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本日の弁当は「クリームコロッケ&ウインナーとキャベツの炒め物」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃お好み焼き屋には行ってもメインのお好み焼きは殆ど食べることなく、何をしていたかと言うと、クジ付きガムや寒天などを買って食べていたのです。ガムは5センチ四方ぐらいの大きさで、質素な包みの中にガムと同じ大きさのかみきれが入っていて、そこに最高値50円を筆頭に30円、20円、10円と「はずれ」の文字が書かれているのです。50円は滅多に出ませんし、10円すらあまり出たことがないクジです。当時で50円あれば、満足できる菓子が買えたものです。寒天は通常のストローより長めのストローに入っていて、吸い口の先に1センチ四方の紙切れが付いており、そこに赤い丸が書いてあればもう一本寒天が貰えるという仕組みでした。ハッカ味の赤や緑、黄色の寒天で、特別美味しい訳ではありませんでしたが、クジのスリルと言う物をそこで初めて味わったのです。
2012年03月29日
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本日の弁当は「お好み焼き」干し桜エビ・キャベツ・ウインナー・山芋・鶏卵が入ってます。さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃土曜日のお好み焼き屋は半日で学校から帰ってくる児童達の昼食の場でもありました。私はお好み焼きが嫌いだったし、土曜の昼は家で御飯に味噌汁をかけたのを良く食べていたので、その後にお好み焼き屋へ行ってクジ付きのガムを買ったりしていました。横目でお好み焼きをおいしそうに食べている少年らを観ていますと、ステンレス製のヘラを巧く使ってアッという間に平らげている姿が不思議でなりませんでした。紅しょうがの味しかしないし、熱くて味も判らないので、必然と食べるのも遅くなった私にはお好み焼きは香りすら苦手になっていました。でも、同じ鉄板の上で焼く「焼きそば」は大好物でしたが、店で食べるという習慣は私にはなかったので、ごく稀に食べる時はそれこそ「ご馳走」でした。
2012年03月28日
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本日の弁当は「カレーライス」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃広い空き地の片隅でトタンを囲んだような小さな「うどん屋」のすぐ近くには、市場が二軒も並んでいて、その中にも麺類を食べる事のできる小さな食堂があったのです。麺などは店主自ら小麦粉を足で踏んづけて練るのです。その人達にとっては、トタンで囲まれた「うどん屋」は商売敵だったはず。しかし、立ち退きを促すような嫌がらせがあったという噂は聞いたことがありませんが実際はそういう事が起きていた可能性はあります。その「うどん屋」も私の記憶によればかなり短い期間の営みだった気がするからです。「うどん屋」がみられなくなった頃、すでに長屋で経営していたお好み焼き屋も廃業していました。そこの玄関の上部には横長の大きな店名の看板があって、風雨で薄くなった文字を微かに残していました。
2012年03月27日
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本日の夕食は「カレーライス」おそらく明日の弁当もカレーになるでしょう。ブロッコリーと椎茸が入ってますが、これは失敗です。久しぶりに辛口を買ってきましたが、中辛に慣れていたせいか辛すぎて味が良く判りません。さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃幼稚園に入るかどうかの時分、住んでいた町には広い空き地が多く点在しておりましてそこで「うどん」屋を経営しているおじさんが居ました。その人は私が住んでいた長屋の二軒隣に住んでいて、実際そこでも「お好み焼き」屋をしばらくは経営しておりました。突風が吹けば飛んでいってしまうようなトタンで囲まれた「うどん」屋で、2~3人の客が入ったら満員な狭いものでした。しかし、そこのうどんに使うダシの香りがとても良くて、50年近く経った今でも忘れられない香りなのです。それを食べたかどうかは記憶にないのですが、きっと美味かった事でしょう。
2012年03月26日
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本日の弁当は「椎茸とニンジンと糸コンニャクの炒め物」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃インスタントラーメンを良く食べた少年期、といっても今でも良く食べますが袋の裏面には3分間煮てスープは火を消してから、というのが定番として表示されています。しかし、私は2分ぐらいしか煮ませんし、スープも乾麺と一緒に入れる事が多いです。昔、姉がインスタントラーメンを作っている所に私が現れ、先にスープを入れている姉に質問をしました。「スープは火を消してから入れるのでは?」と。姉曰く、「それだと麺に味が染み込まない」その言葉を信じた訳ではありませんが、私は面倒くささから最初にスープを入れて煮る作り方を昔からしています。そして、3分も煮ると柔らかく成りすぎるような気がします。やや堅めの腰のある歯ごたえが良いのですが、少年の頃は長く煮て麺を伸ばして量を増やそうなどと欲張った作り方をした事もありました。
2012年03月23日
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本日の弁当は「しじみしぐれと塩昆布のおにぎり」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃インスタントラーメンを食べる時は、あまり具を入れない方が好きでした。キャベツやその他の具を入れると、ラーメンそのものの味が変わってしまうからです。スープも美味しいからと言って飲んだりはしませんでした。御飯をスープの中に入れて食べるときは別ですが、麺だけを食べるのが良かったのです。今現在の食べ方は、長ネギのみじん切りを入れて食べるのが最高に美味しいと感じます。インスタントラーメンだけではなく、外食する時のラーメンでも、具は私にとっては邪魔なものだったのです。
2012年03月22日
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本日の弁当は「スパゲッティ」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃良く食べたインスタントラーメンは、「サッポロ一番しょうゆ・塩」「出前一丁」「イトメンのチャンポンめん」「ハウス・シャンメン」等々で、一番好んで食べたのが「イトメンのチャンポンめん」です。これは現在でも製造されていて、私は30袋入りの段ボールごと買い入れます。これまでで最高に美味いと思ったものは、「ジャスコラーメン」という聞き慣れない商品名のインスタントラーメンでした。いつ頃食べたのかも忘れてしまいましたが、おそらく販売期間限定のジャスコ特製のラーメンだったのではないかと思います。しょうゆ味ではあったと記憶してますが、どこかの製造元に作らせたのなら、既製製品に似た味の物があるはずなのですけど、見つかっていない所を考えると、オリジナルだったのでしょう。麺にスープが良く絡んで、癖の無いコクのある味でした。まとめ売りで格安だったと思いますが、あれだけ美味かったのに人気が出なかったなんて営業マンが怠けていたんでしょうか?
