戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年04月13日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
藤原師輔の一周忌法要の1週間ほど前、良源さんは宮中に参内して


最澄の歴バナで南都六宗のうち法相宗がかなり優位にあったことを書きましたが、
良源さんの頃でもいぜん法相宗は優位を占めており、そうした状況への不満を述べたそうな。

そして華厳宗と三論宗へ手紙を出す。
主旨は、「それぞれの宗派は説き方が違っているだけで
そこに優劣はないはずなのに、法相だけが優れたものとして優位にあるのはおかしい。
帝にもそのことを申しあげたところ、感じるところがおありのようだった。
だから、三宗で語らってそれぞれの教義の深浅を判釈していただくよう


それで天台・華厳・三論の三宗から奏状が提出され、
翌応和2年(962)の3月に各宗派から意見書を提出せよとの宣旨が下される。
が、その期日を迎える前にあらたな宣旨が出され、
応和3年(963)6月19日に村上天皇が書写した法華経の供養法会が
行われるので、その時に教義の判釈を行うことになった。
その後予定は2回延期され、8月21日に開催された。

「応和の宗論」と呼ばれるこの論議は、人によって解釈の違いもあるようですが
良源さんの経歴の中では重要な出来事です。
この時、51歳。


法会は5日間。
南都と北嶺からそれぞれ10人ずつが選抜され、

1人が導師として質問をし、1人が問者として答えるというもので、
いちおうメインは村上天皇書写の法華経の供養であったから、
論議も法華経についての内容で「法華十講」だったようです。

初めは天台・華厳・三論の三宗の教義の判釈という提案だったのが、
テーマが天台の根本経典である法華経となり、気が付けば

しかも南都からの参加者は華厳1人、三論1人、法相8人の
いずれも僧綱位か、僧綱入り目前の立場にある方ばかり。
対する北嶺の参加者は良源さんを含めすべてがヒラの凡僧だった。
ちなみに、天台側の参加者の中には円珍派の僧も含まれており、
余慶 さんも交じってます。

3回目の論議までは穏やかに進行したものの、2日目の夕座で
興福寺法相宗の法蔵が得意の論説を張ったところからにわかに活発化する。
これはどうも、最澄たんと徳一たんが大バトルをかわした
「誰でも悟ることができるかできないか」 という議題だったようですが、
天台側の覚慶は良源さんの弟子でのちに天台座主になったほどの方であるも
この時は経験豊富で油ののった法蔵に抗しきれず、
翌3日目の朝座に出るはずだった良源さんが急遽予定の役を入れ替えて
引き続き法蔵に当たった。

お互いの論争は白熱し、午後2時に始まった夕座は夜8時過ぎまで続いて
ギャラリーの疲れもはなはだしいのでそこで一旦打ち止め。
3日目の朝座にも法蔵が出張って論戦は2日に及んだが、最後は法蔵が
「あなたの弁は富楼那のようだ」と言って口を閉ざした。
周囲は良源さんの弁舌に感動したという。

富楼那(ふるな)というのはお釈迦様の十大弟子の一人。
十大弟子はそれぞれきわだった才能をお持ちの方々で、「ナントカ第一」という尊称がある。

たとえば般若心経に出てくる舎利子(舎利佛)は「智恵第一」で、富楼那は「説法第一」。
つまり富楼那のように弁が立つ人だ、と法蔵が言ったというんですが、
なぜ法蔵が黙ってしまったのかについては色々解釈があるようなので、
とりあえずここは先へ進めましょう。


次の回からはまた静かな討論に戻った(つか、参加者もかなり疲れていた)ものの、
最終日の朝座で興福寺法相宗の仲算(ちゅうさん)が話を蒸し返して
良源さんの論にかみついた。

南都側では碩学を揃えていて仲算も優秀な人であったらしく、
仲算の弁を村上天皇が大変気に入って夕座も引き続き仲算が出るようにとの仰せがあり、
朝に続いて良源さんの論に逐一反駁を加えていったらしいが、
この時反論をくらっている当の良源さんは目を見開いたまま黙っていたという。

法蔵と良源さんのやり取りで法蔵が黙ってしまった際には
良源さんに称賛を浴びせた列席の公卿たちも、
仲算の攻撃に対し良源さんが黙っていた段になると
今度は仲算に称賛を浴びせた。
その夜、仲算は村上天皇から杯を賜った。

これにて5日におよぶ論議は終了。
結果的に中心の議題となった点については最澄たんの時代から現代に至るまで
決着のついてない内容でもあるらしいので、客観的に見てどちらが勝ったと
言えないようだけど、それぞれが「こちらの勝ちだ」としている。


このイベントの途中、南都側の形勢が不利に見えた時に
公卿である藤原氏の一人がイベントを抜け出して奈良へ向かい、
自身の氏神である春日の神へ勝利を祈願した。
その夜、春日神からお告げを受けたので宮中に戻って仲算へそのことを伝えた。
それにより仲算はラストで大活躍をすることができた。

イベント終了後、やれウチの神様にかなう者はいないとほくそ笑んで
フジワラムシたちが退出しようとした時、門前につながれていた良源さんの牛車の牛が
ヨダレを流していた。
そのヨダレは芳香を放ち、流れ流れて地面に一首の歌を現わした。

