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ポプリローズフィールド From 真名 耀子
名もない小さな古本屋
駅の近くに小さな、だけど品揃えが豊富で、質のいいものがたくさん置いて
ある古本屋がありました。置いてある商品も古本だからもちろん古いのです
が、お店もとっても古くって、看板は色あせて、もうお店の名前も見えないほ
どです。
店主は白髪が目立ち始めた地味だけど、愛嬌のあるやさしいおじさんです。
おじさんは、まだおじさんじゃないときからこの古本屋を営んでいました。
おじさんは、いつも店の一番奥にあるレジに腰掛けて、古本をうずだかく積
み上げて、大好きな読書をしているのです。売り物を私物化している? いい
え、ここに売っているのは全部古本ですから、そんなことはお構いなしです。
もちろん、おじさんだって、お店にやってくるお客さんが立ち読みをしたっ
て、お構いなしです。なんせ全部古本なのですから。
だけど、おじさんが本当に望んでいることは、ここにある古本たち一冊、一
冊が、しかるべき場所にもらわれて行くことなのです。
おじさんの古本屋にはひっきりなしにお客さんがいるのに、売り上げはさっ
ぱりなのです。おじさんはどうしてだろう・・と考えます。しばらく立ち読み
していたお客さんの携帯が鳴った途端に、本をもとにあった場所に戻して、店を
出て行ってしまうのです。そんなお客さんばかりです。
お客さんたちは、どうやらこれから一緒に出かける相手が駅につくまでの時間
をおじさんの古本屋でつぶしているようなのです。さっきまでそこで童話を読
んでいた女の子が、店の前を男の子と手を組んで通り過ぎて行きました。お店
をいったん出て行ってしまったお客さんが、さっき読んでいた本を買いに戻っ
てきてくれることなど絶対にないのです。おじさんのお店にある本は、待ち合
わせまでの時間のお相手だけすれば、もう用が済んでしまうのです。おじさん
は少し寂しい気がします。
「どうしたら、ここにある本たちは誰かのものになることができるんだろう。
わたしがいけないのかしら」
おじさんは、しまいには、自分を責めるのです。
おじさんは、古本たちに愛情を持っています。古本たちもおじさんのことが
好きだろうけど、おじさんの元を離れないのは困ってしまいます。おじさんは
古本たちにしてやれることを一生懸命考えました。
その日の晩、おじさんはおばさんが待つ小さな家に帰り、おばさんに相談し
ました。おばさんは、大きな街の大きな書店に勤めています。そこにはたくさ
んのお客さんがやってきて、レジで並ぶ人を整理するために、ロープが張られ
ているそうです。おじさんの小さな古本屋では考えられないことです。
「いったい何が違うんだい? わたしの店で売っている古本はお前のいる本屋
の半分かそれ以下の値段をつけているのだよ」
「さあ、なんででしょうね。でも挙げられるとすれば、あなたの売っているも
のは古本で、私の働いている店で売っているのは新しい本、ということかし
ら」
「そりゃそうさ。そこで、古本を売られたら困るよ。わたしの仕事がなくなっ
てしまう」
「だから古い本は古本屋にまかせているわ」
「そりゃ良かった。でもわたしの店にだってお客さんはいっぱい来るんだよ。
なのに、買っていってくれないんだ。楽しそうに立ち読みしているのにだよ。
それはどうしてなんだい?」
「さあ、なんででしょうね。私の勤めているお店に視察に来たらどうかしら。
違いが分かるかもしれないわよ」
「スパイだとばれたらどうしたらいいんだい。わたしは捕まりたくないよ」
「ほほほ。スパイだなんて大げさよ。お客さんになって、来て見たら? とい
う意味よ」
「ああ、そうかい。安心したよ。では明日は古本屋は休みにすることにしよ
う」
「そんなことしていいのかしら?」
「なぜだい?」
「あなたのお店にはたくさんのお客さんが来るんでしょ? そのひとたちが困
らないかしら」
「お客さんといっても、買っていってくれないお客さんだよ。かまやしない
さ」
おじさんは、おばさんに相談した結果、おばさんの勤めている大きな街の大
きな書店に行くことにしました。
書店はデパートのように大きくて、いろいろな分野の本がフロアごとに分か