2012年03月21日
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本日の弁当は「ウインナー&ブロッコリー&卵焼き」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃インスタントラーメンの需要が爆発的に増加し始めた時期でもありました。今現在ではカップ麺も含めてかなりの種類が出回っておりますが、それでも袋面は数種に淘汰されてきたように思います。実際は製造されているのでしょうが、店頭に並ぶ袋面はいつも同じ面々です。よく売れる物が並んでいるのでしょう。私が少年だった頃は売れる売れないに関わらず様々な袋面が店頭に並んでおりました。だいたい、どれを選んでも結構美味しかった記憶があります。インスタントラーメンをまずは食べておいて、残ったスープに御飯をドカンと入れて食べるのが最高に美味しい食べ方でした。
2012年03月20日
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本日の弁当は「スパゲッティ」和風風味さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃豆腐やパン、そしてカステラの屑のようなものを売り歩く人が存在しましたが今現在でも石焼き芋とかワラビ餅などが軽トラックなどで良く売りに来ています。このワラビ餅を売りに来たのを初めて観たのが小学二年生ぐらいの頃でした。ウエハースを小舟に象った容器に八粒くらいの半透明な柔らかいワラビ餅が入っていて、きな粉が振りかけられていました。主に夏頃に頻繁に登場してきて、私達の良きおやつになりました。まだまだそうした和菓子の類がよく売れていた頃だったのでしょう。庶民には堪らない冷たいおいしいお菓子でした。餅を食べた後はウエハースの船まで食べられるので、ゴミにもならず画期的でした。
2012年03月16日
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本日の弁当は「お好み焼き」材料は小麦粉・たまねぎ・ぎんなん・ハム・しらすぼし・山芋・鶏卵さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃豆腐やパンを売り歩く人は居ましたが、流石に金魚を売り歩く人は見かけた事はありませんでした。しかし、小学生の時分に60歳過ぎの初老の人が自転車の荷台にカステラが粉々に崩れた物を多く入れ込んで、10円で売り歩いていた事がありました。その人の掛け声は、「おおまけ~、おおまけ~、10円のおおまけ~」というもの。巷の主婦連達は「あんなのはカステラ屋の切り屑よりもっとひどい、ボロボロのかす、ゴミだ」と評判はイマイチでしたが、私達子供らには打って付けのおやつとなりました。確かに見かけはカステラが崩れたボロボロの屑です。でも味は普通のカステラと同じなので私達はコロッケが五個ぐらい入れられるような白い貧弱な紙袋に入ったカステラ屑をつまみ食いしながら遊んだものです。なんたって10円ですから、当時ほとんどお小遣いを貰えなかった私でさえ、一度に余裕で二袋は買えちゃったんですから。
2012年03月15日
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本日の弁当は「ブロッコリー&ウインナー」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃夕暮れ時に豆腐屋がやって来たり、夜に街頭映画が催されたりと、長閑な日々が多くありました。米も配達が主流。紙製の袋に入れられた米が配達されると、私達子供はすぐに封を開けます。米袋の中には小さなガムがオマケとして入っていたからです。小さな短い腕で米袋の中をまさぐりながら、3センチ角のガムの包みを一個発見する事が出来たのです。薬は常備薬。定期的に営業マンが訪問してきて常備薬の箱を調べ、補充したりします。そこにもオマケは付き物。営業マンは風船やら擦って張り付けるシールなどを持ってきてくれたのです。おかげで家の壁や柱にはアニメキャラクターのシールが点々と張り付けられていたのは、決して我が家だけではなかったのです。
2012年03月14日
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本日の弁当は「ハンバーグ&豆腐」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃夕方になると自転車に豆腐を積んだ行商が、パ~フ~っとラッパを鳴らしながらやって来て近所の主婦達は器に水を入れてそこへ集まってきます。そうやって日常的に売りに来る豆腐を皆は買っていたのです。牛乳も配達が主流で、1リットルパックが出てきたのは私にニキビが出来てくる頃の事でした。バターなどは市場で量り売り、市場の片隅には麺類を食べる事のできるちょっとした食堂がありました。中華そばやうどんなど、並、大盛りなどと書かれたメニューの札が壁に掛かっていました。並で25円くらいのうどんや中華そばを食べる事ができた時代でした。
2012年03月13日
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本日の弁当は「カレーライス」チョコを入れた先日のカレーは失敗作。今回はハムのブロックを入れ、全体的に具を少な目にしてカレーが薄くならないようにして正解。さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃は夕暮れ時に近所を歩いていると、よその夕飯の献立が判るぐらい香りが鼻をかすめていました。カレーなどはその代表的な物で、自分ちもカレーだと良いなと期待して帰ってみると、本当にカレーだったりする事もたまにはありました。当時は肉類が苦手でしたので、カレーは好きなのですが肉だけを避けて食べていました。運悪く他の具と一緒に口に運んだ際には、一気に食欲が失せたものです。
2012年03月09日
