戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年03月10日
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カテゴリ: 城(中国)
ここまで長々と相続に関わる人や出来事を、
私の個人的推測を中心に見てきましたが、
最後に、同時期に起こった元春の吉川家相続イベントと比較してみましょう。

てことで、吉川・沼田小早川のプレス担当者様にインタビューするというスタイルで、
ちょっとライトに話を進めてみます。
『吉)』は吉川、『小)』は小早川ね。


Q1)前当主の紹介をお願いします。

吉)吉川興経。吉川元経と毛利元就殿の妹の間に生まれた子なので、
   元就殿には甥になります。また、叔母が元就殿に嫁いでますので、
   こちらの方では元就殿には義理の甥にあたります。

小)小早川繁平。小早川家第3代・景平公から絶えることなく続いてきた、
   由緒正しい小早川惣領家の血を受け継ぐ者です。


 Q2)当主交代のきっかけは何ですか?建前ででも結構ですので。

 吉)家臣によるクーデターです・・・

 小)病弱で盲目の幼主に代わる新しい当主を立てようという動きが
   家中に起こりまして・・・


Q3)どちらも下からの動きなんですね。

 吉)・・・・・・。

 小)・・・・・・。


 Q4)え~と、では、当主交代劇の家中での立役者はその後どうなりました?

 吉)早々にお役御免になりました。その他の家臣も、知行替えという形で
   毛利家から送り込まれた家臣に所領を譲らされるなど、
   中心は毛利家家臣で固められました。


 小)うちにも毛利家から入ってきた方はいますが、一部を除いては
   まあ基本的に変わりないですかね。



 Q5)なるほど・・・小早川さんの「一部」というのは?

 小)あ・・・新当主選定の際に意見が分かれまして、家中で争いが起こりましたので、
   その・・・討死した者などがおりまして・・・



 Q6)そうでしたか。では、前当主の方はその後どうされました?


 吉)毛利領内で監視下に置かれていました。
   その後、突然興経様が尼子と通じているという噂が立ち、
   毛利家家臣の襲撃を受け、天文19年(1550)9月27日、
   討ち取られました。同時に、興経様の嫡男も殺されました(泣)。


 小)出家して、寺に入りました。その後、天正2年(1574)11月13日に
   亡くなりました。



ざっと、こんな感じでしょうか。
時期も経過もよく似てるけど、途中から吉川家の方は雲行きが怪しくなってきて、
結末・・・とゆーか、前当主の運命は吉川と小早川では全く違うものになった。
何が明暗を分けたんだろう?



繁平のダンジョンで「よく繁平は殺されなかったよな~」って書いたけど、
それはこの吉川興経の最期を思ってのセリフなのだ。

たぶん、元就にすれば繁平も排除したかった。
でも、しなかった。

盲目だから?
そんな説、そもそも怪しい。


還俗してギラギラ頑張っちゃった人なんか、室町~戦国にはごろごろいるさ。


養子縁組に先立つ両川側からの当初の条件はほぼ同じだったと思われる。
が・・・
この結末を見るに、恐らく沼田家は交渉を相当頑張ったんじゃないかと思う。


元就が隆景の身を案じたのと同様に、沼田家の方でも


そのために、双方の合意を見た後に、田坂氏ら隆景擁立反対派を
小早川家内で粛清するなど、沼田家側は精一杯の誠意を見せて、
この契約がお互いに無事に遂行されることを切に願っていたように思えてならない。
「お互いに」ってところが重要でね。

そして、乃美隆興は妹(か娘)まで元就に差し出した。


私が思うに、沼田家側では元就という人を、その奥にある恐さを
よくよく理解していたんじゃないのかな。

尼子方による高山城への攻撃、大内氏との不安定な関係。
油断できない状況下にあって、毛利家をバックに得ることは、
確かに大きなプラスにはなる。

でも、それは両刃の剣。

吉川家の方でも似たような環境にあったけど、元就の本当の恐ろしさを
理解していなかった。
吉川家の交渉の過程を見ると、「手玉に取られている」以外の表現は
見つからないくらい。
その甘さが、興経の悲劇を招いたんじゃないかと思う。


んで、毛利家をバックに付けて隆景を沼田家当主に迎えるという
苦渋の決断をしたものの、繁平の命の保証は取り付けた。
だから繁平は殺されず、その延長で家督譲渡後も
興経のように領内から連れ出されることはなかった。

そして沼田家側でも元就との誓約を守り、隆景の元で一丸となって
その後の毛利本家の戦いにも大きく貢献した・・・


私、以前から「家督を相続したすぐ後から毛利家の戦いに参加させられて、
よく小早川家臣がついてきたよな~」って思ってたんだけど、
こんな感じの両家の固い約束があったのだと思えば、合点がいく。

厳しい環境の中で小早川家を存続させるために、
乃美様始め家臣たちは毛利傘下に入る道を選んだのだ。
田坂義詮とは選んだ手段と方向性が違っただけなのだ。
小早川家を守ろうと頑張ったのは、どちらも同じ。



「元就は前当主を排除したかった」なんて書くと、
また腹黒なイメージを持たせるかもしれないけど、
今とは全く環境の違う当時のことだからね。
政治的判断としては、これは正しい。

