エデンの南

エデンの南

モロッコの旅



 とにかく私のクラスは、全員上のレベルにあがれた。そんなわけで、全く同じ顔ぶれでの新しいクラスは始まった。
 この日、三時十五分の集合で、モロッコツアーに行く事になっていたので、急いで一旦ステイ先に戻り、私だけ昼食を早めにしてもらった。この日の昼食はトルティージャ。おいしかった♥ そして、荷物を持って、モロッコツアーに出発だ。モロッコへはみちこさんも一緒に行った。
 まずバスで、港のあるアルヘシラスへ。ここは有名なフラメンコ・ギタリスト、パコ・デ・ルシアの生まれた所である。バスの中から、パコ・デ・ルシアの銅像が見えた。
 船は、出発の時間より、三十分ぐらい待たされただろうか。港からの夕日がきれいだった。港からモロッコのセウタまではすぐだった。一時間程だったと思う。船は結構大きくテレビがたくさんついていたが、よく見ると椅子がはがれていたり、ぼろい所もあった。
 両替をして、バスに乗ったまま税関を通るようだ。ダゴが全員のパスポートを集め、入国審査などをしてくれているようだが、ここでかなり待たされた。ここでは写真を撮ってはいけないし、何もする事がなく、バスの中で延々と一時間ぐらい待たされた。
 最後に警官がバスの中に入ってきて、パスポートと顔を一人々チェックして、やっと、ティトゥアンに向けて、出発した。とにかくおなかがすいて、イライラした。
 このように、モロッコの旅は、とにかく待たされる事の多い旅となった。
 この日はホテルに着いて食事して寝るだけとなった。きれいなホテルだった。


1997年11月15日(土)

 みちこさんと私は、時差が変わっているのを知らず、一時間早く起きてしまった。私はこれで二度目である。そう言えば、バスの中でダゴが、
「テネモス ケ ウナ オラ メノス (私達は一時間早くしなければならない。) 」
などと言っていたのを思い出した。何の事だかわからなかったのだが、時差の事を言っていたのだ。ちょっとくやしい思いをしながら、パンばかりの朝食を食べ、私達は、バスでメルカドへ行った。ここはとにかくゴチャゴチャといろいろな物を売っていて、おもしろかった。せまい道をどんどん歩いて行った。私は途中、ヘビを首にまいて写真を撮ってもらったり、モロッコの民俗衣装を着せてもらったり、と結構楽しんだ。太鼓を売っている人がたくさんいたのだが、買っている人がいたのにはびっくりした。絨毯屋にも寄ったのだが、私は以前、トルコに旅行して、すごい絨毯屋を見ているので、ここの絨毯はきたないし、質も悪そうだなぁと思っていたのだが、このきたない絨毯を買っている人もいて、びっくり。まさか買う人がいるとは思わなかった。
 お昼に入ったレストランは豪華な所だった。演奏や、ちょっとしたショーも見せてくれた。もちろんあとでチップを要求されたが。ここで『クスクス』という、モロッコの名物料理を食べた。お米をパサパサにして細かくしたようなものの上に、よく煮込んだニンジン、キャベツなどの野菜がのっている。これに辛いタレをかけて食べるのだが、これが、じつにうまい。特に、スペインに来てから、ほとんど辛い物を食べていなかったので、辛いもの好きの私にとってはうれしかった。お昼を食べた後は、バスでタンジェへ出発だ。
 途中でスパイスなどを売っている店に寄った。ここでみちこさんと私はスパイスを二種類買った。四袋買うと、少し安くなるので、二人で四袋づつ買い、二袋づつ分けた。
 タンジェのホテルは、何だかちょっときたない感じだった。テレビもない。ホテルは全て三つ星以上だと聞いていたので、これで? という感じだ。この辺は貧しいのかもしれない。
 ホテルでの夕食は楽しかった。一緒の席に座った人達は、みちこさんと、ドイツ人のロバートさん夫妻、同じくドイツ人のやさしそうな青年、アメリカ人の男女。皆、ゆっくりのスペイン語で話をしたので、だいたいわかったし、ジョークもおもしろかった。私も結構会話に参加できたので、上達したかナと思う。食事は肉類を選ぶようになってたので、私はポジョ (鶏肉) の料理にした。ちょっと肉がパサパサしていた。
 部屋では、みちこさんがパックの試供品を持っていたので、二人でパックをした。粉と液体を混ぜてつけるやつだ。何だかおかしくて、どうしても笑ってしまい、二人とも顔がヒビ割れだらけになってしまった。それがおかしくて、また笑ってしまう。洗い流したあとは、肌がツルツルでいい感じだ。
 モロッコはどこに行ってもにおいがキョーレツだ。私のかばんにも、この日買ったスパイスのにおいがついてしまった。


