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三亜から香港啓徳空港まで、1時間ほどのフライトだったと思う。親切な中国民航のスタッフのおかげで、想定していなかった香港への直行チャーター便に乗れ、思いがけず、早く香港に到着した。啓徳空港は滑走路が一本しかなく、ターミナルの中も外も、歩くだけでも疲れるほど人人人で混雑している。香港には北京留学の直前の8月に2週間ほど出張で来ていた。その時は、ホテルと事務所の往復だけしてたこともあるが、特別な印象はなかった。当時、香港女性は若くても腋毛を剃ってない人が多く、ほぼ全員眼鏡をかけていた。食事は、高級な部類の広東料理は、当時の自分には美味しいといえば美味しいが、ものすごく美味しいとも思わなかった。2週間いるだけで日本食が恋しくなった。当時、事務所も宿泊先のホテルも、香港島の繁華街、銅鑼湾にあった。歩道と車道の間には柵があり、歩行者はとにかく歩道をあるくしかない。その割には歩道が狭く、歩くだけで疲れるのだが、強制的に横断歩道を渡るように誘導される。銅鑼湾には、日系の百貨店がSOGO、大丸、松坂屋、三越等があった。大陸からの旅行者は皆無で、街で耳に入ってくる言葉は、広東語が圧倒的な多く、それに英語か。日本語もそれほど聞こえてこなかったように思う。 そんな印象だった香港だが、中国から入った今回は違った。空気がきれい、街は活気に溢れている、物が豊富、日本の食品、本、生活用品が手に入る、レストランも清潔、銀行、イミグレ、交通機関、何もかもが合理的。素晴らしい。東洋の真珠。 とこんな具合に、啓徳空港に着いた時から感動していた。人間の印象なんて、前後の環境によって、こんなに変わるものかと我ながら驚いた記憶がある。
2021.03.26
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目的地の三亜は想像以上に快適だった。先ず、暖かい。暑いくらい。海鮮料理も美味しい。北京では海鮮料理など食べたいとも思わなかったが、久しぶりの海の幸が嬉しかった。宿泊してたのは、広大な敷地の中にビラが点在しており、私とO氏にはその中の一つがアサインされた。同部屋の人がもう1人いた。日本人。詳しくは忘れたが、会社を辞めて中国をバックパッカーで旅行しているらしい。 Y子さんがお世話になった先生が勤めている研究所にもお邪魔したが、その前後だったか、とにかく南シナ海の照り返しとジャンクが印象的だった。何もかもがのどかでした。 何日か滞在の後、先ずO氏が広州行きの船に乗るために出発した。O氏とは香港で落ち合うことにしていた。次に、北京まで汽車で帰ると言うY子を見送った。最後出発した私は、海口までバスで戻り、海口から広州に飛行機で飛び、広州から電車がバスで香港に出ることになっていた。 苦労して空調つきノンストップバスのチケットを手に入れた私は、喜び勇んでバスに乗った。海口のホテルで一泊した後、空港に向かったが、あろうことか予定のフライトは、キャンセルになっており、チェックインカウンターは黒山の人だかり。 カウンターにいる中国民航の担当者は、若いが、誠実に対応しているのがわかった。そんな彼が乗客から責められてた。そんな光景を見ながら、本心から彼のこと、気の毒に思えた。 「大変だね」と思わず声をかけると、「最終目的地はどこと?」と聞いてくれる。「香港」と答えると、「なら、ここから香港への直行便にのらないか?」と聞いてくれる。 旅の醍醐味は移動にあり、と実感したのはこの瞬間だった。
2021.03.24
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87年のクリスマス直前、日本から来た留学生仲間3人で海南島に行くことになった。同行者は、企業派遣のOさんとY子さんの2人。Y子さんは、これまでもバックパックで中国を旅行しまくっていたらしい。Oさんは、寡黙だが親分肌の頼れる兄貴。私は、と言えば、一応リュックは持っていたが、バックパッカーとしての経験はなく、中国の国内旅行もその時が初めての初心者。 Y子さんのモットーは、中国国内旅行の交通手段は、汽車の旅が基本。それも、いわゆる2等硬座。今回、海南島まで飛行機を使うにあたり、ずいぶん葛藤があったらしいが、経緯は知らないがとにかく同じ飛行機で行くことになった。 語言学院から北京空港までのタクシーの中で、自分がハイテンションになっていたことを覚えている。 12月の北京はとにかく寒い。学生寮はその頃までに1人部屋になっていたが、暖房は部屋に備え付けの小さな給湯式暖房器のみ。ただ、窓は二重になっていたし、部屋にいて寒いと思ったことはない。ところが、一旦寮の建物の外に出ると、少し歩くだけで足下から身体が冷え切った。ということで、「中国のハワイ」、「常夏の楽園」海南島に対する期待は膨らむ一方だった。 北京を定刻に飛び立った737は、約3時間で無事海口空港に着陸した。 