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嶋本昭三アートイベントアート チャレンジドプロジェクト・中日障害者芸術展 ファーストキック アーベント日時 : 2007年3月1日(木) 午後4時~7時場所 : エスパス フェリシモ 神戸市須磨区弥栄台2-7 地下鉄「総合運動公園前駅」前李小林女史 (李先念元国家主席長女。中国人民対外友好協会副会長)嶋本昭三 (現代美術家、宝塚造形大学教授)嶋本高之 (音楽家)竹中ナミ (社会福祉法人プロップステーション理事長)ニューヨーク グッケンハイム美術館を小型化したような「エスパス・フェリシモ」1階床一面、山のように散らばって置かれているオブジェ郡!これらはすべてフェリシモによって企画供定された品々である。立体物については、嶋本高之グループのパーカッショナーが演奏、列べられたモノも演奏者もすべて真っ白。加えて嶋本昭三の現代美術グループ「AU」のパフォーマー達が不思議な出で立ちで不気味に行動。それも真っ白。そして嶋本昭三は真ん中の高台よりペイントの入ったLOCOCUPを、彼らやオブジェに向けて投下!それらは嶋本の作品になっていく。そして形を変えて後日販売され、一部は障害者展に寄付される。兵庫公館(迎賓館)での個展、イタリア『ベネトン』での個展、ベネチアビエンナーレ、北京大型障害者芸術展、神戸ビエンナーレ等、更に次々と内容・方法も膨らんでいく予定。ぜひご来場ください。
2007.02.22
今年の7月に中国北京で大型中・日障害者芸術展が開催される。昨年は、私と宝塚造形芸術大学並びに、私のアート仲間であるAU現代芸術が、日本の代表として、中・日現代芸術展に招待された。そして北京の重要建築物である対外友好協会の中で中国4000年の歴史始まって以来のパフォーマンスの発表をさせてくれ、嶋本のクレーンによるビン投げパフォーマンスは中国より選ばれた芸術家集団によって巨大なモニュメントに作り上げられている。これにはビックリした。日本では考えられない。そして今年の障害者展に際しては、僕は日本の代表に選ばれた。何気なく引き受けたのであるが、ここでも驚いた。中国の代表は、北京オリンピックの代表であるトウ朴方さん(トウが機種依存文字のためカタカナ表記で失礼致します)なのである。中国が如何に障害者展に力を入れているのか。ところが驚愕はまだまだ続く。中国の前首相、李先念さんのお嬢さん、中国のNo.2の李小林女史がこの展覧会を成功させるために私のところに表敬訪問に来るという。李小林さんは大変な大物だ。たくさんの警備をつけなければ・・・。私は現在79歳。ずっと日本で暮らしているから障害者展に関する国の配慮について日本の常識で考えてしまう。中国はとんでもない国だ。大変勉強になった。この姿勢こそ障害者への理解というものだ。
2007.02.22
トリノ冬季オリンピックの開幕の様子をテレビで見た。正に大阪で行われた万博での具体まつりの再現である。もっと高度に費用もかけてテクノロジーもすすんでいるが具体まつりを真似しているというつもりはない。具体の精神を見事に受けついでイタリアのアート感覚的に大きく発展させている。1990年ローマ市美術館が具体の展覧会を開催してくれた。村上さんの紙破りやぼくの瓶投げ、ガラス玉破りなどを再現させてくれた。更にホンダのオートバイを数十台並べて、思い切りふかしたアートパフォーマンスなどしてぼくたちを喜ばせてくれた。今回も紙破りはあった。具体の空中パフォーマンスは更に発展させてバレーをはじめ様々なアートを又空中人間が実演した。ホンダに代わってフェラーリがアートを演じた。オノヨーコも出てきた。アイーダが演奏される。ハバロッディーが歌う。芸術の国、イタリアが総力をあげて発表した。そしてイタリアは具体のメンバーであったぼくを4年連続で招待してくれてアートの発表をさせてくれている。ひるがえって日本ではこの「具体芸術」についてはすっかり忘れられている。
2006.02.16
京都嵯峨芸術大学 進級制作展企画 ワークショップ 講師:嶋本昭三 日時:2006年2月11日(土) 11:00~14:00 参加費無料 ■内容■京都嵯峨芸術大学大学の進級制作展で 嶋本昭三氏をお招きしたワークショップを企画しています。 ワークショップでは、 クレーン車のゴンドラ部分に乗り、 10mもの高さから絵の具の入った 風船や紙コップを地面にたたきつける、 アートパフォーマンスを行います。 当日は少人数ではありますが、 飛び入り参加することもできます!現代美術に触れ、 狂うくらい衝撃的な体験をしましょう! お友達等お誘いあわせの上、ぜひぜひお越しください。 ■アクセス■JR「嵯峨嵐山駅」徒歩15分 阪急電鉄「松尾駅」徒歩15分、京福電鉄「車折」南へ徒歩5分 京都市バス・京都バス「車折神社前」南へ徒歩3分 ■事前お申し込み・お問い合わせ■京都嵯峨芸術大学 進級制作展ワークショップ担当北野nyanpyou86@yahoo.co.jpまで。
2006.01.11
関西女子美術短大の教授をしていたある日、ぼくのところに一人の卒業生が訪ねてきた。話聞いてみると、卒業を機に東京に出て行きたいという。ついてはお金がないので6万円貸して欲しいというのだ。約25年前の話である。ぼくは、そうかと言ってお金を貸したらしい。断っておくが、僕にとっては25年前も今も、6万円といえば大金である。あのときなぜ何の条件もつけず、一言の説教も垂れず、教え子に「はいそうですか」と言ってお金を貸したのだろう。「お前に何か貸さねばならぬような弱みがあったのだろう」と言う人もいるが、そんなことはない。彼女は初めて訪ねて来たのである。美人であったことは確かだが、とにかく何も言わずに貸したのだった。それから歳月が流れ、ぼくはそのことをすっかり忘れていた。そんなある日、一冊の本と共に6万円が送られてきた。本のタイトルは『つめたい彼女のつめたい悩み』(集英社)、著者は冨士本由紀さん。お金を貸した本人である。出世払いと言う言葉があるが、なんと彼女は文筆家となって”小説すばる文学賞”を獲得し、時代の寵児になっていたのである。ぼくは感動してしまった。とてもうれしかった。すぐに手紙を出し、何回かやりとりを交わすうち、ぼくはすっかり彼女のファンになってしまった。冷静に考えてみれば、貸したお金が返ってきただけのことである。なぜこんなにうれしいのだろう。何かドラマの主人公になったような気持ちだった。あれこれ考えをめぐらせていると、空想と現実がごっちゃになってきた。ぼくは思い切って、ドラマの主人公になることを心に決めた。そうすると、そこからまた夢が広がる。ぼくは冨士本さんの迷惑もかえりみず、その後も手紙を書き続けた。しばらくして、東京の目黒区美術館で「ライトアップ1953年」というタイトルの展示会が開催された。その当時若手アーティストだった作家たちの展覧会である。そこでぼくの大きな作品も3点陳列されることになった。そして会期中、作品の前で感激の再開とあいなった。冨士本さんはあいかわらず美しかったが、20数年の風雪は少女に風格を与えていた。ぼくは思わず大手を広げて近づき、彼女を抱擁しようとした・・・が、身体をかわされた。6万円から始まったドラマだが、ぼくは今後もこの続きを夢見ている。
2005.11.25
憂きことの猶この上に積もれかし。限りある身の力試さん。ぼくはこの言葉を知ったとき、幕末の憂国の志士吉田松陰にびっくり仰天してしまった。幕府の想像を絶した責苦の中で読んだ言である。若い頃のことであったので、この人はマゾヒストかなと失礼なことも考えたりもした。「いやなことはもっと来てくれ。自分がこれに如何に耐えうるかやってみよう」というのである。そしてぼくは今、嬉きことの猶この上に積もれかし、限りある身の力試さんという言のもとに文を書こうと思っている。ぼくは吉田松陰のこの言葉が大好きである。そしてぼくのことパラドキシカルな言の意味はまったく同じであると思っている。「ぼくは今嬉しさの絶頂にある。これ以上嬉しいことが起きるとは考えにくい。でも、嬉しいことよ、もっともっと起きてくれ、この嬉しさに耐えることが出来るか」吉田松陰が悲しいことに耐えぬいたのと同じようにぼくは嬉しいことに耐えぬくことが出来るだろうか。これはまったく同じ修行といえるのではなかろうか。いやまったく同じ意味なのかも知れない。