1997年11月16日(日)

 モロッコ人は、結構陽気である。バスの外から皆、手を振ってくれる。道を歩いてても、
「コニチハ、オゲンキデスカ、サヨナラ」
などと言ってくる。彼等を見ていて、私はエジプト人を思い出した。彼等は、誰から教わったのか、「サラバじゃ」などと言って皆を笑わせていた。物売りがしつこいのも同じである。それにしてもバスの中にまで入ってきたのは爆笑だった。

 私達はバスでチャウエンへ行った。チャウエンは、白とブルーのコントラストが鮮やかである。外で洗濯をしている人達もいて、興味深い。しかしここでは、どうも働いている人を撮ってはいけないようだ。望遠で隠し撮りをするしかない。途中、また絨毯屋に入った。私はベルベル人のデザインだという絨毯を見て、色やデザインが気に入った。色は白地に茶色と黒が入っている。かわいいデザインだ。小さいのを一つ買った。値段は、機械製なので、千円しないくらいである。手縫いのものはもう少し高い。
 自由時間にジュエリーショップなどを見ていたら、素敵なのを見つけた。同じデザインのブレスレットで、トルコ石のものと、オニキスのものを見せてもらった。みちこさんは、それとは少し違うデザインの、オニキスのブレスレットを二種類出してもらった。必ず手の模様がついているのがおもしろい。
 ここからが勝負だ。私は二つとも買う気でいた。一つを妹のみやげにしようと思ったのだ。みちこさんは、一つ選んだ。そして、
「この三つを買うから負けてくれ。」
と言った。店員のじいさんは、なかなか負けようとしない。私はこの二つを気に入ってしまったので、絶対欲しいと思ったのと同時に、持っているモロッコの通過、デルハムを、ここで使ってしまいたいと思った。私はモロッコの通過、デルハムは、あまり使えないだろうと思い、少ししか両替しなかったのだが、案の定、ペセタがけっこう使えた。レートも悪いに違いないから、ここで全部使い切ってしまおうと考えていた。じいさんが少ししか負けてくれないので、みちこさんは、
「じゃあやだ。出よう。」
と言い出したのだが、私は「買いたい。」と言ってねばった。そうしたら、みちこさんは、自分は買わないのに、私にすごく協力してくれた。デルハムとペセタを組み合わせて、
「これでどうだ?」
と言うと、何デルハム足りない、などと言う。
「デルハムは持っていない。ペセタしかない。」
と言うと、さっき言ってたのより、高い金額のペセタを要求してくる。電卓を使いながらあーだこーだと、もうほとんどけんかである。じいさんは、とうとうこっちの希望する値段で売ってくれた。彼も生活が大変な事を考えるとちょっと可哀想な気もしたが、まあ、損はしていないだろう。おもしろかった。一つは妹に、と思ったのだが、見ているうちにどっちも捨てがたく、両方自分のものにする事にした。こういう事はよくある。妹には、別のものを買えばいいだろう。

モロッコの子供たち


モロッコの子供たち2

チャウエンにて。モロッコの子供たち


 お昼は、スケジュールによると、パラドールで食事と書いてあったので、少しワクワクしていたら、それはお城ではなくただの『パラドール』という名前のレストランだった。おまけにまたポジョ (鶏肉) が出た。こんな事なら前の日違うものを頼むんだった。
 昼食の後は、帰るだけだった。バスの中ですごくきれいな夕日が見えたので、
「ああ、ここで降ろしてくれたら…」
と思うのだが、バスは容赦なく通り過ぎて行ってしまった。
 どうでもいい所では長く時間を取り、いい所ではすぐに過ぎていってしまう。
 港に着いて船が出るまで、二時間近くも待たされたのには参った。こんなつまんない所に二時間いたって、たいして見るものはないし。それなら他の所でゆっくりさせてくれれば良かったのに、と思うのは、私が日本人だからだろうか?

