戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月16日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
んでは、寺社勢力が活用したもっとも明快でアグレッシブでポピュラーな手段、
「強訴」について。


ウィキペディアの「僧兵」のページのサイド欄には
「僧兵の古写真」なる画像が載っていますが、
これを見たときわたくしは

オオ!びゅりほ~!!

・・・と素直に思いました。
なんたって、顔がほとんど隠れるしね。
現代の働くおじさん達も、制服を着てるとカッコ良く見える。
さらに帽子がついてれば(顔が隠れるから)イケメン度はアップする


弁慶などの「僧兵」がかぶる頭巾は「裹頭」(かとう)と呼ばれるけど、
裹頭の中に頭を保護する武具はあったのだろうか?

そして、お決まりの高下駄・・・
これも意外に安定性はいいとかいう話もあるけど、
戦国時代の機能的で実戦的な武具を見慣れる人間にしてみれば、
激しい戦いをこなせるようないでたちだとはあまり思えない・・・

ただ、妙な色気はあるけどね。
ここでも山折哲雄氏の 服飾倒錯説 が頭をかすめたわたくし・・・

しかし、『僧兵=祈りと暴力の力』で強訴の実例などを読んでるうち、
これはこれでいいんだとも思うようになりました。

合戦において槍1本でおのれの身を立てた戦国時代とは訳が違うんです。
『僧兵=祈りと暴力の力』から、いくつかの実例を見てみましょう。



長暦2年(1038)、天台座主の後任をめぐって
円珍派と円仁派の争いがまた勃発した。
時の関白が次の座主に円珍派の僧を推薦したことで円仁派が抗議したというものだった。

できればトラブルは回避したいところだったけど、関白の意志は固かった。

10月26日、僧綱たちが下山し、あらかじめ訴訟の内容を報告した。
これに対し、天皇は「三綱と寺務を司る政所だけが来て書面で訴えるのであればOK」と
回答する。
関白も、「来るのは構わないが大勢で来るのはどうかとも思うし、
そもそも訴訟の内容で判断すべきものだから、数で脅されたって
判断が変わることはないよ~」とコメントする。

この時の数は2~3千人ともいう。
その数字が実数かどうかはさておき、この頃にはかなりの数の大衆が
強訴に参加するようになっていたらしい。

10月27日、予告通り大衆たちが下山する。
しかし、彼らはその日のうちに帰山した。

これは円珍派を座主にはしないという内々の宣旨が下されたためだという
情報が飛び交ったが、関係者が「ホントかよ?」と調べたところ、
それはニセの宣旨であり、朝廷から事の収束を強く求められて板挟みになった僧綱たちが
大衆を山へ帰すためにでっち上げた苦肉の策だということがわかった。

この件には複雑な座主争いも絡んでいるのでここまでにしますが、
衣川氏はここから

 【(前略)誇張もあるにせよ「二三千人」の下山はやはり驚くべき事態であり、
  それによる混乱はなんとしても避けなければならなかった。それゆえ、僧綱や
  「諸司三綱」という朝廷からみて御しやすい者が間に立てられた。この方針は
  強訴対応の基本となるが、大衆の側からみれば、僧綱クラスの高僧が寺院本位
  ではなく朝廷にとりこまれて動いた格好になる。寺院が直面した諸問題に主体的に
  立ち向かうようになった大衆と、俗権に近い僧綱との距離は遠くなっていく。
  (中略)そして、座主や僧綱のコントロールを離れた大衆は、都鄙にわたって
  強力に作用した神威をともない、強訴を行うようになる。】

と解説する。


承暦3年(1079)には祇園社の人事をめぐって叡山の僧徒「千余口」が
祇園社に集結し、「訴えに対する回答がなければ天神参詣のために
そのまま入洛する」と迫った事件が起こる。

で実際に参加した大衆はといえば、600人が大般若経を、200人が仁王経を、
200人が武装し弓矢を携えるというものだった。

 【ここで動員された武器と経巻の比率は一対四であり、少なくともこの時の強訴は
  武力一辺倒ではなく、武装は一部に限定されていた。大衆は、むしろ経巻という
  シンボルによって、その宗教的なパワーによる効果を期待していたと考えられる。
 (中略)ここから推測できるのは、一般に強訴時の武力的性格は制限されていたのでは
  ないか、ということである。】
  (『僧兵=祈りと暴力の力』より)


ウィキペディアの「強訴」のページには、織田軍による叡山焼討ちまでの
強訴の一覧が載っている。
が、これはおそらく実際に行動が起こされたものだけで、
これ以外にも強訴の噂だけで未遂に終わったケースや、
双方のにらみ合いだけで衝突までには至らなかったケースもあるらしい。

元永元年(1118)のケースでは、強訴を阻止すべく検非違使や武士が
鴨川に派遣されたが、その際の白河院の下知が興味深い。

 【大衆を射てはならない。ただ阻止すればよいのだ。もし制止をしてもなお乱入する
  者があったならば、確実にその身をからめとって連行せよ。】
  (前掲書より。出典は『中右記』)

この時の朝廷側の人数は千人を超すものだったという。
それだけの武力を用意しながらも、白河院は攻撃はするなと命令し、
その作戦が効を奏してこの時は武力衝突を回避することができた。

