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寒波襲来、大雪になりそうな気配である。今日の午後、学校に行って除雪しようと思う。明日の朝では、職員の車さえ入れない状況になってしまうから・・。さて、本年度のまとめの時期になり、あらゆる分野で「成果と課題」の報告書作成が始まっている。本校は今年一年間、道徳教育を核に、研究を推進してきた。担任の先生方と考えてきたこと、話し合ってきたことをもとに、研究集録の原稿をまとめてみた・・。1 潜在的カリキュラムと道徳教育 本校は文科省人権教育の指定校として研究に取り組んできたが、文科省はその第三次取りまとめの中で「潜在的カリキュラム(HC:ヒドゥン・カリキュラム=隠されたカリキュラム)」について言及していた。ここでは、この視点に立って本年度まで研究を振り返りたい。2 授業不成立と潜在的カリキュラム この潜在的カリキュラムは、教育課程や年間指導計画など、顕在化しているカリキュラムと表裏の関係にあるが、むしろ人間形成(社会化)に関しては顕在的カリキュラム以上に強力な作用を及ぼすと考えられている。HC研究の第一発見者といわれるジャクソンは、生徒が学級という生活世界を生き抜くために必要なものを3R’S(スリーアールズ)だと考えた。規則(Rules)・規制(Reguiations)・慣例(Routines)の3つがHCの主成分である。 子どもたちは学級生活を円滑に反復する過程で落ち着いた学習態度をとるように求められる。順番を守ること、集中して課題に専念することなど。その基礎があって、初めて将来の社会生活に必要な「知恵」や「要領」といった社会技能と対人交渉力を獲得する。「規範」「規律」「マナー」「ルール」といった領域の低下が現代的課題として頻繁に取り上げられるが、 これらはまさに3R’Sと見事に重なっているのである。児童・生徒は「社会化」の過程で教師のみならず、児童・生徒同士でもよりよく評価され、失敗から自分を守る戦略を身につけるわけであるが、評価権を持つ教師から否定されたり、制裁を受けたりしないために「役割期待」に応えているかのように装いながら、他方で自分たちの意思と利害を最大限に実現すべく「教師と折り合い」をつける交渉技法まで習得しているのが、現実の教室という空間なのである。 学級崩壊、授業不成立は「潜在的カリキュラム」の未習得あるいは不成立によって生じる現象とみることができる。3年前までの本校に見られた「荒れた」実態の根底にこの問題が潜んでいる、と私は考えてきた。「空気が読めず」「評価を気にしない」児童によってかき乱される授業はつらい。これが学級全体に波及した時、学級は崩壊する。本校においてはそれらの核にいる児童は「特性」や「家庭環境」「学力」との関連で語られることが多かった。教師と生徒との間で「暗黙の了解」がなければ一斉指導や集団指導はうまく展開しないが、彼らにとって「暗黙の了解」こそ最も克服が難しい課題なのである。 4 意図して仕組む これら潜在的カリキュラムは、教師が意図しなかった学習の結果だと考えられてきた。だから「潜在的」だとか「隠された」とか形容されるわけであるが、本校の教職員は以前からこれらを「顕在化」させ、意図的に指導を重ねてきた。その成果が本年度の成功の大きな要因だと考える。昨年度までの国語科の研究が生かされ、教師と児童、児童相互にコミュニケーションが円滑に行われたとの評価は、「潜在的カリキュラム」を顕在化させ、指導を蓄積させてきた結果なのである。そして本年度、「善の心地よさをシャワーのように浴びる体験は、人に対する信頼を深めていく有効な手法である」という助言を受け、学級という一つの社会の中にある混沌とした実態を分析し、教材選定や授業構想に生かしてきた。5 教室の空気と教師教室の空気に大きな影響力を持つのが教師である。その立ち居振る舞いすべてが「潜在的カリ キュラム」であることを自覚する教師の教室は、学びの空気で満たされる。役割期待に応えようとする姿、つまり学ぼうとする姿は、「教師への信頼」が根底にある。教師を信頼したいという思いがあるからこそ、本校では「荒れ」という形で役割期待を意図的に裏切ろうとする姿が顕在化してきた。「荒れの姿は、教師や学校に対する子どもの叫びなのだ」という教師のとらえこそが、「荒れ」を克服する重要なポイントであった。6 組織的活動と道徳研究 本校は学級経営との関連を重視した。生活との関連を重視した。それはHCがまさに学級経営や生活といった具体的場面で顕在化していくことを意味している。同時に、担任が意図する・しないの別なく日々子どもは影響を受け、教育されている視点に立って、学校環境・教室環境を重視してきた。「うるおいのある学校や教室」「子どもの今を伝える掲示」「道徳コーナー」の充実である。 また、「ことば」によって他者と関わるしかない現実世界の中で「思いを伝える」出発点となったのが「ペア対話」である。「だからね、ぼくは・・」「あのね、ほんとうはね・・・」という文脈依存のたどたどしい発言を受け入れる、温かい空気を醸成した。7 今後に向けて 今後は発達段階をふまえ、根拠を示しながら相手を納得させる語りができる子どもを育てるための取り組みが一層必要だと考えている。多くの学級では、高い価値に向けての話し合いが活発になされるようになってきている。