我々の目的地は、島の南にある三亜の鹿回頭別墅。Y子さんは、海南島には2度目とかで、三亜には以前お世話になった知り合いがいるとか。海口についてからは、Y子さんがリーダー。で、彼女の指示通りにバスに乗って南に向かう。 途中、通什という、少数民族の村がある町に泊まる。この時初めて、ユースホステルの多人房と呼ばれる大部屋に泊まる。文字通りベットがいくつも並んでいる部屋に男女入り乱れて寝ている。若い女性もベッドの上で平気で着替えたりしている。ここではそういうものらしい。 Y子さんのように汽車の旅に固執する留学生は多くいた。私自身は、移動に時間が取られ、目的地の滞在時間減るのがもったいないなとずっと思っていた。この後、三亜から香港に出るのだが、この時の経験で自分の考えは間違っていたことに気づいた。旅行の醍醐味は、少なくとも当時の中国では、目的地までの移動にあった。続きは明日。
2021.03.23
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中国語の勉強について。 前にも書いた通り、北京に行くまで中国語とは全く縁がなかった。初めて生の中国語を耳にしたのは、入社2年目の頃、東京から大阪までアテンドした台湾人のお客様2人がボソボソ相談している声が聞こえた時だった。もちろん、お二人が話してる内容は全くわからない。こんな音で意味が通じることが不思議だなと思っていた。 北京語言学院の初心者クラスの授業では、先生たちは、他の言葉は中国語以外は一切使わなかった。 授業は発音から始まった。ピンインと呼ばれる漢字の発音をアルファベット表記する方法があり、ボー、ポー、モー、フォー、、、と発音するが、日本語のローマ字と違い、母音がセットになっていない子音だけの発音というのは日本人には難度が高い。 anとang、inとingの違いが日本人全員かどうかは知らないが、少なくとも自分には違いがよく聴き取れなかった。 聴き取れないということは、当然違いを発音することもできない。ところが、日本人以外のどの国の人もほぼこれら違いがわかるらしい。スタートの時点では、欧米から来た留学生の方が、日本人の生徒よりも成績が良かったのではないか。ところが、勉強が少し進み、漢字が出てくるようになると、読み書きにおいては日本人の独壇場である。知らない単語がでてきても日本人なら漢字で書かれている限り類推ができる。一方、欧米人にとっては新しい記号にすぎない。外国語を勉強する上で母国語からの類推ができること、でこれほどアドバンテージがあることを初めて知った。イギリス人がフランス語を勉強したり、ドイツ人が英語を勉強するときのアドバンテージもきっと同じ何だろうなと思った次第。段々、中国語の勉強が面白くなっていった。
2021.03.22
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当時の北京では、何かにつけて外国人は現地の人たちと区別されていた。 まず、使用する通貨が違った。街で流通している通貨は人民元だが、外国人が使用できるのは外貨兌換券(FEC)だった。FECは、空港、中国銀行、ホテルでパスポートを提示して外貨から交換できる。メリットは、交換時の証明書があれば外貨に戻すことができた。また、市内免税店や友誼商店ではFECしか使えず、当時圧倒的な人気があった日本製の家電製品を購入する際は必需品だった。公式には同価値のはずだが、20%くらいのプレミアムがついて交換されていたように思う。 国内線チケット、電車チケットから紫禁城の入場料に至るまで、外国人料金は別枠で設定されていた。ざっと2倍の差があった。外国人料金の設定がない場所には、入れないと理解していた。タクシーだけは料金に区別はなかったが、当時は現地の人でタクシーを使う人はほとんどいなかったと思う。 一方、一部のホテルでは、パスポートを提示しないと建物の中に入れてもらえないこともあった。パスポートを持っているのはほぼ外国人に限られたので、実質的に現地の人が使えないホテルもあった。 病院も外国人専用の病院しか使えなかったように思う。病気をした場合、市内にある北京協和病院か、少し郊外にある日中友好病院にほとんどの人がかかっていたと思う。 学校の寮に住んでいたので直接は関係なかったが、外国人が住める場所はもちろん限られていた。 当時日本はバブル経済がはじまりかけた頃でイケイケの時代。一方北京では、街中で食事したり、日用品を購入する分には驚くほど物価が安かった。寮に住んで贅沢をしなければ1ヶ月1万円も必要なかったと思う。ところが同じ時期に外国人専用のアパートに住んで日本レストランで昼ごはんを食べる生活をする日本企業の駐在員の生活費は、東京で生活するよりもはるかに多くかかったと思う。外国人というだけで、良くも悪くも特別扱いされた時代、今思えば、矛盾に満ちた不思議な世界、不思議な経験だった。
2021.03.21
