戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年07月31日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
8月ですね。

今朝は隣のチームの朝礼で管理職のHさんが「今日は晦日だから・・・」と
言ってるのが聞こえた。
晦日ってなんだか30日のことを指すイメージがあったので、
Hさんが近くに来た際、




って話しかけたら、やっぱり月の最後の日を指すんだという。
さらにHさんが語るには、Hさんのおじいさんは明治生まれで
上野広小路付近に住んでいたそうな。

で、そのジイさんは晦日には「月越しのそば」を食べていたんだと。

年の最後だけじゃなく、月の最後にもそばを食べてたんだってさ。
「月越しそば」なんて初めて聞いたよ・・・
面白いなあ



さてと、前回の続き。
道鏡を自分の後継ぎにしようと称徳天皇が準備を進める中、
有名な 宇佐八幡神託事件 が起こる。

これにより道鏡の大それた野望は打ち砕かれ、
ついで称徳天皇が亡くなると道鏡は追放され、歴史の表舞台から姿を消す・・・
そんな感じが世間一般の見方。

神託事件のどこまでが事実でどこからが後世の脚色なのかはわからない。

報告を持ち帰ってきた和気清麻呂に対し、称徳天皇はぶりぶり怒り
和気清麻呂の名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて
左遷の後流罪とし、その姉の広虫(法均:ほうきん)を
別部狭虫(わけべのさむし)と改名させてこれまた配流とした。

本当は宇佐に呼ばれたのは法均の方だったんだけど、

出家していた法均は還俗させられた上で改名・流罪となった。

これは、最初の託宣通り道鏡への禅譲を支持するという回答を持ち帰ることを
天皇が期待していたからこそ、その期待に沿う回答を持ち帰らなかった和気氏に対し
こういう処分をしたのだろうと井沢氏は見ておられる。
ちなみに、この2人はのちに赦されます。


もしここで称徳天皇の意にかなう託宣を持ち帰っていたとしたら、
道鏡が皇帝となるのに力強い味方を得たことになる。
しかし、結果は上記リンク先の通り。

道鏡即位を阻む藤原氏が介入してああいう報告をさせたという推測もアリだけど、
だとすると不自然な点があると井沢氏は語る。
それが、「これまでと変わらずアマテラスの子孫が国を治めよ」という内容。
道鏡の失脚だけを狙うなら、「道鏡はふさわしくないって言ってました」とすればいい。

 【この神託を伝えたことで、「天皇家以外の人間はこの国の王にはなれない」という
  原則が確固たるものとなってしまったからだ。外国なら、たとえば前に述べた
  カロリング家のピピンや曹操なら、こういう神託を出させることはない。自らが
  王位に就く機会を消してしまうことになるからだ。】
  (『逆説の日本史3』より)


でも、藤原氏は曹操とは違う。
あくまで寄生虫に徹すること、それが藤原氏のポリシー。

 【つまり、宇佐八幡神託事件は、天皇制を確立すると共に、藤原氏の原理を確立した
  点でも極めて重要な事件なのである。】
  (前掲書より)

もし中国生まれの禅譲が確立されて、そのシステムを永続させるために
代々の皇帝が後継者も僧侶を指定し続けたとしたら・・・
僧侶は妻帯しないのだから、「天皇の外戚」というがっちり宿主に食い込む
便利な手段は使えない。

ま、先々のことは置いておくとしても、とりあえず道鏡には
娘を嫁がせて権力を握るということはできなくなる。

称徳天皇が位を譲ろうとした相手が道鏡だということに着目した井沢氏は、
一連の道鏡にからむ出来事を簡潔な文章にまとめることに成功した。

 【要するに、道鏡事件とは、称徳女帝がこの国の統治システムを「天皇制」から
 「皇帝制」に替えようとし、その皇帝候補に弓削道鏡という男を選んだだけの、
  本質は単純明快な話なのである。】
  (前掲書より)

井沢氏の推測が合ってるかなんてことはわかりませんよ。
でも、私はやたらドス黒く描かれる道鏡像よりも、
井沢氏の説の方が素直に受け入れられるんです。

道鏡支持説を読んだことがない方には、通説と真逆の道鏡像に
違和感を覚えるかもしれませんが、井沢氏の説を詳しく知りたい方は
『逆説の日本史3』を読んでね。



さて、井沢史観によると崇高な理念を掲げた称徳天皇と道鏡のコンビだったが、
聖徳太子が「よく話し合え」って言ったのに、根回しが不足していたらしい。
まあ、話し合ったところでフジワラムシが納得するハズもない。

宝亀元年(770)4月頃、天皇が病に倒れ、8月4日に崩御する。
まずは病に倒れた後の流れを箇条書きで。

・道鏡の弟・浄人にあった統帥権を、詔勅によって6月10日以降、
 左大臣・藤原永手(房前の子)と右大臣・吉備真備に移した。

・真備の軍勢が数百人で昼夜にわたり宮中を取り囲み、一切の出入りを禁じた。
 天皇に会うことができたのは真備の娘だけで、ここから死亡日まで
 道鏡と天皇の連絡は遮断されていた。

・聖武天皇が病気の時には126人(あるいは136)もの看病禅師を招いたのに、
 女帝のためには1人も招かず、寺院での公式な病気平癒祈願も行われていない。

・女帝(天武系)の崩御後は、天智系の白壁王が次の天皇となるが、
 白壁王は200騎の兵を藤原良継(宇合の子)に指揮させ、8月17日に
 6300人の人夫を使って大和・高野に陵を築いて葬った。