2005.10.31
ぼくのところには若い女性がよく集っている、と人は言う。その理由をたずねられるのであるが、猫好きの人の家には猫が集い、犬好きの人の家には犬がよく集ってくる、それと同じですよ、と答えている。しかし、それらと同じレベルにはとらまえてくれない。ニヤニヤしながらぼくに問いただす。羨ましいのだろうか、それなら自分もそうなればよいではないか。若い女性といえば、すぐにHな方向に想像されてしまう。フロイトのように分析すれば確かにぼくにそのような心理が働いていないとはいえない。しかし僕は現在77歳。昨年、前立腺の手術もしている。しかもお金もないので、金品を提供して女性の歓心を買うことは出来ないしまたそのような方法で女性の心をつなぎとめるのは悲しいことだと思っている。ならばどうするのか。ぼくは絵描き、つまりアーティストであるのでアートの話をすることが多い。「アートバカ」といった人間でアート以外のことは何も知らないのである。それなら絵描きとして、絵の描き方の話をするのか? しない。美術家として数々の有名な絵描きの話をするのか? しない。人生とはカイヨウが言ったようにゲームがある。スリルに満ちたゲームがある。人間みなそれぞれ異なった個性をもっている。得手不得手もあり、好き嫌いも様々だ。そして若い女性と一緒になって、その女性のもつ資質をさぐりだす適性を見つけだす。むつかしく考えることはない。ユニークな遊びをしようというのである。白い画用紙に一本の線を引くのも遊びである。これがアートである。これらを「嶋本劇場」と呼ぼう。この劇場の中で血がたぎるような遊びを見つけだそう。他の人が絶対に思いつかないような絵を描こう。なんとしても座ることの出来ない椅子を作ってみよう。手を入れたら抜けなくなってしまう彫刻を作ろう。今年の12月に若い女の子達数十人とウクライナに行ってアートの発表を予定している。ウクライナは世界でも有名な美男美女、スラリとしたカッコいい美男美女がいっぱい。ソ連から独立してまだ日が浅く、平均の月給が月1万円とか。とにかく物価は安い。散髪代400円。この美男美女にとんでもないアートを作って着てもらおう。若い女性でなくても年輩の女性でも男性も一緒にアートしましょう。
2005.10.21
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~ヴェネツィアでのフィナーレ~他方、RAW(野口哲郎)は、ヴェネツィア美術高校の近隣の画廊、BacArtギャラリーで、LOCOとインスタレーション作家YUKKO、ふたりそれぞれとのコラボレーションによる写真作品などを発表した。昔懐かしい下町風の雰囲気が残った日本の商店街で、床屋の椅子に座って、紙コップでできた大きな丸い頭を「散髪」するLOCOの姿や、胎内での記憶をイメージして、深紅の布を用いたインスタレーションを作るYUKKOの作品が見せる一瞬の表情が、鮮やかに切り取られていた。こうして、僕らのAUフェスティバルは、世界有数の現代美術の国際展であるヴィネツィア・ビエンナーレと同時期に、この同じ街で自由なパフォーマンスを行い、未来を指向する展覧会をつくって、このイタリアの旅を終えた。嶋本はいう「僕は”何も教えない先生”だ」。師匠とは、弟子にとって、その教えに従い、倣いながら、やがては超えていくべき存在なのがふつうだが、彼に”教え”があるとしたら、それは、「他の芸術家の真似をするな」ということだ。だからこそ、嶋本ほど「超えにくい」師匠はいない、「超えるべき何か」は嶋本ではなく自分の中にあるのだ、と僕らは感じている。ENDアンドレア・マルデガン(アート・コーディネーター)=文「美術手帳」9月号より
2005.10.17
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~ヴェネツィアでのフィナーレ~そして5月10日、最後の土地、ヴネツィアへ。旅のメンバーも、すでに帰路についた者と、あらたにヴィネツィアから参加するためにやってきた者が入れ替わり、すべてが流動しながらプロジェクトがつづく。5月末から6月14日まで、市内数か所を拠点に、街中にもゲリラ的にパフォーマンスで登場、「AUフェスティバル」を行うのだ。まずは、アカデミア橋から路地裏を歩いて数分、閑静な一角に佇む国立ヴィネツィア美術高校(Liceo Artistico Statale)へ。15歳から19歳ぐらいまで、アーティストを志す高校生たちが通う学校には、アット・ホームでリラックスした雰囲気が漂っている。建物の中心は、ガラス張りの明るいアトリエやレンガ壁で仕切られた教室に囲まれた広い中庭。緑豊かなこの庭に面した回廊を利用して、おのおのが間仕切りを立てて、作品を展示していく。学校の先生やアーティスト、生徒たち、地元に住む様々な人たちも訪れて、お気に入りの作品を見つけると、作者に「すてきだね」「いくら?私も欲しい」と声をかけ、交渉が行われた。会期中、最後の3日間は、パフォーマンスも盛んに行われた。あるときは中庭で、あるときは映画『ベニスに死す』で知られるリド島の浜辺やサンマルコ広場まで遠征して。おおまかなプランはあるとはいえ、事前にがっちりとお仕着せのスケジュールや内容が決められているわけではない。その場の空気や状況で、自然と誰かが何かを始めたり、それに触発されて、また別の何かが始まったり。仲間にも知られずに、路上の観客に向かって行ったり。嶋本は語る。「リドの海岸で日本の大風呂敷を広げてパフォーマンスを始めるアーティストもいれば、観客に向かって突如、大きな風船を使って踊りだしてパフォーマンスに引きつける、知的・身体的障害を持つアーティストもいる。アートの常識を変えるのだ」また、白塗りに白装束、煙突のような細長い白い筒がトレードマークの「白A」という仙台在住の20代の男性グループは、互いの顔面に白いスプレーを噴き付けて、歌い踊って微笑みながら、次第に息絶え絶え、瀕死の様相を呈してくるパフォーマンスで、とりわけ好評。お客さんでにぎわうビエンナーレ会場のジャルディーニ公園の中に突発的に出没して、奇妙なポーズを取ったり、寡黙に淡々とジョギングしながら”異世界”を出現させたりもした。45センチ四方のキャンパス36枚を並べた磯貝文子は、赤の面と面が重ね合わさってできた線を「夕焼け」と表現し、アクリルに光沢のある粉を混ぜた独自の赤を披露し、ひときわ際立っていた。→次回に続くアンドレア・マルデガン(アート・コーディネーター)=文「美術手帳」9月号より
2005.10.12
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~ヘリ・パフォーマンスinトレビ&ナノテクinレッジェ・エミーリア~嶋本もまた、さらにもうひとつの<限界>を超えた。新しい「絵画の場所」、歯ブラシの毛先に描かれた絵を発表したのだ。「大きくなければおもしろくない。大きいほどおもしろい」と語り、25メートル四方もの巨大キャンパスを使ったこともある男が、京都立命館大学の杉山進教授の技術サポートを得て、顕微鏡でしか見えない「世界最小のキャンパス」、直径200ミクロンの歯ブラシの先に、レーザーを使って絵を彫り込む。結果、他のアーティストたちも参加し、歯ブラシの毛一束に22人の絵が描かれた。「ナノ・テクノロジー+アート」だ。遠藤保子、こだまこずえ、紫舟ら、踊るパフォーマーの身体をキャンパスに、歯ブラシの映像照射も行われた。嶋本は語る。「フラメンコを踊った浦上豊子なんか、レゴのかけらを何百も、顔や衣服に貼り付けて。その上に歯ブラシのナノ・アートが拡大されて重なると、ふたつが混じってそれぞれの元々の限界を超え、まったく別の新しいアートが生じてくる」→次回に続くアンドレア・マルデガン(アート・コーディネーター)=文「美術手帳」9月号より
