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2026年09月27日
青切符制度
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★つ・ぶ・や・き★(578141)
カテゴリ:
カテゴリ未分類
一枚のチラシを眺めていた。
店内には、豆を挽く音、スチームの噴出音、
食器の触れ合う音が層になって漂い、
窓の外では、配送トラック、路線バス、電動アシスト自転車、
折りたたみ自転車、シェアサイクル、高校生のママチャリ、
買い物帰りの高齢女性の前カゴ付き自転車が、
まるで異なる速度の血流のように交差している。
信号が赤になる。
自動車が止まる。
自転車も止まる。
歩行者が横断する。
そして信号が青に変わった瞬間、それぞれの速度が再びほどけていく。
自動車は時速四十キロ、五十キロへ。
電動アシスト自転車は人間の脚力にモーターの補助を加えながら進み、
歩行者は一秒に一メートル前後の速度で横断歩道を渡っていく。
同じ道路の上に、これほど違う速度の身体が存在している。
考えてみれば、道路というものは奇妙な場所だ。
誰のものでもないように見えて、実際には誰にとっても必要で、
しかも、その使い方には膨大な規則がある。
ブレンドコーヒーを一口飲み、もう一度チラシを見る。
そこには、自転車のイラストと、
交通ルールに関する説明が並んでいた。
*
今まで注意で済んでいた自転車の違反に、
お金を取る仕組みが入った青切符制度。
それは、これまで「お巡りさんに叱られて終わり」
だった牧歌的な世界に、
初めて領収書と違反点数と、
冷徹なクラウドデータベースが持ち込まれるということを意味していた。
つまり、あの「叱られて済む」という、
ある種の甘やかしにも似た温情のシステムが、
機械的な行政手続へと置き換わるということだ。
それは、少年時代に交番でおまわりさんに、
「危ないだろう、気をつけなさい」
と言われて解放された記憶を持つ者にとって、
ひとつの時代の終わりを告げる鐘の音でもある。
近代国家が、ついに路上の最後のグレーゾーンにメスを入れたのだ。
二〇二六年四月から、自転車にも交通反則通告制度、
いわゆる青切符が導入された。対象は十六歳以上。
人間の骨格が完成に近づき、
ペダルを踏み込む脚力が原付バイクの出力に匹敵し始める年齢だ。
十六歳未満は原則として通告制度の対象外だが、
だからといって自由奔放に走れるわけではない。
児童・生徒であっても、悪質な違反や事故を起こせば、
家庭裁判所、少年法、保護者責任、
不法行為責任に基づく民事賠償、学校指導、
地域社会の監視の目線が、幾重にも折り重なって降りかかる。
未成年というシールドは、もはや物理的な衝撃はおろか、
法的な衝撃をも吸収しきれなくなっている。
入管法改正に伴うビザや在留資格の手数料を上げる話は、
他人事だったが、こちらはそういうわけにはいかない。
在留外国人の多い街区では、母語の違う利用者に向けて、
警察署がベトナム語やネパール語が併記された多言語のチラシを配り、
自治体が国際交流協会の窓口で通訳を交えた説明会を開き、
自転車店の店主が「ヘルメット、ライト、ベル、反射材」
と片言で繰り返す。
制度は、国境を越えて暮らす人々の生活にも、
静かに、しかし確実に侵入してくる。
グローバル化の波は、ギグワーカーの背負う保温バッグの揺れと共に、
日本のローカルな路地裏まで浸透しているのだ。
何しろ他人事ではない、高校生、大学生、通勤の会社員
子供を送り迎えする親、買い物に行く高齢者、
みんな自転車に乗るから。
日本の自転車保有台数は約六千万台といわれている。
ほぼ二人に一台。この国で「自転車に乗らない人」を探すのは、
「傘を持っていない人」を探すくらいに難しい。
そして次の違反は自分かも知れないと、
嘘偽りなく、素直に信じられるようなものだからだ。
*
朝七時四十分、駅前のロータリーでは、
指定の通学鞄を背負った高校生が、
ノイズキャンセリングイヤホンを片耳だけ外し、
母親が重心の狂いを腕力でねじ伏せながら後部座席に子供を乗せ、
高齢男性がネギの飛び出した買い物袋をハンドルにぶら下げ、
フードデリバリーの若者がスマホを、
ハンドル中央にマウントで強固に固定している。
それぞれの人生が、直径二十六インチか二十七インチの、
アルミ合金の車輪の上で、
かろうじて均衡を保っている。
だからニュースになると、案の定、大騒ぎになった。
個人的にはこういう行政上のことで、
過去一、てんやわんやの印象を受けた。
SNSでは、反則金額の一覧表が画像として拡散される。
画像はしばしば例外を削る。
「原則」と「例外」
「違反」と「直ちに反則処理されること」
「罰則」と「反則金」
法律の世界には細い線が何本も引かれているのに、
SNSの画像では、その線が一本に見える。
テレビのワイドショーでは、
スタジオのコメンテーターが「そこまでやるのか」と眉をひそめ、
ラジオの深夜番組では、自転車通勤のリスナーが、
