように作業が進まないので、怒鳴り散らすのだと言う。妹としては、せっかく手伝ってあげているのにという切ない気持ちになったのだろう。昔からそうだった。腕のたつ職人だった父は、ほかの人がやっていることを見ているのがまどろっこしくてたまらなかった。いつも母が手伝いについて行ったが、朝から晩まで、母は怒鳴られっぱなしだった。「よく、耐えられますね」と、施主の人に同情されたようだ。僕も、高校時代には、何度か手伝いに行ったが、いつも「できるわけないやろ。ふざけるな!」と、途中でふてくされて帰ってきたものだ。だから、妹が怒っているのもよくわかる気がする。妹は言った。「あの人には感謝の気持ちが足りない」僕には、ものすごく考えさせられる言葉だった。父は、毎日のように仏壇に向かってお経をあげ、住職のいなくなったお寺の世話をしている。とても信心深い人だ。感謝の気持ちがないはずがない。しかし、決定的な思い違いが、父にはある。それは、父の口癖から読み取れる。父は、僕が帰るたびに言う。「先祖さんを守らなければならない」父は、子どものときからそう教えられてきたのだろう。そして、それを自分の使命として、疑うことなく、75歳まで生きてきた。だから、自分が先祖を守った後は、長男である僕が守るのは当然のこととなっている。しかし、ちょっと待ってくれよ。先祖というのは、「守るもの」ではなくて、子孫を「守っている存在」なのではないのか。「先祖を守る」「先祖に守られている」親父に感謝の気持ちが足りないとしたら、「俺が先祖を守っている」という思いが強いからではないだろうか。「守られている」という謙虚な気持ちがあってこそ、感謝は生まれてくる。そして、守られている自分を大切にし、守ってくれている先祖を敬うという行動へとつながっていくのだ。昔、父は、仕事中に1メートルほどの高さから落下したことがあった。下は鉄筋が針地獄のごとく、立ち並んでいた。そこへ落ちたのだから、大怪我、もしくは最悪の場合は、死んでしまうこともあっただろう。ところが、父はお尻から針地獄に落ちて、鉄筋の1本が肛門にすぽっと入り、それでも腸を傷つけることもなく、かすり傷ですんだのだ。奇跡としか言いようがない。守られているのだ。今回、母がうるさく言うので健診を受けたら早期のうちにがんが見つかったというのも、守られている証拠だろう。そして、治療が終わったばかりなのに、この暑い中、田んぼ仕事をしようとする無謀さ。まわりの反対に耳を貸そうとしない。すると、どんなことが起こったか。コンバインが故障してしまったのである。コンバインの故障は、父の怒りの主たる原因になったのだが、故障したことで、稲刈りを業者に頼むことができたのだ。今は、養生しろという先祖の声なき言葉ではないのか。「しょうがない奴や」先祖のぼやきが聞えてくるような気がする。ありがたや、ありがたや。
2006年08月27日
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「俺は、どうせがんでもう死ぬから、やることだけはやっていくからな」親父が、血相を変えて、宣言した。「何や、いったい、どうしたんや?」気持ちを静めさせ、話を聞くと、どうも母親との間で、いさかいがあったようだ。父は、75歳。前立腺がんになって、母としては、「もう、そんなに働かんと、ゆっくりしたらええのに」という気持ちがある。しかし、父は、がんになって、余計に働き始めた。10反ほどある田んぼを、これからもやるというのだ。トラクターが壊れたから、新しいのに買い換えるとも言い出したらしい。そんな親父に母は、こう言ったらしい。「あんたは、もうがんになって、そんなに先がないんやから、田んぼはだれかに任せたら」親父は、この言葉にカチンときた。放射線療法を受けても、何の副作用も感じなかった自分の身体に自信をもったばかりのことだけに、「ふざけるな!」という気持ちになったみたいだ。この暑い時期に農業というのは、かなりの重労働だ。それを親父が一生懸命にやりだしたら、まわりも見ているだけというわけにもいかない。母も、同居している弟も、それに車で30分ほどのところに住んでいる妹も、妹のだんなも娘も、農繁期には手伝わざるを得ない。親父は生きがいとして百姓をやるわけだから、少々の重労働にも根をあげることはないだろうが、親父のペースに合わせていると、まわりが倒れてしまうという危険性もある。でも、親父の決心は変わることはない。人が反対すればするほど、突っ走ろうとするひねくれ者、がんこ者。70年以上、そうやって生きてきたのだから、もうそうやって生きさせる以外ないのではと、僕は思ってしまう。まわりは、親父のペースに巻き込まれず、無理のない程度に手伝いながら、親父の気のすむようにやらせてあげればいい。僕は、そうやって生きられる親父がうらやましいと思う面もある。ここまでむきになって突っ走れる何かが、自分にはあるのか?僕にも、きっと親父のあのがんこさの遺伝子を受け継いでいるはずだ。それが、いつかオンになったとき、大変な仕事をやってのけるのではないだろうか。お盆に里帰りしたときの、あの親父の顔には、それだけの強烈なエネルギーが満ちていた。やりたいことを、思いっきりやってくれ。がんこ者の親父よ。