れて並んでいます。大きなポスターや、売り文句があちこちに貼られていて、
同じ本がたくさん、たくさん積み上げられています。
おじさんはその本を一冊手に取ってみました。印刷し終わったばかりのイン
クの匂いがしてきそうなきっちりかっちりした本です。
「まだ個性がないね」
おじさんは本に言いました。
本は「ふん!」とおじさんに返しました。
「そうか、これから誰かにもらわれていって、そこからなんだもんね、君は」
本は「大きなおせわ!」とおじさんに返しました。
「おやおやそうかい。でも、誰にも読まれなかったら君寂しいだろ?」
「あたし売れているんだもの! そんなことあるわけないじゃないの!」
本はそう言ったきり、おじさんのことを無視してしまいました。
「いい人が買っていってくれるといいね」
おじさんはその本をそっと置いて、別のフロアに行きました。
絵本が置いてあるフロアにおばさんがいました。せっせ、せっせと次から次
へと新しい絵本を並べているところでした。
「せいが出るじゃないか」
おじさんは、おばさんに話しかけました。
「あら? 来ていたのね」
おじさんが口を開きかけたところに、子供の手を引いたお母さんが、おばさ
んに「すいません」と話しかけました。お客さんです。
おじさんは、そっとそこを離れました。レジを見ると、たくさんの人が並ん
でいます。エスカレーターで下に下りると、そこでもレジにはたくさんの人が
並んでいます。またエスカレーターで下りていくと、そこにもたくさんの人が
並んでいました。
おじさんは、外に出て、そのデパートのような書店を見上げました。
「いったい何冊置いているんだろう。はかりきれやしない」
おじさんはしばらく書店を見上げていました。自動ドアからおじさんの横を
その書店の紙袋を持った人たちがたくさん出て行きます。その書店の紙袋を持
っていない人がどんどん入っていきます。きっとその人たちは、その書店の紙
袋を持って出てくることになるのでしょう。
おじさんは、その書店にあって自分の店にないものについていろいろとリス
トに上げてみました。それは3日も4日もかかる作業でした。その間、おじさ
んは古本屋を予告なしに閉めたままにしてしまいました。それもこれも古本屋
のためです。おばさんは、そんなおじさんの行動に何か言いたそうでした。だ
けど、おじさんはこれでもがんこなところがあるのです。良くなるように何か
したいと思ったら、やらずにはいられないのです。
おじさんのリストはこうでした。
・どの本も紙がピンとしている
・本があいうえお順に置いてある
・同じ本をたくさん置いてある
・レジにロープが張ってある
・なんでおもしろいかを示したカードをあちこちに張ってある
「できる」
おじさんは確信しました。どれもできることばかりです。
おじさんは、まずアイロンを店に持ち込むために古本屋に行くときのかばん
に入れました。おあつらえ向きのロープも一緒に入れました。それからカード
をいっぱいとカラフルなペンを買ってきました。シールもいっぱい買ってき
て、そこに「あ」「い」「う」「え」「お」と書きました。でもおじさんは、
そこで眠りに落ちてしまいました。
おばさんは机の上で眠りに落ちてしまったおじさんにブランケットを掛けて
あげました。
おじさんは起きると、「しまった、しまった、遅刻だ!」と言うと、朝ごは
んも食べずに重いかばんを持って出かけてしまいました。
おじさんは、古本屋に着くと、シャッターを自分が入る分だけ開け、おじさ
んが入るとまた閉めてしまいました。そして、古本屋の中でせっせ、せっせと
働き始めたのです。
それは一人でやるには大変な作業でした。
今まで何年も、何年も、整理整頓などしてこなかった古本屋です。おじさん
はかばんの中に入れたシールがまだ途中までしか済んでいないことに気が付き
ました。
「まいった、まいった。そこからか・・・」
シールを出してみると、あの行までしか終わってなかったはずが、「わ」まで
書かれてあり、さらには「A」から「Z」のアルファベットのものまであったの
です。それはおばさんの字でした。
おばさんの書いてくれたシールを本棚に貼って、ハリのない本たちにアイロ
ンを掛けました。おじさんは何度も繰り返しているうちにうとうとしてきてし
