鷹匠

鷹匠

「山音荘からは富士山が見える」



「じゃあ、これで行くからね」
「ああ、気をつけてゆけよ」

次兄が言った。こころなしか寂しげだった。
次兄とはかれこれ2年以上もこの町、川越に暮らしてきた。不思議なことに喧嘩はほとんどしたことがなかった。同じような性格であったこと、とりわけ二人とも穏やかな性格であったこともその理由であろう。
 記憶にあるのは一度だけ、僕が隣に住んでいる津軽出身のおばさんから、僕宛の女性の手紙がポストに入っていたということから、何度も本当に来てないのかと問いただした時、来ていないと怒ったことぐらいであった。その当時、僕には女性からの手紙に心当たりがあり、つい何度も聞いてしまった。それが記憶にあるだけだ。それだって、隣のおばさんの勘違いであったろう。そんなたわいもないことが記憶にあるくらい、僕らはぶつかることがなかった。
 川越は城下町であったが、このあたりは、周囲にまだ畑が散在していた。兄と暮らしてから、波風が立ったのは一度泥棒に入られたことと、隣の一人住まいのじいさんがフェリーから海へ投身自殺したことがあって、ひどく驚いたことがあった。僕が驚いたことは、その遺族がアパートに来て、遺品を整理した時、他のアパートの住人らが喜んで、彼の遺品を貰ったと聞いたときだった。都会の人というのはすごいと思ったのだった。しかし余りいいとも思えなかった。
 兄の声を振り切るように僕はペダルを漕ぎ出した。空は快晴だった。地図を片手にとにかく南に行けばいいのだ。そのことだけを考えていた。先日購入した丸石の自転車は、少し高い買い物だったが今日役に立つわけだ。国道をとにかく南に向かった。武蔵野、霞ヶ関とすぎて昼過ぎにようやく東京都内に入った。

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