2005.09.29
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~ヘリ・パフォーマンスinトレビ&ナノテクinレッジェ・エミーリア~その後も、トレビ、そして次なる地、レッジョ・エミーリアで、連日、三者三様のプロジェクトが続く。鷲見は、算盤やバイブレーターや番傘など、いろいろな道具を使って、墨とアクリル絵具を紙の上にまきちらす。絵に引きつけられたイタリア人の観客が、思いがけない番傘の衝撃に戸惑い飛び退くと、鷲見は、今度はアシスタントが宙に掲げた大きな透明ビニールに向かって、ひしゃくで絵具をかける。観客は飛び散る絵具から逃げつつも、瞬時にかたちを変えて滴る色彩を見ようと、また近づいていく。美術館で展示不可能な、生まれながら消滅していく作品が、人を引きつけるのだ。またLOCOは、1000人もの人びとをまきこんでの糸でんわパフォーマンスや「コップ人間」などユニークな作品を生み出す作家であるが、今回《L’INCONTRO(出会い)》という糸でんわを用いたパフォーマンスを行った。等身大のふたつのコップと糸に当たる部分は、伸縮性のある筒状の布。この中に観客を通らせ、人は”声のかたち”となる。人の身体に張り付いた布は「声はどんな色?かたち?大きさ?」かを測るLOCOの表現となって現れた。→次回に続くアンドレア・マルデガン(アート・コーディネーター)=文「美術手帳」9月号より
2005.09.19
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~ヘリ・パフォーマンスinトレビ&ナノテクinレッジェ・エミーリア~その第1弾の舞台となったのはトレビ。5月26日から6月21日まで、イタリアのアート雑誌『ブラッシュ・アート』が主催する「フラッシュ・アート・ミュージアム」展にて、嶋本、そして同じく「具体」の鷲見康夫、嶋本の一番弟子で紙コップ・アーティストのLOCOによる3人展が行われた。そのオープニング・セレモニーで、嶋本は、トレビのサッカー場の上空から、ヘリコプターに乗ってパフォーマンスを披露した。イタリア語のタイトルは《COLORIDAL CIELO(空からの色)》。高度80メートルの距離から、地上に広げた6×10メートルもの真っ白い巨大な布に向かって、絵の具を仕込んだいくつものコップを投げつけて、色鮮やかな「絵画」をつくりあげる。自らの不安定な脈を支えているペースメーカーのことすら忘れたかのような激しいアクションとその産物に、隣で眺めていたパイロットは、通訳のためにヘリコプターに同乗した僕の耳に、「想像を絶する光景だ」とつぶやいた。空から落ちてくる奇跡-そこで「必要なのは、人びとの心まで焼きつくす爆弾ではない。人の心をつなぐアートだ」と嶋本はいう。96年に、広島・長崎に投下された原爆製造に関わった原子物理学者バーン・ポーターが嶋本を訪れ、「ノーベル平和賞候補」に推薦したときから、いっそう<平和のパワー>への信念を強めているからこそ、こんな光景が実現するのだろう。爆弾なんて必要ない、空から絵具を投げて絵を描けばいい-行為はシンプルだが、ほかの誰がそんなことをできるだろうか?→次回に続くアンドレア・マルデガン(アート・コーディネーター)=文「美術手帳」9月号より
2005.09.15
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~嶋本、「第二の故郷」への旅~かつてLA MOCAのポール・シンメルは、「世界4大アーティストのひとり」として、身体や行為による20世紀のアートの系譜うをたどる「アウト・オブ・アクション」展に嶋本を選出した。77歳になる現在も、長年住み慣れた兵庫を拠点としながら、「第二のホーム・グラウンド」ともいうべきイタリアで、現在のアーティスト仲間や画廊の協力を得て、継続的に活動している。そして今年、2005年、嶋本はおよそ100人の日本人アーティストたちを率いて彼の地を訪れ、現地メンバーと合流し、総計116人もの作家たちが、イタリア各地で作品発表を行った。AU会員をはじめ、嶋本が様々なかたちで長年親交を温めてきた弟子たちもいれば、教鞭をとる宝塚造形芸術大学の学部生たちや、アートとは関係ない世界で働く社会人としてあらためて美術の世界に入った大学院サテライト・クラスの在籍生・卒業生たち、会長を務める「アイプル・アート(日本障害者芸術協会)」の活動で知り合った自閉症や知的/身体障害を抱えるアーティストたち、そして、企画の交渉や司会をした僕のような世話役までいる。嶋本曰く、「全般に、美術大学で基礎もしっかり勉強した優秀な学生や、ベテラン・アーティストというのは選んでいない。知識やルールにいつの間にか縛られてしまっている人間より、美術の流れもよく知らないような人間のつくる新鮮さのほうがおもしろいことも、たくさんある」という面々。アートの捉え方から年齢・性別・国籍まで、種々雑多なメンバーによる旅がはじまった。→次回に続くアンドレア・マルデガン(アート・コーディネーター)=文「美術手帳」9月号より
2005.09.05
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~嶋本、「第二の故郷」への旅~こうして、過去半世紀にわたって旺盛な制作・発表を続けてきた嶋本だが、日本国内での個展や「具体」展はもちろん、近年では、ますます海外での発表が増えている。86年にパリのポンピドゥー・センターで開催され、日本の近代美術を本格的に再検証する大規模展の先駆けとなった「前衛の日本」展や、ニューヨークのグッゲンハイム美術館(1994)ほか全米各地を横浜美術館を巡回した「戦後日本の前衛美術」展など、歴史に残る重要な展覧会にも出品。そして、とりわけイタリアでは、90年の「前衛の日本 1950年代の具体グループ」展(ローマ国立近代美術館)を皮切りに、93年以降、99年、2003年、04年と、繰り返し、ヴィネツィア・ビエンナーレ本展やパフォーマンス部門プレ・イベントなどの関連企画に招待され、04年には、ビエンナーレの歴史にまつわる美術品の募集で知られる同市内のカ・ペーサロ国際現代美術館でも個展が開催され、多くのローカルたちに感動を与えた。(この個展の際に、嶋本が墨を塗った女性の身体のかたちを和紙に写して制作した3枚の女拓絵画は、現在、同館の所蔵作品となっている)2003年、ヴェネツィアの街角で、偶然、嶋本たちのアートに出くわした衝動から、その後、日本に渡り、以来、西宮の彼の事務所で国際的なプロジェクトの企画・交渉を担当する僕も、そんな幸運なイタリア人のひとりだ。→次回に続くアンドレア・マルデガン(アート・コーディネーター)=文「美術手帳」9月号より
2005.09.01
1950年代から半世紀もの年月ヘリコプターから地上に絵具を炸裂させる絵画など独自のアクション・ペインティング&パフォーマンスを繰り広げてきた嶋本昭三。齢77を迎えた2005年、初夏およそ100人のアーティストを率いて敢行されたイタリア関連アート・プロジェクトの旅、その記録-~嶋本、「第二の故郷」への旅~嶋本昭三という男をご存知だろうか?いささか皮肉なことがもしれないが、おそらく、外国人のアート愛好家は、年若い日本の同胞に負けないほど、この男のとに親しむチャンスを得ていた、といえるかもしれない。1928年に大阪に生まれ、54年に芦屋で吉原治良らとともに「具体美術協会」を設立したときから、彼の芸術の冒険が始まる。56年、瓶詰めした絵具を巨大なキャンパスの上の石に向かって投げたり、手製の大砲に絵具を充填し空中のシートめがけ発射させたりして描く、独自のアクション・ペインティングを開始。赤や黄色に緑に青、強烈な原色の絵具が炸裂する抽象画だ。具体解散後の75年には、「国際AU現代美術(”Artists Union"の略。後に"Art-Unidentified"と改称)」の結成に参加、翌年よりグループを主宰し、言葉によるメッセージを交換する「メール・アート」を中心に、80か国の芸術家たちのネットワークをつくりあげ、以来30年近くたった今日も、参加者は250人を超える。また、87年にはアメリカの街角や少年院を回り、剃頭した頭にメッセージを書いてもらう「ヘッド・アート」を行ったり、2000年大晦日の夜にはミレニアムを祝って、宝塚市でクレーンから、絵具入りの「LOCOコップ」を25平方メートルのキャンパスに向かって投下したりもした。→次回に続くアンドレア・マルデガン=文「美術手帳」9月号より
