戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年03月02日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて、今度はお隣の法華堂へ。


叡山2・西塔・法華堂



叡山2・西塔・法華堂2



叡山2・西塔・法華堂3



 【重要文化財建造物 延暦寺法華堂 一棟

  法華堂は、桁行5間、梁間5間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、
  正面に1間の向拝をつけています。隣の常行堂も同形式で、桁行4間、梁間1間、
  唐破風造の廊下で結ばれていることから、廊下を「にない棒」に見立てて、両堂を
  「にない堂」と呼んでいます。

  用いた和洋のすぐれた建築で、文禄4年(1595)に建てられたものです。
  内部も常行堂と同様で、柱が立つところには、すべて柱を立てるという珍しい形を
  とっています。昭和30年(1955)6月に常行堂と共に国の重要文化財に指定
  されました。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

半行半坐三昧行を行う法華堂は、天長2年(825)11月3日、
2世座主円澄によって建てられたという。
堂内には本尊である普賢菩薩像のほか、最澄の筆によるお経も納められていた。

久寿元年(1154)11月11日夜、焼失。
すぐ隣の常行堂も仲良く焼失したと思われるが、『山門堂舎記』にある
常行堂の火災日は11月10日夜となってて、1日違う。


お香の火が仏壇に移って法華堂・常行堂ともに焼失したとあるから、
いずれにせよどちらかから火が出てもう一方も類焼したってことだろう。

常行堂ではこの火事のあと、仮のお堂を建てて行を続けたが、
法華堂の方では「丈六堂」に移って行を続けたとある。

また、文永8年(1271)にも仲良く焼失。

折からの強風にあおられて類焼したものらしい。


法華堂の近くには古い石塔があった↓。
墓かな。


叡山2・西塔・にない堂3


法華堂の前から常行堂の方を見た光景↓。


叡山2・西塔・にない堂5


同じ場所から見る常行堂↓。


叡山2・西塔・にない堂6


法華堂の脇↓。


叡山2・西塔・にない堂7


こちらは(たぶん)、常行堂の脇↓。


叡山2・西塔・にない堂8


ん~、なるほど。
同じ造りのお堂と言っても、同じ並べ方じゃなくて左右対称になってるんだな。


「にない棒」の下をくぐって奥へ進むと、長い石段が現われる。
石段を下りていく途中には、左右にお堂がある。
まず右手にあるのがこちら↓。


叡山2・西塔・政所



叡山2・西塔・政所2


三塔のそれぞれには寺務を司る政所があり、ここが西塔の政所。
政所の上に全山を統轄する天台座主がいる訳だけど、
各塔はそれぞれ独立心を持っていたので統轄と言っても簡単なものではなかったらしく、
時には座主の人事そのものが山内の軋轢を引き起こしたりもした。

で、門柱の向かって左の木札には「延暦寺学問所 止観道場」とある。
ここから近い場所には居士林(こじりん)というエリアがあり、
2つの道場があって一般の企業や学生などから2泊3日の修行者を受け入れ、
常時50名ほどの修行者がおるそうな。

その道場のうちのひとつが本覚院(ほんがくいん)といい、
西塔の宝幢院(ほうどういん)で修行をした小僧の良源さんが
そこで得度したという。

本坂を登り始める前、 走井の元三大師堂 のところで
叡山における元三大師信仰について少し書きましたが、
本覚院では「鏡大師」をお祀りしているそうです。

のちに良源さんは西塔から横川へ移りますが、その際、
自分の姿を鏡に写して木像を刻んで西塔に残していったという由来から、
鏡大師と呼ばれているんだそうな。

ええ~、でも、良源さんが横川に移ったのってまだ彼が飛躍する前の話なんだけど。
自分の姿を写した木像を置いていくほどの存在感あったかな・・・

てツッコミはともかく、織田軍による叡山攻めの際には
鏡大師は横川から北東にある琵琶湖畔の仰木(おおぎ)の信者・権兵衛さんちに
避難していたんだそうな。

その後、本覚院が再建されると、




と鏡大師が権兵衛さんの夢に3日続けて現われてうるさいので(笑)、
めでたく鏡大師は本覚院へお戻りになったというエピソードがある。
そして、田作りの守り神としても信仰されているそうな。
田の守り神は 豆大師 だけじゃなかったんだね。