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本日の弁当は「スパゲッティ」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃まだ土曜日も出校が当たり前の時代でして、週休2日などという発想は全く感じられなかった時期でした。今思うと土曜日が一番楽しい曜日だったと思います。半日で帰宅できるのですが、昼飯は家で食べます。その時に良く観ていたテレビ番組を思い出します。NHKでは昼に大河ドラマの再放送をしていましたし、よしもと新喜劇はその頃から放送されていましたのでよく観ていました。そんな番組を観ながら御飯に味噌汁をかけた物を胃袋にかき込んでいたのです。
2012年03月08日
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本日の弁当は「ジャガイモの煮っ転がし&スクランブルエッグピーマン」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学校を卒業して中学生となり、夏休みを迎えてもまだまだ小学生気分は消えてはいませんでした。それは同級生も同じで、中学一年生時の夏休みには六年生のクラスメート達とクラス会をし、久しぶりの私服同士の再会です。しかし、そこからが分かれ目。それ以降は六年生時代のクラス会も行われる事は無く、年を追う事に疎遠に成っていきました。古いものと新しいものが入れ替わる間もなく、高校受験へと突入していくのです。
2012年03月07日
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本日の弁当は「カレーライス」隠し味にビターチョコレートが数片入ってますが、入れすぎでチョコの味が勝っています。さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃現在、卒業式に使われる唄がどんなものか知りませんが、当時は「仰げば尊し」「蛍の光」が定番でした。卒業生を送る側の新六年生が唱う「蛍の光」。これは今聞いてもさほど寂しさを感じませんが「仰げば尊し」は送られる側の唄で、当時唱った側としても、今現在聞いても胸に響くものがあります。新しく進まなければならない場所の事の方が不安で一杯だったので、女子生徒のように泣いたりはしませんでしたし、小学六年間の思い出が走馬燈のように甦ったりもしなかったのは、何度も式の練習をさせられていたからですが、何故でしょうか?「仰げば尊し」だけは今現在でも歌い継がれて欲しいくらい、沁みる唱歌です。
2012年03月06日
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本日の夕食はカップうどんで有名な日清の「どん兵衛」の袋麺バージョンです。大きな揚げは入っておりませんが、スープはカップの物とほぼ同じ味。麺はツルツルし過ぎてる感はありますが、まずまずの合格点です。しかし、いつもながら感心するのはインスタント麺に使用されているスープの旨さ。よくテレビで放送する一般のラーメン屋の自慢で、あれこれとスープのダシにする豊富な材料を三日三晩煮込んで、それも美味しいんでしょうけど、簡単に作れるインスタント麺のスープの味に及ぶのでしょうか?
2012年03月04日
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本日の弁当は「赤飯&ハンバーグと銀杏」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃恋とまでは行かないまでも、気になる女の子の存在は多くありました。それもほんのひとときを一緒に過ごしただけのものであり、それだけに印象は深いようです。小学生の頃は夏休みになると母親の生まれ故郷にご厄介になるのが通例でしたが、そこには他の親戚の子もチラホラ集まるのです。その中にちょっと年上の目がクリっとした優しそうなお姉さんタイプの子も居た事があって、会ったのはその時だけですが、その期間中私は自然にウキウキした気分になってました。川遊びでその子のサンダルが流されたと聞いたとき、自分が取ってきてやろうなどと張り切りましたが、結果はどうだったか忘れてしまいました。多分、他の誰かがサンダルを取ってきたんだと思います。きっと私はその時、内心悔しがりながらもヨカッタネなどと微笑んだに違いありません。
2012年03月02日
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本日の弁当は「おにぎり」シラス干しの具さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃モテる時期とモテない時期がハッキリと別れていた少年期ですが、こちらから思いを寄せる数は少ない方だったと思います。その理由としては、1人の女の子を長期間に渡って思い続けたからではないでしょうか。初恋は小学一年で、相手は幸子ちゃんという同じクラスの子。小さくて目が真ん丸、顔も真ん丸で性格を含めて尖ったところが全くない女の子で、とてもおとなしいのですが決して暗い子ではありませんでした。その幸子ちゃんを思い続けた期間は小学二年の頃までですので、一年以上です。次に思いを寄せた相手が登場したのは小学五年。真弓ちゃんという同級生には中学に上がるまで三年くらい思いを寄せました。途中、一ヶ月ぐらい両想いだった相手でした。そして第3の女の子として登場した中学一年時代のクラスメート、小さくて可愛く勉強の出来たお転婆娘Sさんの事は、いまだに心の中にどっしりと居座っております。
2012年03月01日
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本日の弁当は「ハム&スクランブルエッグピーマンキャロット」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学5,6年から中学一年生までが私のモテ期だったのですが、それ以降から現在に至るまでは全然モテない期と言えましょう。で、モテ期は幼少の頃にもありまして、実は4歳か5歳の頃に隣に住んでいたK美ちゃんという私より2歳年下の女の子から「好き~」とよく追いかけられたものです。なぜか私をカッコイイと言ってくれて、とにかく「好き~」を連発された事を記憶しております。私は逃げてばかり居て、その子が中学に上がる頃の引っ越す時期まで好きにはなれませんでした。好きだと言われていた期間は幼児にしては長く、私が小学低学年の頃まで何かと傍に寄ってこられていました。ある日、幼稚園児ぐらいだったK美ちゃんと広っぱの草むらで一緒に寝ころんでいた時、「私、好きな子ができたの。」と告白されました。私の事もまだ好きだけど、その子の事も好きになったのだと言うのです。それはK美ちゃんの恋の駆け引きだったのでしょうか、いずれにしても私はチョットホッとしました。