「毎日通ってる道が、急に教習所の試験会場みたいになった」と呟く。
役所の窓口では、
クレーマー気質の市民からの問い合わせの電話が鳴り止まず、
警察署の交通課では、若い警察官が分厚いマニュアル資料を片手に、
同じ説明を何度も繰り返している。
あるベテラン警察官は、取材に対して、
「昔は『気をつけてね』で済ませたことも、
今は記録に残さなければならない。現場としては複雑な心境だ」
と語った。その言葉には、法執行の厳格化と、
人間関係の希薄化という現代社会のジレンマが滲んでいる。
なお、よく話題になる違反は、
「ながらスマホ 12,000円」
「信号無視 6,000円」
「逆走 6,000円」
「一時停止無視 5,000円~6,000円」
「無灯火 5,000円」
「傘差し運転 5,000円前後」
「イヤホン運転(周囲の音が聞こえない状態)5,000円前後」
など、だ。
ながらスマホの一万二千円という数字は、
ちょっとしたビジネスホテルの一泊分だ。
ドイツでは、自転車に乗りながらスマホを手に持つと、
五十五ユーロの過料が科される。
オランダは二〇一九年に自転車での手持ちスマホ使用を禁止し、
当時の罰金は九十五ユーロだった。
自転車大国と呼ばれる国ほど、実は自転車に容赦がない。
「自転車を大切にする国」とは、
「自転車を甘やかさない国」のことなのかもしれない。
金額だけを見れば、ランチ一回分、ハードカバー二冊、
映画一本とポップコーン、
あるいは深夜のタクシー初乗りより少し高い程度かもしれない。
しかし、そこに付随するのは、警察官の威圧的な呼び止め、
身分証の確認、違反内容の冷酷な告知、
青い印字がなされた反則金の納付書、
銀行やコンビニでの支払い、
職場や学校に知られるかもしれないという胃の縮むような緊張、
家族に説明する気まずさ、
そして「自分は交通違反者である」という小さな烙印である。
その烙印は、目に見えないが、想像以上に重い。
翌日の職場で、同僚が「自転車で捕まったんだって?」
と何気なく言った瞬間、その言葉は、
まるで小さな針のように、自尊心を刺す。
そして、その針穴から、
これまで自分が「注意」で済んでいた数々の違反が、
記憶の底からせり上がってくる。
あの交差点の信号無視、
あの夜道の無灯火、あの雨の日の傘差し運転。
それらはすべて、もはや「思い出」ではなく、
「記録」として、警察署のデータベースに保存されているのだ。
*
青切符制度の中には、
それまで生活の一部として根付いていたものもあるし、
ちょっとそれは厳しいんじゃないのと思える範囲もあるだろう。
たとえば、梅雨特有の重い雨の日にビニール傘を差しながら、
前カゴに結露した牛乳と割れやすい卵を載せ、
片手でハンドルを握る。
あるいは、夜道でダイナモ式のライトを点け忘れ、
街路灯の切れ目だけを頼りにペダルを漕ぐ。
あるいは、駅前の細い路地で、
予測不能な動きをする歩行者を避けながら徐行するみたいなことだ。
それらはかつて、都市生活の小さな知恵であり、
危うさと背中合わせの日常術だった。
青切符は想像力がいらない。
違反があれば、機械的に金額が決まり、
手続きがコンベアーのように流れ、データがサーバーに残る。
裁量の余地は少なく、情状酌量の物語も入り込みにくい。
それはマックス・ヴェーバーが予言したような、
行政の公平性であると同時に、かつての「注意」が持っていた、
その場の空気、相手の事情、
警官の人間味を刃物のように削ぎ落とすことでもある。
警察官が、
「今日は危ないから気をつけてくださいね」
と言って終わったかもしれない場面が、
制度の運用によっては、書類と手続の対象になる。
これは厳格化の問題であると同時に、
人間の裁量をどこまで制度に残すのかという問題でもある。
*
反則金を払えば刑事手続には進まず、
いわゆる前科も付かない。
払わない場合は刑事手続に移行する。
ここで重要なのは、
青切符はあくまで行政処分と刑事手続の間に架けられた、
細い吊り橋であり、
橋を渡らなければカフカの小説のように迷宮化された森へ、
入ることになるという点だ。
納付書を放置し、督促を無視し、呼び出しに応じなければ、
事件は検察官へ送られ、略式起訴、罰金刑、
場合によっては公判という国家権力のフルコースたる手続へ進む。
自転車の違反が、人生の履歴に影を落とす可能性は、
決してゼロではない。
その「森」は、想像以上に深い。
略式起訴で罰金刑が確定すれば、
それは「前科」として、運転免許の更新時、就職時の身元調査、
あるいは海外渡航時のビザ申請において、ふとした瞬間に顔を出す。
たかが自転車の信号無視が、
人生の選択肢を一つ、静かに奪うのである
しかしお金が払えない人がいるのを知っているので、
彼等はもう何とでもしてくれと言うだろう。
無い袖は振れぬ、それだけだ。
これは本当に悲しいことだ。
そしてそういう視点は理解を汲んでくれる僕みたいな人でない限り、
まったく多くの人にとっては理解されない。
今度のことでそういう人が確実に生まれるはずだ。
場合によってはホームレスが一人増えると言っても、