2005.08.22
ぼくの「にんげんドキュメント」というNHKテレビ番組が放映されたあとアートや絵を習いたいという希望者がたくさんありましたのでお答え致します。●ぼくが心がけているのは「冒険」です。●アートや絵は人に迷惑をかけない範囲で限りなく「自由」です。●他と違って「自由」を満喫すればよいのです。●何の経験もない人を歓迎します。●ぼくはベネチアビエンナーレという(ベネチア映画祭のアート版)世界で最高のアートの集まるお祭りの中で、ベネチアビエンナーレの殿堂”カ・ペサーロ美術館”にぼくのアートが3点殿堂入りしました。「マチス」や「ピカソ」もこの殿堂で飾られています。 しかし、これらは”限りなく自由”な作品であって、一般に日本人が考えているような”上手な””難しい”ものではありません。●一番大切なのは”上手”ではなくて”楽しそう””おもしろそう””感動したい””自由”ということです。●ぼくは今、宝塚造形美術大学の大学院サテライトで、社会人のためにアートを教えています。安藤忠雄の設計でタイルが光と色を演出し、毎晩6万色に色が変化するという13階建ての校舎です。阪急梅田駅茶屋町出口より歩いて2分(中津の方に向かって線路沿い)のところにあります。 TEL(06-6376-0853)毎週土曜日1時半~4時半で誰でも入学できます。忙しいときは休むのも遅刻もOKです。ここですと一番お互いに気も使わなくてアートの雰囲気を知るのに便利です。●ぼくのアトリエは西宮市のJR甲子園口駅より200mのところ(JR大阪駅より13分)にあり、アートスペースと称しています。 上記に来られない人は下記にご連絡下さい。 西宮市甲子園口1-1-10 TEL:0798-64-5730 FAX:0798-64-5723 ◆もしくは、このブログの「私書箱にメッセージを送る」より、ご連絡下さい。●あと、こちらにもお問い合わせがございましたので記しておきます。 テレビの最後に映された美女たちは「美女の会」のメンバーです。 美女さんたちも上記にご連絡下さい。●町のお絵かき教室ではありません。嶋本昭三
2005.08.09
杉山智子です。嶋本先生、個展の宣伝をありがとうございました。個展のタイトルは「邂逅」です。人生とは、いろいろな出会いの連続ですよね。先生との出会いに感謝を込めて、このタイトルにしました。私は、先生がどういう方なのか、よく知らずに社会人コースの授業を受けることにしたのですが、先生の本『芸術とは人を驚かせることである』を読んで・・・「すごい!すばらしい!!ファンタスティック!ファービュラス!マーベラス!(しつこい?!もういい??)しかし、本当に、この人こそ「真の教育者」で「真の芸術家」だ!!!私はこの人に会うために、さまよい続けていたのだ・・」といっぺんに心を奪われてしまったのです。しかし、先生はそんな私に全く気付かず、その後4,5ヶ月は、名前も覚えてもらえなかったのですよ。そんな私が、どうやって覚えてもらったのか・・・??それは、また、いつかお話ししましょう。あっ、個展にいらしてくださったら、その時にお話ししましょう。(笑)ちなみに、7/27(水)~8/1(月)は神戸のグストハウス(神戸市中央区楠町5-3-12 phone 078-351-5529)(1:00pm~6:00pm最終日3:00pmまで)でもやっております。私は常時おりますので、お時間のある方はどうぞお越しくださいませ。おじゃま致しました。sugiyama・ok-tomokoでした。
2005.07.25
嶋本昭三の「にんげんドキュメント」のテレビ放映を観て下さった方、またその様子をお聞きになった方で・嶋本に会って話しをしてみたい。・アートは何の基礎や知識もないが、始めることは出来るだろうか。・若い女性が集って嶋本の身体にアートをしているシーンがあったが、参加出来るだろうか。など、嶋本本人や嶋本のアートに興味を持たれた方。「にんげんドキュメント」の番組の中で、殆どアートを知らなかった杉山智子さんが、たった3ヶ月で急成長をしていくさまが取り上げられましたが、その杉山智子さんが、個展を開くことになりました。8月5日(金)~8月10日(水) 13時~18時 (最終日は15時まで)場所はJR甲子園口、南出口UFJ銀行の前を東へ200m「ギャラリーわびすけ」です。8月6日(土)はパーティーを開きますので、ずっとおりますがそれ以外は、ギャラリーのすぐ前がアトリエですので参加ご希望の方は、このブログのトップページにあります「メッセージを送る」からご連絡をいただくか、もしくはFAX 0798-64-5723へご連絡下さい。
2005.07.19
ぼくの友人に建築家のAさんという人がいる。彼は国際的に有名な建築家で、特に最近の活躍はめざましい。ところが、建築関係の人と話していてAさんの話題になると、判で押したように悪口が返ってくる。「態度がデカイ」「昔はおれの前でへいこらしていた」「助手を安くこき使っている」「よく雨漏りがする」「業者泣かせである。」・・・・・。良くないといえば良くないが、そのような欠点を持った人物は巷にころがっている。彼のみをとりあげて、わざわざ話題にするような話でもない。それも常にそうなのか、たまたまそうだったのかも疑わしい。なぜしきりにAさんの悪口が俎上にのぼるのか。それはAさんが悪いからではない。うらやましいからだ。「出る杭は打たれる」という言葉があるが、今までどんぐりの背くらべであったものが、急に突出したのが腹立だしいのである。悪口というのは面白い武器である。全く力がない人が、最高に力のある人をやっつけることができるただひとつの武器である。だから力のない人は、集まればいつも悪口を言って溜飲を下げている。著名なアーティストの生涯について、本や映像で見たり聞いたりすると、例外なく悪口を言われている。歴史に名を残すには、必ず通過しなければならない洗礼のようにも見える。悪口をいっぱい言われ、強く大きくなっていくのだ。もちろん力不足や規律にあった行動ができなくて、悪口を言われている人たちもいるだろう。ぼくはそんな人を将棋の駒の桂馬のような存在だと見ている。上手に駒を扱える将棋指しの手にかかるとすばらしい駒になるが、ヘボ将棋士から見ると、とんでもない役立たずの駒である。いずれにしても、「悪口言い」は悲しい存在であることを知るべきだ。ぼくは、人が悪口を言っているのを聞くと、「ホウ、ホウ」とその裏を考えている。
2005.07.13
本日、午後11時より放送予定の「にんげんドキュメント」はロンドンのテロ事件が起こったことにより、番組の時間が10分遅れての放送になりました。録画予約などしていただいている方はお手数ですが、時間変更になりましたのでご注意下さい。11時10分からの放送になります。よろしくお願いいたします。管理人:月野るな
2005.07.08

7月8日、午後11時からのNHKにんげんドキュメントは嶋本先生です!!コチラを見て下さい。 ↓ ↓ ↓にんげんドキュメント嶋本先生を、少しでも感じていただきたいと思います。管理人:月野るな
2005.07.07