特に、吉川興経の方はバリバリの壮年期で不穏な動きもあり、
これを放置しておくことは元春のためにも、毛利家のためにもならない。

その点、繁平はまだ幼かったから、興経よりはユルい条件で
交渉を成立させることが可能だったというのもあるかもしれない。


それから、小早川家は早くから海に進出していた一族だったから、
言ってみれば技術職。
内陸にあって水軍のノウハウを持たない毛利家が自家の家臣だけで
小早川水軍の能力を発揮させられるハズもなく、そうした理由から
小早川家臣団の温存を認めたという可能性もあるかもね。

そのあたりも踏まえて、こまごまとした交渉が続けられたことだろうと思う。




吉川と小早川のイベントが終了して、結果として西に吉川、東に小早川と
毛利領を挟む形で実質的な毛利の支配地が拡大した。

しかも、吉川は山岳に強く、小早川は海の一族。

あまりにも見事なイベントの成果から、
元就は初めから両家を狙ってたって書き方をする人がいるけど、それはどうかな。


「新高山城(4)」 で少し紹介したように、天文の初め、元就は

「安芸に広げよう、友達の輪っ!」

とばかりにお友達大作戦を繰り広げている。
仲良しの種を丹念に振り撒いた中でたまたま大きな芽を吹いたのが、
吉川と小早川だったんじゃないかと思うけどね。


まあ、相続のきっかけはどうであれ、毛利家の飛躍的な成長を
よく主君・義隆が許したもんだ。
分国のイチ領主があまり勢力を拡大するのは、フツーの盟主は好まないからね。

尼子からの芸備国人切り崩しの際に、元就が気を吐いていもづる式に
オセロの駒が入れ替わるのを防いだとか、この頃までに元就はかなりの実績を挙げていた。

だから、義隆の元就への信頼は相当なものだったと思われる。
それを裏切りやがって、このオヤジ・・・あやや




ところで、隆景の相続の説明で「分裂していた竹原・沼田両家を再び統合した」
ってよく書かれるんだけど、ちょっと言わせていただくと、
別に分裂した訳じゃないから。
フツーに嫡男の弟に所領を分与しただけだから。

多くの庶家がある中で、一般に知られているのは、竹原家ぐらいのもん。
隆景が最初に継いだ家だから知名度が上がったってのもあるだろうけど、
それ以前から、竹原家は庶家の中でも際立った存在だった。

長い小早川の歴史の中には、庶家が一致団結して

「もうあれこれちょっかい出さないでよ!」

って惣領家に対抗しようとしたこともある。

が、竹原家の独立性は他とは違う。

バックを選ぶのが上手かったとか、色々理由はあると思うけど、
相続の違いがポイントだったといわれる。
その辺については、竹原に行った時に書きましょうかね。



それで、この沼田小早川相続イベントだけど・・・
一言で言うと、

「毛利元就って、なんなん!?」

ってカンジ。


沼田の惣領家は次第に庶家に対する求心力も低下して、
小早川一族内では惣領家と竹原家がツートップといってもいい位の状況だった。

惣領家の当主を継ぐことは、確かにポイント高い。
が、前述したように小早川さんちの場合は竹原家が、時には惣領家をしのぐほどの
力と自立心を持っていた。

こんな中で惣領家だけを押さえても、小早川氏の完全掌握にはならない。
竹原家だけでも同じ。あくまで庶家なんだし。

だから、近隣の国人領主と比べて、小早川氏の吸収はかなり難しいレベルの
ものだったんじゃないかと思う。

が、元就は見事それをクリアした。
自慢の手品で。


たぶん、この相続イベントは竹原家をなだめるのにも
相当の時間と労力を要したんじゃないだろうか。

隆景が竹原を出てって沼田入りするだけならともかく、
竹原と沼田を一緒にしようってんだから、竹原家中でも結構な反発が
あったんじゃないかと思うのだ。

竹原家の創設から約300年。
竹原には竹原のプライドがある。
両家がひとつになって50年近く経った後でさえ、
沼田家菩提寺・米山寺と竹原家菩提寺・法常寺が
隆景の葬儀と埋葬を分担して行った事からもわかるでしょう?
(その辺は、「三原編」をご覧ください)


竹原家ができる一代前には、沼田新庄に新庄系小早川家というのが作られた。
庶家だけど、この新庄系の中でさらにまた庶家を作ってそれなりの勢力になっていた。
が、新庄系小早川氏の本家は椋梨氏。
なので、新庄系あたりの説得には、 椋梨盛平 が頑張ったかもしれない。



そんなこんなで、様々な思惑が複雑に交差する中を、
元就は笑顔でイベントを終了した。
まさにテクニシャン。希代の手品師。

ここまでを真面目に読んで下さった方には、このイベントが
『病弱で盲目の幼主に代わって隆景を立てようとする動きが起こり、
天文19年に隆景が竹原家と沼田家を統一して沼田本家を継いだ』
なんて簡単な一文で済まされるようなもんじゃなかったであろう事を
ご理解いただけたでしょうか・・・

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最終更新日  2013年05月03日 23時53分24秒


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