過言じゃないと思う。
それはどういうことなのかは胸に手をあてて、
みんな考えて欲しいところだ。
*
とはいえ、自転車の青切符制度が導入されることで、
自転車の酒気帯び運転が罰則の対象になることなどを、
初めて知った人もいるかも知れない。
知っていても、まあいけるだろうと思っていた人もいるだろうが。
本当は二〇二四年の法改正で、
自転車の酒気帯び運転でも三年以下の拘禁刑、
又は五〇万円以下の罰金が科せられるようになり、
自転車を提供した人や飲酒した運転者に同乗した人にも、
罰則が適用されるようになった
(法改正前は明確な罰則がなかった)
居酒屋の暖簾をくぐり、ビールを二杯、
日本酒を一本、ハイボールを一杯。
午後十一時、店の外に出ると、夜風が火照った頬に気持ちよく、
駐輪場に停めた自転車のサドルが妙に冷たい。
ここで「押して帰れば大丈夫」と考える人もいる。
しかし、酔った身体で自転車を押しながら、
ふらつき、車道に飛び出し、タクシーに接触すれば、
もはや歩行者以前の問題である。
アルコール濃度が血液中にどの程度残っているかは、
体重、性別、飲酒量、飲酒時間、個人差によって異なる。
厚生労働省のガイドラインによれば、
ビール中瓶一本(500ml)のアルコールを分解するのに、
約二時間から三時間かかる。
その基準は自動車と同じ、
呼気一リットル中〇・一五ミリグラム以上のアルコール。
缶ビール一本でも、体質や体重によっては十分に届く数字だ。
自転車を置いて帰る。
それが、酒と自転車と法制度の交点における、
最も無難な選択である。
居酒屋の店主は、常連客が自転車で来店したことを知りながら、
酒を提供した場合、罰則の対象となりうる。
つまり、店主は客の足元を見て、
自転車の鍵の有無を確認しなければならない時代が来たのだ。
それは、飲食業界にとって、
新たなコンプライアンスの波である。
ある居酒屋では、
入り口に「自転車でお越しのお客様へ」という貼り紙を掲げ、
飲酒後の自転車利用を思いとどまらせるための、
タクシー会社の電話番号を記したカードを、
レジの横に置き始めている。
自転車でも酒気帯び運転や酒酔い運転は、
青切符ではなく赤切符が切られ重い処分が科せられるので、
自転車でも「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」を徹底するしかない。
タクシーを呼ぶ、公共交通機関を使う。
誰かに迎えに来てもらう。
自転車の鍵をポケットへ入れて、その場を離れることが大事だ。
自転車は翌朝取りに戻ればいい。
酒と自転車の問題では、
ほんの一晩の不便と、一生続く結果を比較すればいい。
何しろ場合によっては、自転車を貸した友人、
同乗した同僚、送り出した店員にも、
罰則の網がかかりうる。
「帰り、自転車で帰るわ」
「やめとけって」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないから言ってるんだよ」
居酒屋の前で交わされる、たった数秒の会話。
法律は、その数秒の会話の中にも入り込んでいる。
飲酒運転は、運転者だけの孤立した犯罪ではない。
それは、人間関係の網の目を伝って責任が拡散する、
近代的な連帯責任の装置でもある。
たとえば、会社の飲み会で、
後輩が「自動車で来たので、飲めません」と言ったとする。
その言葉に、先輩が「じゃあ、俺が自転車貸してやるよ」と、
自分の自転車を貸したとする。
その瞬間、先輩は「自転車提供罪」の容疑者となる。
あるいは、同僚が酔った状態で自転車を漕ぎ出すのを見て、
止めなかった場合、その同僚は「同乗罪」の共犯として、
事情聴取を受ける可能性がある。
飲酒運転の責任は、もはや個人の領域を超えて、
集団の倫理へと拡大しているのだ。
*
とはいえ、切符を切られたら腹立つわけだ。
それは取り締まる側ではない僕には分かる。
いや彼等だって警察官以前なら、同じ立場だった。
朝急いでいる、仕事に遅れる。
子供の迎えがある、寒い、雨が降っている。
「何故、今日なんだ」と思う。
でもそれが自分中心の世界であるという事実も、
同じように呑み込まなくちゃいけない。
灯台下暗しじゃないけど、見方を変えると世の中は別のものに見える。
警察官だって、駄目だけど、
あなたの言い分が分かっていることは絶対にある。
ただ、冷静に考えればこの施行は筋道が通ってる。
そもそも法律的には元からアウトのことも、
いままでは済し崩し的に処理されてきたのだ。
信号無視、逆走、無灯火、一時不停止。
それらは江戸時代の駕籠かきや荷車の時代から続く「慣習」ではなく、
道路交通法という近代法の枠内では、すでに長く違反であった。
ただ、取り締まりの網が粗く、
注意という柔らかい布で包まれ、統計の外に置かれていた。
青切符は、その包みを解き、違反を可視化し、数値化し、
予算と人事と政策評価の対象にする。
路上の無秩序が、エクセルのスプレッドシートへと変換された瞬間だ。
つまり、自転車の違反は、これまで「交通行政の暗数」として、