・白壁王が即位すると、真備は辞職した。


つまり、病気になった後に天皇は詔を出していきなり軍事権を永手と真備に
与えたことになっている。
で、その2人はなぜか厳重に宮中を包囲。

親族が軍事権を奪われても、道鏡がその気になれば
何らかの行動は起こせたと思うのに、彼は何もしていない。

そして、白壁王は兵に守らせた上で急いで陵を造って葬った。
女帝の両親、そして弟の基皇子は佐保山という場所に固まって埋葬された。
しかし、称徳天皇だけは佐保山から離れた高野に葬られた。

異常な死を遂げた者は死穢があるので、通常の場所に葬られない。
だから称徳天皇は永手らに殺されたか、もしくは治療せずに見殺しにされたか、
ともかく異常な死を遂げただろうと井沢氏は推測する。

そもそも宮内庁が認定する高野の称徳天皇陵は、でたらめだという。

 【なぜならこれは前方後円墳だからだ。八世紀の陵墓に前方後円墳などあり得ない。
  形式として古過ぎる。これは考古学者なら誰もが認める「常識中の常識」である。
  ということは、称徳女帝の墓は所在不明ということだ。

  藤原氏の意向に逆らうと、天皇といえども「男ぐるい」の悪王にされ、あまつさえ
  墓すらも所在不明にさせられてしまう。
  これも日本史の一つの原理なのだ。】
  (前掲書より)


「男ぐるい」称徳天皇の臨終に関しては、こんな話もあるそうな。

 【「称徳帝は道鏡の陰(いん)をもあかず思されたので、道鏡は山の芋をもって
  異形なるものをこしらえて献上した。しかるところ、これが折れこんでしまったので、
  ゆゆしい病気になられた。

  百済人の医者で小手尼(手の小さい尼で婦人科医なのであろう。現代でも婦人科医は
  手が小さくなければ不適当だといわれている)というものが拝診して、『わたくしの手に
  油をぬって処置申せば、容易にとり出すことが出来ます』といったところ、百川
  (藤原百川:ジジイ註)は『妖狐なり!』とさけんで、小手尼を斬り殺してしまった。

  ために帝は病い癒えず、ついに崩御された」とある。
  日本紀略にも、水鏡にも、大体同じことが書いてある。】
  (『悪人列伝1』海音寺潮五郎より)


天武天皇以降、称徳天皇まではずっと天武系の天皇が続いた。
しかし、白壁王が即位したことで天智系は奇跡のカムバックを果たした。
白壁王あらため、光仁天皇の子が桓武天皇。

桓武はのちに平城京から長岡京、ついで平安京へと都を移すが、
この際に変わったことをしていて、その一連の動きから井沢氏は
天智と天武は実の兄弟ではなかっただろうと推測しておられる。

まあ、それは置いておいても、天武系から天智系へと変わったという表現は
一般的にも広く使われる。

そこから源氏に取って代わられるまでの長い平安時代は
別名「藤原時代」と言ってもいいんじゃないかってぐらい、
フジワラムシ全盛の時代。

いわゆる正史である『続日本紀』は平安に入ってから編纂された。
そこに編纂当時の為政者の意図が入らないと考えるのは
あまりに善意が過ぎる。

称徳天皇と道鏡のコンビが現在でも当たり前のように
ことさらに悪く書かれるのも、そうしたフジワラムシの策略に
まんまと載せられ続けているような気がしてならない。

『水鏡』なんかは同時代じゃなく、もっと後の成立だけど、
それでも称徳天皇が道鏡お手製の「大人のオモチャ」で死んだなんて話、
いくらなんでもひどすぎると思いませんか?


宝亀元年(770)8月17日、天皇が高野に葬られると
道鏡は陵の下に庵をかまえて仕えたそうな。

その4日後、白壁王から令旨が発せられる。
なんでも、道鏡の陰謀が発覚したというのだ。
しかし処分は、

 【先聖の厚恩をかえりみて、法によって刑するにしのびず、造下野国薬師寺別当に
  任じ、発遣す。】
 (『平城京 全史解説』/大角修著より)

というもの。
下野薬師寺は、鑑真の来日後に造られた三戒壇のひとつ。
そして同日、道鏡は下野へ向かわされた。

大角氏は山折哲雄氏とともに『日本仏教史入門-基礎史料で読む』を書いた方で、
仏教のプロ。
しかし、そういう方でさえ、

 【僧尼の刑罰はもっとも重くても還俗である。それ以上の刑罰を科すときは、還俗
  させたうえで処罰した。道鏡の場合は、左遷とはいえ天下の三戒壇のひとつである
  下野薬師寺の造営長官だから、高位の身分のままである。おそらく「禅師」の呪力を
  恐れたのだろう。】
  (『平城京 全史解説』より)

として、道鏡が刑罰に価することをしていなかったから
僧籍剥奪にならなかったのだとは見ない。
行間からフジワラムシがゆらゆら笑ってる顔が
見える気がしませんか?

道鏡の弟やその子は流罪とされた。
道鏡が下野で死ぬと、その亡骸は俗人として葬られたという。

政争の敗者たちに合掌。



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最終更新日  2015年04月06日 09時17分15秒


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