 私はモロッコの事はあまり知らないが、よく耳にする、マラケシュやカサブランカには行きたかった。学校のツアーはどうも大雑把すぎる気がする。

モロッコの猫


モロッコの猫たち

モロッコの猫ちゃんたち



 家に着いたのは、午後十一時五十分頃だった。アウロラさんはすでに寝ていた。いつもシャワーを浴びる時には、アウロラさんに言ってお湯にしてもらっているので、この日はシャワーを浴びられなかった。モロッコのにおいを洗い流したかったので、ちょっとツラいなぁと思ったのだが、ベッドの上を見て感激した。アウロラさんが私のために編んでくれた、可愛いポシェットが置いてあったのだ。


1997年11月17日(月)

 早速、学校に、アウロラさんの編んでくれたポシェットを持って行った。まわりに自慢したい気持ちもあったし、手にはテキスト類を持っているので、鍵や財布などをすぐに出せるように入れておくと、結構便利でもあるのだ。黒いポシェットで、デザインも可愛いので、ファッション的にもなかなかいい。思ったとおり、評判だった。

 お昼にはなんと、またポジョが出た。三日連続になってしまった。でも味付けが違うので、とてもおいしく、三日連続の苦痛はなかった。もうちょっと食べたかったぐらいだ。ポテトも塩がきいてておいしかった。次の日ミハスに行く予定になっていたので、
「明日は、学校から直接ミハスに行くので、お昼には帰らない。」
と伝えると、アウロラさんは、
「それだったらボカディジョ (スペイン風のサンドイッチ) を持たせてあげよう。」
と言ってくれたのだ。何て親切な人なんだろう。こんなに素敵なスペインのママができたのが、本当にうれしかった。
 最近、ここマラガの気候のせいか、頭をつかったり、たくさん歩いたりして疲れているせいか、やたらに眠く、私もスペイン人並みに、シエスタ (昼寝の時間) をとる事が多くなったのだが、この日は旅行の疲れもあってか、二時間も寝てしまった。私は普段不眠症で、いつも薬を飲んで寝ているのだが、スペインでは薬を減らしても良く眠れる上に、昼寝までできてしまうので、このままここに住んでいれば、不眠症も治るのではないか、と思う。私はいつも雨戸を閉めて、真暗にしないと寝られないのだが、スペインはこの季節日の出が遅く、だいたい八時頃なので、朝まで真暗なのも都合が良い。ここに来てから体調も良い。私は鼻炎でもあり、たまに喘息がでる事もあるのだが、鼻炎のほうも調子が良い。肌が乾燥したり、荒れたりという事もないので、スペインと私の身体は相性がいいのではないかと思う。困る事といえば、食事がおいしくて、つい食べ過ぎて、たまにおなかをこわす事ぐらいだ。

 また余談だが、スペイン人と言えば、皆、フラメンコを踊り、闘牛が好きだと思っている人がいるかもしれない。フェルナンドもアナも、フラメンコを上手に踊る、とアウロラさんが言っていたので、アンダルシア地方に限って言えばある程度は本当かもしれない。しかしフェルナンドは、フラメンコよりもハードロック、ヘビーメタルが好きだと言う。闘牛も嫌いだと言っていた。牛が可哀想だというのだ。彼はやさしい男の子で、頭も良く絵がうまい。彼の描いた油絵で、果物を描いたものを見せてもらったのだが、すごく上手だった。アウロラさんもフェルナンドの事を特別可愛がっている。私は時々、彼に宿題を手伝ってもらったのだが、けっこう間違いが多く、あまり役にたたなかった。それもいい思い出である。フェルナンドは、やさしくて、可愛くて、大好きだった。いい感性を持っている彼が、どのように成長するか、楽しみでもある。


1997年11月18日(火)