師は初めて誉めてくれた。「お前は天才だ」と言って激賞してくれた。「しかし、この絵がわかるのは、日本では自分以外にいないぞ」とも付け加えた。その通りであった。その後、関西在住の何人かの著名な画家に見てもらったが、誰も相手にしてくれない。そのことを師に話すと、これを印刷して世界のアート関係者に見てもらおうということになった。印刷といっても当時は大変で、印刷機を購入し、ぼくの家の納屋で手刷りで印刷した。日本では何の反応もなかったが、海外からはコンタクトがあり、ぼくらの作品がアメリカのアラン。カプロー氏の『アッサンブラージュ・エンバイロンメント・ハプニング』という歴史的著作で発表された。師の弟子は、この頃には十人余りにもなっていた。それにもかかわらず、ある日、師に呼ばれてこの穴の絵の制作を中止するように言われた。それは、イタリアのフォンタナというアーティストが同じ穴の作品を作っていたからである。敗戦国日本の、しかも片田舎に住むぼくが先に「穴の絵」をつくったと言っても誰も信用しないと言い、師もくやしがってくれた。そして、穴の作品を制作しなくなって数十年が過ぎた。あるとき、東京都美術館の学芸員の萬木さんがぼくのところにやってきて、穴の作品を見せてほしいと言う。これまでの経緯を話したら、ぼくの新聞キャンバスの絵をむしりはじめた。すると、新聞なので、1950年という年代が印刷してあったのである。この証明の方法はぼくも気がつかなかった。これで、フォンタナより先にぼくが「穴」の作品を制作していたことが証明された。かくしてその作品は東京都美術館の所蔵となり、パリのポンピドゥー・センターや、ニューヨークのグッゲンハイム美術館にも招待され、ロサンゼルスの展覧会では戦後の新しい美術を切り開いた4人のアーティストのひとりとして、ジャクソン・ポロック、フォンタナ、ジョン・ケージと共にこの作品が発表されたのだ。
2005.07.04
東京都現代美術館は、日本で最も巨大な現代美術の美術館であるから、当然コレクションも多い。開館して約一年が過ぎた頃、コレクションの中の8点について「名作誕生の秘密」と題した講演会が催された。8点の”名作”にぼくの「穴」の作品も選ばれ、講演会に招かれた。この作品は1950年頃の制作である。ぼくは美術大学に行かせてもらえなかったので、関西学院大学に入学した。1947年のことである。当時この大学には予科と本科があったが、本科に入学したとき、理工学部部長の大住教授が遠縁にあたるのいうので挨拶に行った。教授の娘さん(といっても結婚されていた)が絵描きで、壁に大きな絵が掛けられている。緑の綿のような森の上を、女が裸で歩いているというもので、ぼくはびっくり仰天してしまった。戦争が終わって間もない頃である。当時、ぼくは、戦争画のように写実的な絵しか見たことがなかったのだ。そして「そうしてこの女性は空を歩いていて落ちないのですか」と愚問を呈して笑われてしまった。「昭三さん、絵というものは自分の夢を描けばいいのであって、物理的におかしくてもいいのです。」絵とはそんな自由な世界だったのか。その後、縁あって吉原治良に師事することになった。師吉原治良は「上手下手はどうでもよい。今まで人のやらなかったことをやれ」と言った。それなら簡単なことだと広言し、何度か描いて持参するのだが、師は外国の美術雑誌を示しながら、この辺が似ているので駄目だと言う。そんなことを言われても、その頃のぼくは外国の美術雑誌など見ることはできないのだから仕方がない。当時は、お金がなくてキャンバスも買えず、新聞紙を糊で何枚か張り合わせて代用していた。あるとき急いで描いていたら、充分に乾いていなくてキャンバスに穴があいてしまった。そしてその時ひらめいた。「そうだ、穴のあいた絵はないはずだ」そして穴のあいた絵を何点かつくり、師のもとに持参した。
2005.07.01
1990年にネイティブ・アメリカンのグループがロンドンよりモスクワまでリレーで走るというプロジェクトがあり、ぼくはその手伝いをした。ところが、ベルリンまで走ってきたとき食料が尽きてしまった。すると彼らは「明日からは食べないで走ろう」と、こともなげに話すのを聞いて驚いたことがある。また広島に投下した原爆を製造した原子物理学者は、アメリカの軍部におどらされていた事を悔いて、詫びるために来日し、ぼくの家を訪ねて来たが、彼は1日に玉葱半個しか食べない生活をしていると聞いてまたまたびっくりした。この事実を併せてみると食についてまだまだ知らない世界がいっぱいあるのだ。このような食の考えは侘しいじゃないかと意見する人もいるが、ぼくは「何を食べるか」というより「誰と食べるか」ということの方に関心が高い。そしてアトリエで女の子と一緒にワァーワァーいって楽しく大根をかじっている。
2005.06.23
以前、「たけしの誰でもピカソ」に出演したが、ぼくが大根や人参、キャベツ、セロリなどを生のままでかじっている食事シーンがそのまま放映され、テレビを見てくれた知人があきれて電話をかけてきた。ぼくはひとりでアトリエで寝泊りするとき、食事をこしらえる能力がないのでそのままかじっているにすぎないのであるが、とにかく時間がかからなくてよい。日本が戦争をしていた頃、よく乾パンが支給された。それはまずかった食事の代表のように言われるが、よく噛んで食べていると新しい味が生まれてくる。大根をかじっている現在も同じである。ぼくは台所で調理をしない代わりに、口の中で唾液を交ぜあわせ、別の味を生み出させて食べている。「口に入れればとろける様な」というグルメの表現がよくされるが、ぼくはそのような方向には興味がない。とろけるような料理は病気の人に食べてもらえばよい。繊細な味を追求すると微視的な世界にのめり込んでしまって、宇宙や未来といった大きな展望を見失ってしまうように思えるのである。
2005.06.20
海外のアーティスト仲間から手紙が届いた。「私の友人があなたの家に泊めて頂いたとき、あなたは用便をするのにコンピューターを使っているとのこと、コンピューターを使用すればどのような効用があるのか、友達の間で話題になっている。」というのである。何のことはない、ウォシュレットのことであるがコンピューターで用を足すと言われると多くのボタンを次々と押しながら用便をしている姿を想像して笑ってしまった。ぼくは現在77歳、この歳になると食べることより出すことのほうが気になる。ウォシュレットは尻部を刺激して便が出るので快適である。それで小用のときも座ったままウォシュレットを使用してしまうが、そうすると鳥のように1日に何回も大の方を放出することになる。お腹がペッチャンコになったほうが、栄養のあるグルメを食するよりも元気が湧いてくるとうに思えるのである。
2005.06.19
NHKがほくの色々を知るその一端として日記のような形で文を頼まれ書いている。NHKの真野さんがこの日記を読んで、もっと詳しく書いて下さい、この文の主張する意味をもっと分かり易く書き足して下さいと言われることがある。この文だけではない、学生達の作品について解説した後もぼくの説明について補足を依頼されることがよくある。その中でこの活はとてもおもしろかった、このパフォーマンスはとてもよかったと誉めてくれることもある。誉めてもらうとよく分かる。真野さんはこのようなことをぼくに要求しているのだという事が具体的に理解できる。質問という形よりも誉めてくれるという事によって真野さんの質問の意味が理解できる。ぼくの学生達が丁寧な説明よりも、誉めることによって理解できるのだ。嶋本に誉めてもらったことが初めてでぼくについてくる学生が多いことが真野さんのおかげで分かった。
2005.06.12
ぼくの妻の友人が腰巻きを編んでくれた。好意はありがたいが、はじめて試みてくれたようだ。数日着用しているうちに次第に伸びて、一回洗ったらダブダブになって下にずり落ちてしまう。ある日、お腹が痛くなったので、このダブダブを履いてずり落ちないように腰部に毛糸の帽子とマフラーを入れてみた。勿論寝るときである。ところがとても具合が良い。腰部だけがほろよく暖かいのである。とても見れたものではないが、それ以来愛用している。