それは「安心して発言できる学級の雰囲気」に合わせ、子ども自身が自分の生き方を見つめ、それを言語化でき始めているからである。 この成果を大切にしながら、今後はさらに他者の意見との共通点と相違点を明らかにしつつ、自らの意見を再構成していく力をつけたい。未来を切り拓くためにも、論理的に思考し、理路整然と語る力、コミュニケーション力を身につけなければならない。学級固有の文脈に頼らず、広い社会に出ても通用する二次的言語を重視する理由はここにある。 外部の方にも認められた成果、そして質の高い今後の課題は、研究指定を契機とし、全職員が一丸となって取り組んできた賜物である。子どもの未来を保障する教育は、とりわけ公立学校が担わなければならないが、漫然とした、そして個人的な取り組みでは遅々として進まないものである。 教師力を高めることこそが研修の基本であるが、学校という組織全体で「学びのうねり」を作ることによって高まっていくものであり、外部の評価や助言を受けつつ組織として内面化することで、その内実が豊かになっていくのだと思う。この原稿〆切は明日。今週水曜日には来年度の研究の方向性について話し合う予定にしている。
2011.01.30
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現在6年生の社会科を担当。今の6年生は2年生、3年生と持ち上がりで担任した関係で、「もうすぐ卒業なのだ」という思いが強い。先日から社会科は「歴史」を終え、中高で言えば「現代史」「公民」といった分野に入った。大抵指導時間が不足し、「読んでおけ」で終わりがちなこの分野、実は奥が深い。敗戦を契機とし成立した日本国憲法は三つの柱からなる。「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」。まあ、これくらいの知識は小学生といえども必須だろう。問題は中身。「公民的資質」を養うためには、自分との関わりを実感しながら自分なりの価値判断を言葉にしていく作業が必要だと考えた。そこで先日の社会科の討論会のテーマは「平和を考える」。平和を築くために「軍事力(武器)は必要である」「必要ない」まず、どちらの考えを支持するか決定した上でわかれ、討論会。平和主義を学んだばかりだから、「必要ない」派が多数を占めるだろうと予想していたが、何と「必要である:17人」「必要ではない:18人」で半々に分かれた。まずはリーダーが1分間程度で「主張」し合う。
2011.01.22
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ADHDの1年生Y君の、児相一時預かりが決定した。直接のきっかけは、お母さんのY君への暴言・暴力だった。いつもこの一家のことを気に書け、親身になって相談にのっていた「親と子の相談員」Kさんに対してY君が「死んでしまえ、殺してやる」と暴言を吐き、パンチやキックをしたことが母親に知られ、「こんなに世話になっているのに、お前にはわからないのか!!」とたたき続けたのである。しかも、迎えにこられた学校の職員室という場で・・。お母さんには、何度もこの子の不な気持ちがそうさせていること、この子の使っている言葉が日ごろお母さん自身が使っている言葉であることを伝えてきた。Y君が不安定になるのは「母子分離不安」によるもの。いつお母さんに捨てられてしまうか、不安でたまらず、迎えに来てもらえないとか、天候が悪くて暗いとか、そんなときに暴走してしまう。相手がどんな人で普段どんなにお世話になっているか、なんてことは関係なくなってしまうのだ。一時預かりの期間はわずか1週間。この間にY君への診断や母親・父親への聞き取り、今後の方針が決定される。伊達直人、タイガーマスクの善意が次々届けられている児童養護施設・・。児童養護施設には、こんな事情で過ごしている子どもも多い。施設側の人々は「寄付金ということもあるし、相談してもらえば、もっと有効活用できるものが購入できる」と呼びかけているが、それはあまりに都合がよすぎる考えだろう。ブームとなっているだけだ。何を送るかは、送る側にゆだねるべきだろうし、それが役に立っているか立っていないかなんて、言わなくていいと思う。人々の関心が向いているだけ、ありがたいこと。
2011.01.16
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降り続く雪の中、2011年が始まった。家族5人がどこに出かけるでもなく、ごろごろしている。お正月番組を見て笑ったり、引っ張りだした盤ゲームを楽しんだり・・・。早起きの習慣が抜けない私は、ビデオにとっておいた映画を鑑賞する。ハーバード大学のなんとか教授の「白熱教室」もおもしろい。「正義」とは何か。人の命に値段はつけられるのか。5人救うためなら1人殺しても許されるのか。戦争の責任は、子孫の世代も負うべきか。「政治哲学」という学問分野だそうだが、カントから始まり、ベンサムの「最大多数の最大幸福」といった理念について、現代的課題を学生にぶつけ、討論することでその内実に迫っていく。彼は言う。哲学的に探究し続けることには二つのリスクが伴う。一つは個人としてのリスク、もう一つは社会的なリスク。なぜなら、個人としてそれまで当たり前だと考えてきたことが根底から揺らぎ、不安を覚えるからだ。社会についても同様。