 母からファックスが届いた。今までまったく日本に帰りたいとは思わなかった私だが、こういうものを見てしまうととたんに家が懐かしくなってしまい、涙が出そうだった。家の様子や、日本では、NHK朝の連続ドラマが最近はつまらない事などや、サッカー日本代表チームが、韓国にも勝ち、もう少しでワールドカップに行けそうだと騒いでいる事などが書かれていた。テレビもない寮に居ると、ほとんど日本の情報が入ってこないので知りたかった日本の情報を教えてもらえたのはうれしかった。
 私の家では、ヒロという犬、バブという猫が一緒に暮らしている。手紙を読んでいて彼等の事を思い出し、逢いたいなぁ、と思った。

 授業の後、ゆり、みちこさんと一緒にミハスに旅行した。マラガからバスで一時間ぐらい行った所にある。
 バスの中で、眠かったので少し寝ようかと思ったのだが、あまりに景色が素晴らしくて寝るどころではなかった。バスから一面に青い海と白い家々が見えていたのだ。
 ミハスに着いたとたん、日本人観光客が目に入った。みやげ物屋や、外で売っている、ミハス名物のお菓子屋さんなど、いたる所に日本語の説明がある。ここは日本人観光客が多いようだ。日本人が店員をやっているジュエリーショップもあった。店員はとても親切で、私が専門学校でジュエリーのデザインや制作を学んだことを話すと、いろいろ見せてくれた。デザインはどれもかっこいく、私の好みに合っていた。他の、日本人がやっているジュエリーショップも紹介してくれた。ダリ風のデザインがとても気に入り、そこでリングを一つ買った。
 町もお店もとても可愛くてきれいだったので、すっかりここが気に入ってしまったが、ただ、ミハス名物だと言われているロバのタクシーにはお目にかかれなくて、非常に残念だった。ゆりと、みちこさんは、着いた時に、一頭だけ見かけたと言っていたのだが、私は気がつかなかった。
 おなかもすいてきたので、私たちはバルに入った。ここでイカ墨ライスや、ハモン・コン・メロン ( ハムとメロンが一緒になったもの。これがまた、うまい。) などを食べ、リオハのワインを飲んだ。この辺のバルは、日本と同じように早く終わってしまうようだ。食べている途中なのに、椅子などをバタバタと片づけだしたので、ちょっと落ちつかなかった。
 帰りのバス停で、ゆりは同じバスを待っていたスペイン人とペラペラ話をしていた。みちこさんと私はベンチに座り、「ゆりはすごいね。」などと話をしていた。とっさにみちこさんが、
「静かに横を向いてみて。」
と言ったので、何だろうと思いながら静かに横を向くと、私の隣に一匹のネコが、お行儀良くチョコンと座っているではないか。そーっと撫でてみたが、逃げない。あんまり可愛いので、みちこさんにそっとカメラを渡し、ネコと一緒に撮ってもらった。

 ステイ先に戻ると、アウロラさんが、
「ミハスはどうだった?」
と聞いてきたので、私は、
「とても美しくて、気に入ったけど、ロバがいなかった。」
と言うと、彼女は気の毒そうな顔をして、
「ヒトミもチズコもロバに乗ったのに、どうして?」
と言った。
 この日は昼食用に、アウロラさんが、ハムとチーズの入った、おいしいボカディジョや果物を持たしてくれたのだが、大きかったので二人にも少しづつ分け、評判だった。
「お友達は、お昼どうしたの?」
と、アウロラさんが聞いてきたので、
「彼女等は、買って食べていた。」
と言うと、
「そうでしょ、そうでしょ。」
と得意げに言っていたのが、かわいかった。

 今日は母からのファックスが嬉しかったので、早速ミハスで買った絵ハガキで手紙を書いた。手紙には体調が良いと書いたが、少しのどが痛いのが気になる。


1997年11月19日(水)

 やはり風邪をひいてしまったようだ。のどの痛みが治らない。土曜日にはここを出発して一人旅をするので、なるべく早く治したい。日本でさえ一人旅なんてものはした事がないのに、ここ異国の地で、一人で宿をとったりしなければならない。不安でいっぱいだ。