2006年08月17日
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頑固者の親父ががんになって(診断されて)、半年くらい。前立腺の早期だから、もっとも軽い部類のがんだったのだけれども、最初に聞いたときは、やっぱりどきっとした。がんという響きは、どーんと重石を頭に置かれたような圧力を感じる。ある医師が、「がんという名前をやめて、ポンにすればいい」と面白いことを言っていた。「昨日、病院へ行って検査したら、ポンが見つかってさあ」「ポンか。でも、切ればいいんだろ。今は、いい治療があるから」「大丈夫、大丈夫。たいしたポンじゃないから」「ハハハハ。良かった良かった」確かに「ポン」なら、もっと気軽に受け止められるかもしれない。75歳になれば、どこか悪いところが出てくる。血圧が高くなったり、おしっこの切れが悪くなったり、はぐきから血が出たり、関節が痛かったり・・・。これは、長年使った体だから仕方がない。そのひとつとして、がんという腫瘍がでくるというくらいにとらえた方がいいのだろうと思う。五木寛之さんが、その年齢なりの健康があればいいというようなことを言っていた。70代なのに、20代の健康を求めるのは、その方が不健康だというのだ。そのとおりだと思った。人は、年をとり、病気をし、死んでいく。これが、どんな生命も逃れられない宇宙のリズム。そのリズムの中で、病気とどうかかわっていくか。親父は、がんという診断を受けたことで、60年近く、馬車馬のように働いてきた自分を見つめ直すことができたようだ。70歳をすぎて、体力も落ち、仕事(職人)もなくなって、半ば抜け殻のようになっていた。そこに、「がん」という刺激があったことで、生きるエネルギーをよみがえらせた。ホルモン療法を受けて、放射線治療を受けて、冬虫夏草を大切に飲んで、いつからか、がんをエネルギーに変えているようなたくましさが見られるようになった。もし、がんがなかったら、親父はぼけていたかもしれないと思う。肉体だけが健康で、精神をどんどんと病んでいくような晩年をすごすことになったのではないだろうか。家族のためにがんばって生きてきた人、頑固に自分流を貫いてきた人に、その傾向が多いという。親父など、その典型的なタイプだ。家族のためにがんばる意識や頑固さは、がんになったからと言って変わるものではないが、「もう年をとってがんばれない」という70代になってからの無力感が、がんを患い、それを克服してきた過程で、70代なりの自信へと変化してきたような気がする。一ヶ月ぶりに家へ帰って、父の顔を見ると、力がみなぎっていた。かつては旺盛だった闘争心、正義感も、忘れ物を取り戻したかのように、ふつふつとわいてきているようだ。親父の新しい人生が始まった。75歳なりの再スタートだ。人生の総仕上げを、どんな形でやっていくのか、僕は親父の生き様を子どもに孫に伝えるため、じっくりと見させていただくつもりだ。下の写真のように情緒のある年のとり方をしたいものだ。
2006年07月21日
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Yさんは、59歳の男性。2005年1月に会社の健康診断で胃がんが見つかりました。ステージ3の進行がんでした。大きな病院で胃を全部摘出する手術を受けました。リンパ節やすい臓の一部、脾臓、胆臓も摘出しました。大手術でしたが、がんはとりきれ、ほっとひと息をつきました。4月に退院しましたが、6月になって、肝臓への転移が発見されました。この時点で、主治医からは、「あと半年です。有意義に過ごしてください」と厳しい状態であることを伝えられました。あと半年と言われて、「はい、そうですか」というわけにもいきません。Yさんと奥さんは、自分たちで本を買ってきて、いろいろと勉強しました。その中に、安保徹先生の「免疫革命」もありました。そこには、血液検査をしてリンパ球の数を見れば、免疫の状態がわかると書かれています。その検査も大した手間や費用がかかるものではなく、だいたい、どこの病院でもやってくれます。それで、Yさんは、主治医に「ぜひ、リンパ球の検査をしてもらいたい」と頼みました。そしたら、主治医は烈火のごとく怒り出して、「変な本を読んだでしょ。本当に困るんだ。我々、プロはやりにくくて仕方ない。素人はだまっていてほしい」すごい剣幕だったようです。それでYさん夫婦は、その主治医に何も言えなくなってしまいました。まだ、こんなドクターがいるんですね。年配の医者かと思ったら、40歳前後だと言います。医者が、「素人はだまってろ!」という時代じゃないでしょ。医師と患者が一緒になって治療に取り組んでいくのが本当でしょう。でも、そういう心無いことを言われたYさんご夫妻は、2人でいろいろと努力しました。あと半年だと言われてから、約1年になります。