2012年02月29日
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本日の弁当は「ハンバーグ&卵焼き」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年生時代のクラスメートで小さくて可愛くて勉強の出来たお転婆娘Sさんには結局中学三年生時に振られたのですが、すでに一年生の頃に周囲に気後れしていた私は、Sさんに対しても差がありすぎて半ば諦め気分ではあったのです。小学5.6年の頃は走力もあってユーモアもあり、相撲も強かったので自信が漲っていたのですが、中学では私よりも運動能力の優れた輩が多くいて、成績も風貌もパッとしなかった私には自信に繋がる物が失せていたのです。体操部で身軽なワザを身に付けても、決してモテたりはしませんでした。体操の試合には4人構成のチームで競技を争うのですが、その中にモテる三人が居て、一応レギュラーだった私だけがモテない代表でした。これは謙遜ではなく、実際にそうだっったのですから何とも致し方ありません。三年生の時の県大会では跳馬で4位の個人成績が自慢ですが、周囲には黙ってました。それでモテようという期待を隠す為でした。
2012年02月28日
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本日の朝食は「焼き飯」醤油ベースでシーチキンとニンジン、キャベツが入っています。さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年生時代のクラスメートで小さくて可愛く勉強の出来たお転婆娘Sさんは二年生の夏に引っ越してしまい、その後にラブレターをSさんに送ったのも遅し。その一年後に断りの手紙が届いて一巻の終わり。Sさんからの返事が来るまでの間に年賀状も書いたんですが、それさえも来なかった時点でアウトだったのに、諦めの悪いガキでした。返事が来ないという事は諦めろと言う最大の文句であり、Sさんが返事を書かなければならない義務は1パーセントも無いのですけど、やはり人情としてSさんを恨んでしまったのです。それは長いこと癒える気持ちではありませんでした。
2012年02月25日
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本日の弁当は「ハンバーグ&里芋の煮物」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学一年生時代のクラスメートで小さくて可愛く勉強の出来たお転婆娘Sさんにレコードをプレゼントしましたが、やがて二年生の夏休みにSさんは引っ越してしまいます。すでに恋は終わっていたはずですが、私は彼女にラブレターを書いてしまったのです。直接言えなかった事を手紙なら言えたと言うわけですが、そのやり方はちょっと卑怯だったかも知れません。結局、3年生の夏まで返事は来ず、やっと来た一通の手紙には「好きな人が居る。手紙を送ってもらうと辛い」という文面が並んでいました。これで完璧に恋は一巻の終わりでした。
2012年02月24日
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本日の弁当は「焼き飯」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学一年生時代のクラスメートで小さくて可愛く勉強の出来たお転婆娘Sさんに一年生三学期の終業式の日に開かれた教室でのお別れ会で、レコードをプレゼントしようとしていた私は、机を寄せ集めたテーブルを中央に集まった10人ほどの女生徒の回りをウロウロとしていました。なんとかレコードはSさんに手渡す事は出来たのですが、彼女はやや俯き加減にレコードを受け取っていました。二年生になって数日後、Sさんは友人を介してそのレコードを返却してきました。そこで恋は諦めるべきだったんですが、「そのレコードはプレゼントだから、Sさんにあげたんです」といって、Sさんの友人に突き返したのです。
2012年02月22日
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本日の弁当は「お好み焼き」使用材料はキャベツ・にんじん・長芋・ソーセージ・ぎんなん・小麦粉・料理酒・めんつゆさて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年生時代のクラスメートで小さくて可愛い勉強の出来たお転婆娘Sさんとは、ふたりが個人的に何かで遊んだとか、作業をしたという事は無かったのですが、私達の一年五組というクラスはお互いにとって忘れられない最高の教室だったのではないかと思っています。ホームルームでは多くの意見が飛び交い、誰が何を考え、何を求めているのかが良く判るクラスでしたので、私も、おそらくSさんも意見を言うのが楽しかったと思います。当時、誰が言いだしたか定かではありませんが、一年五組のクラス会をしたいなぁという程でしたし、実際三学期の終業式の日には有志だけでお別れ会が教室で行われました。出席したのは女生徒ばかりで、私はその周囲をウロウロとして、サイモンとガーファンクルの「冬の散歩道」というレコードをSさんにプレゼントしようとしておりました。
2012年02月21日
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1着には8枠16番のテスタマッタが入った模様。予想通り1番人気トランセンドは敗退し人気通りには行かないレースでしたし、7番人気が優勝という事で荒れたレースと言っても良いでしょう。しかし、イチ押しの6に関する馬は入りませんでした。後付けで言えば馬番16ですから一応6が付いているという事でOKではないでしょうか?