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北京で生活するための必需品は自転車だった。当時から、車道と自転車道は、完全に分離されており、走りやすかった。現地の人は、1〜2時間の自転車通勤はなんとも思ってなかったように思う。 北京に着いてから最初の週末に同室のAさんと自転車を買いに市内に出かけた。大使館地区の長安街沿いにあった友誼商店で買った自転車は、Bugatiブランドの変速機付。確か400〜500元だったと思う。Aさんが購入したのはいわゆるママチャリ。 2人で意気揚々とまっさらな自転車に乗って市内から語言学院まで帰ろうと友誼商店からペダルをこぎ始めた直後、後ろにいたAさんの「あっ!」と叫ぶ声が聞こえた。後ろを振り向くと、買ったばかりのAさんの自転車のチェーンがバラバラになって路上に散乱していた。北京に着いてから毎晩のようにAさんとは酒を飲みながらいろいろ語り合ったが、どうしても当地の生活に対する不満ばかりが口から出てくる私に、やんわりと中国のいいところをもっと見るべきだと諭してもらうことが多かった。そんなAさんが、地べたに座り込んで、私に向かって、「○○くん、この国に将来はない。」とつぶやくのを見て、思わず笑ってしまった。 通行人に教えてもらったのか、友誼商店の店員に教えてもらったのかは忘れたが、当時、北京で買った自転車はすぐに修理屋に持っていき、ネジを締め直してもらうのが常識と後で知った。 詳しい手続きは忘れたが、北京では自転車に乗るのに免許証を発行されたように思う。自転車を手に入れてから、行動半径は格段に広がり、免許証を眺めていると、現地の生活に溶け込み始めた実感があり、少しずつ北京生活が好きになっていった。
2021.03.20
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食事は、最初の頃は基本的に朝昼晩、ほぼ毎食学校の食堂を利用していた。 カフェテリア方式だが、ご飯とおかずを2品ほどで、確か2元程度、日本円で約80円くらいだった。日本と比べればもちろん安いが、当地の物価を考えれば、かなり高かったと思う。イスラム教の学生のために、2階には豚肉を使わないコーナーがあったが、彼らはほとんど自炊していた。隣室は、スーダン人だったが、毎食豆のようなものを煮て食べていた。さて、80円の食事は、まずご飯と一緒に炊かれている小石を取り除く作業から始まる。ご飯自体は、大きな琺瑯のトレイの中で炊き上がっており、それをお好み焼きのヘラのようなもので、長方形の形に切り、お皿に取ってくれる。特に美味しくもないが不味くもない。おかずは、豚肉と生姜を炒めたようなお気に入りの料理もあったが、すぐに油が鼻につくようになった。ふりかけ類をもっと持ってくれば良かったなと後悔した。 その後、自転車を手に入れ行動半径が広がり、生活に慣れるに従って地理も含めた地元の情報も集まるようになり、学校の外で食べる機会も増えた。学校の裏に石炭部の経営するホテルがあり、そこの食堂にも時々行ってたが、なにを食べても美味しくなかった。先生の家に遊びに行った時に出してもらった家庭料理が一番美味しかったと記憶している。 翌年の2月に急性A型肝炎に感染し、帰国することになるが、入院先の病院で出てくる肝炎患者用の食事が美味しくて、毎食楽しみだったと言えば、その直前までいた北京での食生活を想像してもらえると思う。もちろん、日本の飽食の生活に慣れた末の贅沢だとはわかっているが、食事時間が楽しみでない生活がどれほど味気ないものか図らずも身をもって経験することになった。
2021.03.19
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翌日から授業が始まったような記憶がある。割り当てられたのは、全員日本人の初心者クラス。クラスメートは約20人いたが、年齢は18歳から40過ぎまで、まさに老若男女の混合クラス。北京留学が決まってからも、日本で中国語の勉強は一切しなかった。ニーハオくらいは聞いたことがあったが、漢字では恐らく書けなかった。初心者クラスを教えてくれる教師は3人。文法を教えてくれる韓先生は50くらいの女性、会話担当の馬先生は、30代の男性、ヒアリング担当も30代の女性だった。3人とも、熱心に教えてくれるいい先生達だったが、3人の共通点は、日本語が全くできないこと。 最初は先生がなにを言ってるのか、当然ながら全くわからなかった。他のクラスメートもそうだったと思う。ところが、授業が始まって1ヶ月ほど経った頃、先生が話し始めると、クラスメートが皆、一斉に教科書の同じ頁を開こうとしているのがわかった時は、ちょっとした感動を覚えた。 自分の話す中国語が初めて現地の人に通じた時のことも鮮明に覚えている。当時学校の構内でタクシーが客待ちをしていた。ある日の午後、授業が終わり、市内に買い物に行こうとそんなタクシーの一台に乗った。ふと、その日習ったばかりの、「今何時ですか?」と運転手氏に尋ねた時、彼は、聞き返すこともなく、ちらっとフロントパネルに付いている時計を見てから、前を向いたまま「2時20分」と答えてくれた。これまた感動ものでした。本来言葉は、赤ちゃんと同じく、耳から学ぶものなんだろうなと改めて思った。