統計資料の脚注に追いやられていたのだ。
しかし、青切符の導入により、
それは「可視化された犯罪」として、
警察の業績評価、交通安全対策の予算配分、
そして地域の危険箇所の特定に、直接的に反映されるようになった。
自転車の違反は、もはや「個人の道徳の問題」ではなく、
「行政の管理対象」となったのである。
ただ、急に違反切符を切られたという気持ちは、
やっぱり残るだろう。
何十年も踏み固められてきた獣道に、ある朝いきなり料金所が建った、
そんな感覚に近いのかもしれない。
実際、自転車に乗っている高齢者は、
いままで何十年も違反切符などなかったわけだから。
何でこんなことで捕まるんだと思った人もいるだろう。
毎年、交通ルールが変わるたびに、
げんなりするようなことが、
自転車の世界にでも起こったようなものかも知れない。
朝の通勤路で、いつものように左折車の陰から、
駅前広場へ抜けようとした瞬間、
警察官が白い手袋を掲げ、笛を吹く。
自転車を降り、歩道の端に寄り、名前を告げ、
免許証代わりの身分証を見せる。
警官は淡々とタブレットに事項を入力し、
プリンターから出てきた紙を手渡す。
その紙は、これまでの人生で受け取ったどんなレシートよりも薄く、
しかし重い。
*
警察庁の資料によると、
この制度が導入されてから一カ月間で、
全国の警察が交付した青切符の件数は二一四七件(暫定値)だ。
もちろん、その件数は最初はカウントされていなかったはずだ、
最初は注意、次からとなるからだ。
統計というものは、制度が動き出した瞬間から、
現場の裁量、指導方針、地域差、季節変動、キャンペーン、
警察署ごとのノルマ意識、そして市民の不安と反発を、
静かに吸い込んでいく。
一カ月の数字は、氷山の一角であると同時に、
今後の山脈の輪郭でもある。
その二一四七件という数字は、全国の警察署の交通課で、
それぞれの署長が「もう少し数字を伸ばせ」
と指示を出した結果かもしれない。
あるいは、逆に「初月は様子見だ」と、
現場に裁量を任せた結果かもしれない。
統計は、常に現場の力学を映し出す鏡である。
そして、その鏡は、来月には、再来月には、
もっと違う景色を映し出すものである。
その内訳は、
・ 指定場所一時不停止846件(40%)
・ 携帯電話使用713件(33%)
・ 信号無視298件(14%)
・ しゃ断踏切立入156件(7%)
・ 通行区分違反(右側通行)63件(3%)
・ そのほか71件(3%)
一時不停止が四割を占めるのは、
それだけ「止まれ」の標識と停止線が、
日常の中で軽視されてきたという証左だろう。
面白いのは、アメリカのアイダホ州では一九八二年から、
自転車が一時停止標識を、
「徐行して安全確認すれば止まらなくてよい」とする、
通称「アイダホ・ストップ」が認められていることだ。
同じ一時停止が、太平洋の向こうでは合法、こちらでは反則金。
どちらが正しいというより、道路の幅、車の量、歩行者との距離、
つまり街の骨格そのものが、
ルールの形を決めているのだろう。
日本の住宅街の、ブロック塀に囲まれて見通しの利かない交差点を思えば、
「止まれ」は理にかなっている。
携帯電話使用が三割を超えるのは、
スマートフォンが生活の中枢に食い込み、
自転車のハンドルがSNSやマップアプリのための、
情報端末の台座と化していることの裏返しである。
信号無視、踏切立入、右側通行。
しかしこの踏切の百五十六件にも、少しぞっとした。
遮断機の黄と黒の縞模様が下り、
警報灯が左右交互に赤く明滅し、カンカンという音が空気を叩いている、
その中に自転車で入っていく人が、
一カ月で少なくとも百五十六人いたということだからだ。
いずれも、数秒の判断、数メートルの近道、
小さな自己正当化が、
事故の確率を指数関数的に押し上げる。
「事故が起きる」と「事故が起きない」は確かに明確に違う、
けれど、割れ窓理論では徹底的に小さな犯罪を取り締まることで、
より安全な町を作ることができる。
つまりそれと同じで、確かにその判断に誤りはないかも知れない。
その時は、だ。でもそのような考えが長く続いた結果、
何か想像していなかったことが起きたとしたらどうだろう。
そのとき、鼻で笑っていた人間から血祭りだ。
最低僕は一ミリも同情しない。
でも逆に言うとこれまで、
交通事故になることがこんなにも容易く、
見過ごされてきたということだ。
交差点、路地、駅前、学校区、商店街、住宅街。
日本中の道路空間は、自動車、自転車、歩行者、配送車、
バス、タクシー、キックボード、ベビーカー、車椅子が、
同じアスファルトの上で、暗黙の優先順位とアイコンタクトによって、
かろうじて共存してきた。
その均衡は、法と慣習と譲り合いの三本足で立っていた。
青切符は、その三本目を少しだけギプスのように硬くする。
その「暗黙の優先順位」は、日本の道路文化の精髄であり、
同時に、最も曖昧で、最も危険な部分でもある。
たとえば、歩道を走る自転車は、
歩行者に対して「すみません、通りますよ」という視線を送る。