もうとっくにこの世の住人ではなくなっているはずですが、すごく元気になっています。「あんな医者の言うとおりに半年で死んでたまるか」という気持ちがあったのかなと、僕は想像しています。医者たるもの、言葉には気をつけてもらいたいし、患者さんは自分の命がかかっているわけだから、もっと親身になって相談に乗ってほしいと思いますね。でも、ひどい医者だけど、それに反発する気持ちが、治癒力を高めるということもあるのかもしれません。生命というのは、宇宙を語る以上にわからないものです。そんなわからないことだらけの命なのに、余命なんて、どうしてわかるでしょう。わかるはずがない。医師の傲慢でしょう。だいたい、医師が「余命○ヶ月」と言うと、本人も家族もその気になってしまいますから、きちんと医師の宣告どおりに○ヶ月で亡くなってしまいます。治るという暗示をいかにかけられるか。医師にも、そういう素質が必要とされているようです。もし、Yさんの主治医が、Yさんは高圧的に接すると反発心をもって治癒力が上がると読んで、心無い言葉を吐いたとしたら、この医師は名医ですけどね。
2006年05月17日
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親父が前立腺がんになった話は、ずっと書いてきました。たまたま、冬虫夏草と出合って、親父は元気になりました。冬虫夏草を飲みながらホルモン療法をやり、6月からは放射線治療を受けます。私は、20年近く前から、がんの治療法、特に西洋医学以外の治療法を取材し、本にして紹介してきました。「ガンを治す大事典」「がんを治す療法大事典」など。親父ががんになったとき、いくらでも治療法を選ぶことができましたが、親父はなかなか息子の言うことを聞きません。私は、親父好みの治療法があるだろうと思い、あれこれ記憶をひもといて、親父の性格を分析し、「秘薬」ものに弱いという結論に達して、中国の幹部だけが飲んでいる冬虫夏草こそ、親父の好みだという結論に達したのです。これがドンピシャ!親父は喜んで冬虫夏草を飲み始めました。その簡単な体験談です。がんになる前より健康になった気がする 75歳になって「がんですよ」と言われれば、いよいよ自分の人生も終わりを迎えたかと思ってしまいます。かと言って、もう死んでもいいと納得できるわけでもありません。まだ、生きてみたいという気持ちは、もし、10年若くても同じだと思います。 いつもは断る健康診断ですが、その年は家内に強くすすめられてしぶしぶ受けてみました。そしたら、前立腺にがんの疑いという結果。病院で精密検査を受けたら、間違いなくがんがあるとわかり、ショックというより、気がぐっと引き締まった思いがしました。 おかげさまで、骨やほかの臓器への転移はなく、前立腺の中にとどまっていたので、すぐに命に別状があるということではありませんでした。心臓に疾患があったので、手術はやめましょうということで、ホルモン療法が始まりました。同時に、長男が送ってくれた冬虫夏草も飲むようになりました。 冬虫夏草は、半信半疑でしたが、体調がどんどんと良くなっていったので、これは効くかもしれないという気持ちになりました。食欲が出てきました。便通も良くなりました。いつもあった鼻づまりがなくなりました。ずっと気になっていた腹部のチクチクとした痛みが消えました。疲れ気味に見えた肌がツヤツヤしてきました。 マーカー(PSA)も2005年11月には34.0だったのが、2006年1月には4・1、2月には2・5、3月には2・1と順調に低下しています。 冬虫夏草のおかげで、がんになる前よりも、はるかに健康になった気がします。
2006年05月16日
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八戸から帰ってきた翌日は、名古屋でした。ある企業のちょっとした相談事にのるという、今までにない仕事がありました。会社の業績はいいのだけれども、コミュニケーションがうまくとれなかったり、活力がなかったりと、いろいろと悩みがある様子。僕に、何ができるのかわかりませんが、いつものお話をして帰ってきました。僕は、何か社会貢献になるようなことをやるのがいいのではと提案してきました。たとえば、地域の人たちを集めて、「地球交響曲」の上映をするとかです。自分の活動が何か世の中に役に立つという気持ちはとても大切で、映画の上映と会社の仕事とは関係なさそうにみえて、実はけっこう影響力があったりするのではと思います。その後、三重の実家へ寄りました。父は相変わらず元気いっぱいでした。鈴鹿市の郷土史をまとめているグループがあって、その人から、我が家の近くにあるお寺のことを簡単に書いてほしいと頼まれたとかで、いろいろな資料をひっぱりだしては、それを文章にしていました。「ええとこへ来たなあ。ちょっと、直してくれや」とチラシの裏に書いた文章を見せられました。前に自分のがん体験記を書いてもらったときにも思ったのですが、なかなか味わいのある文章を書いています。