衣川氏によると、朝廷側では相手が全面的な武力攻撃をしかけてくることはないとの
読みを持っており、強訴側でもとにかく武力でことを解決しよう、とは
思っていなかったのだという。
朝廷が大量の武士を動員したのは、武力による応戦ではなく、
あくまで阻止が目的だったというのだ。

 【強訴の基本姿勢は政治的要求や訴訟の進行にあり、それは武力攻撃に依拠したもの
  ではなかった。また、大衆の中には逸脱して暴力に走る者は基本的にはなく、あったと
  しても少数であろうという朝廷側の認識もあって、すべての強訴が合戦に発展する
  ことはなかった。強訴とは、自らに有利な裁定を勝ちとるために神威を駆使して
  遂行される訴訟であって、決して武力攻撃そのものではない。】
  (前掲書より)


ドラマなどの弁慶に代表されるような、むくつけき僧体に甲冑をまとった大男たちが
日吉神社の神輿を


オラオラオラ、言うこと聞けよ~!!
そ~れワッショイ!!」


と威勢よくぶんぶん担ぎ上げてワアワアやって、とにかく手が付けられない
暴れん坊たち・・・みたいな強訴のイメージとはずいぶん違う。

のちには神輿の動座も常套手段になっていったかもしれないけど、
武装しない僧侶たちがお経を持って大行進した時もあったなんて、
ちょっと肩すかしのような気もした。


とはいえ、脅しは脅しだし、全く武力衝突がなかった訳でもない。
天永4年(1113)に清水寺の別当をめぐって延暦寺と興福寺の大衆が
同時に入洛した際は、ちょっとしたハプニングがきっかけで
興福寺大衆と検非違使の間で大きな戦闘となってしまい、
双方から多数の死傷者が出た。

この時に興福寺側から出された弁明は、本来は戦闘を回避しようと思っており、
偶発的な出来事により戦闘が起こってしまったのは本意ではない、
とするものだった。

 【合戦となってしまった後でさえ、戦闘を回避しようとした大衆の姿勢を強調する
  この論法は、大衆がそこから逸脱しなければお咎めなしという世俗の寛容を
  逆に照らしだすものであった。】
  (前掲書より)

強訴側が積極的に武力を行使しようとせず、
まずは武力をちらつかせることで交渉を有利かつスムーズに運ぼうとした理由は、
寺社が武力行使をすることによる世間の批判をかわそうとしたほか、
本気で戦ったら「僧兵」は本職の武士にかなわない、という認識が
寺社側にあったからだという。

対する朝廷側でも、強訴は困ったものではあったけれども、
その行動の基本はあくまで「訴訟」であることを認識していたからこそ、
武力一辺倒で強訴を抑え込もうというつもりは毛頭なく、
ゆえに「訴訟」の範囲を逸脱したものでなければ
強訴のあとに厳罰を下すようなことも通常はなかったということらしい。

「強訴」というと力づくでカタをつけるという印象だけど、
強訴側でも朝廷側でも、意外に柔軟に事を進めていったようなんだよね。


双方とも基本的にはじめから武力衝突をするつもりがなく、
しかもお互いがそういう認識を持っていたのであれば、
「どうせ今回も形だけだろ」と余裕を持って交渉に臨むことも
できたんじゃないかという想像もできる。
が、貴族たちは強訴を恐れた。

当時の史料によると、強訴集団から奇異な大声が聞こえてきたという
記述が多いらしい。
ここから衣川氏が推測するのは、武力もさることながら
神木や神輿を持ち出して奇っ怪な声を張り上げながら向かってくる、
霊的なパワーを恐れたのだろうということ。

それゆえ、貴族たちは自分よりも霊的に鈍感だろうと思っていた武士を
当たらせたのだろうと推測しておられる。


『殴り合う貴族たち』を読んだ時、
「こいつらヒマで力を持て余してたんじゃないか~?」と思った。
平和がいいと思いながらも、人間は心のどこかで戦いだとか、
暴力的なものが好きなんじゃないかとも思った。

貴族社会で身勝手な暴力が蔓延していた同じ時期、
経済的自衛の必要性から寺社勢力が武力を持ち始めた。
そしてまた同じ頃、武士も力をつけ始めた。

平安貴族たちが住んでいた寝殿造では、部屋の一角に「穴」を開けて
トイレとしていたらしいことが『今昔物語集』などからうかがわれるらしい。
そういう固定式のトイレのほか、「おまる」も使っていたらしく、
貴族のお出かけに随行する侍が腰に携帯トイレの「尿筒」をぶら下げて歩いたり、
主人の「おまる」を抱えて歩く姿を描いた絵巻物がある。
それ以外にも、貴族が病気になった際、主の足元に寝て付き添いして
「下」の世話までしていたという侍が『宇治拾遺物語』に登場する。

貴族の身の周りの世話をしていた「さぶらう者」が
社会に増え始めた暴力・強訴などを糧に、ひそかに「おまる持ち」から
ファイターへの華麗なる転身を遂げつつあったというのも
なかなか興味深い話だな、と思った。

教科書に書かれる平安時代は、
長い割にその前後の時代に比べてロクな話題がない。
せいぜい荘園の発展、武士の台頭、院政の開始、保元・平治の乱ぐらい?
が、時代はひそかに、そして確実に動いていたということを実感した。



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最終更新日  2015年02月17日 21時42分13秒


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