パクス・ジャポニカ Vol.2

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2009/04/11
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テーマ: 城跡めぐり(1285)
松山城と言えば、 伊予松山城 (愛媛)、 備中松山城 (岡山)が有名かと思います。

いずれも天守が現存する名城ですが、こちらは建築物こそ残っていないものの、戦国時代の城郭を残す名城だと思います。

武蔵松山城縄張り2
武蔵松山城の縄張り図。
薄い緑色の部分が曲輪で、水色の部分が空堀です。(水堀ではありません)

武蔵松山城の周囲には、市野川が水堀のように巡って流れ、南西側の搦め手方向は急な斜面となっています。
武蔵松山城市野川.JPG
市野川。
護岸が施されていないため、戦国時代と同じ川面かも知れません。


武蔵松山城遠景.JPG
山腹に寺院の屋根が見えていますが、これが「岩室観音堂」です。

武蔵松山城岩室観音.JPG
岩室観音堂。
岩室観音堂は松山城よりもかなり古く、西暦800年代の築造です。
代々松山城主が信仰していましたが、1590年の攻防戦で焼失してしまい、江戸時代になって再建されたものです。(それでも古い)

松山城の縄張りが頭に入っていることと、元探検部の妙な気負いもあって、岩室観音堂の裏手から直登攀するという暴挙に出てしまいました。
(本当は危険なので禁止されています)

岩室観音堂を登り切ったところに「平場」と呼ばれる曲輪があるはずなのですが、何のことはなく、ただの畑でした
武蔵松山城腰曲輪2.JPG
登城道から登るべきだったか…

途中の本丸脇にも曲輪の跡があり、ここが「兵糧蔵」の跡です。
武蔵松山城兵糧蔵.JPG
さすがに兵糧蔵は搦め手方向の、しかも本丸のすぐそばに置いてあったようです。

そしてこれが本丸です。
武蔵松山城本丸.JPG


本丸からは大手方向に下りていったのですが、周囲には空堀が巡らされ、その空堀や曲輪の跡もよく残っていました。
武蔵松山城本丸と二の丸の空堀.JPG
本丸と二ノ丸の間の空堀。
左が本丸で、右が二ノ丸です。

武蔵松山城二の丸.JPG
二の丸の曲輪跡。

さらに空堀があって、春日丸へと続いていました
武蔵松山城二の丸と春日丸の空堀.JPG


武蔵松山城春日丸.JPG
春日丸の曲輪跡。

大手方向へ行くに従って曲輪の位置も低くなって行きますが、空堀はだけは変わっていませんでした。
武蔵松山城春日丸空堀.JPG
春日丸と三の丸の間の空堀。
それにしてもよく残っています。

武蔵松山城三の丸.JPG
三の丸の曲輪跡。

城郭の遺構は驚くほどよく残っており、手軽に戦国の城郭を見るのにいいお城だと思います。



武蔵松山城のある武蔵国北部(埼玉県)は要衝にあり、戦国武将の間で激しい争奪戦が繰り広げられました。
武蔵松山城の歴史を見ると、関東地方の戦国時代の歴史をそのまま見ているような感じです。


武蔵松山城の築城時期は定かではなく、応永年間(15世紀初め)に扇谷上杉氏の家臣であった上田氏によって築城されたと言われています。

扇谷上杉氏は武蔵松山城を、敵対する(山内)上杉氏や(古河公方)足利氏に対する重要拠点として位置づけていました。
そして(扇谷)上杉氏・(山内)上杉氏・(古河公方)足利氏の3者の勢力争いに乗じ、武蔵に進出して来たのが相模小田原の北条氏です。

北条氏の進出に危機感を抱いた扇谷上杉氏は、それまで対立していた山内上杉氏・古河公方足利氏と和睦、今度は3者が連帯して北条氏の進出に備えていました。


そんな対立が続く中、1537年に北条氏第2代の北条氏綱は、(扇谷)上杉朝定の本拠地である 河越城 を攻め落としました。
そして上杉朝定が、河越城から逃れて来た先が武蔵松山城です。


河越城奪還を目指した上杉朝定でしたが、有名な1545年の「 河越夜戦 」で北条氏第3代の北条氏康に大敗を喫し、上杉朝定も討死してしましました。

さらに1561年になると、北条氏と敵対する上杉謙信が武蔵松山城を奪還し、武蔵松山城の城代となったのが、岩槻城城主の太田資正でした。(三楽斎の呼び名の方が有名ですが)

しかしながら1563年には、北条氏康と武田信玄の連合軍が松山城奪還のため、大軍で押し寄せて来ました。
この時、「松山城危うし」の急報を岩槻城に知らせたのが、岩槻城の記事でもご紹介した、太田三楽斎の軍用犬たちです。(岩槻城の記事→ こちら )

武田信玄は金堀衆にトンネルを掘らせて攻撃するなど、その攻防戦は激しさを極めました。

上杉謙信も越後から松山城の救援に駆けつけましたが、あと一歩及ばす、松山城は落城ししまいました。


また1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時は、北条方の武蔵松山城も上杉景勝・前田利家の連合軍に攻められ、再び落城の憂き目を見ています。

そして北条氏滅亡後、関東に徳川家康が移ってくると、武蔵松山城も徳川氏の支配下に入りました。


このように武蔵松山城の歴史が、そのまま関東の戦国の歴史だとも言えると思います。
武蔵松山城に攻め寄せた武将を挙げたたけでも、北条氏綱・氏康、武田信玄、上杉謙信、上杉景勝・前田利家と錚々たる面々です。

それだけ要衝にある堅固な城であるとも言えるのですが、実際に松山城を訪れるとそれも納得です。





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最終更新日  2018/05/16 08:07:45 PMコメント(0) | コメントを書く
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