2021.03.18
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成田を離陸した中国民航が北京首都空港に向けて降下を開始しはじめた時、窓から見た北京の街は、漆黒の闇だった。と書きたいところだが、87年当時、中国はまだサマータイムを導入しており、空港を出た時はまだ明るかったことを覚えている。 どういうわけか、留学エージェントがアレンジしたはずの車がなかなか現れず、薄暗くなり始めてから留学先の北京語言学院に向かった。 当時、北京首都空港は、市中心部から見て北東の方角にあり、空港と市内は、空港路という片道一車線の道路で結ばれていた。乗った車のヘッドライトは暗く、頼りないが、運転手氏は、快調に飛ばす。交通量は少ないが、前に遅い車があると、対向車線にはみ出して追い越す。前から暗いランプの光が見えても、追い抜かそうとする、何度目を瞑ったかわからない。 目的地の北京語言学院は、市の北西部にあるため、空港路で一旦市内の環状線に入ってから、学院路を北西に進む。 寮についたのは、夜の8時頃だったと思う。割り当てられた寮の部屋は、六楼の136号室。コンクリートむき出しの六畳ほどの部屋に、ベットと机が二つずつ置いてある。窓には鉄格子がはまっている。同居人は、日本から同じフライトできた15歳ほど年上の男性。明日からどうなるのやらと思いながら、病院のようなベットで中国第一夜を過ごす。
2021.03.17
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会社に入って4年目の1987年9月から翌年2月まで、中国語研修生として北京に住んでいた。当時の北京では、シトロエンのタクシーに並んで馬が荷車を引いている風景を日常的に見られた。たった30年と少し前のことだが、当時の北京での生活、それも留学生として学校の学生寮での生活は、飛行機でたった4時間の距離にある東京の生活とは何から何まで違いが大きすぎた。日本に帰ると、北京で生活していたことが現実のものと思えなかった、と言えば少し大袈裟か。 2年の予定で気負って始めた北京留学生活は、急性A型肝炎に感染したことにより、突然終わった。 4ヶ月だけの語学留学だが、これがきっかけで、その後14年間中華圏各地に駐在することになる。 明日以降、外国人留学生から見た当時の北京を紹介したい。
2021.03.16
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初回のボトックス治療の順番を待ちながら、他の患者さんと話す機会があった。言葉を交わしたのは、30代の男性、30代の女性、50代の女性の3人だったと思う。発症時期やボトックスの回数は、皆それぞれだったが、3人とも見た目にはほとんどわからなかった。当時の自分の症状は、明らかに首が右を向いていたので、ボトックス治療の効果に期待が膨らんだことを覚えている。ただし、見た目にはわからなくても、首から肩にかけての異常な緊張がどれほど疲れるかは自分がその状態になって初めてわかった。 3人の共通点がもう一つあった。皆さん、真面目で、他人に思いやりのあるいい人だった。この病気にかかる人は、どちらかと言えば真面目な性格の人が多いのかなとその時そう思った。 痙性斜頸については、本やネットでできる限り調べたが、正確な発症原因はわかっておらず、従い、治療も対症療法にとどまるようである。 ただ、治療に取り掛かるのは早ければ早いほど完治する可能性が高いようである。ブログの最初の方にも書いたが、この病気は、症状が出てから正確な病名に行き着くまでに時間が経過することが多いようである。自分の場合もそうだったが、初期の頃は肩凝りが酷くなったとしか考えなかった。友人のアドバイスで比較的初期の段階で病院に行き、神経内科の医師の診察を受けたことが完治につながったと思う。 症状がかなりはっきり現れてからも、香港の地下街を歩いて通勤していた期間があったが、反対方向に歩いている人が、通りすがりに自分を見て、ある人は驚き、ある人は不思議なものを見るような顔をしていた。もっともこれは自分の思い込みに過ぎないかもしれないが、人に会ったり、写真を撮られたりするのが、億劫になることは間違いない。それが続くと、気持ちが塞ぎ込むことも十分考えられる。自分の場合、販売会社の責任者という仕事柄、人に会わないわけにいかず、そのうちなんと思われてもいいやと開き直れたのがかえって良かったのかもしれない。 それと、一番大事だったと今思うことは、症状がいちばん酷い時も、何故か、この先ずっと治らない自分の姿を想像できなかった。根拠はなかったが、必ず治るはずとなんとなく信じていた。 主治医の先生が、よく、「信じるものは救われる」と口にしていた。ずっと冗談かなと思っていたが、意外と一番大切なことかもしれない。 痙性斜頸は、10000人に2〜3人が発症するらしい。何かの巡り合わせでこの病気にかかった人たちには、少々時間がかかっても、決してあきらめることなく、いつか治ると信じて、病気に打ち勝っていただきたい。