 この日は、日本人の友達五人で、セントロにある『アンティグア・カサ・デ・ガルディア』というワイン屋に入った。ここは、前日、ミハスの帰りに寄ったのだが、ちょうど閉まってしまったので、(十時に終わるらしい。) 今日行く事になり、行きたい人が二人ふえて、五人になったのだ。
 ここのワイン屋では、樽から直接ついでくれるのだ。こういう樽の事を『ボデガ』というらしい。ここでは、ワインを一杯つぐごとに、机にチョークで値段を書いていくしくみになっている。ここのオヤジが最高だった。初めは感じ悪そうだったのだが、自分も飲みながらやってるもんだから、だんだん調子がでてきて、おもしろくなってきた。私の隣にいたみちこさんの背中をそっとつつき、私を指さして、
「君がやった! 君がやった! 」
と子供のように言っている。さらに調子づくと、今度はコップの水を、こぼさないでひっくり返すという、芸当までやりだした。みちこさんが「ヨシッ、今度は私が。」と、腕まくりをし、ヤッ! とコップをひっくり返すと、机が水浸しになり、チョークの字が消えかかったので、みんなで「ヤッター! ヤッター! 」と騒いでいると、オヤジは素早く、薄くなった数字を計算し、一行にまとめた。次はワインのコルクを二本とりだし、人差し指と中指で、コルク二本をいっぺんにひっくり返すという遊びをやりだした。これには皆熱中した。ゆりがあまりにへたくそだったので (手が小さいというハンデもある。) オヤジは
「ケ トルペ ! (そんなばかな! ) 」
と大声をあげ、みんな爆笑。私も何度かやらせてもらい、ちょっとコツをつかんできた。
 ワインの味は独特な美味しさだった。私はオヤジお薦めの白ワイン、セコという辛口のものが気に入ったが、他の人は、パハロとかいう鳥の名前のついた、甘口のを好んで飲んでいた。『マラガ』というマラガのワインもあり、それは甘口だそうだ。つまみも食べて一人三杯ぐらいは飲んだと思うが、( 一杯サービスしてくれた。) 一人四百ペセタという安さだった。最後にオヤジは私のカバンに、二つのコルクを入れてくれた。帰り際、私はトイレに行き、その間気づかずに帰ろうとした人がいたらしく、オヤジが、
「待って。ペケーニャ (小さいの意味) がトイレに! 」
と言ったらしい。私も待たせてはいけないと思い、急いで出てくると、
「ペケーニャ、ペケーニャ」
と言われ、おかしかった。
 その後入ったレストランで、ひろこさんという、最近新しく入った人が、同じクラスのドイツ人男性からもらったという、ものすごく効くらしい、緑色の液体の風邪薬をキャップで計って、二回分ほどくれた。なんだかすごそうな薬だが、早く治す事が先決だ。特に私は風邪をひくと、ものすごく治りが遅いのである。
 これを飲むと、ぐっすり眠れると聞いたので、今夜は睡眠導入剤なしで寝られるかと思ったが、この風邪薬を飲んでも眠くならず、結局睡眠導入剤も飲むはめになり、風邪にもたいして効果はなかった。アウロラさんは、
「薬が必要なら言ってくれ。」
とか、
「ベッドは寒くないか? 毛布をもう一枚ふやそうか?」
などと、本当に気を使ってくれる。私があと少ししか居られない事をとても残念がり、
「あまりにも短すぎる。もっと長く居て欲しい。」
などと言ってくれるので、うれしくて、何だかジ~ンときてしまった。
「本当はもっと長く居たかったが、お金がなくて。」
これは本心である。もうすぐここを離れるかと思うと残念でならない。こんなにいい家だとわかっていれば、寮になんか住まずに四週間ここに居たのに。


1997年11月20日(木)