人様に見せるには、手直しするところがたくさんあるものの、親父のがんこだけれども温かな人柄がにじみ出ています。田植えも終わり、今は竹の子が裏山にたくさん出てくるので、親戚にあげるのだと、朝から竹の子掘りをしたりしています。体の頭も適度に動かしているようで、いい感じです。鉄筋がお尻に刺さったことがあったし、その後は、家を建て替えるときに、屋根裏に上がっていたら突然、天井が破れたことがありました。そのまま落下していれば、命を落とすところまではいかなかったと思いますが、かなりの大怪我をしていたでしょう。それが、ちょうど、脇のところで止まったので、何ともなかったということがありました。古い家を建て替えるかどうか、迷っていたときのことです。このことがあって、親父は、新築を決意しました。大変なことになりそうな事故や病気が、今回を含めて、3回あったわけです。それでも、最小限のことで終わっている。「親父は、何かに守られているよ」というと、嬉しそうに笑っていました。確かに、信心深くて、住職のいなくなったお寺も、先頭になってお世話しています。がんこで短気で、経済的にも苦労してきた父親だけど、きっといい死に方ができるのだろうと思います。いい70代をすごしているのではと思えてなりません。
2006年04月19日
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4月12日は親父の誕生日。76歳になる。16歳から百姓をやってきて、もう60年のキャリアだ。前立腺がんになって、母親からはもう百姓はやめたらと言われた。10反ほどだから、親父一人でやるのはかなりきつい。今は、業者が引き受けてくれるのだけれども、親父に言わせると、業者のやり方は、田んぼをどんどんとやせさせていって、何年もたつといい米ができなくなると言う。私の弟が30代で同居しているので、いい戦力にはなっているが、まかせてしまうには頼りないようだ。がんだとわかったときには、一時的にはゆっくりとしてみようと思ったりもしたようだ。しかし、根っからの働き者。それに、がんだと言っても、冬虫夏草のおかげで体調はますます快調だから、じっともしていられない。今日から田植えだそうだ。76歳になって、現役で百姓ができるのだから大したものだ。そして、田植えが終われば、放射線治療に入る。医者は、「ずいぶん良くなっているけど、5年後を考えて放射線をしましょう」と言ったそうだ。「5年たったら80過ぎやで。もうええやんか」と僕は言ったが、親父はまだまだ働き続けるつもりらしい。「がんをきれいにするんや」3ヶ月ほど、月曜日から金曜日まで、治療のため病院へ通うことになる。でも、親父はけっこう人の集まるところが好きで、そこでエネルギーをもらってくるタイプだ。遠くからエールを送るのみ。しぼんで行きそうな人生だったが、がんという刺激によって、生き生きしてきた親父を感じる。これが全身転移とかだと大変だけど、初期で見つかったことは、すべての面で、プラスに働いている。思い出した。僕が23歳くらいのときだから、27年前。親父が仕事中に、ブロック塀の工事をしていて、塀の上から落下したことがあった。下には穴が掘ってあって、そこからは鉄筋の棒が何本も突き出していた。その鉄筋の上に落ちたのだから、親父の身体が串刺しになっても仕方のない状態だった。どうなったか。今なら笑っていられるが、何と、お尻から落ちて、鉄筋がぴったりと肛門に刺さったのだ。それも腸を傷つけることなく、芸術的に肛門を通過した。奇跡だった。救急車で運ばれたが、親父は内臓に刺さったと思ったのだろう、もうこれで終わりだと覚悟したらしい。結果は、ほんのかすり傷。きっと、強力な守護霊がついているのだろう。今回のがんも、守護霊が、「もう一仕事しろ」と、親父にメッセージを届けた結果かもしない。まずは、誕生日おめでとう。
2006年04月13日
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がんの患者さんから話をお聞きすると、「えっ、ホント」と驚くことがいっぱいあります。とある県のがんセンターの30代医師。診察するや、「あと半年ですね。残りの人生、有意義に過ごしてください」とあっさり。確かに、全身に転移して、医学の常識からすれば、半年というのは間違っていないかもしれませんが、言い方というのがあるでしょう。患者さんはショックで闘病意欲をすっかりなくしてしまいました。その患者さんが、ある健康食品を飲んで、どんどんと元気になってきました。肝臓にできたがんが半分くらいの大きさになったのです。そしたら、そっけなく、「小さくなっていますね」で診察は終わり。「こういう健康食品はどうでしょう? いいみたいなんですが」と質問すれば、「私はプロです。素人に勝手なことをやられては困ります」と一喝。今でも、そんな医者がいるんですね。あなたはプロかもしれないけど、私は当事者だ~~! と叫びたかったとか。主治医なら、良くなっているのを喜んでおくれよ。検査結果も教えてくれないし、自分の予想どおりに悪くなってかないのが不満のようだったそうです。この患者さんの場合、主治医がひどかったのは辛かったでしょうが、奥さんやまわりの友だちの力が大きかったみたいです。主治医の態度に反発して、それなら自分たちの力で治そうじゃないかと、情報を集め、患者さんを元気づけ、いろいろな治療を試して、ついにがんを半分にまでしてしまったのです。家族や仲間の連帯感も生まれてきました。「やさしいお医者さんだったら、負けるもんか! って気持ちにならなかったかもしれません」とは、奥さんの話。負けるか! という気持ちと、まわりの温かな思いやり。どんな薬よりも効果があるのかもしれません。ピンチはチャンスです。