歩行者は、その視線を受け取り、わずかに体をずらす。
この一連のやり取りは、言葉を介さない、
しかし確実に機能する、路上のコミュニケーションである。
しかし、そのコミュニケーションが成立しない場合、
つまり、視線が合わない場合、
歩行者がイヤホンで音楽を聴いている場合、
自転車がスマホを見ている場合、
その均衡は、瞬時に崩れ去る。
道路は巨大な生態系だ。
車輪を持つ生物と、持たない生物がいる。
大きいもの、小さいもの、速いもの、遅いもの。
視力のいい人、視力の弱い人。
反応の速い若者、歩行速度の遅い高齢者。
子供、観光客、外国人。そして、疲れた会社員。
青切符は、その生態系に新しい境界線を引こうとしている。
*
こんなこと言うと後出しじゃんけんみたいな感じだけど、
自転車のマナーが悪い人がいるのは正直知っていたし、
なんだったら、自転車っていうだけで、
どんなことをしても自分は正しいという、
歩行者の延長線上で考えている人もいた。
自転車は歩行者ではない。
ここで少し物理の話をする。
電動アシスト自転車のアシストが効くのは、
日本の基準では時速二十四キロまで。
自転車本体が二十五キロ、乗る人が六十キロ、
合わせて八十五キロの物体が時速二十四キロ、
秒速にしておよそ六・七メートルで動くと、
その運動エネルギーはざっと千九百ジュールになる。
ボウリングの球を、
二階のベランダから十数回続けて落とすくらいのエネルギーだ。
それが、前方を見ていない一台の自転車に乗って、
歩道を走ってくる。
実際、自転車で人を殺すケースだってあるのだ。
俄かには信じがたいことだけど、
スマホや物を操作しながらの運転では、
スマートフォンを操作し、
飲み物を片手に持ったまま電動アシスト自転車を運転。
前方の確認を怠り、歩行者の高齢女性に衝突して死亡させたケース。
これは重過失致死罪で有罪判決が出た。
刑法二一一条。
自動車事故のための法律ではない、
ごく普通の刑法の条文が、自転車に適用されたのだ。
その判決文には、現場の天候、路面状況、
ブレーキ痕、衝突速度、被害者の受傷部位、加害者の視認行動、
スマートフォンの操作履歴、
そして「自転車は手軽な乗り物であるがゆえに、
その危険性が過小評価されやすい」という趣旨の指摘が、
乾いた文体で綴られている。
法廷は、一瞬の不注意を、時間をかけて分解し、
再構成し、責任の輪郭を冷酷なまでにクリアに描き出す。
その判決文を読んだとき、ある裁判官の言葉を思い出した。
「法廷は、人生の断面図を描く場所である」と。
その断面図には、加害者の人生、被害者の人生、
そして、その両者が交差した一瞬の出来事が、
時間の経過とともに精緻に描き出される。
自転車の事故は、自動車の事故と違い、その衝撃は小さい。
しかし、その小さな衝撃が、
時に、人生を完全に破壊することがある。
それは、まるで、小さな石が、静かな湖面に投げ込まれたとき、
その波紋が、湖全体に広がっていくようなものだ。
法廷では、その一秒を何時間も、何日も、
何百ページもの資料を使って分解する。
頭悪いと思うだろう、でもそれが正義とか、法というものだ。
「なぜ避けられなかったのか」
「いつ気付くべきだったのか」
「どの時点ならブレーキが間に合ったのか」
物理学と法律が、奇妙な場所で接続する。
時速二十キロで走る自転車は、一秒間に約五・六メートル進む。
人間が危険を認識し、反応し、
ブレーキをかけるまでに一秒かかれば、
その間にも自転車は数メートル進んでしまう。
つまり「見えた」と「止まれる」は同じではない。
事故解析の世界では、この差が決定的になる。
イギリスでも、二〇一七年に似た事件の裁判があった。
前ブレーキを外した競技用の固定ギア自転車で、
ロンドンの通りを走っていた青年が、
道路を渡っていた女性にぶつかり、女性は亡くなった。
自転車の危険運転を直接罰する法律がなかったため、
検察が持ち出したのは、一八六一年、
ヴィクトリア朝の馬車の時代にできた、
「無謀かつ激しい運転」の罪だった。
百五十年以上前の、馬車を想定した条文。
イギリスはその後、自転車による死亡事故そのものを罰する、
法整備を議論することになる。
法律はいつも、事故のあとから、息を切らして追いかけてくる。
日本でも、二〇一三年に神戸地裁で、
小学生が乗った自転車と衝突して寝たきりになった女性の件で、
約九千五百万円の賠償を命じる判決が出ている。
その後、多くの都道府県で自転車保険への加入が義務や努力義務になった。
「自転車だから」という言い訳は、
法律の上ではとっくに通用しなくなっていたのだ。
自転車でも、高齢者という要素が出てくると、
こういう事例が出て来るし、
高齢者でなくとも横転時に頭部に激突すれば、
死亡事故が起こりうることは誰にでも分かることだ。
ヘルメットは、単なる帽子ではない。
それは、頭蓋骨とアスファルトの間に挟まれる、
発泡スチロールとポリカーボネートの層であり、
場合によっては、人生の残り時間を左右する数センチの緩衝材である。
*
警察庁の発表によれば、
自転車関連の交通事故は年間七万件前後で推移しており、