2021.03.15
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本帰国後、最後のボトックスから3ヶ月経った6月の診察で、主治医より、治療は一応終わりと告げられる。身体に違和感はまだまだ残っており、左を向くのはまだ辛かったが、ボトックス治療を開始した頃の状態と比べると違いは明らかで、病気のことを知らない人が見ても気がつかない程度には戻っていたと思う。 元々肩凝りが酷かったが、痙性斜頸の間は肩凝りの感覚を忘れていた。もちろん、当時もこれ以上ないくらい凝っていたと思うが、それ以上に首の筋肉が突っ張る感覚が強くて、単に肩凝りの感覚が鈍くなっていただけだと思う。 香港、上海にいる間も日本への業務出張はほぼ毎月あった為、時間がある時は、指圧院に通っていた。これまで受けてきた治療内容をイメージで表すと、ボトックスで、カチカチにかたまっている筋肉の大きな塊をざっとほぐした後、筋肉の繊維一本ずつに指圧で刺激を与え、合わせ技で徐々に正常な状態に戻っていったように思う。従って、主治医から治療終了を告げられてからも筋肉のかたさ自体はなかなか取れず、つい最近になって、指圧の先生から、やっと指が筋肉の奥の方に届くようになったと言われるようになった。足かけ7年は指圧院に通ったことになる。 6月に主治医から治療終了を告げられても、そのうち再発症するのではないかと不安になり、その後もほぼ3ヶ月おきに経過観察のため主治医のもとに通った。 そして、症状の有無を確認するだけの病院通いが、3回ほど続いた後、2015年5月の診療の際、主治医より、「完治」が告げられる。その際、看護師さんが、「寛解ではないのですか?」と聞き直してたことが印象に残っている。 終わってみれば、あっという間の2年半だったが、治る保証はどこにもなく、命に別状はないとは言え、もしこの状態が続いた場合、仕事や生活がこの先どうなるのか?とこれまで経験したことのない大きな不安に押しつぶされそうになる時もあった。 家族と多くの人の助けと幸運のおかけで、最高の医師と指圧師に巡り会え、比較的短期間で完治したことに対しては感謝の気持ちしかない。
2021.03.14
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2013年12月の初めに上海で撮った写真を見ると、顔はかなり右を向いてるし、全体に痩せこけ、身体が妙に歪んでいるように見える。正面を向くのが精一杯で、左を向く時は相当力を入れないといけなかったと思う。それでも、今回日記を読み返して、人間というものは意外と強いものだと思った。歩く時も違和感は残っていたと思うが、毎日出勤し、人と会い、会食をし、上海の街を散歩したり、水泳に行ったりしている。 2回目のボトックスから3ヶ月後の12月中頃に3回目のボトックス治療を受けに東京の病院に行く。薬は許容量MAXを打ってもらう。筋電図の反応を見ていると、部位によって針の触れ方が大きく違う。まだまだ、固まっている筋肉はありそう。それでも、全体的に最初の頃よりも振れ幅が小さくなっているのがわかる。治療の成果が目に見えるのは、改善の手応えがつかめてありがたい。 年末に上海に移動し、2014年の元旦は上海で迎える。1月2日から新会社の業務開始。決めること、やることが山ほどあり、1日があっという間に終わる。 年が明けてから、急に症状が改善してきた。3回目のボトックスが大きく効いた模様。 1月には、メンバーの友人に誘ってもらい、前から一度行きたかった香港ゴルフでもプレーしている。恐らく、相当疲れたと思うが、歩いて18ホール回れるくらいには回復してきた。別の週末には、香港の日本人仲間で、1時間以上フェリーに乗り、長洲島に海鮮料理を食べに行ったりもしている。少しずつ少しずつ改善している。 3月に4回目のボトックスを打つ。医師の判断で、薬は前回の1/3の量に、減った。やはり、症状の改善は確実に進んでいる。筋電図でも波は明らかに小さくなっている。ボトックスは右に集中して打ったが、左も引っ張られる感じがするので、医師にその旨伝えると、そう感じるのは一種の筋肉疲労のようなものと言われる。 4月に入ってすぐに、6月に本帰国することが決まる。
2021.03.13