まい。こげくさい匂いでハっとしました。「あ!」と気が付くと、カバーがこ
げていました。
「いけない、いけない」
おじさんは、本を焦がしたことを大変に後悔しました。なんせ、その本は一
冊しかないのです。
「ごめんよ」
焦げてしまった赤いカバーをはずしました。カバーのない表紙を開けると、
落書きが書かれていました。それはまるで、好きな人と離れ離れになってしま
った人が書いたようなものでした。なぜなら表表紙の方には見慣れた日本の地
図が。そして、裏表紙には、世界地図で見たことのある外国の地図が書いてあ
り、その外国の地図の方に線が引っ張ってあり「ME」という文字があったので
す。
おじさんも何度も何度も読んだことのある本で、その本は上・下に別れてい
る方の上の方で「ノルウェイの森」という本です。
おじさんは、自分の古本屋に「ノルウェイの森・下」がないか、探し始めま
した。おじさんがいつも座っているレジに積み上げられたところも、本棚の上
から下まで、右から左まで全部です。でもいくら探しても「下」はありません
でした。
「はぐれちゃったんだね」
カバーをはずされたその本に向かって言っても、その本は平気なフリをしま
す。
「いつか誰かが売りにくるかもしれないね。そしたら、君の横に置いてあげようね」
そう言うと、やはりそれが良いのか、本はコクリとうなずきました。
おじさんは、床に座り込み、その本をじっくり読みました。じっくり読んで
いるうちに薄い紙が挟まっているのを見つけました。
「しおりかしら?」
開いてみると、それは男の子から女の子に宛てた手紙でした。おじさんはび
っくりしました。表紙にあった落書きといい、本に挟まった手紙といい、この
本は思い出をいっぱい抱えているようなのです。
おじさんは、本に挟まった手紙を幾度も読み、そしてちょっぴり切なくなり
ました。この本を売りに来た人がどんな人だったか、いつ売りに来たのかはもう
とても思い出せません。
その人が女の人だったか、男の人だったか、若い人だったのか、年取った人だったの
かも分かりません。
その時、お店のシャッターが少しだけ開いて、おばさんが入ってきました。
「帰ってこないから心配したのよ」
「ああ、おまえか。ついつい、いつもの癖で本を読み始めてしまったら止まらな
くてね。これ見てごらん」
おじさんは、本と手紙をおばさんに見せました。
おばさんはしばらくじっと、手紙を読むと、目を上げておじさんに言いまし
た。
「また誰かの手に渡って行くのかしらね」
「そうだよ。時間がかかるだろうけどね。なんせ、お客さんはなかなか買って
ってくれない」
おじさんは、苦笑いしながら言いました。
「そうだとしてもあなたのお店は役に立っているのよ。お店の外を見てみて。待ち合わせ
までの時間がつぶせなくて困っているお客さんがいっぱいいるわ」
「それは、わたしのお店のお客さんかい?」
「そうよ。今日で5日も閉めているから、心配しているわ」
「役に立っているのかね、この店も」
「間違いないわ。古本たちは、ゆっくりと旅立っていくものよ。さ、明日お店
を開けられるように準備しましょう」
おじさんは、おばさんと一緒に古本たちを本棚に並べていきました。さっき
の「ノルウェイの森・上」も他の古本と紛れて棚に収まっていきます。お店の中は
ちょっとすっきりしました。
「これどうする?」
おじさんは、売り文句を書くためのカードをおばさんに見せます。
おばさんは、一枚取ると、青いペンでさらっと書いておじさんに見せまし
た。
“ごふめいな点は店主までお気軽に。ごゆっくりどうぞ”
二人はニッコリ笑いあって、そのカードを何枚か書いて、お店のあちこちに
貼りました。
「これどうする?」
おじさんは、レジの前に貼るはずのロープを出しました。
「いらないわね。並んでもらう必要はきっとないわ」
おじさんは「そうだね」と笑って言って、アイロンと一緒にかばんにしまい
ました。
整理整頓をし終わったおじさんの愛する古本屋を後にして、おじさんはおば
さんと肩を並べて小さな家に帰りました。
「わたしは古本が好きだよ。まったく同じ本などないんだ」
おじさんがおばさんに言うと、おばさんはニッコリと頷きました。
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