2012年02月19日
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明日はフェブラリーS(G1・ダート1600m)それを占うと坎為水の上爻の卦を得ました。これは、捕らえられて牢獄に監禁されて三年間は脱出できないと言うくらいの問題のある卦ですから、おそらく何か起きうるレースかも知れません。人気通りに行かなかったり、審議が起こり降着馬が出る可能性があります。水は数字では6です。馬番6か枠番6の馬を選出しました。
2012年02月18日
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本日の弁当は「ハンバーグ&ゆでニンジン」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年生時代のクラスメートで小さくて可愛く勉強の出来たお転婆娘Sさんはある日、私のオデコに手の平をあてた事があります。教室内での出来事ですが、「なんだか熱っぽいなぁ」と私の前に座っていたSさんに言うと彼女はサッと私のオデコに手を当てると同時に自分のオデコとの熱の差を測ったのです。時間にしてほんの数秒ですが、これも貴重な触れ合いの一瞬でした。きっと彼女は魔が差したのでしょう。そんな事をすれば私が喜ぶに決まっていますし、ひょっとして私の事が好きなんじゃないだろうかと勘違いさせる危険性があることは判っていたと思いますが、そこは悪戯な神様が彼女に囁いたのでしょう。本当にその気にさせてしまった罪なSさんでした。
2012年02月17日
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本日の弁当は「ハムエッグ&玉葱とニンジンの炒め物」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年生時のクラスメートで小さくて可愛く勉強の出来たお転婆娘Sさんとはあまり親密にはなれなかったのですが、それでも貴重なふれあいは僅かですがありました。Sさんは肩より少し長めの、俗に言うロングヘアーの部類の髪型で、如何にもお嬢さんっぽい雰囲気がありました。今でこそ女子高生などはロングヘアーばかりですが、当時の女子中学生などは短めのヘスタイルが多かったので、Sさんの髪型はありそうで無かったスタイルだったのです。ある日、不良っぽいM君が、Sさんの髪を三つ編みにしたりして楽しんでいたので、私も仲間に入れて貰い、しばらくSさんの髪に触れていた事がありました。意外と嫌がるそぶりもせず、Sさんはおとなしく私の手さばきを髪に受け入れておりました。13歳という子供だから出来たのでしょうけど、「触らないでっ」などと毛嫌いされる存在でなくて、本当に良かったなと思います。
2012年02月15日
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本日の弁当は「おにぎり」具は削り節、俗に言うおかかさて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年生時のクラスメートで小さくて可愛い勉強の出来たお転婆娘Sさんとは、隣り合わせの席に恵まれていました。苗字のアイウエオ順で席順が決まっていた入学時などは、Sさんは私のすぐ斜め後ろの席に座り、幾度かの席替えでも隣にSさんが座る事がしばしばあったので、私には幸運な出来事であり、労せずして話し合える時間がありました。それでも9月下旬の体育祭ごろまでは、あまり縁がなかったように覚えております。体育祭で私の走力が衆に披露できてからは、Sさんも少しは私を見直してくれたのか昼食時にSさんの近くを通ったとき、「卵焼き食べる?お母さんが作ったのよ」とSさんから声をかけてくれたのです。それを食べたのかどうかは何故か思い出せませんが、たったそれだけの気遣いが40年経った今でも貴重な思い出として残っております。
2012年02月14日
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本日の弁当は「シーチキンとキャベツのマヨネーズ和え」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学一年生時のクラスメートで小柄で可愛い勉強の出来るお転婆娘Sさんを、間近でじっと見つめますと、将来の彼女の容貌が浮かんできました。教育ママだが優しく品のあるお母さんになるだろうと私は心の中で予言し、妻にするならこの子以外に無いと確信したのです。それからは、Sさんがどんなに下品にハシャいでいようと、あちこちでお喋りしていようと、何もかも愛おしく感じられたのです。私は放課の度にSさんの席に近寄って、彼女に雑談を仕掛けました。自分では決して積極的に動いている自覚は無かったんですが、近寄らずには居られなかったのです。あからさまに好意を示している言動は、プライドから敬遠するはずの私が、躊躇無くSさんに引き寄せられていたのです。
2012年02月10日
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本日の弁当は「玉葱と人参&鶏卵とハムソーセージの炒め物」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学一年時のクラスメートで小さくて可愛い勉強の出来るお転婆娘Sさんは良く喋る女の子で活発に思えたので、こっちも普通に接すれば明るく応対してくれるだろうと思い込んでいました。ところが体育祭のフォークダンスの練習中の事。フォークダンスにありがちな内容で、男女が次々に相手を変えて手をつなぎ合いながら踊る練習中に、そのSさんと手をつなぎ合う場面が訪れました。少し微笑みかけてみようと思った所、それを遮るような形で無愛想な表情をしながら別方向に眼差しをSさんは向けたのです。普段、教室内でそんな素振りをされた事もなかったし、明るく活発な子だったので尚更その態度が私にはショックでした。「軽々しく接しないでよね」といった感じでした。もしくは「好きになられても困るのよね」だったかも知れません。おそらく、それだけの逸材ですからモテる事に自負していたのでしょう。同じ町内でしたから、町内別登校分団会議でも同じグループだったのですが、普段とは違って私の視線を避けているようでした。
2012年02月09日