 アウロラさんが、私の風邪を心配してくれ、アスピリナス (多分アスピリンの事) をくれた。私はコーヒーより紅茶が好きなので、朝食にはいつもホットミルクティーをいれてもらっていたのだが、この日はとくにミルクをたっぷりにしてくれて、
「おなかにいいから、これで薬を飲むといい。」
と言ってくれた。つねに相手のいいように気を使ってくれる。本当にやさしい人だ。
 今日はまた、セントロに行かなくてはならなくなった。と言うのは、始め私は、この後の旅行で、まっすぐにグラナダに行ってしまおうと考えていた。同じところに長くいた方が良さが分かるし、コルドバにも行きたいと思ったが、まわりに聞くと、「メスキータしか覚えていない。」などと言っていたので、それなら行かなくてもいいかなぁ、と思い、グラナダ行きのバスの時刻だけ調べておいたのだ。ところが、まわりから、
「グラナダに六日は長いから、一日ぐらいコルドバに行ってもいいんじゃない?」
とか、
「私はコルドバは良かったよ。ユダヤ人街もきれいだったし。」
などという意見もあり、私もその気になった。アウロラさんにも、
「グラナダに行く前にコルドバに行こうかと迷っているんだけど、どう思う?」
と聞いてみると、
「花がいっぱいで、メスキータはきれい。ワインもタパスも美味しい。おまけにジュエリーショップもたくさんある。」
 そんなことを聞いてしまうともう行かずにはいられない。そんな訳で、予定を変更してコルドバに一泊あてようと思い、コルドバ行きのバスの時刻を調べようと思ったのだ。
 学校で知り合った、ひさのちゃんという友達も、セントロに用があると言うので、一緒に行くことになった。幸いなことに、アウロラさんにもらったアスピリナスが結構効き、風邪も少しマシな状態だった。用事をすませてから、ひさのちゃんが、
「ちょっと欲しいサングラスがあって。」
というので、そのサングラスがあるベネトンに二人で入った。
 ひさのちゃんは、黒縁のカメレオンタイプ (と言うのかわからないけど。) の物を、試着した。彼女は目がパッチリした、かわいいコなんだけど、サングラスは似合わないと思った。「へん?」と聞かれて、ちょっと困った。はっきり言って『へん』だったからだ。それでもへんとは、言えないので、「おかしくはないけどー」などとあいまいな事を言ってしまった。私も同じタイプの茶色のを試着してみたら、結構気に入ってしまった。
「サングラスは一つ買ったんだけど、これもいいなぁ。どうしようかなぁ。」
などと、迷っていたら、ひさのちゃんも、その茶色のをかけて、
「こっちの方がいいかなー?」
と言ったので、エッ? 私が買いたいと言っているのに…と思ってしまったが、ひさのちゃんは髪も茶色いので、
「まあ、そっちの方が自然かもしれないね。」
と言ってしまった。結局二人とも同じサングラスを買った。ちょっとイヤだなぁ、と思ったが、どうせ今後たいして会わないだろうから、まぁいいや、と思った。
 夕食は、ステイ先の近くにある、『ビッグベン』という所で食べたいと思っていた。と言うのは、以前にアウロラさんに、「この辺においしいバルはないか?」と聞いた事があり、『ビッベッ』がいいと言っていたので、すぐ近くにあるビッグベンの事に違いない、と思っていたのだ。おいしいし、値段も高くないという。まだ私はここには入ってなかったので、滞在日数も残り少ない事だし、ぜひ入っておきたかった。
 ひさのちゃんを誘い、ビッグベンに行くと、残念な事に閉まっていた。木曜日は休みらしい。がっかりして、それならと、海岸を見るのもあと少しだと思い、海岸沿いのバルに入ることにした。そこはちょっと高めだったので、不満だったが、味は良かった。

 夜、アウロラさんが、またアスピリナスをくれ、ホットミルクにはちみつを入れたものを用意してくれた。なんてやさしいんだろう。ここを離れるのが本当に残念である。


1997年11月21日(金)

 今日は、アウロラさんが、パエリアの作り方を教えてくれることになっていた。
 いつも私は、学校から帰ると、昼食の時間までに宿題にとりこんでいたのだが、ある日、アウロラさんがせっかくお料理をしているのだから、スペイン家庭料理を作る所を、見ておかなくてはもったいないのではないか、と思い、
「食事を作っている所を見せて欲しい。」
と言ってみたのたが、彼女は、ほとんど下ごしらえをやってあって、後は煮るなり、暖めるなり、するだけの状態になっていたのだ。彼女は私が言った事を覚えていたようで、
「今日はパエリアの作り方を教えてあげるから、早く帰ってらっしゃい。」
と言ってくれたのだ。
 この日を最後に授業を終え、終了書を受け取り、同じクラスの人達に挨拶をし、急いで家に帰った。家に着くとアウロラさんが、
「早く、早く。」
と言ったので、急いで手を洗い、メモを持って調理場へ行った。アウロラさんは実に手際よく作っていた。途中で味見などもさせてもらい、おいしかった。煮ている間に外を見ていると、彼女が
「この辺の家は百九十万ペセタぐらいで売ってるよ。海沿いだともう少し高いけど。買って住んじゃいなさいよ。」
と言った。私も「住みたい」と言った。本当にそう思った。
 昼食は、アマリア、アナ、フェルナンドも一緒だったので、楽しい食事になった。