良源さんの遺言では、本覚院を自分の弟子2人が守るよう指示しているので、
横川の大発展に尽くしながらも西塔本覚院は良源さんの影響下にあったか、
あるいは重視していたものと思われる。



参道をはさんだ西塔政所の向かいにあるのがこちら↓。


叡山2・西塔・恵亮堂2


叡山2・西塔・恵亮堂5


 【恵亮堂(えりょうどう)

  恵亮和尚(800~859)を本尊として祀る。この和尚を大楽大師と称し
  当時お山の中では修力霊験に最も優れた和尚であり、京都の妙法院を創建した
  人である。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


天台宗で正式な大師号を受けたとされる方は、以下の6人。

 伝教大師/最澄(766~822)
 慈覚大師/円仁(794~864)
 智証大師/円珍(814~891)
 慈慧(恵)大師/良源(912~985)
 慈摂大師/真盛(1443~1495)
 慈眼大師/天海(1536~1643)

が、これ以外にも天台宗では光定さんのように
「大師」と尊称される方が数人おられます。
これまで本シリーズで紹介してきた方でいうと、

 修禅大師/義真(781~833)  
 寂光大師/円澄(771~836)
 別当大師/光定(779~858)

プラス、大楽大師・恵亮さん、それから今回はゆかりの場所へ寄っていないので
書く予定はありませんが、建立大師・相応(831~918)が
わたくしの知っているところ。
実際はもう少しいるのかもしれない。

けど、とりあえずこれだけを見ると、大師号を受けていないで
大師と尊称されている方は皆様ひとケタ世紀の人ばかりだな。
しかも、最澄の遺志を継いで堂宇を建てるなどいずれも延暦寺の発展に
力を尽くしてきた方たち。

最澄の生前から最澄の元を去った弟子も結構いたらしいんだけど、
それでも残った人がひたむきに真面目に力を尽くした結果が現在につながるので、
初期延暦寺に大師と尊称される方が多いのもわかる気がする。


で、恵亮さん。
彼の験力を語る有名なエピソードにこんなのがある。

文徳天皇の後継者をめぐって、紀名虎(きのなとら)を外祖父に持つ
惟喬(これたか)親王と、藤原良房を外祖父に持つ惟仁(これひと)親王が争った。

そこで、それぞれの家臣の中から力自慢を選んで相撲を取らせ、
勝った方に皇位を継がせることになったが、惟仁親王側が不利と聞いた恵亮が
祈祷を行ったところ、惟仁親王側が勝利してめでたく清和天皇となった、
という冗談みたいなお話ですが、これも紀名虎と藤原良房が相撲を取ったとか、
恵亮ではなく外祖父2人が真言僧に祈祷合戦をさせたとか、
相撲じゃなくて競馬だとか色んなバリエーションがあるようですが、
まあとにかくそんなお話のようです。

ちなみに、敗れた惟喬親王は「小野親王」ともいい、
そこから惟喬親王の屋敷は「小野宮」(おののみや)と呼ばれた。
のちに藤原実頼がその屋敷地を所有したので、実頼の系統は「小野宮家」と呼ばれ、
実頼の跡を継いだ養子で孫の実資は自らの日記にホットなニュースを書き込み、
実資の実直な人柄から彼の書いた日記は信憑性の高い史料として評価を受けている。

これが「小野宮右大臣実資の日記」を縮めた『小右記』と呼ばれるもので、
「叡山攻め(95)」 以降数話にわたってアラクレ貴公子たちの暴力事件を紹介した
ベースとなった、あの『小右記』です。



宝形造で華頭窓(かとうまど)を付けた恵亮堂はなかなか素敵な造り・・・
が、このスタイルだと後世の再建だな。
総素木かと思いきや、


叡山2・西塔・恵亮堂6



叡山2・西塔・恵亮堂7


かすかに一部、彩色が残ってる。
全面「塗り」じゃなかったかもしれないけど、
静かな中にも風格のあるお堂です。

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最終更新日  2015年06月17日 20時58分32秒


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