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いよいよ「ほっこりまるしぇ」まで後4日~キャーどうしょう~何も出来てない!仕事&子供会&PTA・・・何かと4月は忙しくて~後4日で何が出来る?と・とりあえず・・・今まで作りためていた10点くらいで・・・いいかな?いいよね 本日。柳蛙さんから作品が到着しました後ほど紹介させていただきますね 今回も場所をお借りしているZACさんのMAPです。お時間のある方は是非お立ち寄り下さいませ。
April 20, 2011
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前ブログに長々と震災のことを書いてしまいましたが・・・自分の気持ちの整理のつもりで書きました。モヤモヤしたままじゃ次にいけない気がして・・・気仙沼に戻った母も「水が出たら美容院を再開して、被災した方にシャンプーをしてあげるんだ!」と前向きに頑張っています。 これからは、自分の出来る範囲で被災者の方々のために何か出来たらなと思っています まずは・・・4月29日(金)に行われる「ほっこりまるしぇvol.4」の売り上げの一部を日本赤十字義援金に寄付をすることにしました。ほんの少しだけど・・・少しずつ・・・ね 参加してくださる作家の皆様なかなか、詳しい情報をお伝えできなくてすみませんでした日程もやっと確定しました。宜しくお願いします。
April 6, 2011
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皆さんお元気ですか?「東日本大震災」私の実家がある「気仙沼市」も大変な被害を受けてしまいました。地震直後、大館でもこんなに揺れたんだから実家も揺れただろうな?と思い電話をしましたが30分以上つながらず・・・やっとつながった母の携帯から母の泣く声が聞こえて来ました。「おっかなかった~~~~~」と腰が抜けてしまい這って外に出たと・・・そして今から津波が来るので逃げるところだと・・・その後、携帯はつながらず・・・非難して無事だと連絡が入ったのは夜9時頃でした。その1本の電話後は一切つながらず、気仙沼の状況は一切わかりませんでした。 大館も地震後、停電になり情報が入るのはラジオの声だけ・・・気仙沼はどうなっているのだろう???と不安な夜を過ごし・・・朝。旦那が「仕事も出来る状況じゃないし、お母さんとお婆ちゃんを迎えに行こう」と言ってくれました。それからは、ガソリンを掻き集めご飯をたくさん炊いておにぎりを作りタンクに水を汲んで子供たちを旦那の父と母にお願いして出発しました。もちろん高速道路は閉鎖。国道を南下してやっと着いたのは夜の9時を回っていました。非難している場所は気仙沼中学校の校庭付近で近所の方の車にいると聞いていたので懐中電灯で一台一台探しました。そして一台の車の中に6人で毛布をかぶって寝ていました。母は迎えに来るとは思っていなかったらしく・・・あっけにとられていました。祖母はその日、ディサービスに行っていてそこでお世話になっているとのこと私もホッと一安心。 そのときの気仙沼の状況は・・・真っ暗闇の中で海岸が赤~く燃えていました。母は「海が燃えている」と・・・避難場所付近の駐車場には、たくさんの車が並び・・・車の中で寒さをしのぐたくさんの人たちがいました。電気どころか水も食料もない状態。トイレはあふれ出し、使えませんでした。 次の日。車の中で夜が明けるのを待って避難場所から坂を下ってすぐの実家を見に行きました。空気は汚れていてヘドロの臭いと油が燃えた臭いと煙で喉が痛くなりました。そして、実家は奇跡的に残っていました。津波は来た様子はありましたが床上には上がってはおらず家の中もほとんど物は落ちていませんでした。ほんの20m先には家が丸ごと流されていてその先は瓦礫の山で見に行くことも出来ませんでした。 その後ディサービスに寄って祖母と合流。99歳の祖母は地震があったのはわかりましたが津波が来て大変な状況だということが理解できないようでした。大館に帰ってきてTVで報道される地震の生々しい状況に私と母は毎日のように泣いていました。 それから約2週間。地元の人と電話がつながる様になり気仙沼の状況がわかってくると母が、「帰りたい」と日に何度も口に出すようになりました。皆が大変な思いをしているのに家が残っている私がここでのんびりしているのが辛い・・・と でも、帰りたくてもガソリンが手に入らないしせめて水が出るようになってからにして欲しいとお願いしました。 それからまた1週間。ガソリンが普通に買えるようになり始めたら母が「やっぱり帰りたい」と何度話しをしても、納得してくれないのでじゃあ、一度気仙沼に行ってみようということになりました。ただし、家がちゃんと住める状態か旦那が(建築士)確認して大丈夫だったらね!と 家に入り電気がつくのをまず確認。水道はまだ使えませんが、家のすぐ近くに給水車がくるようなのでまず、住んでも大丈夫だろうということになりました。 でも、相変わらず余震は続いていて地響きとともに地震が起きて怖くてなかなか眠れませんでした。 翌朝旦那と気仙沼市内外を見に行きました。車が通れるところしか見れませんでしたがそれでも、かなりの状況でした。 もっとひどい所は通行止めになっている為入ることは出来ませんでしたが、それでも最悪な状況だということはわかりました。普段は海が見えないところから海や大島が見えたり道路を走っていても、今まで目印にしていた建物がすっかりなくなってしまっていてどこを走っているのかわからなくなってしまったり・・・ 私の故郷は今後どうなっていくんだろ~という不安が募ります。 でも、前を向いて進むしかありません。大館から何か出来ることがないか。。。暗中模索の毎日です。 最後に、被災された皆様に早い復興と そしてお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。
April 4, 2011
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