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2011.01.31
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 昨日、2011年1月30日の夕方、「永遠の0(ぜロ)」(百田尚樹著、講談社文庫)を読み終えました。

涙を堪えることができませんでした。
夕飯の用意の合間に台所から私のいる部屋に入ってきた家内は、あれ?と言う表情を浮かべ、私の顔を覗き込み、何もいわずしばらくそばにいてくれました。

新潮文庫版の裏表紙にはこうあります・・・

  「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。
  そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。 
  終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。
  天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、

  記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。

《1》 私と「零戦」

 今から56年前、私が東京、世田谷の代沢小学校に入って初めて出来た友達が藤田次郎君でした。
 次郎君のおじい様は医科大学の名誉教授で、庭で木登りをしたり、家の中で遊ぶ私達をいつも優しい目で見守ってくださいました。

   「ぬまくん、君は素直だね。
    良く遊び、良く勉強して、立派な大人になるんだよ。」

初めてお年寄りから褒められました。
その言葉は今でも新鮮に脳みそに焼き付いています。

 そしてそのおじい様の息子さん、つまり次郎君のお父様が、
藤田 怡与蔵(ふじた いよぞう、大正6年(1917年)11月2日 - 平成18年(2006年)12月1日)氏でした。

 いまでも、はっきりと「零戦に乗り、真珠湾攻撃に参加された方であり、公職追放で苦労なさった後、日本航空の機長をなさっている」ということを父に聞かされたことを覚えています。


理科系の大学生であったため兵役を免れました。
学徒動員先の住友プロペラで同じく女学校から来ていた母とめぐり合いました。

 その父から、特攻隊の事を聞きました。
父の友人にも特攻で亡くなった方がいたのでしょうか、その話をする父の顔はいつもと違いました。

 ちょうどその頃でした、幼いながらも私は「死」の恐怖を意識し始めました。

 家族揃っての夕食の最中に、それがとても楽しいひと時であったからこそなのですが、「僕は死んだらどうなってしまうの?」と、叫び声を上げて、若かった両親を困らせたおぼえがあります。

 ですから、特攻で亡くなった零戦の搭乗員の皆さんはどんな気持ちで死んでいったのだろう・・・その疑問はとても重く私の心にのしかかってきました。

 「天皇陛下万歳!」と叫んで敵艦に体当たりした…
 いや、「おかあさーん!」と叫び、或いは妻や子の名前を呼びながら突っ込んでいかれた・・・
 いろいろな人がいろいろなことを言ったり、書いていました。

 父の書棚にあった第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集『きけ わだつみのこえ』(1949)も読みました。

 もっともっと真実を知りたい・・・
その思いが強く、かえっていわゆる戦記物は避けていました。

 ちなみに、ウィキペディアから 藤田 怡与蔵氏について少しだけですが引用させていただきます。

 『・・・1941年12月8日真珠湾攻撃に、飯田房太大尉率いる第2次攻撃隊制空隊の小隊長として参加。敵戦闘機は上がってこなかったので、ベローズ・カネオヘ各飛行場を銃撃した。飯田が自爆戦死した後、中隊を率いての帰路途中P-36の編隊と遭遇、1機を撃墜し初撃墜を記録した。ハワイからの帰路ウェーク島攻撃に参加。1942年(昭和17年)2月にポートダーウィン空襲、4月にはインド洋に進出してセイロン沖海戦に参加した。

6月5日のミッドウェー海戦では上空直掩隊として10機を撃墜するなど奮戦するも、味方の対空砲火により被弾してパラシュート降下を余儀なくされ、漂流4時間の後に味方駆逐艦「野分」に救助され九死に一生を得た。藤田が漂流中に味方空母4隻は撃破され、海戦は大敗していた。内地帰還後は、敗戦を秘匿するため富高基地に隔離され、その後空母「飛鷹」乗り組みとなった。
(中略)
航空機の調達や隊員の用兵をめぐって、上級部隊の1航艦司令部と軋轢があり、司令部で「うちの隊からは絶対に特攻は出せん」とタンカを切ったという。
(中略)
最終階級は海軍少佐。生涯撃墜機数は39機、不確実を加えると約50機という。

戦後、公職追放令によりトラック運転手など職を転々とした。1952年(昭和27年)、日本航空に入り民間機パイロットとして活躍、1977年(昭和52年)11月に退職するまで生涯総飛行時間一万八千三十時間を数えた。2006年(平成18年)12月1日、肺癌のため89歳で死去。 「零戦搭乗員会」(現在は「零戦の会」)元代表世話人。』

 文字通り「エースパイロット」であり、部下を無謀な作戦から守り抜いた「本ものの男」でした。

 残念ながら、直接お話を伺ったことはありません。
小学校1年か、2年のときの遠足に次郎君に付き添って来られました。
新宿御苑だったか、或いは浜離宮だったか、芝生に腰を下ろし、
当時珍しかったトランジスターラジオを脇に置き、
子供達が遊ぶ様子を見守っていらっしゃいました。
なんて優しいお顔なんだろうか、眼差しなんだろう、今でもまぶたに焼き付いています。
平和な日本を見つめるその実際の胸の内は・・・今となってはわかりません。


《2》 何故、百田さんの本を読む気になったか? そして・・・

 先週、たまたまNHKラジオで百田さんの声を聞きました。
 ・まず、資料をトコトン調べ上げた。
  元零戦搭乗員の方々へのインタビューはそれから後に行なった。
  実際に体験された方の生のお話しは余りにも重いから。
 ・元搭乗員の方々が、本書を読まれてどう思われるか、
  お叱りを受けるのではないか・・・大変こわかった。
  しかし、実際に頂いた感想は「真実を伝えてくれて、ありがとう」
  というものが多く嬉しかった。

 そんな対談を聴き読んでみよう、という気になりました。

 この日記は書評ではありません。
 50数年間、私の中にあった疑問とは・・・
 それを恥ずかしかったのですが書き止め、
 その疑問に答えてくれる本にめぐり合った、
 そのことをお伝えしたかったのです。

 百田さんは上述のラジオ番組でおっしゃっていました。
 「私は何故小説を書くのか?
  自分の本から、読者の皆さんが
  人生を生きていく上でチカラになるものを汲み取ってもらいたい。」
正確ではないかもしれませんが。

 私は、これからも、澄み切った心で生きていきたい、
そんな私に「永遠の0(ゼロ)」はとても大きなチカラを与えてくれました。

 一人でも多くの人々にこの本を読んでいただきたい、心からそう思います。





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Last updated  2011.01.31 17:17:00
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