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2回目のボトックス注射は、最初の注射から約3ヶ月後に同じ病院で同じ医師から受けた。初回よりも薬の量が増え、打つ箇所も15〜20箇所と増えた。 今回は、かなり効果があった。徐々にではあるが、首の旋回角度が少しずつ小さくなり、しばらくすると外見的にはほとんどわからなくなっていたはず。但し、本人にその自覚はない。右肩、あるいは首の右の付け根は、依然としてものすごく硬いし、痛い。歩く時も力が入るのか、バランスがうまく取れず、少し歩くだけでも疲れた。 そして、毎日出張や来客で忙しい日々が続いていたが、前触れもなく突然気持ちがストンと落ち込むことがあった。自分の意思に関係なく、突然首がほとんど真横を向くという普通想像もできない症状の病気に罹り、この先治るかどうかもわからない不安が先行する中、単身での海外生活に少し疲れていたのかなと今振り返るとそう思う。 日記の字を見ると、2回目のボトックスの後は、病気の初期の頃のような乱れた筆跡は見当たらない。 初回ボトックスを打つ前、一番症状が酷かった頃は、顔が右を向くため、経理のスタッフが持ってきた小切手にサインが出来なかった。スタッフに小切手帳を手で押さえてもらいながら、力を込めて顔を正面に戻してなんとかサインをしていた。手で押さえてくれているスタッフがボロボロ泣いていたことを覚えている。彼女としても上司のそういう姿はさぞショックだったのかなと思う。また、香港の空港で飛行機から降りてからイミグレまでの距離が、歩けなかった。構内を走る有料カートのお世話になっていたが、2回目以降はそういうこともなくなっていた。 当時、新会社の開業準備を上海で進めており、2014年1月からは、新しい会社の責任者として上海に赴任することが決まっていた。
2021.03.11
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最初のボトックス注射の効果は、実はあまり感じられなかった。注射から5日後の日記に肩の周りが少しだけ楽になった気がすると書いてあるが、顕著な改善は見られず。ボトックス注射の際、医師から飲み薬を処方される。人によっては、この薬だけで治ってしまうこともあるらしいが、同じく効果はなかった。 ボトックス注射の後、香港に戻る。香港では、カイロプラクティックは、一旦見合わせることにしたが、鍼はその後も続けた。 症状は大きくは改善していなかったはずだが、日記を読むと、ほぼ毎日お客さんと会食している。恐らく身体的にはきついこともあったかもしれないが、人と話している方が、病気のことを考えすぎず、気が紛れてよかったのかもしれない。 この頃、上海、台北にもよく出張していた。ボトックス注射から3週間ほど経った頃、出張先の上海のホテルで、日本人の書いた痙性斜頸の闘病記のブログを見つける。食い入るように読む。ガツンと頭を殴られたような気がした。ボトックス注射、鍼、マッサージ、指圧、薬、カイロプラクティック、そういったものに頼るばかりで、自分の力で治そうという気持ちが足りなかったことに気づく。 痙性斜頸の症状には、理由は不明ながら、手を当てると症状が和らぐ特徴があり、自分の場合もそうだったがブログの著者と同様、なるべく手を使わずに、そして、できるだけ前を向くように心掛けようと思った。 最初のボトックス注射から約1ヶ月後 日本出張の機会を利用して、経過観察のため、診察を受ける。薬は効果ないと判断して止めることになった。医師からは、「改善している、次回のボトックスで大きく前進すると思う」と言われる。少し期待が膨らむ。
2021.03.10
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痙性斜頸に詳しい日本の医師を紹介してくれたのは、上海から香港に出張で来ていた同僚だった。いや、正確には同僚の親戚だった。近くの日本料理店で一緒に夕食を食べた翌日、彼から私にメールが入った。彼には私の症状が相当酷く思えたらしい。適当な病院を医療関係者の親戚が紹介できるかもしれないので、病状を伝えて相談してもいいか、という内容だった。一も二もなく、痙性斜頸という病名を伝えた上でお願いしたところ、ほどなくして、自宅からアクセスのいい東京の病院を紹介してくれた。 この時、なんとなくそのうち治る気がした。 しかし、現実には、症状は何も変わっていなかった。この頃、よく部屋にあった姿見で自分を見ていた。正面を向いた自分の顔を見るのは一苦労だったが、鏡を見ては、「生死に関わる病気を患ってるわけではなく、食欲もある、睡眠も問題ない。ただ少し顔が横向いているだけ。大丈夫。」とよく自分に言い聞かせていた。 しばらくして、日本に出張で帰った時、ボトックス治療を受けた。最初、私を一目見た医師が「ここまでひどい症状は珍しい」と口にした。続けて、「但し、あなたの場合、旋回だけで、回転はないから治るかもしれない」と言われた。医師の「治る」という一言がどれだけ患者を勇気づけることか、恐らく経験者しか分からないと思う。 電極をつけた注射器をつかった筋電図で収縮が激しい部位を探し出し、部位ごとに薬の量を決めた上で、首、肩周りの筋肉5〜6箇所に打っていく。 打ち終わった後、医師から、「効果が現れるのは3日後から、9日まで徐々に効いてくる。」と言われる。 翌日から注射からの日数を何度も何度も数える日が続く。この医師に鍼、マッサージの効果を聞くと、否定することなく、並行して受ければいいと言われる。この頃、会社を早期退職して指圧学校に通い始めた友人が、腕のいい指圧師を紹介してくれる。以来、今に至るまでお世話になっているK指圧師との出会いはこうして始まった。