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本日の弁当は「鶏五目おこわ」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年時のクラスメートで小さくて可愛く勉強の出来たお転婆娘Sさんは、私と同じ町内に住んではいたものの、たった2丁目違いで通う小学校が別々でしたので、中学で初めて出会えたわけです。Sさんと私の家の距離は300メートルぐらいしか離れていませんのに、13歳になるまで会えなかったのは小学校の規則で学区内から子供だけで出掛けてはいけない事になっていたからです。すでに私の生家は30年ほど前に建て売り住居建設のため取り壊されましたが、Sさんの住んでいた家は今も他の家族が住んでいます。敷地面積は狭いのですが縦長な2階建ての家で小さな庭が玄関前にあったSさんの家は、長屋住まいの私からすれば羨ましいほどでした。当時、暇な夜の時分に自転車に乗ってSさんの家の前を何度となく通った事があります。サッシのカーテン越しにSさんの姿がチラリと見えましたが、なぜかすぐさまカーテンをサーッと閉められました。ひよっとして気付かれていたんでしょうか・・・・
2012年02月08日
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本日の弁当は「サバの塩焼き&ギョウザ&ハム」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小さくて可愛い勉強の出来た御転婆な中学一年の同級生の女の子Sさんは、どうやらクラス一の秀才S君の事が好きなのは薄々感じてはおりましたが、確証できる出来事がある日起きました。クラスメートのFさんというやや大人しい女の子が引っ越す事となり、クラスでお別れ会をするかどうかで話し合いとなりました。そこで秀才S君曰く「クラス全員参加する事はない。親しい人達だけでやればいい」と。クラスの大半はS君にブーイング。多数決で結論を出す事となり、S君に賛成意見の者は教室の後ろへ、反対の者は着席のままでという取り決めです。S君に賛成して教室の後ろに行った生徒はSさんとその友達Iさんだけだったのです。好きなS君の為に友人を伴った行動だったのですが、反対支持者多数で決議されたのです。後から思ったのですが、このSさんという女性、きっと好きな男のためならとことん尽くすんだろうなと。
2012年02月07日
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二日前の昼食は「うどん」厳密には朝食です。夕方四時出勤なので昼前後まで寝ていたわけですから、一日の始まりの食事という事で、昼に食べる朝食なのです。さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年時のクラスメートにSさんという可愛くて小さくて勉強の出来る御転婆な女子生徒が居たのですが、当時に中間テストや期末テストがあると学年全体における自分の成績順位が示されたカードがテスト後に配布され、なにげにSさんの様子を窺うと成績カードを見入っていました。Sさんの後方に私は位置していたので、その成績が丸見えでした。素晴らしい成績でした。学年で300人中8位、クラスで2位という成績です。なんとクラスで1位がSさんでないと言うことは、もうひとりの秀才だったS君という存在こそが輝く1位だったのでしょう。それはS君の成績カードを観なくとも明白です。秀才なふたりは何処か通じるところがあったのでしょう。教室内の少し離れた位置に座るS君と、私の傍に位置していたSさんとの視線が合い、お互いが勉学ライバルとして、または尊敬に値する人物として、瞬間的に微笑み合ったのを目撃しました。300人中200位ぐらいの成績だった私が、S君とSさんの間に入る余地はまったく無い一瞬の出来事でした。
2012年02月06日
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本日の弁当「ひじき御飯」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学二年で引っ越していったSさんという可愛く小さく勉強の出来る御転婆な同級生の女の子は、とてもお喋りで早口だったので、姿を目で追わなくともどの方向にSさんが居るかは一耳瞭然でした。それでいて親友らしき子は1人くらいだったようで、普段はみんなと騒ぐものの、じっと周囲を観察するような鋭さもあり、他の女生徒には無い孤高さがありました。しっかりしているようで誰のことが好きなのかアッサリ判ってしまう軽率な言動も多かったように思いますが、それでも私なんかは絶対に相手にしないだろうという近寄りがたい雰囲気をSさんに感じていた私は、相当無理をして親しくなろうと努力していた事を思い出します。
2012年02月03日
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本日の弁当は「五目寿司」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学二年の夏に引っ越す事になっていたSさんは、小さくて可愛く、勉強が出来てお喋りなクラスメートの女の子でした。その二年生の夏休みが始まった頃、私は自分の家から少し離れた所にある友人の家に遊びに行くため、昼飯を食べた後に約束の時間に間に合わせようと駆け足で向かいました。その途中の私の前方100メートル程前に長い髪でワンピースを着た若い女性の歩く後ろ姿が見えたのです。私は何故か下駄を履いていて、カラコロと忙しく音を立てながらそのその女性にドンドン近づき、路の曲がり角で追い抜きざまに彼女を観たところ、それはそのSさんだったのです。中学一年の時は割と普通に喋ったり、席が隣り合ったりしてまぁまぁの仲でしたのに、その時のSさんはギロッと私を睨むような視線を向けたのです。あれは何の意味があったのか、いまだに気になります。
2012年02月02日
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本日の弁当は「サバの塩焼き&ゆでニンジン」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学一年の初冬に体操部の練習中、鉄棒から落下して頸椎捻挫、全治10日間の怪我を負った私は初めて入院を経験したわけですが、お見舞いされる事も初体験なのは当たり前。いつも学生服姿しか知らないクラスメートが私服で病室に来てくれましたので、なんだか新鮮な気分でした。特に女子生徒三人が見舞いに来てくれた時に、その中のひとりSさんがまさか来てくれるとは思ってもみなかったので、たまには怪我も悪くはないなと感じました。Sさんと言えば小さくて可愛くて、勉強できて明るい子、という典型的なモテる女の子の代表格のような子でした。そんな子が中学二年で引っ越すと聞いたときのショックは、鉄棒から落ちた時よりも痛い出来事でした。