二〇二五年の自転車乗用中の死亡・重傷事故のうち、
およそ四分の三は、
「自転車の運転者側にも法令違反がある」とされている。
四分の三。この数字は、自転車が被害者になるだけでなく、
加害者にもなりうることを示している。
交通事故は、もはや「車対人」の二項対立ではない。
自転車対歩行者、自転車対自転車、自転車対自動車、
自転車対キックボード、自転車対宅配ロボット。
(まあ、宅配ロボットはまだ一般的ではないが、)
都市の交通は、多種多様なアクターが交差する生態系へと変貌している。
こうした背景から自転車に青切符が導入され、
交通ルールの厳格化が進められているのだ、
粛々と受け止めたい。
粛々と、という言葉は、怒りでも諦めでもなく、
制度と共に生きるための、ある種の成人の態度である。
しかし、その内側には、納得できない気持ち、急かされる不快感、
これまでの慣習を否定される寂しさも、確かにある。
その寂しさは、たとえば、
子供の頃に近所の商店街を、
自転車で自由に走り回っていた記憶と結びついている。
あの頃は、信号も、標識も、警察官も、
すべてが「大人の世界」のものであり、
自分たち子供は、
その世界の隙間をまるで野良猫のように自由に駆け抜けていた。
しかし、今、その隙間は法律という名のコンクリートで、
無慈悲に埋められようとしている。
それは、安全のためであり、秩序のためである。
公園や川原でどうして花火ができないのか。
キャッチボールできないのか。
そうだ、その代償として、何か大切なものを失いつつある。
そのことはちゃんと僕の胸の中にもある。
*
ただ青切符制度によって注目されるものもある、
まあ、広告宣伝するつもりはないしお金も貰ってないので、
シロなんだけどさ、
自転車用ドライブレコーダー『あんしんREC』だ。
小型のレンズがハンドル中央に据えられ、
LEDインジケーターが青く点滅する。
録画はループ式で、microSDカードに暗号化されて保存され、
スマートフォンアプリで確認できる。
GPSは走行軌跡を記録し、
加速度センサーは急ブレーキと衝撃を検知する。
それは自転車のための黒匣であり、
事故の瞬間を証拠に変える小さな機械である。
通勤・通学の安全対策というのも、
物騒な世の中、ヘルメット被るとか、
信号を気を付けるとかいうのではもうなくなっているか。
取り締まりが厳格化するなか、
正しくルールを守って運転していても、
トラブルに巻き込まれるリスクや、
歩行者・自動車との事故時に言葉だけでの状況証明が、
難しい場面が増加している。このような社会情勢を受け、
自動車だけでなく自転車にも、
記録(証拠)を残すニーズが急速に高まっている。
「言った、言わない」の世界から、
「映っている、映っていない」の世界へ。
ロシアで車載カメラが爆発的に普及したのは、
保険金詐欺の当たり屋や、
事故後の水掛け論から身を守るためだったと言われる。
二〇一三年、チェリャビンスクに隕石が落ちたとき、
あの火球の映像が世界中に出回ったのは、
無数の車のダッシュボードに、
誰に頼まれたわけでもないカメラが据えられていたからだった。
記録する社会は、ときに思いもよらないものまで記録する。
保険会社の商品開発担当者は、
自転車保険とドライブレコーダーを組み合わせた新商品を検討し、
IT企業は映像解析AIで「ながらスマホ」や「逆走」を、
自動検出する実証実験を行い、
自治体は通学路の危険箇所を可視化するために、
自転車利用者から映像データを匿名で収集する制度を模索している。
プライバシーと安全の境界線は、
ハンドル上の小さなレンズの向こうで、絶えず揺れている。
その揺れは、現代社会の最も根深いジレンマの一つである。
僕等は、安全を求めるあまり、プライバシーを犠牲にする。
そして、プライバシーを守ろうとするあまり、安全を犠牲にする。
ドライブレコーダーは、そのジレンマを、
最も先鋭的な形で体現している。
それは、僕等の行動を常時監視する、
パノプティコンの一部となりうる一方で、
僕等を不当な嫌疑から守る盾ともなりうる。
そのレンズの向こうには、安全と自由の、
永遠のせめぎ合いが映し出されている。
*
自転車の話ばかりだけど、自動車側も思うことはあるだろう。
モータリゼーションの歴史が定めた軽車両である自転車は、
車道通行と左側通行が原則のため、
自転車が本来の交通ルール通り、
車道を走行する必要があるからだ。
朝の通勤ラッシュ、片側二車線の幹線道路。
右車線には急ぐ乗用車、左車線にはトラックとバス、
そして路肩には自転車。
ドライバーは、前方の自転車との距離を測り、対向車の頭を確認し、
ミラーに映る後続車の速度を読み、ハンドルを微妙に右へ切る。
助手席の同僚が「怖いな」と呟く。
自転車側も、後ろから迫るエンジン音、
ハイブリッド車のモーター音や大型車の排気の熱、
トラックが巻き起こす風圧を感じながら、
白線の内側で身体を硬くする。
怖くないって言ったら噓になる。
この手の話で、自動車側の人が事故が増えると思いながら、