パエリア

パエリアでーす


トリティージャ

こちらはトルティージャ (スペインオムレツ) とスープです。どれも大変美味でした♪


 食事が終わり、前日に買っておいた、お礼のケーキを渡すと、皆とても喜んでくれた。私も一切れもらい、食べたらおいしかったのでホッとした。

 今日こそビッグベンで夕食を食べたかった。みちこさん、ゆり、ひろこさんも一緒にビッグベンで食べる事になった。
 アウロラさんの言ったとおり、安い上に味もバツグンだった。ゆりと、ひろこさんが、
「また、ときどき来よう。」
と言っているのが羨ましかった。二人は、まだしばらくマラガに滞在するのである。
 話も盛り上がり、楽しいひとときだった。やはりスペインに来る人同士似ているのか、じつに気が合った。
 この日も学校のフィエスタがあり、最近学校が、二日間断水し、トイレの水も出ないという事件もあったので、そのおわびにパエリアがタダで出るらしかった。それでも私はフィエスタに行く気がしなかったし、アウロラさんや、フェルナンドと、一緒に過ごす事を優先したいと思ったので、そのままステイ先に戻ることにした。三人と別れる時は、名残惜しくて、ちょっと涙が出そうだった。

 次の日は十一時のバスでコルドバに行く予定だ。その時には、アウロラさんにタクシーを呼んでもらおうと思っていたのだが、タクシーは外にたくさんいるから、呼ばない、と言われてしまった。大きいスーツケースを引きずっていかなければならないので、不安に思った。少し早めに出なければならないかもしれない。私はいつも、用意を完璧にしておかないと安心できないのだ。行動を起こす時には、下調べをきちんとやるタイプである。それならタクシーの場所を調べとくんだった、と思った。
 この日は最後の夜だったが、それほどいつもと変わらず、テレビを見ながら話をしたりという感じだった。フェルナンドは多分昼寝をたくさんしたんだろう。夜遅くなってからこっちに来て遊びだした。私は眠いのに、フェルナンドのほうはやたら元気で、夜中の一時過ぎまで遊びの相手をしていて、疲れてしまった。それでもフェルナンドと別れるのは本当に名残惜しかった。スペイン語も教えてくれたし、宿題も得意になって手伝ってくれた。間違いだらけだったけど。トランプも楽しかった。私はフェルナンドの思い出が欲しいと思い、自分のノートを持ってきて、
「何か絵を描いて。」
と言うと、ドラゴンボールの『悟空』や、龍の絵などを描いてくれた。彼は漢字の『虎』という字が書けた。『龍』という字も教えると、一生懸命書いていた。
「これはどう書くの?」
と、いろいろな日本語を聞いてきたので、『フェルナンド』『おとこのこ』『せんせい』など、いろいろ教えると、字を隠しながら書き、覚えようとした。彼はかなり覚えるのが早かった。その時私は、ボールペンで書いていたのだが、それはくるっと回すとシャーペンになるやつだった。シャーペンのほうは芯がつまっていて調子が悪かったので、
「こっちはちょっと壊れてるんだ。」
と、シャーペン側に回して言うと、フェルナンドはすごくビックリして、
「ボリグラフォ? (ボールペン) ラピス? (鉛筆) 信じられない。」
と言いながら、何度もくるくる回し、彼のおばあさんであるアウロラさんにも、
「おばあちゃん、見て見て。」
と言って見せていた。
 私のノートに描かれた、ドラゴンボールの悟空や、龍の絵のまわりに、たくさんの日本語が書かれたものが、フェルナンドの思い出として残った。

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