「草も木も仏に成ると聞く時は こころある身のたのもしきかな」

法相宗側が「定性二乗不成仏義」を唱えたのに対し、
良源さんは「一切衆生皆成仏」という立場を取った。
天台宗では「草木国土悉皆成仏」とも言うので、
このヨダレは春日神がしゃしゃり出てきたことに対し
叡山の守護神である日吉山王も黙って見ておれず、この歌を現わした、
というエピソードがある。


応和の宗論の翌年春、師輔の娘の中宮安子が産後の肥立ちが悪く37歳で死去。
痛手ではあるものの禅師の君は良源さんのもとで修行中だし既定の路線はゆるがない。

夏、村上天皇の息災を祈る御修法に良源さんも参加し、
内供奉十禅師 となる。

その翌年の康保2年(965)12月、僧綱入り。
新しく僧綱入りした僧は3名おり、1人は天台の法性寺座主(78歳)、
もう1人は興福寺維摩会など三大勅会の講師などを歴任した薬師寺の高僧(69歳)。
法性寺座主を経験することは天台座主へのひとつのコースだし、
興福寺維摩会なども由緒ある勅会で、この2人は年齢・経験ともに申し分ない。

それに比べてわたくしの良源さんは、ぶっちゃけ公式行事でのロクな功労はないし、
しかも53歳という若さ。
『人物叢書 良源』によると、50代での僧綱入りというのは前例がないんだそうな。

内供奉十禅師を拝命したのは師輔の長男・伊尹(これただ)を通じてだったが、
伊尹自身はまだ父ほどの勢力を築くまでには成長しておらず、
師輔も中宮安子もすでにこの世の人ではない。
つまりは内供奉十禅師⇒僧綱入りと一足飛びの昇進を後押ししてくれる強大な勢力はない。

なら、なぜとんとん拍子に昇進することができたのか・・・
これはもう、応和の宗論での活躍しかないだろうと平林盛得氏は言うんです。

そこで応和の宗論に戻りますが、そもそも「ウチと華厳と三論でがっちりタッグを組んで
偉そうにのさばってる法相に対抗しましょうよ~」って話だったのが、
フタを開けてみれば南都VS.北嶺・・・実質的には法相VS.天台の対立構造になっていた。
しかも天台側には高い地位にある碩学などはいない。
少し長くなりますが、良源さんの計画性、あるいは計算高さを物語る大事な部分なので
『人物叢書 良源』から引用して紹介します。

 【法論を挑んでいる天台宗が何故こうした劣位の僧たちを選んだのであろうか。それは
  一にかかって天台宗の発起者が叡山三塔の最末横川(この時期まだ横川は山上で独立した
  位置ではない)の主、良源であったからである。(中略)南都の小乗仏教的性格に対して
  天台宗の大乗仏教的性格の正当性を主張したのは開祖最澄で、すでに法相宗徳一と激烈な
  論争を行っている。それからほぼ一世紀の間、天台宗の高僧で積極的にこの問題に
  取り組もうとした者はいなかった。(中略)良源はこの点に着目した。良源自身この問題で
  法相宗と対論して勝利を得る自信があった。

  そしてこの問題では、積極的な賛成を得られないまでも、天台の高僧達からの妨害はない。
  さらに法相宗が諸宗の上にある形の点から、法相宗以外の諸宗に呼びかけ、その賛成を得る
  根回しをしている。こうした見通しと、周到な行動がさきの宗論となるのである。天台宗
  では当然良源がその責任を負う形で人選が進められることになる。惨敗しても天台宗全体の
  問題ではない。したがって、良源の動員できる、天台執行部ではない、いわば僧位から
  いえば低位の僧達が指命され、他宗とはいちじるしくバランスを欠いたものとなった。
  講経の場において諸宗の深浅を審議するといっても、具体的には良源一派が法相宗に挑戦
  するということであった。(中略)

  ところで良源はこの宗論で、法相宗を徹底的に論破して宗祖最澄以来の決着をつけようと
  したのであろうか。どうもそうではないらしい。それは仲算の反論に対して、一切再論して
  いない態度である。(中略)仲算の弁説に恐れをなしたとは思えない。すでに良源は自分の
  目的を達していたのである。それはこの宗論に活躍することによって王朝公家の信頼を得る
  ということである。(中略)法相宗を完膚なきまでに論破することを目的としたものでは
  なく、いわば名を挙げればよいのである。仲算の活躍を容認することにより列席の公卿達
  に、良源の才能の優越性と深追いしない融通性をも印象付けたとすれば、良源の意図は
  完全に達せられたことになる。】

研究者レベルになると様々な解釈があるものの、一般的には応和の宗論で活躍したことが
良源さんの名を上げ、その後の活躍につながるとされる。

ま、活躍したことに違いはないけどね。
でも何も目的としないただの純粋な活躍というよりは、結果を見据えて
より高く飛躍するための踏み台を用意周到に準備したという平林氏の解説の方が
妥当な気がします。


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最終更新日  2015年04月13日 23時37分06秒


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