(実は施工後に、巻き込まれ事故も起きているのだが)
歩道を走らないケースがあるが、
取り締まり方針というのがあって、
歩道通行で取り締まられるのは、
歩道を歩行者の間を縫うように危険な速度で走っていたり、
具体的危険が生じている場合、
警察官の命令を無視して違反を続けた場合、
スマホしながら傘さしながら歩道を通行していたり、
などで、悪質なものが取り締まり対象だ。
そもそも、車道の交通量が多くて危ない場合や、
「自転車通行可」の標識がある歩道、
十三歳未満の子どもや七十歳以上の人などは、
歩道を走ることが認められている。
その場合も車道寄りを徐行、歩行者優先が大前提だ。
つまり、歩道通行そのものが即座に青切符というわけではない。
そこには「安全配慮義務」と「具体的危険」という、
現場の判断が入り込む余地があり、
危険だと思えたら歩道を走ればいいし、
人が多いなと思ったら押して歩くなりすればいい。
しかし、その判断は、警官の経験、地域の実情、時間帯、天候、
歩行者の密度によって揺れうる。
法の適用は、数学の公式ではなく、路上の即興演奏に近い。
あと、本当にどうしたらいいのか分からなかったら、
警察官に質問するしかない。
餅は餅屋に聞くしかない。
交番の窓口で、若い警官が地図を広げ、鉛筆で矢印を書きながら、
「この交差点は、自転車は二段階右折ではなく、
普通に右折してください」と説明する。
その声は、法の条文よりも具体的で、その場の空気を含んでいる。
*
そして自転車が車道にしゃしゃり出て来る以上、
車を運転するドライバーは、
これまで以上の注意と配慮が強く求められる。
ドライバーの注意は、もはや「前方を見る」だけでは足りない。
左後方の死角、路肩の段差、駐車車両のドア、
横断歩道の手前、雨上がりの白線、夕暮れの逆光、
自転車のライトの点滅、子供の飛び出し、高齢者の歩行速度、
運転は、多次元の情報処理へと変容している。
まあ、免許の範囲内でしょといえばその通りなのだが。
しかし、その多次元の情報処理は、ドライバーの脳に、
想像以上の負荷をかけている。
かつて、運転は、反射神経と経験でこなせるものだった。
しかし、今、運転は常時周囲の状況をスキャンし、
リスクを予測し、最適な行動を選択する高度な認知作業となっている。
それをいくらか大袈裟にいえば、チェスのグランドマスターが、
盤上のすべての駒の動きを、同時に読むようなものだ。
そして、その認知作業に、疲労やストレスが加われば、
判断ミスが生じる。そのミスが、事故につながる。
こんな状況でも、音楽をガンガンにかけて走る車がいる。
音が聞こえないで走ることが事故の可能性を引き上げるなんて、
つゆとも考えない人がやっぱりいるに違いない。
これだけ青切符と盛大にやらかされているのに、
いまでも、ながらスマホの現場を見ることがある。
一万二千円が怖くないのだ、すごいことだ、ブルジョワだ。
ルールってみんなのためにあるはずなのに、
そしてそれは結局のところ、いい社会を作ることなのに、
その一人一人の足並みが揃わないなんてことはよくある。
でもたとえばトラックの運転手が電話しながら運転をしてる、
そのとき、僕はその事情を透かし見てしまう。
やっぱり僕にはルールなんて言えない側かな、と思う。
*
自転車に青切符が導入されたことに伴い、
ドライバー側の『追い越しのルール』も明確化された。
車が自転車を追い抜く際は、
最低でも一メートル程度の距離を空けることが推奨されており、
(そんなこと出来るかと思った人もおられると思いますが、)
これが安全を保つための十分な間隔の目安となる。
ちなみに海外はもっと広い。
フランスは市街地で一メートル、郊外で一・五メートル。
ドイツは二〇二〇年から、市街地で一・五メートル、
郊外で二メートル。
イギリスの交通規則集ハイウェイ・コードも、
時速三十マイルまでなら少なくとも一・五メートルを目安にしている。
一メートルは、国際的に見ればむしろ控えめなほうなのだ。
一メートルといえば、ちょうど大人が両腕を広げた幅の半分強。
ハンドルの幅を思い浮かべると、その心許なさがよく分かる。
かように、この「一メートルルール」は、ドイツやフランスなど、
欧州の多くの国々で既に導入されている。
日本は、欧州の交通安全基準に、約十年遅れで追いついた形となる。
一メートル。それは、車のドアミラーと、
自転車のハンドルエンドの間に確保される、命の余白である。
しかし、幅三メートルに満たない路地、
駐車車両の並ぶ商店街、対向車が絶え間なく来る山道では、
その一メートルは、しばしば数学的に不可能である。
だからこそ、法は減速という別の答えを用意する。
道路構造令によれば、都市部の生活道路の幅員は、
最低でも四メートルが推奨されている。
しかし、現実には、これよりも狭い道路が数多く存在する。
もし、道路の幅や対向車の存在などで十分な距離を保てない場合には、
クルマは二〇〜三〇km/h程度まで減速して走行する必要がある。
ドライバーがこれに違反した場合は、
『歩行者等側方安全通過義務違反』とみなされ、