2006年04月12日
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親父の年代に限らず、男は、男らしさに、女は女らしさに縛られています。男の責任ということで言うと、筑波大学の宗像先生が面白い話をしてくれました。宗像先生は、がんの心理療法の第一人者です。ある中高年男性の話です。がんになりました。すごくショックで、いろいろ悩みました。がんはどんどんと進行していき、治癒が困難な状態になってきました。そしたら、吹っ切れたように、明るくなったと言うのです。どうしてなんだろうと、カウンセリングを続けていくと、彼は、保険金が降りれば、残された家族は経済的にきちんとやっていけると、そのことに気づいて安心したのだそうです。小さいころから、家族を養うことができてこそ男だと、親に言われ続けてきました。本人も、それが男だ! と思い込んでいました。だから、自分が死んでも、家族を路頭に迷わせることがないということで、自分の男としてもプライドが守れるということで気持ちが落ち着いたようです。最期まで男の責任を貫いたことには感服します。しかし、もし、そのプライドを捨てることができたら・・・ということも考えてしまいます。「男のくせに泣くな!」とか「それでも金玉下げているのか!」といったこと、私も言われた気がするけど、男でも泣きたいこともあるし、尻尾を巻いて逃げたくなることもあります。男とは、女とは。難しいテーマだな。
2006年04月09日
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とにかく器用な親父で、ブロック塀を積んだり、トイレやお風呂を作るという職人ですが、見よう見まねで覚えて、だれにも負けないほどの腕を身につけました。細かいことも得意で、私の髪の毛は、中学3年まで、父が切ってくれました。バリカンからはさみから、散髪セットが一式そろっていて、器用に、かしゃかしゃと切りそろえてくれました。顔をそるのも、プロ級の手際良さだったと思います。親父があぐらをかいて座り、そこに私が頭を置いて横になるというスタイルでかみそりを当ててくれるのですが、けっこう足が臭かったりして、今でもあの臭いは記憶に残っています。食べ物も田んぼや畑でとれたものを食べ、山でとってきた柴や木を切って作った薪が、お風呂をわかしたり、炊飯をするエネルギーでした。100%とは言わないけど、70~80%は、自給自足の生活だったのではないでしょうか。それを支えていたのは、親父の器用な手先とまめな行動力でした。私は、そんな親父を見て、大人になることに恐怖を感じました。だって、私は親父とは正反対、不器用で面倒くさがり屋、とても親父のようにいろいろなことはできなかったからです。親父に髪の毛を切ってもらいながら、大人になったら、子どもの散髪をやらなければならないとうことに、プレッシャーを感じていたりした思い出があります。男として、家を守り、子どもを立派に育てるというのは、親父にとっては、何にも代えがたい使命だったと思います。そして、それができるだけの技量があった。だから、余計に「男として」という意識も大きくなり、家や子どもを守るためには、命さえも捨てるというくらいの覚悟をもつほどになったのだろうと思います。70歳をすぎて、体力もおとろえてきました。子どもたちも大きくなって、自分勝手なことをやっている。たまに帰ってくると、親の苦労も忘れて、偉そうなことを言ったりするわけです。「男として」のエネルギーを発揮する場面がどんどんと削がれていく。まだまだ、そのエネルギーは残っているのに、自ら「男」を封印することで、精神のバランスをとろうとする。そんな内向するエネルギーが、前立腺という男を象徴する場所にがんという塊として現れたのではと思うのです。男らしさがなくなっている昨今です。親父の世代の男たちは、何とも情けない気持ちで、私たちの世代を見ているのかもしれません。戦前戦後、高度成長期を生きてきた彼らのたくましさには、太刀打ちできないものがあります。親父には、それを誇りに思って欲しいと思っています。息子がいくつになっても超えられないものが、親父のオーラからは漂っています。
2006年04月06日
