雪香楼箚記

春(1)_薄く濃き






                                      宮 内 卿
       薄く濃き野べの緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え










 ほかの四首に比べるといささか物足りないが、唯一の女流歌人ということであえて採りました。定家の次の世代あたりになる、新古今歌人です。歌の意味は、濃淡のある春の野辺の若草の緑は、雪がはやくく消えたところとおそく消えたところの差であろうよ。

 現代語に訳すると、なんだか理に立ちすぎるような感じに聞こえますが、実際の歌は、もっと自然をありのままに描写した素直な歌です(けれども、冒頭の後鳥羽院と比べれば、やはり清新なイメージのうちに機知を目指した、複雑な歌であることはわかるでしょう)。いい歌ですね。こういう歌を詠めるこの人は、きっと打てばひびくような、生き生きとした才女だったのではないでしょうか。野辺の雪という歌はいくつもありますが、この歌は、描写の美しさが際立っています。緑と雪の白さ(もちろんもう消えてしまっているので、それは記憶のなかのイメージであるわけですが)の対比を全面に出した、彼女の才能のなせる技なのでしょうね。現在と過去、という上の句と下の句の基本的な対立構造の上に、緑と白、眼前の光景と記憶のなかの光景、という二つの対比、そして、濃淡という共通点(緑の濃淡と雪の濃淡)を詠みこんでいる点は、素直に見えて非常に複雑な歌です。

 しかし、むつかしいことを言わなくても、たいへんに気分のいい歌だとは思いませんか? 頭のなかで読んでみるだけで、なんだか春の野辺に立っているような、晴々とした気分になってきます。「薄く濃き」や「雪のむら消え」というのは、たしかに機知をねらって用いている句ではあるのでしょうが、それがじつに近代的な情景描写になっていて(描写は精緻であればいいというわけではなくて、そこにあるものをいかに言葉によって切りとる才能に恵まれているか、ということです)、繊細なリアリティーと美しい語感にあふれています。それが、春のイメージをぼくたちの頭のなかにしっかりと喚起して、こんな晴々とした歌を成立させているのではないでしょうか。特に「むら消え」という言葉、いいですねえ。「むら」というのは、今でも使う「むらに染まる」の「むら」。不均一に、濃淡を残して、という意味です。普通なら、むらに「染まる」という足し算のイメージで使う言葉を、「消える」という引き算のイメージで用いているところが、なかなか洒落た奇抜さで、するどい語感ですね。「薄く濃き」としっかり対比して、しかも、イメージが重なってない点も、見事です。

 新古今の歌の特徴にひとつは、イメージによって読者が自由に時間を行き来するところですね。さっき過去の記憶を刺激したかと思うと、もう今度は眼前の状況の描写に意識を誘う。でも、それは切りかえているわけではなくて、あくまで、ひとつにひとつを重ねることなのであって、どちらかを消去してから次のイメージにゆくようにはなっていないのです。ひとつの光景のなかに過去と現在、あるいは現在と未来を見る。そうしたとき、恋も、自然も、美しくゆるやかにめぐりはじめ、やがて、イメージのなかで、登場人物も、道具立ても、背景も、どこかへ消えていってしまう。

 では、何が残るのでしょうか? それは、時間です。この歌のほんとうの主人公は、雪でも、若草でもなくて、そこに流れた時間そのものなのです。


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