戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月11日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
●延暦6年(787)

3月20日、歴代天皇が年寄りを大事にしてきたことに倣って
老人に物を施す。
5月6日、まだ元服前の皇太子・安殿親王に剣を帯びさせる。
閏5月11日、これまで役人の引き継ぎの取り決めがなかったために責任の所在が
あいまいだったので、引き継ぎの際は後任の者が証明書を発行してから
前任者が離任するよう定める。

7月8日、金星が昼間見えた。
7月25日、国司や郡司が上京した際、勝手に任地に帰ったり、仮病を使ってそのまま
都に居座ったりと勝手なことをしているので、宝亀10年にこれを改めるよう指示をしたが、
相変わらず守られていない。今後はこれを厳しく処断するという命令を出す。

8月24日、高埼津(たかはしのつ)に行幸。
10月8日、この年は豊作であったので高齢者や病人に物を施す。また、水陸交通の利便を
考えて長岡に遷都したが、住民にとってはさぞ騒々しかっただろうとして乙訓郡の住民に
過去の税の未納分を免除し、郡司の主帳以上の者は位を一階ずつ上げる。

10月17日、交野へ行幸し、鷹狩り。
10月20日、長岡へ帰還。
11月5日、交野においてふたたび郊祀。玉・絹・いけにえの肉・穀物などを天に捧げる。



●延暦7年(788)

1月15日、安殿親王が元服。あわせて恩赦を行う。
3月2日、翌年の蝦夷征伐に向けて、陸奥国に兵糧3万5千石余を多賀城に運び込ませる。
また、東海道・東山道・北陸道諸国に対し7月までに干し飯2万3千石余と塩を
陸奥に運ぶよう命じる。
3月3日、来年3月までに東海道・東山道・坂東諸国の歩兵・騎兵5万2千8百人を徴発し
多賀城に集結するよう命じる。
また、近年の国司らは公務を真面目に行わず蝦夷征討に誤った計画を行っているので、
今後は「軍用物資の準備に欠ける場合は斬罪」という条に基づいて処断するという
厳しい方針を発表。

3月4日、霧島山の山頂付近から雷のような大音響とともに火炎が噴き上がる。
夜10時頃になって火炎はやや収まるが黒煙が立ち昇り、麓には黒い砂や石が降り積もる。
3月16日、和気清麻呂の言上により、23万人余りに食料を支給して
河内・摂津両国の境に川を掘り堤を築くという大事業を行う。
4月3日、畿内で雨乞い。
4月10日、黒馬を丹生川上神に奉納して雨乞い。
4月11日、何ヶ月も続く日照りのため水不足で種蒔きができないが、皇族・臣下を問わず
家の田で水のあるところには自由に水をせきとめさせてできるだけ種蒔きをさせるよう通達。

4月16日、雨は去年の冬から降っておらず、すでに5ヵ月が経っていた。灌漑の水は
尽き始め、今年の種蒔きは絶望的とみんなが思っていた。
この日の早朝、沐浴した天皇が庭に出て自ら降雨を祈念したところ、しばらくして
空が暗くなり、多くの雨が降って大地を潤した。群臣らは歓喜して、万歳を叫ばない者は
なかった。そこで、天皇は五位以上の者に夜具と衣を与えた。皆は天皇に立派な徳と
真心が備わっており、その天皇が雨乞いをしたので天が感応したのだろうと思った。

5月2日、伊勢神宮や七道の名神(全国285座の大社)に使者を遣わし、雨乞いをさせる。
この日の夕方から多く雨が降り、全国でようやく田植えをすることができた。
5月4日、 夫人・藤原旅子が死去。 享年29歳。天皇は妃の地位と正一位を追贈した。
5月23日、中務大録・中臣浄兄は繰り返し公文書偽造を行っていたので取り調べを
しようとした矢先、自ら首をくくって死んだ。

6月7日、和気清麻呂が備前和気郡の住民が去る天平神護2年(766)の所属変更により
不便をかこっているとして民の負担に不公平がないよう対応策を言上。
6月9日、 下総と越前の封戸各50戸を梵釈寺へ施入。
6月10日、石川名足が死去。

7月6日、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とする。
7月28日、前右大臣・大中臣清麻呂が死去。
9月26日、水陸の利便さから長岡の地に都を遷したが、皇居はいまだ完成せず、
都建設に徴発された人民は粗末な着物を着て疲れきっている。これに深く心を痛めているので、
役夫を提供している諸国の今年の出挙は利息を減ずるとする勅を出す。

10月2日、雷雨と暴風により民家が壊れる。
12月7日、征夷大将軍・紀古佐美が別れの挨拶に参内。天皇は夜具や絹・真綿などと共に
節刀を与えていわく、


「現地では一切アンタに任せるからね。
これまでの副将軍たちは、軍令の執行の判断に迷うなどして
間違いを犯すことがあった。
もし副将軍が死罪に価する罪を犯した時は、拘禁して
朕に報告するよーに。軍監以下の者が法を犯した場合は
法にもとづいて斬罪とせよ。

坂東の安泰はまさにこの一挙にかかってるんだ。
必ずこの遠征を成功させてよ!!」

(by 桓武天皇)



最澄サイドの記事が増えてきたので、ここからは中央政界の動きは
なるべく簡潔に見ていこうと思ってますが、同時にページがまたがることも
増えてくるかと思いますのでご容赦ください。