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親父は、前立腺がんでした。長年、タバコをスパスパ吸ってきました。母親が「肺がんになるよ」と脅しても、「自分の体は自分が一番知っている」と、まったく耳を貸しませんでした。頑固者は、人の話に耳を貸さないので、耳が遠くなると言いますが、まさに、親父は何年も前から耳が聞えにくいのです。耳を貸さないから、耳が必要ない。だから、どんどんと聴力が衰えていくのです。父を見ていると、それがぴったりのような気がします。タバコすぱすぱの親父が、どうして肺がんにならずに前立腺がんになったのか。いろいろと考えてみました。たとえば、女性の場合ですが、女性性にこだわりすぎたり、逆に女性性を嫌悪、あるいは否定していると、乳がんや子宮がんといった女性に深くかかわるところががんができると言います。それなら、前立腺の場合は、男性性へのこだわり、あるいは嫌悪、否定からくると予想できます。親父の場合、「俺は男だから」という使命感、責任感が非常に強かったと思います。家族を守ること、子どもを一人前にすること、先祖を守ること、家系を次につなげることといったことに、ものすごくエネルギーを費やしてきました。しかし、長男である私は、家を出てしまっています。自分が男として守るべき「家」なのに、自分が死んだら、だれも住まなくなってしまうかもしれない。お墓もどうなることやら。これは、親父の生き方からすれば、すごい無力感につながっているような気がします。男としての責任にこだわり続け、でも自分としては空しさを感じる結果になっているということが、親父にとっては、男性性へのこだわりであり同時に嫌悪、否定につながっているのではないだろうか。私は、そんなふうに感じています。男としての責任感は、ピカ一ですよ。家族の一人で背負って、貧しい時代を乗り越えてきた。息子としては、それを当たり前のように受け止めてきたけど、大変なことだったと思う。そのことを、まず認めてあげようよ。親父の前立腺にできたがんは、そんなことを私に訴えているような気がしてなりません。
2006年04月04日
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親父は、もう75歳ですから、いつあちらへ呼ばれも不思議ではありません。でも、息子としては、まだまだ先のつもりでいました。それが、「がん」と言われたとき、今回のがんが治っても、いずれ近い将来、父や母と別れなければならないということが、やっと実感できました。私は長男で、田舎(三重県鈴鹿市)から遠く離れて住んでいます。田んぼがあって、家があって、お墓もあって。それをどうするのか?「何とかなるよ」が、私の口癖ですが、ある程度は、どうするか決めておく必要があります。弟が同居してはいるものの、弟に丸投げするわけにもいきません。父親のがんは、将来のことを考えるいいきっかけでした。(元気になってきたら、また考えなくなっていますが)私としては、10反ほどある田んぼを有効利用したいと思っています。ただ、農家の長男である私は、農業がまったくできません。これから、農業はとても大切な産業になると思います。せっかくの田んぼですから、有効に活用できればと思っています。
2006年04月01日
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この間、実家へ帰って、父の顔を見てびっくり。顔色がツヤツヤしていました。食欲はあるし、体重も増えているし、何よりも働く意欲が出てきたというのです。だいたい、ホルモン療法をすると、意欲が減退するというのですが、それがまったくありません。「どこががんや」と言いたくなるような元気さ。腫瘍マーカーも劇的に低下していて、放射線治療は受けなくて良さそうです。冬虫夏草は、大事に大事に、ありがたく飲んでいるようです。あの頑固者の親父がと、感慨深い思いです。
2006年03月30日
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ひょんなことから私が出合ったのは、冬虫夏草。コウモリガという虫の幼虫に寄生した植物がチベットの山でとれます。冬虫夏草と呼ばれるものはたくさんありますが、これが、一番良質の冬虫夏草とか。天然物はなかなかないということで、私の取材網からも抜け落ちていました。だから、昨日紹介した本には掲載されていません。その天然物があるという話が飛び込んできたのです。それも、中国の高級幹部だけが飲める(液体です)という貴重品とか。この話だけだと怪しさプンプンですが、それを日本に輸入している人に会ってみると、これがなかなかの人物。古い友だちから相談があると電話があって、出かけて行ったら、友だちの友だちがいて、さらにその人の知り合いが中国の幹部と知り合いで、その縁で天然冬虫夏草が手に入るようになったという、けっこう複雑な経路でした。少なくとも、その発信元の友だちは信頼がおけるので、けっしていい加減な話ではないだろうということは判断できました。私は、これはぜったいに父の好みだと、思いました。