現代社会をそのまま受け入れるのではなく、変革すべきことがあることに気づき、苦しむからだ。しかし容易に社会は変わらない。ここに「懐疑主義」という立場が誕生する。それは、「社会はいくら探究し続けた所で、何も変える事はできない、ということに気づくだけで、考えること自体、無駄だ」と考える立場だ。しかし、人は考え続け、行動することで社会を変革できる。いや、変革できないとしても、考え続けること自体に価値がある。なぜなら人は、大昔から同じような命題を考え続けているからだ。そんなフレーズが印象に残っている。そういえば同じようなことを言っていた人がいたなあ・・そう考えるうちに思い出した。「ミシェル・フーコー」という現代哲学者である。やはり同じようなことを語っていた。マルクス主義も、資本主義も人々に幸福を与えることはできなかった。しかし、今の社会が息苦しいなら、どうしたらいいか、考え続けること、そして、少しでも行動すること、そのことしか、変革の可能性はない、と。1926年、フランスに生まれたフーコーは人間の存在について深く思索し、言語との関連においてのみ人間は存在しうるのであり、言語という枠組みにおいて知が再編されるといった。彼は人間中心主義、近代合理主義を根底的に否定する。人間はその各時代において、「言語」という枠組みの中において思考するに過ぎず、そこには進歩し続ける人間というものは存在せず、ただ変形するのみだと考えた。特にさまざまな言説は「排除」によって生成され、組織化されると考えた。一つに、それは「政治」と「性」の場面で現れる。ある特定の対象についての禁止やタブーによる排除。そして「正気」と「狂気」。「狂気」とされた者は「正気」とされる側から排除される。最後に「真偽」。偽りとされたものは、「真」「正義」の世界から排除される。んん、なるほど・・。まさに「人間は考える葦である」。考えるから存在する。しかし、考えてるかどうかは、言語化されなければ、誰にも伝わらない。だから「言語」によって存在そのものが規定される。確かにそうだ。政治の場面でしばしば起こる「戦争」。考えてみれば、それは特定のものの「排除」の連続である。特定のもの、それは人種であったり、国籍であったり、時に思想であったりする。ハーバード大学の教授がいったリスクがここにある。「言論の自由」が保障されない社会ではある言説にこだわり、公言することで「命」や「自由」を奪われるというリスクを伴う。あの戦争で言えば、獄死した小林多喜二がそうであり、軟禁が長年続き、今も自由に発言できないスーチーさんもそうである。ノーベル平和賞を受賞した中国の思想家も軟禁されている。「狂気」と「正気」もそうである。フーコーは「監獄の誕生」という中で、いかに「狂気」とされる状況が恣意的で、社会的なものなのかを明らかにする。これは「発達障害」という現代的な枠組みについてもいえる。少し前までは、教育現場でさえ気づけず、しつけとか、環境とかのせいにして、苦しむ子どもに目を向けようとしなかった。ある「常識」が教育現場を支配していたからだ。しかし少数の「当事者」の訴えによって学問の俎上に上がり、脳科学という分野で解析され、医学的・教育的な対応がなされるようになった。しかしそれでも、国により、地域により、学校により、政治的・社会的な枠組みが少し違うだけで、でずいぶん扱いが異なる。「精神異常」についてもしかり。枠組みはその社会を支配する「知」によって決定される。「うつ病」もようやく社会的に認知されたが、偏見は根強く、命を絶つ人は減らない。フーコーは、その思想が高揚を迎えたとき、「ホモ・セクシュアル」という自らの状況を、世界に向けて公にする。その上で、その社会的発生と存在について古代までさかのぼって、説明しようとする。彼はその瞬間から大きな「リスク」を背負った。彼の思想の根底に「自己存在への懐疑」があったことは容易に想像できる。思索に思索を重ね、その思想が世界に認められ始めたとき、カミングアウトした。そして、社会変革のために積極的に、前向きにその性を受け入れ、発信していくことを選んだ。晩年、「エイズ」であることもカムアウトし、死んでいった。「正常」と「異常」、「正気」と「狂気」の線引きは、一体誰が、どのような権力を持って行い得るか。恐ろしく難しい命題ではあるが、実は、教育現場では日常的にその判断と対応を迫られている。今の「社会」を維持する最大の「装置」が「教育」という現場だろう。そこは「社会の常識」を疑いなく伝えられる人間が楽に生きられる最前線でもある。しかし国家権力の維持装置の中にいるからこそ、本当にそれでいいのか、と問い続け、少数の意見に耳を傾け、誠実に対応することが求められるのだろうと思う。児童虐待をする母親への怒りが私にはあった。児相の不誠実さに対する怒りがあった。しかし、それを「異常」「怠慢」として排除するだけで問題は解決するのか。社会・政治・言語という枠組みの中で生かされているちっぽけな自分。しかし思索することで世界のみならず、宇宙までも自らの中に取り込める大きな自分。「考え続ける葦でありたい」。これが新年の抱負ということになるかな・・。ブログという現代的な言説空間の中で、奇跡的な出会いができた皆さま、今年もよろしくお願いします。
2011.01.03
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