普通車で反則金七〇〇〇円(違反点数二点)が科される。
時速二十キロ。メーターの針がほとんど寝そべっているような速度だ。
後ろの車に煽られる気もするが、
その後ろの車も同じルールの中にいる。
それは、自転車の最高速度とほぼ重なる領域であり、
車が自転車と同じ速度で並走することを意味する。
追い越すのではなく、並ぶ。急ぐのではなく、合わせる。
道路空間における優劣を一時的に解除し、同じ速度で流れる。
それは、交通工学というより、社会倫理に近い。
たとえ渋滞しても、パトカーがそれをほとんど誘蛾灯していても、だ。
また、自転車側も道路の左端に寄って走るという行為を、
拒否したり妨害すると『被側方通過車義務違反』とみなされ、
反則金五〇〇〇円が科される。
さらに、信号待ちや渋滞で停車している車の右側を、
自転車がすり抜けて追い越す行為も、
状況によって危険行為とされた場合には、
青切符の対象となる可能性がある。
停車中の車列の右側をすり抜ける自転車。
ドアが突然開く。歩行者が車の間から飛び出す。
対向車が右折してくる。すり抜けは、都市の隙間を縫う快感と、
死と隣り合わせのリスクを同時に孕んでいる。
警察がいるから気をつけなくちゃになりがちだけど、
警察がいなくても危ないかどうかは自分の命と直結したことなので、
気を付けたいことだ。
警察官は、道路のどこにでもいるわけではない。
しかし、物理法則は、いつでもどこでもそこにいる。
衝突エネルギーは、速度の二乗に比例する。
人間の反応時間は、平均して〇・七秒から一秒。
乾いた路面と濡れた路面では、制動距離が変わる。
これらの法則は、警官の笛よりも厳格で、情状酌量を認めない。
ルールは一方通行ではない。車は空け、自転車は寄る。
道路はもともと、互いに少しずつ譲り合うことで成り立つ、
細長い共有地なのだ。
コペンハーゲンでは、朝の通勤時間帯、
自転車が時速二十キロ前後で走り続けると、
信号が次々と青に変わる「グリーン・ウェーブ」という仕組みがある。
ルールを守ることが、そのまま一番速い移動になるように設計されている。
日本の道路に同じことをすぐ望むのは難しいが、
罰則だけでなく「守ったほうが得をする」道の設計も、
いずれは必要になるだろう。
贅沢を言えば完璧に分けてしまえればいいと思うが、
そんなの誰がどう考えたって無理だろう。
*
さらに、違反行為を三年以内に二回以上検挙された場合、
都道府県公安委員会は違反者に対して、
自転車運転者講習の受講を命ずることができる。
命令を無視し、自転車運転者講習を受けなかった場合は、
五万円以下の罰金が科されるので要注意だ。
講習は、平日の午後、警察署の会議室で行われることが多い。
机には資料と筆記用具、壁には交通安全のポスター、
前方にはスクリーンとプロジェクター。
参加者は、会社員、学生、主婦、高齢者、外国人住民。
講師は、事故の映像を流し、停止距離の計算を示し、
被害者の遺族の手記を朗読する。
三時間の講習は、単なる罰則ではなく、
速度と距離と注意力を、身体に再インストールする儀式である。
講師が言う
「事故は、突然起こると思いますか?」
誰も答えない。
「実際には、その前にいくつもの小さな判断があります」
スクリーンに道路が映る。
交差点、自転車、車、歩行者。
一秒、二秒、三秒、映像が止まる。
「この時点で、危険を予測できた可能性があります」
停止距離の説明、速度の説明、視野の説明。
夜間の視認性、雨天時の注意。
ヘルメット、スマートフォン、飲酒。
受講者は黙って資料を見る。
誰も「自分は事故を起こす」と思って自転車に乗っていたわけではない。
それでも事故は起きる。
こうなってくるともう、
自転車免許も必要なのではないかと思う。
それはいくらか行き過ぎだし、ふざけるなと言われるけど、
それでも自転車にだって気軽に乗れないと話す人もいるぐらいだが、
本当にその通りで、
ただ自転車が乗りたいだけなら車に自転車を載せて、
山奥で熊や猪と一緒にサイクリングするしかないのかも知れない。
喫茶店の窓辺で、チラシを裏返した。
そこには、小さなQRコードが印刷されており、スマホで読み取ると、
警察庁の公式サイトへとリンクしていた。
画面には、「自転車の交通ルール、守れていますか?」
という、問いかけが表示されていた。
外では、夕暮れが近づき、街路灯が一つ、また一つと点灯し始めていた。
自転車のライトも、それに呼応するように、
橙色の光を放ち始めた。
その光の列は、まるで都市の血管を流れる、赤血球のように見えた。
、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、
―――みんなそんなに急いで、何処へ行くんだろう?
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最終更新日 2026年09月27日 23時58分43秒
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