まず、秘薬というのがいい。天然物はめったにないという話も父の気を引きそうです。中国幹部だけが飲んでいるというのも父のアンテナがピクピク動きそう。昔、まだ私が子どもだったころ、母が体調を崩したことがありました。細かい事情は忘れましたが、がんかもしれないということになったみたいで、そのときに父がとった行動は、当時、幻のキノコと言われた「サルノコシカケ(霊芝)」を必死に探すというものでした。あちこち、バイクに乗って走り回っていました。結局、母はがんではなかったので、父の行動は徒労に終わったわけですが、私は子ども心に母を思う父の気持ちに感動しました。サルノコシカケと冬虫夏草が、私の意識の中で重なり合いました。これまで私が送った健康食品で、父が喜んで飲んだものは、ひとつもありません。でも、これなら父はぜったいに気に入ると、私は確信し、すぐに冬虫夏草を手に入れて、実家へ送りました。冬虫夏草が秘薬であること、中国の幹部しか飲んでないこと、そして、もし飲まないなら欲しい人はたくさんいるのだから、すぐに送り返してほしいということも書き添えました。私の思惑は見事にはまりました。父は、こっちがびっくりするほど喜んで、大事に大事に、冬虫夏草を飲み始めたのです。
2006年03月28日
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私は、これまで、がんの治療法をずいぶんたくさん取材してきました。一昨年は、「がんを治す療法事典」というのを作ったりして、情報だけはだれにも負けないくらいたくさんあるつもりです。でも、情報があるだけでは役に立たないこともあります。父親は、長年、職人をやっていて、職人しかできない頑固者。夜遅くなろうが、納得いくまで仕事をやめない。腕一本で家族をやしない、自分の人生を築き上げてきたという自信もあります。そんな父から見れば、私など、もう50歳になろうというのに、まだまだひよっ子です。そんなひよっ子の持ち込んだ情報など、父にしてみれば、危なくて仕方ない。「これがいい」「あれがいい」と言っても、まったく聞く耳をもたない。こっちも頭にきて、「勝手にしろ!」とだまってしまうのですが、この壁を何とか超えたいという気持ちもあります。親孝行のしどころでもあるのです。それで、考えました。(1)私の情報の中で父が「いいかもしれない」と思えるようなものを、父の性格も考えながら見つけてみよう。(2)それを父が「やってみたい」と思えるような伝え方をしよう。この2点です。でも、うまく見つからない。そんなとき、見事なタイミングで、父好みの健康食品が見つかったのです。
2006年03月27日
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さて、治療をどうしようか、という話になりました。通常は、手術をして取ってしまうのだと思います。でも、父の場合は、肥大型心筋症という病気がありました。心筋が標準より分厚いのだそうです。特に、自覚症状はなかったようですが、ずいぶん前の健診で指摘されたと言います。大したことはなくても、一応心臓の疾患ですから、手術はやめておこうということになりました。あとは、ホルモン療法です。前立腺がんは、男性ホルモンによって進行すると言われています。ですから、薬によって、男性ホルモンの分泌を抑えようというわけです。副作用として、勃起不全、意欲減退、ほてりなどがあるということでした。また、ホルモン療法は5年で薬が効かなくなるという話しも聞かされました。そして、それで症状が落ち着いたころに、放射線を始めようという話でした。とりあえず、ホルモン療法はやってみたらということで、注射が始まりました。病院通いが始まっても、母は相変わらず、心配でたまらないようでした。こんな調子や、あんな調子やと、電話がかかってくるたびに、「大丈夫やから」と、私は母の気持ちをなだめました。「あのな。よくあることやけど、がんになった本人はケロッとしているのに、まわりが心配してクタクタになって、倒れて先に死んでしまうことがあるからな。 末期がんでもないんやから、心配せんと見ときな」 がんの父より、心配する母の体の方が心配になってきたのです。 そしたら、「そう言われればそうや」 と、母は納得してくれました。「○○さんも、前立腺がんやったんやわ。何年も前のことやけど、まだピンピンしとるわ。元気やった奥さんが先に死んでしもて、○○さんは若い人と再婚して楽しく暮らしとるわ。 確かにそれはあるわ。 お父さんと同じような年やったで」 皮肉な話ですが、そんな例は、きっとたくさんあると思います。 がんが良くなっても、突然の事故で死んでしまう人もいるし。 母も、徐々に落ち着いてきました。 がんというと、すぐに死とつなげてしまいますが、すぐに死ぬ病気ではありません。だから、人に見られたくないものを始末したり、遺言を書きこのしたり、やり残した仕事を片付けたりする時間があるんです。 もし、心筋梗塞や脳溢血、交通事故だったら、即死ということがありますから、死ぬ準備がまったくできません。 究極のところ、どういう死に方を選ぶかということになります。 父は、幸い初期だったこともありますが、私が見る限り、次第に、がんのことはあまり気にしないようになってきているような気がします。 母も、「お父さんが死んでしまう、大変や」という気持ちから、「大したことないやん」という気持ちになって、健康のこと、がんのことを本で勉強し、人生観も変化しつつあります。