2021.03.09
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2013年5月末頃、日本人部下の結婚披露宴に出席した。当時、身体は日毎に動くことが辛くなっていたので、深センで開かれる披露宴に出席するかどうかずいぶん迷ったが、おめでたい話でもあるので、出ることにする。結果的にはこの判断がよかった。 披露宴には、一応主賓の立場で招待されていたため、お祝いのスピーチをする。自分としては、出来るだけまっすぐ前を向いて話したつもりだったが、実際には右に振れる頭を前に向かそうとしていたため、披露宴に参列した人達から見れば、スピーチの間中、頭が左右に常に動いている異常な光景だったらしい。 皆、さすがにその場でそのことを私に話しかけることはしなかったが、翌日からその場に居合わせた複数の人たちからお見舞いのメールがたくさん届いた。中国や香港の人が多かったので、鍼やマッサージのいいところを紹介するというものが大半だったが、その中で一人の香港人の友人が、西洋医学のお医者さんに一度診てもらった方がいいとアドバイスをくれる。なるほどと思い、4日後、その友人が予約してくれた公立病院を訪れる。 最初、総合科の医師の問診を受け、その後専門医を紹介してもらうシステム。感心したのは、総合科の医師が話を聞いて紹介してくれたのが、整形外科ではなく、脳神経科の専門医であったこと。かなり待ったが、専門医は、1時間以上かけて、問診と知能テストのようなものをした後で、インターネットである病名を英語で検索し、その日本語の翻訳を画面に映して、「まず間違いなく病名はこれだと思う」と話してくれる。その病名が、生まれて初めて聞く「痙性斜頸」だった。日本語で説明してあるその病気の症状を読むとたしかに自分の症状とよく似ている。その後、医師から治療方針の説明があった。念のため、日を改めて脳のCTを撮って、他の病気の可能性がなくなれば、ボトックス注射、内服薬、外科手術の組み合わせの治療を始めることになると説明される。 見るからに賢そうな30〜40代の香港人医師から告げられたのは、「この病気は、治療しても改善はするが、決して完治することはない。」というもの。そう話した後で何故か笑顔で「これからタッグを組んでこの病気と闘っていこう」と握手を求められたが、治らないと言われたショックが大きく、医師の声は遠くで聞こえていた記憶がある。 この医師のことが、どうも信用できずに、病院に行った翌日、別の友人に紹介してもらった香港島の中医を訪れ、鍼とマッサージの治療を受け始める。香港で鍼治療を受けるのは初めてだったが、とにかく鍼が太いことに驚く。アルコールでさっと皮膚を消毒するや否や、まさに、ズブっという感じで首から肩、腕にかけて、十箇所以上鍼を刺し、針にワイヤーをつけて、電気を流す。ビクッビクッと電気が流れる。インターネットで調べた病気の説明にも鍼が効果ありと書いてあった。ツボに刺してあるので痛くはないのだが、なんとも言えず気持ちが悪い。我慢すれば治るかもしれないと思いながら、この中医には10回は通ったと思う。治療からの帰り道、てこでも動かないという感じで、相変わらず顔がしっかり右を向いたままの状態に何度絶望的になったことかわからない。 握手した医師のいる香港の病院にはその後行くことはなかった。だが、彼のおかげで病名がわかっていたことが、その後の展開につながっていく。
2021.03.08
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2013年4月28日に日本で会社関係者の結婚披露宴に出席した際、身体がガチガチに固まっていたと書いている。あれくらいの方が威厳があっていいのかもと続けているが、座っているだけで、かなり辛かった記憶がある。 4月30日には、帰国ついでに母親の家に行き、首の症状のことを話している。わざわざ心配させるようなことを話すということは、傍目にもわかるくらい症状が出ていると自覚していたからだと思う。この段階では、まだ病名はわかっていない。 香港にいる時は、水泳は相変わらず続けている。水に入ってると、あまり首の違和感を感じていなかったような記憶がある。 5月6日から香港のカイロプラクティックに通い始める。藁にも縋る思いだった記憶がある。 この頃から、身体を動かすこと、具体的には歩くことがかなりしんどくなっていた。5月9日にタイに出張に行った際、工場見学で歩くのが辛かったと書いてある。 