2005.06.05
4月17日、18日と宇和島でぼくのパフォーマンスを計画してくれて行ってきた。愛媛県の方言に「よもだ」という言葉がある。「いい加減」という言葉である。もちろん、よい言葉ではない。ところがぼくは「いい加減のすすめ」という題で文章を書いたことがある。「いい加減」にも効用がある。律儀に物事をすすめることは人から信用もされてよいことであるが様々な出来事すべてに対処していると疲れてしまう。特にぼくは多くのことを一日にいろいろこなすタイプなので多くの出来事の中で、人に迷惑のかからない範囲でそれらを大ざっぱに処理する。一日にいろいろあった事を大きくまとめて大きな目標にむかって事を行うのである。人とのいさかいもある。そのような事は相手に迷惑がかからない限り忘れてしまう。嫌な思いを引きずらない。こちらが思いもかけないことを悪く言われることもある。そのようなことにいちいち腹を立てない。そのようなことで悔しがっていては時間の浪費である。大きく前進するには実害がない限り、嫌な思いなどすぐ忘れるべきである。愛媛県の人がとても明るくて実行力があるのは「よもだ」を上手に使っているからではなかろうか。
2005.05.31
可愛い女性と仲良くしたい。付き合いたいと思ったとき、物品をあげたり、ご馳走をしたりすることは原則的に考えないことにしている。供与を受けた女性は、次には何か要求されるであろうことを想定し遠ざかってしまう。ぼくは教育者を自負しているので、その女性にぼくの出来る、精一杯の努力をして彼女を育てる。彼女自身考えもしなかった、彼女の特性を見つけてオリジナルな方法で育てる。彼女がびっくりするような方法で。ぼくしか与えられない方法で。そして、彼女でしか伸ばせられない、彼女の特性を懸命に探して伸ばす。
2005.05.26
紫舟さんが訪ねて来る。彼女は書道の世界に学び、大家のもつ大きな筆にあこがれている。何本か持っていて、その太い筆で前衛書を書きたがっている。しかし、ぼくはフラフープの先に筆を10本ほど放射状に付けて踊るようにしながら書をすすめることを提案し、実験させた。彼女は考えてもいなかったし、望んでもいない世界である。これがぼくの指導術のひとつである。彼女の中に存在しなかった彼女の中に入って新しいアートを試みる。失敗もするだろう。成功するにしても様々な紆余曲折があるだろう。そしてぼくは自分の作品をつくるくらい力を入れている。彼女にはこれを繰り返そう。行き詰るかも知れない。失敗するかも知れない。しかし、それはぼくも何度も経験したことだ。その先にすばらしい紫舟アートがあると信じる。
2005.05.24

ぼくはガラス瓶を投げて作品を作っている。投げつけられて、ペイント。偶然に様々な図が表現される。全然駄目な模様になるときもある。面白い洒落た図が描かれるときもある。ぼくはこれにこだわらないことにしている。投げる毎に変化する図を体感しながら投げる。投げる。又投げる。次々と変化する躍動がぼくに教えてくれる。小さい模様の出来などどうでもよい。もっともっと大きなものが次々と変化してぼくに教えてくれる。
2005.05.19
ぼくは自分を教育者であると自認している。言葉を変えて言うなら、他に何も出来ないのだ。大した知識があるわけでもない。運動神経はゼロに近い。細かい仕事を根気よく仕上げる能力も気力もない。外国語は話せない。商売も出来ない。経営などもってのほか。上げればきりがない。ただ、人から変わっているとよく言われる。興味を持たれる。そしてこれらを教えて職業としている。ならばこれを徹底的に教えよう。高い位置にいて指導するという姿勢でなく、自分の持てる力を全部使って自分の持っているものを与えよう。親切な先生と言ってくれる場合もある。優しいと言われる場合もある。やけに丁寧で商売人のようだと言われるときもある。変わっていて訳が分からないと言われるときもある。変な先生で一緒にアートしたくないという学生もいる。最後の2行のように言われるときは大変困る。先日このような学生ばかり集まってもらって渇をした。うまく効果があったかどうか分からない。自分のノウハウを全部教えてしまうと追い抜かれてしまうのではないかと心配して忠告してくれる友人もいる。ぼくはそれでもかまわない。むしろ嬉しい。そして又抜かれたら抜き返すよう更に努力をしよう。
2005.05.17
若い女の子がぼくのアトリエで買って来た食物を残して返って行くことが多々ある。見ると賞味期限が過ぎている。忘れて帰ったのではなく、捨てて帰ったのだ。「忘れているよ。」と忠告することもあるが、殆ど「捨てておいて。」と言われる。ぼくは、それを食べる。理由は、1)「もったいない」という戦争中を体験した人間の実感がある。2)少々腐りかけのものを食す。 これも戦争中は少々のものは平気で食した。 それがかえって胃腸を強くしているとぼくは思っている。今の若者はこれらの食物に対しては抵抗力はないだろう。そういった意味で少々の賞味期限の切れた食物をあえて食している。
2005.05.16
このところアートデザイン関係の女性が訪ねて来ることが多い。同年齢の男性に比べて、すごく鼻息が荒い。話術もうまいし、行動力もある。そのまま伸びればすごいことになると大いに楽しみにしているのであるが何故か途中で消えることが多々ある。結婚して子供の養育のためにやめる女子も多いがそれよりも事業の相手とトラブルがあって、それを機会にディレクターなどの仕事に嫌気を生じて引退してしまっている。自分の意見が通らないとなると相手を軽蔑してしまう。特に美人ディレクターに多い。自分の考えと相手は異なるのが当り前で、それを根気よくつめていくのが交渉というものである。しかし、交渉の過程で屈辱ともとれるような言動をされることもある。どのような事態になっても平然と受け流してまとめなければならない。ぼくは77才であるから、このようなことが生じてもハイハイと笑っていられるが美人ディレクターはいっぺんに潰れてしまう。
2005.05.14
人間長く生きていると失敗することもあればうまくいくこともある。うまくいったとき処世術を身につけてしまう。こうすれば人より尊敬され、経済的にも豊かになる。何もかも万歳だ。ところがこの万歳がくせものである。この道一筋と決めたとたんに考えが固くなる。それに現代美術家の多くは世に出た途端に固くなっているアーティストが多い。うまくいっている自分を脱皮する。それも苦しんでやり遂げるのでなく、楽しく嬉しく自分からそれを抜け出そう。これが現代美術家の道だ。
2005.05.11

クレーン吊られ歴5、6回の私、新聞女のmiyukiですが、こんなに気候が良くって晴れたことは初めてでした~♪雨の中、真冬の雪の中、猛暑の炎天下。。。いつもなぜか過酷です(笑)しかも私は約4、5ヶ月分の古新聞を大阪市大正区の自宅からひいて電車でヨットハーバーに行きますそれを朝からひたすらつないで30メートルの新聞ドレスを作るのです 問題は、超・激・スーパー高所恐怖症ってことです・・参加者の皆さんを空中に上げるスタッフをしているうちに、どんどん恐怖が増して“もぉ、ゃだ。。”って思ってしまいます(涙) でっ、で、でもっ! しかぁ~しっ!新聞を着るとパワーがモ~リモリ湧いて、うれしくなって、無敵になっちゃうんです!!!少しづつ、少しづつ上空へ上がっていくと数千枚の新聞が “ぶわあぁぁぁぁぁ~~~っ” とはためいて、みんなの歓声も聞こえるし、風とか光、引力、地球の力が協力してくれてるなぁって感じてさらにうれしいですね しかし前回、私は新聞の重みが一箇所にかかりすぎて上空で気絶したのでした(汗)でもまだまだ何度でもやりたい! おばあちゃんになっても新聞女で空飛びたいなって思ってます☆ 新聞女・西沢美幸1968年西宮市生まれ。関西女子美術短期大学在学中、現代芸術家・嶋本昭三に師事。卒業後、グンゼ産業株式会社で、ファッションブランド「NOVA」「plume-dor]のデザイナーを12年間務める。平成9年、関西空港エアロプラザ現代芸術展で優秀作家に選出されて以降、数々の賞を受賞。今年6月には神戸フェリシモ美術館「天才アーティスト発掘展」で、天才アーティストに選ばれた。新聞女パフォーマンスや個展は各地で展開。現在も「新聞女」は、週に数回街に出没している。NHK放送、TBS放送、日本テレビ、関西テレビなど多数テレビ出演朝日新聞、産経新聞、神戸新聞、美術手帳、講談社フライデー、フラッシュなど多数掲載