さて、まず政治向きの動きとしては大遠征に向けての準備が目立ちます。
一時は戦況などについて細かく報告しろと言っていましたが、
電話もLINEもない時代、陸奥と長岡では遠すぎます。


紀古佐美に節刀を与えたのはその刀で違反者を斬れという意味で、
この遠征に賭けるなみなみならぬ決意がうかがえます。

蝦夷征伐はかなり古い時代から行われているものの、穏便な時代もあった。
が、光仁朝から38年戦争と呼ばれる大規模な征伐が行われるようになり、
4期に分けられる征討のうち、今回の遠征は第3期にあたるらしい。

蝦夷についてはこれまで特別の興味も持ってませんでしたが、
少し前にNHKで放映されていた「アテルイ伝」を観ておけばよかったと
今さら後悔したりして・・・
父親が東北の出身なので、もしかしたらわたくしにも蝦夷の血が少し
入ってるかもしれないよな~なんてついでに妄想してみました

それはともかく、坂東諸国はもちろんのこと、東北に近いエリアである


重い負担にあえいでいたのは、蝦夷に関係する国々だけではありません。
9月26日の記述からはまだろくに長岡の皇居も完成してない様子がうかがわれるし、
工事に携わる人夫は疲れ切ってます。

その一方で、23万もの人夫を動員して河内と摂津の境に川を拓くという
大事業も行ってます。
宇佐八幡神託事件
着々と位階を上げていきましたが、だいぶ発言力が増してきているようです。

各方面に出費が多い中で、梵釈寺には封戸を施入するという記事があり、
梵釈寺に対する手厚い保護がうかがわれます。


今度は災害のニュースですが、霧島が噴火したようですね。
それから、日照りの記事はここ数年はなかったのが
かなり深刻な状況にまでなっていたようです。

最後は訃報。
6月に死んだ石川名足(なたり)は淡海三船などと共に光仁天皇から
『続日本紀』の編纂を命じられたとする人物で、抜群の記憶力の持ち主。
性格も抜群に悪かったようですが(笑)、『続日本紀』の古い部分などは
この人の記憶に頼るものが大きいようです。

7月に死んだ大中臣清麻呂は『続日本紀』との直接の関係は語られませんが、
この人も古い時代のことや儀式・しきたりなどについてかなりの知識を持っていたらしく、
そういう古老などに話を聞きながら正史の編纂が進められたのかもしれません。

それと、桓武夫人・旅子も若くしてこの年亡くなってます。


さてと~、イチ僧侶である最澄は叡山にこもって4年目。
はっきりとした時期はわかりませんが、『叡山大師伝』では
天台大師・智ギの著作を読みたいと熱望していた最澄が

 そうしているうち、天台の著述の所在を知ってる人に
  出会ったので、ようやく読みたくてたまらなかった天台の書を
  写してゲットすることができたんじゃ~。


と伝える。

『若き日の最澄とその時代』によると、梵釈寺には鑑真や法進などが日本に持ち込んだ
本の写本が所蔵されていたことは間違いないそうで、
しかも法進の手元にはすべての天台経疏が揃っており、

 【法進は、物惜しみすることなく、意欲のある修学僧に対して自由に、これら諸本の
  書写をみとめ、天台学が伝わりひろまることを期待していたことがわかるのである。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

ということらしい。
こうしたことから、梵釈寺にて天台の多くの書を手に入れたと思われる最澄は
さらに天台の教えに邁進していた時期だったと思われる。

して、この年延暦7年は一般的に最澄が叡山に延暦寺を創建した年だとされる。
たとえばウィキペディアには、【薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立する】とある。

これは『山門堂舎記』にこの年、虚空蔵尾の倒木をもってみずから薬師像1躰を彫って
これを安置し、衆生の救いを祈ったとする記述があることに基づくものらしく、
延暦寺サイドでもこの伝承を採用して延暦7年を創建としているが、
どうも伝承の域を出ていないらしい。
佐伯氏は造像は延暦24年かその翌年頃だろうと見ておられる。

創建・造像の時期についてはとりあえず置いておくとしても、
修行の拠点である草庵はもちろんあっただろう。
ちなみに、延暦寺は当初は「比叡山寺」、根本中堂は「一乗止観院」という名称でした。

『新古今和歌集』に「比叡山中堂建立の時」という詞書(ことばがき)とともにある
最澄の歌もこれまた有名で、各種ガイドブックなどにも多く載せられています。

 阿耨多羅三藐三菩提の仏たち
     わが立つ杣(そま)に冥加(みょうが)あらせたまへ


「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたら・さんみゃくさんぼだい)は 訳経 のところでも
出てきてますよ~。
お経は漢訳のままだから、梵語の漢訳である阿耨多羅三藐三菩提とお経で読むのはいいとして、
和歌にまでそのまま使われてます
漢訳の歴史と思い合わせると、なかなか感慨深いものがありますね~(私だけか?)

歴史好きの皆様の中には百人一首コンプリートしている方も多いでしょうが、
最澄のこの歌を見て、多くの方が慈円のあの歌を思い浮かべるんじゃないでしょうか。

おほけなく憂き世の民におほふかな 
      わが立つ杣にすみ染の袖


これはわたくしも好きな歌ですが、似ているのも道理、
慈円の歌は最澄のこの歌をふまえたものらしいんです。
慈円の歌にそんな背景があったなんて・・・
歴史を知るとさまざまな事が実に楽しくなります



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最終更新日  2014年10月11日 23時51分08秒


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