2012年02月01日
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本日の弁当は「ギョウザ弁当」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学時代は体操部として活躍しておりましたが、1972年の11月下旬の放課後鉄棒の練習中に落下し頸椎捻挫で10日間入院した事がありました。同級生やクラブの先輩達が見舞いに来てくれたりして、良い思い出となっておりますが入院初日から3日間は身動きできずに地獄でした。退院までの2~3日は院内を散歩したりして楽しみましたが、退院後半年くらいは何かの拍子に首に激痛が走ったものです。それでも首を酷使する事のある体操部を続けた中学時代は割と骨のある生徒だったと自分でも思います。
2012年01月31日
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本日の弁当は「カップヌードルKING」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学生時代、体操部に所属していたわけですが、当時は今と違って週休2日ではなく土曜日も登校しておりました。といっても土曜日は半日で授業は終わり、昼から練習です。土曜日は15時か16時ぐらいまで練習したでしょうか、その後は体操部の連中4~5人で駄菓子屋に寄るのが楽しみでした。今ですとコンビニにたむろする輩のようなものだったのかも知れませんので、あまり彼らの事を批判できません。当時、その駄菓子屋ではお好み焼き、焼きそばなどを焼いてくれる所ではあったのですが、よそと違う特色がありました。なんとインスタントラーメンを作ってくれるのです。それを食べに行くのが我々の楽しみだったわけです。
2012年01月27日
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本日の弁当は「スクランブルエッグピーマンキャロット&ジャガイモはんぺん」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃体操部に属していた中学生の私は、早朝練習も真面目に参加しておりました。体操服に着替えるのが面倒くさいので、学生服の下に体操服を着込み、練習が終わればそのまま体操服の上に学生服を羽織って授業を受けたのです。さすがに夏はそんな事は控えましたが、過ごしやすい季節ではたとえ朝練習で汗をかいても、その汗くさい体操着の上から学生服を着込むのですから、周囲は私のムンムンとした体臭に気付いていたかも知れません。
2012年01月26日
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本日の弁当は「目玉焼き&野菜炒め」具は椎茸・にんじん・ピーマン・じゃがいも・はんぺん・ソーセージさて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学生時代は弁当持参で、白米が好きな私はパン食は滅多にしませんでしたがそれでも仕方なくパン食にする時は買うパンがいつも決まっており、卵サンドかカレーパンでした。それも卵サンドを3つとか、同じ種類しか買わないのです。あれこれと種類別に買うのが面倒なので、注文書には「卵サンド3つ」などと書くのです。ところでパンを買うときはクラスメート全員が持ち回りで注文係を受け持ちましたが、私はこれが苦手でして、特に釣り銭を個人個人に渡し歩くのが面倒でたまりませんでした。しかし、思い出してみると懐かしいもので、まだ木造校舎だったあの頃の教室の床引き油の臭いが甦ってきます。
2012年01月25日
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本日の弁当は「スパゲッティ&ジャガイモ入りハンペン」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学生時代はバレンタインデーなどを意識する子供は数少なかったようですが、中学生ともなると盛んにチョコを好きな相手に渡す事が行われ始めました。私も中学生三年ぐらいになると2月14日にチョコレートをたくさんもらう同級生からお裾分けしてもらったものです。「あいつは俺の事が好きだったんだな・・・」とモテる同級生はあっけらかんと宣い、私にチョコレートをホイッと軽く投げ渡すのです。某女生徒が好きな相手に渡したはずのチョコレートは、まったく関係のない私の胃袋に収まるのです。
2012年01月24日
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本日の弁当は「焼き飯」キャベツ、にんじん、長ネギを具に、ソースを絡めて炒めました。さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学校では給食が当たり前だったものが中学になると弁当持参か校内でパンを購入することになりました。私は昼食にパンでは何か物足りなくて、ほとんど母親の手作り弁当を持参していました。それでもパンにしなければならない事情もたまにはあるものです。周囲で白米の弁当を食べている輩が羨ましく思え、一口づつ御飯をもらいに教室内を転々とした事が幾度かありました。菓子パン一個とおにぎりを交換したりもしましたが、細かい事を言う奴が居て、「バカだなぁお前は。おにぎりなんかパン一個に比べりゃ半分の値もしねぇぞ」と宣うのです。たとえそうであっても、他人の母親が握ったおにぎりであっても、パンよりは満足度が違うのだと思ったものです。
2012年01月20日
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本日の弁当は「しめじ炒め&はんぺん」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学生となると中間テスト、期末テストなる定期テストが学期ごとに催され、学年成績順位、クラス内順位、科目別学年内順位などの結果を示す成績カードが個人個人に配布されました。総合判定として10段階評価され、科目別にも10段階の評価がなされました。通知票などは5段階評価のままでしたが、それよりも詳細な事が晒されるので私としては非常に衝撃的なものでした。概ね私の中学時代の成績は10段階評価で「4」か「5」。学年順位は約300人中200番前後の成績でした。決して誉められる成績ではなかったのに、これが5段階評価の通知票となると「2」や「1」は無く、多くの「3」に混じって「4」がチラホラあるので見映えは良く、通知票評価の合計はクラス内で一桁順位だったのですから不思議な数字マジックです。
