戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年04月09日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
●天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年(749)
1月14日、聖武天皇と光明子は行基様を戒師として菩薩戒を受け出家する。

私度僧であった行基様はこれより数年前に大僧正になってます。
が、2月2日には81歳で亡くなってるので、
聖武&光明子夫妻に戒を授けたというのはホントかよ?って
ちょっと疑りたくもなりますが(笑)。


ところでこの年は改元につぐ改元ですね。
古代の改元はめでたい事にちなむものが多いようだけど、
天平21年4月14日には「陸奥国から黄金を献上された祥瑞」により



『扶桑略記』によると、大仏のメッキに使う金は、最初は遣唐使をやって
唐から買うつもりでいたようなんだな。
それが、宇佐の八幡様から託宣があって

「ちょっと待ってよ~!
国内に金あるからさ~」


ということなので、金峰山に良弁さんを遣わして

「金、ください」

とお願いしたところ、

「え~、ウチの金は弥勒菩薩がこの世に現れた時に
使うものだからなあ・・・
じゃあ、近江の瀬田江付近に1人のジイさんが座ってる
石があるから、その石の上に観音様を祀って祈ってみてよ。」


というお告げがあったので、言われた通りにして良弁が祈ったところ、
ほどなくして陸奥から金が献上されたってお話。

「瀬田江」なら瀬田の唐橋の近くかと思ったら、
なんと石山寺のことだというじゃあ~りませんか!
しかも、石山寺の開基は良弁さんだってんだから、オドロキ・・・

以前の大津の旅では石山寺にもできれば行きたかったんだけど、

しかし、良弁がいかなる人だか知らない時に行くのと
知ってから行くのとでは萌え~度は全然違う。

なんでも、良弁さんは聖徳太子の念持仏である如意輪観音像を安置して
草庵を建てて祈ったそうなんだけど、お得意の修法でめでたく金をゲットできたものの、
如意輪観音様がそこから動かなくなってしまったので、


ま、ここからも大仏建立の中心に良弁がいたことがうかがわれるというもの。
ただ、実際金が献上されたのは瀬田で祈願を始めてから2年後だっていうから、
2年の間は良弁も気が気じゃなかったろう。

ちなみに、献上された金の中からまず120両を取って
宇佐の八幡様にお礼参りをしたそうな。


7月2日、阿倍内親王が即位して孝謙天皇となる。


●天平勝宝4年(752)
2月16日、大仏の蓮華座を鋳始める。
3月14日、大仏像に鍍金を開始する。
閏3月頃、大仏の光背を造り始める。
4月9日、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明子の親子がそろって東大寺へ行幸、
大仏の開眼供養を行う。

天平17年(745)に平城京に戻って大仏建立の再スタートをきってから7年。
全12年の工程の中でやっと半分が過ぎたとこ。
本体はおおむね出来ていたらしいが、まだ光背を背負ってない。

なんでろくにできてもいないような状況で開眼式なんかしたのか、
ウィキペディアには聖武天皇が病気だったからとする説のほか、
この年は仏教伝来からちょうど200年の節目にあたり、
灌仏会(お釈迦様のバースデー)に合わせたという説を紹介しており、
200年記念説が有力視されているらしい。

ま、灌仏会は4月8日なんだけどね、なぜか1日遅れて式典が挙行されたらしい。
あ、今日は4月9日だから、今からちょうど1262年前のことですね。
(ただし、新暦と旧暦の違いはありますが)


で、ちょっとこちらの系図をご覧ください↓。


天平後半系図-2


光明子の母・三千代は、藤原不比等に嫁ぐ前、
皇族の美努王(みぬおう)と結婚しており、3人の子を儲けてました。

藤原四兄弟が全滅した後、あらたに組まれた朝廷人事により、
橘諸兄(もろえ)が中心メンバーとなります。

「上野第二編(43)」 で、生前に正一位に昇った人は6人しかいないと
紹介しましたが、そのうちの1人が諸兄です。

が、天平勝宝7年(755)、酒の席で諸兄が朝廷を批判したという讒言があり、
翌年引退します。
その子・奈良麻呂(ならまろ)はそれ以前から謀反を何度も画策していたとされ、
天平勝宝8年5月に聖武が薨去した翌月、奈良麻呂の陰謀が発覚します。

ここではその詳細は省きますが、逮捕された奈良麻呂いわく、

「東大寺なんか造って、人民が疲弊しているじゃないか!
だから俺が立ちあがったんだ!!」


だそうですが、謀反の名目に利用されただけにせよ、
貴族や寺院のセレブ層が富む一方で、平民の負担は激増し、
平城京では餓死者やホームレスが続出したともいい、

 【反乱の口実に「東大寺建立」が利用され、反乱に加担した者たちもその名目を
  了解していたという事実が、東大寺造営の実情──すなわち天皇の理想を実現させる
  ためだけに、実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した無謀なプロジェクトで
  あったことをも、白日の下にさらしたのである。】
  (ウィキペディアより)

という現実があったようです。

ここまで色々カネの話ばっかりしてきたからおわかりでしょうが、
まだまだ生産性だって低いし、経済水準は小国の後進国にふさわしいものなのに、
あれだけ金のかかることばっかり、それもいくつも並行してやるんじゃね。
そうならない方がおかしいってもんだよね。

それでも、当時は仏教や呪術が一種の科学だから、
神仏にカネをかけるのはある面しょうがないですよ。
それに、聖武自身に篤い信仰心があったことを非難する訳でもありません。
・・・が、あまりに「やりすぎ」だし「無謀」。

なんでここまでしたんだろうか?