2005.05.10

私はクレーンに吊られ、ビンを一つ持っている。そう、それを例えるならば、私は線香花火となり、ポトリと火の玉が下に落ちるように手からビンが落ちていく。火の玉が落ちそうな時に叫ぶ「あー落っこちる!」の心の叫びが、ビンの割れる音となり辺りを原色に染めていく。 それは大きな花びらが開いた、瞬間の芸術となった。 松井耕平(松井コーヘー)1979年兵庫県生まれ。宝塚造形芸術大学在学中、前衛美術グループ「具体」会員であった教授・嶋本昭三に認められる。その頃より、現代芸術家として国内及びヨーロッパ、アメリカで作品を発表する一方、絵本などの創作を手がける。現在、ホナデッセ代表、日本文化伝統産業近代化促進協議会会員、現代芸術国際AU会員、NPO法人リフォープ・セッターチーム主任、2級建築士と、幅広く活躍。 今年4月30日に、絵本「きょんにちは」を出版。
2005.05.09

ドビュッシーの曲に「沈める寺」というのがある。そうしてこのような名が付けられたのか、その由来を読んだような記憶があるが、今は全く覚えていない。でも今はそれを詮索しようとは思わない。ぼく自身の勝手な想像で「沈める寺」の様子を様々な形に想像してはこの曲を聴くというのは何にもかえがたい楽しみで色々想像しながら聴いている。ところで今回のテーマは「沈める寺」ならぬ「沈める絵画」である。そしてその作者は他ならぬ嶋本昭三自身なのである。「沈める絵画」といっても手にさげた絵を水の中にポチャンと落としたという話ではない。広大な、ぼくにとっては天文学的な予算をとって設置してくれた7m×7mの絵画が海に沈むという装置である。7m×7mの作品については新聞やテレビ、また印刷物でも紹介されたことがあると思うが、新西宮ヨットハーバーの話題づくりの一つとして海岸のところにコンクリートづくりで前記の大きさの土俵のような台を作ってくれ、それにぼくがクレーン車に吊られてペイントの入ったガラス瓶を落下させて描画するというものである。巨額の費用をかけてもらっていることもあって、一回だけではなく何回も落下させようということになり、あげくの果てに百年かけて絵を描くという内容に成長した。もちろん、ぼく一人ではできないのでコラボレーションアートとして代々ビン落としを引き継いでもらうというアートなのである。そして今回はこのアート作品が海面下に沈むという話。一年に2回春分の日、秋分の日に作品の上に海水がひたひたと押し寄せて来て画面を覆ってしまうというのである。この土俵のような画面は元来陸地ではなく砂浜の上につくられたものである。いうなればテトラポットのようなコンクリートの立体物として設営されたのである。この砂浜を陸地として設置して建設するとなれば、用地変更の申請など膨大な時間を要すというのでヨットハーバーの係の人が模索した結果、以上のような形になったというのである。年に2回巨大な絵が海の中に沈む。なんとロマンチックなアートだ。そしてこの絵はビン落としによって次々と変貌していく。2000年の1月にドイツで展覧会を催してくれたのであるが、その時にこの絵の話をしたら、ものすごく話題になった。それの見学に是非来日するとも言ってくれた。いつも感じるのであるが、欧米先進国ではどこにもないオリジナルな話は大変尊敬されて受け止めてくれる。これも新西宮ヨットハーバーの皆さんが懸命に努力してくれたお陰である。
2005.05.04

本日、素晴しい晴天に恵まれ兵庫県西宮市の「新西宮ヨットハーバー」にて行われたパフォーマンスアート。この風景、日産のTVコマーシャルでお馴染みの方も多いのではないでしょうか。これは1999年に新西宮ヨットハーバーの話題作りとして生まれた企画で海岸にコンクリートで7×7メートルの土俵状の台を作り嶋本先生がその上にクレーン車で吊られ、ペイントの入ったガラス瓶を落下させて描画するというなんと100年かけて完成させるというもの。地上30メートルの高さからガラス瓶を落下させた後、観客に両手を広げて答えてくださる嶋本先生。
2005.05.03
ぼくは早寝早起タイプである。とにかく何も特別な用事がなければ、夕方の8時頃に睡眠に入ってしまう。これでは知人たちとの付き合いも悪く、何とか多くの人と夜遅くまで話し合いたいと思うのだが夕方になると頭脳が疲れてろくな判断も出来なくなる。床についた翌日は2時か3時頃に目が醒めることがある。そしてこの時刻は頭脳もしっかりしている。特別な用事のないときは12チャンネルのNHKのテレビを観る。高校生対象の歴史や地球、物理などが放映されている。ぼくは中学や大学時代、戦争のため殆ど勉学する機会がなかった。その後も、アートのことに全力を傾けていたので、このNHKはとてもありがたい。NHKの会長の不祥事から、受信料不買運動など批判する会活をよく耳にするがぼくにとってはとてもありがたいテレビである。早朝は割合仕事をするのであるが、時間の余裕のある限り12チャンネルをつける。とても分かり易い。そしてそこから又新しい発想が湧く。勉学なら読書など他にも教養を身につける方法はいくらでもあるが早朝のNHKは簡便で、超忙しいぼくにとってはとても嬉しい老人大学である。
2005.05.02
元具体のMさんが嶋本は嘘つきだと言っている。ぼくの経歴の中に万博でアートプロデュースをしたと記しているが万博での具体まつりのアートプロデューアウは吉原先生で、嶋本はアシスタントであったという。確かにその通りである。当時ぼくは関西女子美術大学の教授をしていて万博の時に千人の花嫁という催しを万博の広場で行いぼくがそのアートプロデュースをさせてもらった。ぼくの経歴の中にその事が記されている事があるが文字数の関係で大阪万博でアートプロデュースとしか記されていない描写がある。それが誤解を生んだのだ。誤解というのもが、そのような形で生じるなど想像もつかなかった。しかし、このような誤解は生涯いっぱい生じるのだろう。今まで先生、先生と言って慕ってくれた教え子が道で会ってもフンといった態度で通り過ぎていく経験をしたこともある。だがそれらをいちいち気にしていたらきりがない。その逆もあるだろう。ちょっとした誤解でぼくの事に興味をもってくれたりする事もあるかも知れない。
2005.05.01
ぼくは教師をしている。学生達が作ってきた作品を見て、あれこれ批評する。批評すると言えば高いところより見る感じが強いのであるがこれではぼく自身が向上しない。ぼくはぼく自身新しい作品を作るために、又ぼく自身新しくなるために様々な「新しい」を模索するが、その中で学生の作品や話から学ぶことが多い。先日、杉山智子さんが作品を持参して来た。彼女は中谷さんという同級生と合作をしている。四角い板状のものにコラージュしていて、合作なのでそれをつなぎ合せる。ぼくが新しい方法を考えて下さいといっていると杉山さんが全部布で覆ってしまうと言い出した。これには驚いた。合作で作品が二人はバラバラにつないであるのだ。これはぼくにとって初体験である。意見としてはおかしいのであるが、ぼくはすぐに否定はしないでむしろ二人の主張をあおるように言ってすすめた。結局二人の意見を足して二で割るような結論でおちついたがこのような過程を通ることはぼくにとって、とても勉強になった。ちなみに彼女達二人はオバサン的感覚の持ち主である。
2005.04.27