2012年01月19日
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本日の弁当は「おにぎり」青ジソをまんべんなく振りかけてあるので、具は無し。さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学三年時に行われた「中部統一テスト」における結果で、教室内のクラスメートは異様なざわめきを発しました。公立高校進学に向けての学力を測るテストの結果に、落胆の顔がハッキリしている者やあっけらかんと「ねぇねぇ、みんなは丸がいくつあった?」などと友人に聞いている輩も居たらしいのです。成績段階に応じて「特優」「優」「良」「可」「◎」と表示されるのですが、それらのマークはすべて丸で囲まれていたので、厳密には「◎」は「○」なのであって、二重丸ではなく、その他に三重丸や四重丸など無いのです。その輩は丸の数で評価されていると思ったのでしょう。自分の成績が「◎」である事を公表しているようなもので、思わず笑ってしまいましたが、同じく「◎」だった私は心底面白かったわけではなかったのです。
2012年01月18日
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本日の弁当は「お好み焼き」幾度かお好み焼きを焼いてますが、今回は具がいつもより豪華です。キャベツ・にんじん・ハム・長ネギ・玉葱・山芋・銀杏・鶏卵が入っていてなんと八宝お好みなのです。さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学三年の頃になると高校進学における志望校を選択する事に迫られますが、当人の学力レベルを測るべく「中部統一テスト」なる試験が度々行われたものです。その結果によって自分の学力に準じた公立高校を選ぼうというわけです。「偏差値」が学力レベルの指標となり始めた時代でもあり、「中統」と略されたそのテストは成績に応じて5つの段階に振り分けられます。それは、「特優」「優」「良」「可」「◎」です。「可」なら、なんとか低レベルの公立高校には受かるかもしれないよ、という意味であり「◎」は不可という事を表しているのです。「特優」であれば偏差値70ぐらいの進学校に行けるレベルなわけです。私の当時の友人に「特優」を獲った人物がいて、やはり県下有数の進学校に進みました。私はと言えば「◎」で、テストを受けた300人ほどの中で270位という成績でした。これに発憤して最期のテストで「可」を獲得。順位を130位ぐらいまで引き上げ、本番の高校受験では何とか公立高校に滑り込んだのです。
2012年01月17日
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一昨日、昨日と大学入試センター試験を受験してまいりました。初日は現代社会・国語・英語&リスニングを受験。2日目は理科総合Bを受験しました。早速答え合わせしてガックリ。総てにおいて半分の出来。特に英語は時間が足りず、最後の長文解読問題類などは適当にマークしたのが祟りました。理科総合Bは簡単で、これは満点に近いなと思ってウキウキ帰ってきましたが、採点してビックリ。半分の出来に落胆。理科総合Bは例年の平均点は70点近いので、私はかなり平均以下です。満足行く結果の科目はありませんでしたが、それでも国語は漢文の勉強をしてきた成果があり、得意な現代文のミスを補えました。これで今年も志望大学には受かりそうもないので、来年も挑戦です。試験は終わったばかりですが、昨夜から寝床で英語の問題集をちょっとだけ解きました。コツコツと知識を蓄えて来年の受験に備えようと決意新たにしておる次第です。ところで、このセンター試験は今年から趣がちょっと変更され、各地でトラブルが発生しているようです。大同大学で受験した私の所は、試験監督官らのミスもなく受験は進みました。私は初日に社会は1科目だけの受験だったので2時間目からの出席。その時に試験官から問題冊子を配られるのですが、「公民を受ける人は手を挙げて」という声が聞き取りにくく、しばらくボーっとしておりました。危うく問題冊子を受け取り損なうところでした。来年からは今年のトラブルを反省して元の方式に戻す可能性があるでしょう。
2012年01月16日
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本日の弁当は「スパゲッティ」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学生5・6年の時は良くモテました。足が速かったのと運動神経がよく、陽気だったことが好かれた原因でしょう。また、小学生では性欲がありませんから容姿で異性を選ぶ意識が薄いはずです。私はチビで、どちらかというと不細工な小学生でしたのに複数の異性から告白を受けたのは、私の傍にいると楽しかったからではないかと、今現在推測しております。それが、中学生となると段々と性欲に芽生えて、「容姿」が異性から選ばれる基準の一番上に来ますと、私の人気がどんどん下降していき、高校生に成る頃にはブサメンの代表格になっており、それが現在まで継続されているので、いまだ独身なわけです。トホホ・・・・
2012年01月13日
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本日の弁当は「五目寿司」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学生高学年時代は親友H君の存在のおかげで、まったくの孤独知らずでした。遠足などでは5~6人ぐらいのグループを作らねば成らなかったのですが、私とH君を中心に必ずすぐに5人くらいは集まったもので、なぜかいつも私がリーダーに抜擢されました。普通、バカにされてリーダーに推薦される場合も世の中には多くありますが、その時の私は周囲からある種の尊敬を受けていた事を自覚していましたので、選ばれる事には何の不満も無く、すんなりと受け入れていました。尊敬と言っても、クラスで一番足が速く、運動神経が良くて良く笑う少年だったので、そこが好かれたのだと思います。残念ながら勉学成績の方は普通だったので決して学級委員には選ばれる事はなく、その辺は当時のクラスメートはしっかりとした判断力があったのだなと思います。
2012年01月12日
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