善意の見方をすれば、
「篤い信仰心をして仏法の保護・発展をした」・・・うん。
「あまりな自然災害の多さに、国家鎮護を熱心に仏に祈った」・・・うん。
だめだ、2つしか浮かばねえ

それより、私には遷都ラッシュは現実逃避だろ?って見えるし、
国家予算ムシの造寺・造仏はもはや「異常」といえるレベル。



井沢氏は、東大寺の大仏は長屋王の鎮魂のために造られたとしておられる。
『逆説の日本史2』だけを読んでると、なるほど~と思う。

ただ、少し自分で調べて自分で考えてみようとなってくると、
よくこの流れで井沢氏は大仏が怨霊鎮魂のためのグッズだという
推測を立てたよな~って思っちゃった。

藤原四兄弟が死滅してから大仏建立プランを立てるまで、
ちょっと期間が空きすぎてるんだよね。

つまりは、ここまで書いてきてあらためて考えてみると、
大仏を長屋王の鎮魂・除霊アイテムとするのはちょっと苦しいかな、と思った。
けど、『日本霊異記』にはこんな感じの話が載っている。


  聖武天皇は変で死んだ長屋親王一族の死骸を平城京の外に運び出し、焼き砕いて
  川や海に投げ散らしてしまったが、長屋親王の骨だけは土佐に移して葬らせた。
  ところが、その後土佐では多くの民が死んだ。恐れた人々は
  「親王の祟りによって多くの民が死にました。このままでは皆死んでしまいます」
  と役所に訴えた。そこで天皇は、土佐ではあまりに遠くて哀れなので、もう少し
  都に近い紀伊の沖の島へお移しになった。


『日本霊異記』は9世紀に入って成立したものなので、
事実をそのまま記載したか疑わしい面もあるものの、
わざわざこういう記事を入れているってことは、これに近い、
つまり当時の人が長屋王のタタリと考えたらしいことがうかがわれる。

だから、長屋王怨霊説を否定する訳ではないんだけど、
井沢氏の語る怨霊信仰の教義の変更・・・すなわち、藤原四兄弟の死亡からは
かなり時間も経っているし、長く続く地震や旱魃・飢饉に怨霊の存在を
感じたかもしれないけど、その原因を長屋王1人に求めるのは
個人的にはどうも納得いかない。



国分寺・大仏建立は妻の光明子の薦めがあったといわれる。
今回の天平歴バナの核となってるのは興福寺西金堂であり、
東大寺法華堂(羂索堂)なので大仏について突っ込んで考えるつもりはない・・・
といいつつここまで色々書いてきたのは、聖武の異常性を見たかったのと、
羂索堂と大仏にも関連性がありそうなニオイを感じたからです。

東大寺の開基は、良弁。
大仏(盧舎那仏)はサンスクリットでヴァイローチャナ、
これは「大いなる光明」を意味するという・・・


盧舎那仏を選んだ理由については、『続日本記』によると
天平12年(740)2月に河内の智識寺で盧舎那仏に感動したことがきっかけ、とある。
まあ、確かに

「いいな、これ~。
朕も造りたいな~」


って思ったかもしれないけど、だったらその後9月に藤原広嗣の乱が起こった時、
観世音菩薩を造らせるんじゃなくてそこで盧舎那仏を造ればよかったじゃん?
だから、造りたいという思いはあっても直接のきっかけは
別のところにあるんじゃないかと思うんだよね。

それにしても、金光明最勝王経と「光明」、それと良弁があちこちに出まくり。
どうにも気になるんだけどなあ・・・


ところで、光明子の自筆の書が残ってるようですが、サインは「藤三娘」。
「藤原氏の三女」の意味です。
これを書いた時、光明子は43歳のオバサン。
どこまでも藤原一族の出身というプライドが高い方だったようです。

上の系図にある橘諸兄と奈良麻呂の親子は、阿倍内親王(系図では孝謙)の
立太子に反対の立場を取っていたらしい。
そりゃ~、藤原氏以外は先のない女性皇太子なんかに賛成する訳ないよな。

藤原仲麻呂は安積親王殺害犯ともいわれるけど、光明子の引き立てを受けて
出世していった人物。
奈良麻呂の乱は、仲麻呂排除の目的が強かった。

で、そういう中に前回書いたような元正太上天皇が絡んでくると、
藤原氏にとって状況はかなりシビアになってくる。
それに危機感を抱いたのはおそらく聖武より光明子の方で、仲麻呂と組んで
まずは危険な存在である安積親王を殺し、のちに父の違う兄とその子を
死に追いやったんじゃなかろうか。

殺しては自然災害におびえ、造寺・造仏に走り、
夫は遷都を繰り返しては挫折し、無謀すぎる造仏プランがさらに社会の混乱を招き・・・
の、どこまでも続く負のスパイラル。

こんな時代を「天平」と名付けたのはあまりにもできすぎ
って冷やかに笑っちゃうのはわたくしだけじゃないんじゃないでしょうか。


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最終更新日  2014年04月10日 00時16分08秒


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