この頃、香港のアパートの前にあったマッサージ店にしょっちゅう行ってる。大陸から来た女性のマッサージ師が、右胸の付け根が硬いのは、「奇怪=おかしい」とつぶやくのを聞いて、「侮れない」と書いている。 これまでの経緯をまとめると、12月のめまいの後、年が明けてしばらくしてから、朝、徒歩での出勤時、決まった場所にに来ると顔がクルッと右を向いて、最初は気のせいかと思ったが、段々右を向いている時間が長くなり、少しでもまっすぐ見ようとすると、結果的には身体そのものを左の方に捻ることになっていた。そうなると何が起こるか? 答えは、真っ直ぐ歩くのにこれまでの何倍も体力を消耗する。人間の身体は少しでもバランスが崩れると歩くのがこんなに大変になるものかと再認識した。 症状が進行しながらも病名がわからない中で、マッサージ、カイロプラクティックを闇雲に試す。この時点でも、肩凝りがひどくなったくらいに思っていた。 この頃、時々、ふっと肩の力が抜ける瞬間があった。首が自由に回せるってこんなに楽だったのかと思う瞬間だが、楽になる時間は長くて半日と、いつも長くは続かなかった。 病名がわかるまでに時間がかかることが、多くの痙性斜頸患者が経験する特徴の一つ。 次回は、病名がわかるまでの経緯について書くことにする。
2021.03.07
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2012年からの日記を読み直している。記載内容から当時のことを場面場面で思い出すことがある。少しずつ痙性斜頸の症状が出ているはずだが、2013年3月までの日記には具体的な症状についての記載はない。でも、この頃には、名刺を出す時、手が震えたり、朝、徒歩で出勤の際、九龍公園の前を通るといつも顔が無意識に右に旋回していた様な気がする。 相変わらず、海外出張、宴会、ゴルフ、水泳、ウォーキングを続けている。今考えるとかなり無理をしていたのかもしれない。 3月24日の日記に、「肩に力が入る現象治らず」と初めて書いてある。 4月8日には、「朝から首がコチコチに固まってる」と書いてある。 この頃は、症状はまだ固定しておらず、力がスーッと抜けている時もけっこうあったようである。水泳、ゴルフ、海外出張、宴会は相変わらず続けている。この頃から、突然気持ちが落ち込む症状が時々出るようになってきている。 続きは明日。
2021.03.06
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今思い返せばあの時から体の変調が始まっていたのかもしれない。 2度目の香港駐在が始まって一年が経過した2012年12月14日の早朝、前日泊まっていた深センのホテルから車で香港に戻る途中の出来事。中国側の皇崗イミグレを通過して香港側の落馬州に移動途中、橋に向かう螺旋状の道に沿って運転手が大きくハンドルを切った瞬間、視界の景色が変わった。 身体中が火照り、あれっと思った瞬間、車の天井が回り始めた。記憶にある限り生まれて初めて「めまい」を経験したのがこの瞬間だった。 この時から始まり、主治医に完治を告げられた2015年5月25日まで、自分の意思に関係なく(自分の場合)首が右を向くなんとも奇妙な病気「痙性斜頸」に苦しめられることになる約2年半の記録を残しておこうと思う。 2001年12月から昨年7月まで毎日日記をつけていた。日記を辿りながら振り返ることにする。
2021.03.05
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武者小路実篤は毎日のように書を書き、絵を描いたが、ついに上達しなかった。山口瞳さんは実篤の書画の腕前をそう述べて、だから好きだと書いている。 『私にとって「勉強すれば上達する」ということよりも、「いくら勉強しても上手にならない人もいる」ということの方が、遥かに勇気をあたえてくれる』と 新潮文庫 木槿の花 竹内政明の編集手帳傑作選 ハルウララ 2004.3.23 より カラオケ、プレゼン、ゴルフ、気の利いたコメント、いくら努力しても上手くならないことだらけの自分にには嬉しい意見。そうか、人によっては自分を見て勇気を持てるかもしれないと思うと肩の力が抜けて、楽しくなってきた。人に自信を与えるとは、こういうコメントをサラッと言えることなんだろうなと思う。 竹内政明さん、やっぱりいい。
2021.03.04
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先週末、出張のついでに一年振りに、母親の住む実家に帰った。 翌朝、故郷の河川敷にあるマラソンコースに沿ってジョギングした。 この日は風もなく、柔らかい春の陽射しを浴びながらゆっくりと走る時間は幸せな時間だった。子供の頃、故郷の良さってほんとわからなかったな。
2021.03.02
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