ぼくは年齢の割に若いと言われる。半分はおせじであろう。ぼくは現代美術家であると自負している。現代美術家として作品をつくるのは、百人百也で夫々異るのであるがぼくは子供のような好奇心で世界を見ることであると思っている。年齢をとると様々な事象に達成するというが、ぼくはそうはなりたくない。地球に生まれ出たこどものように、見るもの聞くものすべて新鮮でめずらしい状態に自分を置いてアートをつくりたい。それには高く評価されることをあまり意識しないことだ。作品が高く評価される方法は、長年アートに携わっていると分かってくる。高く評価されることはうれしいことだ。しかし、それは頑固につながり老化するという逆のデメリットがひかえている。こどものような心でむかうことは今までの評価を失うというリスクが存在している。しかし、何より大切な若さを保てる唯一の方法である。
2005.04.26
愛といえば、神を愛する、人々を愛する、動物を愛する、植物を愛するなど様々な方面で愛は存在する。しかし、一番分かり易いといおうか、全身で感じ易いのは男女の愛であろう。特にぼくは女性が好きなので、愛といえば女性を想像してしまう事が多い。ところが男女の愛をいえば、他の愛と違ってこの言葉を聴く人はうすら笑いをすることが多い。他の愛と違って軽蔑される事もある。愛というのは人間の生活にとって一番大切なのもであると思っている。そして一番身につけ易いのは男女の愛である。神を愛す、人類を愛すというのは崇高なことであるが単に言葉としてではなく身体全体で感じるのにやさしいのは男女の愛である。これが全うでき、又理解できてその他の愛というものが実感できるのではなかろうか。
2005.04.25
翌年ぼくは頭を剃り、ぼくなりの方法で剃った頭を媒体として「平和のメールアーティスト」として世界約60ヶ国、年間8000のメールアートを行った。1990年にはアメリカインディアン、デニス・バンクスがロンドンよりモスクワまで平和を訴えて走るランに呼応し、14ヶ所でメールアーティストたちが集まってこのランをサポートしたりした。これらの行為に対してバーンは1996年、ぼくをノーベル平和賞候補に推薦してくれた。さて、2001年、パリ・ユネスコ本部は「世界の平和」についてホームページをひらき、世界より平和のメッセージを配信した。current evenls Culture of peace そして日本より3名、音楽家、文筆家、そしてアーティストとしてぼくが選ばれた。ぼくはパフォーマーである。単にメッセージを送るだけではなくパフォーマンスをして実現する。パリ・ユネスコに送ったのは次の文である。地上から数メートル上の空間にベンツが浮いているさらに数メートル上の空間にハーレーが浮いているさらに上の空間からペイントの入った球を落とす赤・青・黄・白・黒の5大陸の色ヨーロッパのベンツアメリカのハーレーその上から日本の嶋本昭三が5つの色を落とす融合のコラボレーション
2005.04.24
1985年2月、ぼくのところに広島に投下した原爆製造の原子物理学者が突然やって来た。彼の名はバーン・ポーター。彼の語るところによると、原爆は日本に投下しないでその実験記録を日本の天皇に送る。それを見た天皇はきっと戦争をやめるに違いない。そういう約束で造ったと言う。ところがアメリカ軍部は約束を無視して広島に原爆を投下したので、即刻マンハッタン計画どころか、原子物理学者そのものも辞任してメールアーティストとなり、心ならずとはいえ原爆を投下してしまった罪を詫びるために、世界中を行脚しているという。自分の犯した罪は7回死刑になっても報われないといって涙ぐんだ。そして最終回にぼくのところを訪れた理由は、バーン自身が余りにも年をとりすぎているので、広島のある日本人の嶋本昭三に平和運動の後を託しにきたのだと言う。「世界の平和を達成できるのは、嶋本昭三、おまえを措いてない。」と依頼された。ぼくは仰天した。「とんでもない。ぼくには政治力も経済力もなく、また軍隊ももっていない。」「そんなものはいらない。メールアートさえあれば必ず世界は平和になる。おまえはそんなことも知らないでメールアートをやっていたのか。」彼の熱意に打たれたがそんな風に言われてもぼくには「平和」の取っ掛かりさえもつかめないので、再度断った。彼は肩を落として帰っていった。その後ろ姿がぼくの脳裏から消えず、翌年アメリカメイン州の彼の家を訪れる。彼はヘンリミラー・アナイスニン・アレンギンズバーグなどと親交を持ち彼らの本を編集したと言われる。著名な彼の家には電灯があるだけで、文明の機器はなにもなかった。(次回に続く)
2005.04.23
彼らの考えによると人間の生き方は二つあって「住居を持った為に固定した考えになってしまった人と家を持たず自由な生活に根差して生きる人たち」に大別できるとしている。家を持ってしまうと、その地に根差した発想を持つようになり自由な立場でものを考えることが出来なくなる、というのである。ぼくは自由主義の社会に生き自由な考えを持てる世界で自由を亭受していると思っていたが、彼らから見ると自分の家にしがみついて土着の因習の中に生きそして思案する不自由人なのである。また、彼らは文字を持っていない。それも文化が劣っているとランク付けしがちであるが、「文字で伝える」ということは考えを固定してしまい自由な生き方から遠ざかってしまうという思想に基づいているという。ぼくたちは、ややもすると富、知識、健康、文化などについて一定の基準をつくって序列的に判断してしまいがちであるが、彼らから見ると固定した規則の中でしか判断できない頑固者の集まりなのだ。ぼくは出来ることならジンガリたちとの生活を体験してみたいと思っている。
2005.04.21
齢をかさねると頑固になる。ぼくは若い頃、随分頑固な年輩者に悩まされた経験をもっている。特に戦争中は軍たちが威張っていた。彼らとて無茶を言うつもりはなかったのであると思うがただ狭い了見の世界観を持って、良いと思って人に押し付けて来たのであろう。信念を持つということと、頑固ということは同義語のようなもので、信念はややもすると頑固になってしまう。ぼくも頑固な狭い了見を押し付けるような年寄りにならないよう、気をつけねばならないと、いつも自分に言い聞かせている。ところがおもしろいことに、日本では「頑固な職人」「がんこ寿司」などというように「頑固」は歓迎されている。確かに尊敬すべき頑固もののいる事も事実である。だが、これは逆説的な意味で、頑固もここまでくるとおもしろいといった意味で用いられているので頑迷に通じる頑固はやはりいただけない。それでも人間は少し油断すると気の付かないうちに頑固になってしまっている。頑固じじいにならないためにどうすればよいのか。これはぼく自身の課題のひとつである。ぼくのところに送られてくるメールアートの中で、ある日『ジンガリ』というテーマであなたの考えをアートにして送って下さい、というのがあった。『ジンガリ』というのは調べてみるとジプシーたちの呼称であり、別の言葉で言えば『自由人』という意味だそうだ。ジプシーというのは本来家を持っていない。それについてぼくは深く考えもせず、1、貧しいからではないか。2、放牧生活をしているからではないか。3、宗教上の理由によるのではないか。・・・という程度に考えていた。そして『ジンガリ』というテーマに回答するためいろいろ調べていくうちに次のような事実にぶち当たった。東欧地区が社会主義国であった頃、政府はジンガリたちを何らかの理由で集合住宅に押し込めたことがある。ところが彼らはその中で仲間同士で始終家を移り変わったというのである。(明日へ続く)
2005.04.20
ぼくは昼ごはんを食べると そのまま眠ってしまう。ロコはぼくの顔にラクガキをする。目を醒ましたぼくは、大学で教授会があるのを思い出し大慌てで飛び出し、電車に乗って教授会に出席した。そのままで。
2005.04.19
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