2006年03月24日
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うちの両親を見ていると、夫婦というのは面白いなと思います。片方がおたおたしていると、もう片方がしっかりしている。そうやって、うまくバランスをとっているのです。私の記憶に鮮明に残っているのは、父が職人として独立するとき。まだ、私は小学生でした。父は、独立をずっとためらっていました。慎重さが売り物の父ですから、うまくいかなかったらどうしようと、ついつい考えてしまったのでしょう。そんな父を母がせきたて、今、思い切るしかない! と、盛んにハッパをかけていました。母の勢いに押されて、父は独立。それがその後の父を生き生きとさせるきっかけになったと、私は思っています。今回は、母の方がおたおたとしていました。ドクターにあれこれ質問する母。まるで、子どもがかぜをひいて熱があるときみたいに、「お風呂はよろしいんやろか」「仕事はやってもよろしいでしょうか」がんやで、がん。もっと違う質問があるやろ。そしたら父が一言。「うるさいな。俺は急にがんになったんと違う。半年前もがんはあったんや。今までと同じにやればええんや」なかなかの名言です。正直、がんと言われたら、がくっと落ち込んでしまうと思っていました。でも、この元気ならいける。私が思っていたよりたくましい親父のようです。
2006年03月23日
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親父のがん第二回目です。鈴鹿市の鈴鹿中央病院で診察してもらい、この日は、検査結果が出ることになっていました。当事者である父と、父を心配する母、それに私と妹の4人が狭い診察室へ呼ばれました。母は、顔が青ざめています。父は、意外と冷静でした。ドクターが、レントゲン写真を見せながら、細かく説明してくれました。20日ほど前に、患部の細胞をとって検査したところ、6ヶ所中2ヶ所にがん細胞が見つかったということでした。PSAというマーカーも、33・75と高い数字を示していました。ただ、レントゲンを見ると、どこにも転移はなく、前立腺の外側にがんがちょっと顔を出しているという程度だということです。局所進行がんだけど、あまり悪性ではないとドクターは言いました。ほっとひと息です。父は、ヘビースモーカーで、母からはいつもうるさく言われていました。母としては、肺に転移でもしているのではと、それが怖かったようです。「お父さんの肺、ものすごくきれいでびっくりしたわ。あんなにタバコを吸うのに、どうしてあんなきれいなんやろ」「俺はなあ、どんなものを入れても、すぐにきれにしてしまえるだけの力があるんや。タバコくらいでがんになるか。アホ」父は、前立腺以外、問題なしという結果に、いばっています。前立腺にがんがあるということよりも、ほかが元気だということに目が向かっています。こういう性格の人は、意外としぶといところがあります。がんが嫌うのタイプです。がんが好きなのは、悪いところばかりに目が向かうタイプの人だと聞きます。しかし、がんはがん。軽視するわけにはいきません。さて、これからどうするか。ドクターが、今後の方針について説明してくれました。
2006年03月19日
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2005年秋、親父が母にうるさくいわれて定期健診を受けた。だいたい、「自分の体は自分が一番知っとる!」と、母の言うことなど聞かない頑固者。だが、今回ばかりは母もひかなかった。引きずるようにして、健診に連れていくと、「ちょっと、前立腺が大きくなっていますな」という診断。この年だと、前立腺ガンの疑いあり。まったく自覚症状はなかったのに、母は長年連れ添っているカンか、何かの異常をキャッチしたのだと思う。精密検査を受けた。そして、まもなくその結果がわかるというとき、「お前も一緒に行ってくれ」と、母から電話でSOS。やっぱり「がん」という響きは、けっこうきついものがあるのだろう。「がんて言われたらどうしようと、ドキドキするわ」と、母。「そんなもん。がんやったら、死ぬだけや。もう十分に生きたわ」と、明らかに空元気の父。これは行くしかない。「前立腺がんでは死なないから」と、私は、検査結果のわかる日、埼玉から三重県鈴鹿市の実家へと向かった。こんなところから、お話を進めていこうと思います。
2006年03月16日
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