歎異抄を学ぶ

歎異抄を学ぶ

2007年05月31日
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カテゴリ: 問題提起
偶然見つけたテーマ『家族の幸せって?』について書こうと思う。

大学の仲間たちには卒業してきっと各々の道で頑張っていることだろう。

私もその一人でいたいと奮起したが・・・

私にとって幸福とは何だろうと問い詰めることが多くなる日々。

私はこの身が浄土真宗に関与しなかったとしてもやはり一人の人としてどうあったら幸福であるのかを追求しないではいられない。

私がただひたすらに念仏を唱えて満足する仏道の人であるならこんな苦労はないのかもしれないが、現代社会を生きる以上、これは避けられないことなのか。

家族の幸せはたぶん、家族の中にある。

多くの人が当然のように、神社や仏閣におもむいた際には手を合わすだろう。

その際、これまた当然のように何らかのお願いをしてしまう。


家族が健康でありますように・・・
合格しますように・・・・
彼女、彼氏ができますように・・・・
早く結婚できますように・・・・
優勝できますように・・・・

など多数あるだろう。
個人的な願いもあれば、家族のような多人数のために願う願いもある。

家族の幸せはきっとささやかながら神にもすがりたい思いが一番根底にあるのではないか。
それが家族の健康な気がする。

さて、私にとって今回、このテーマは幸福について~というような補助書きがあったのでここまで幸福について語ったが、私には今、大きな疑問をかかえていることもあり、それについて書きたいと思う。

人が人を認めるって大切な行動だと思うのだが読者はどう感じるだろうか。



人は知性が発達したからと言って、言葉なしでコミュニケーションを完璧に出来る生き物ではない。
だから人は時に、怒ったり喜んだり、すれ違ったりするのだろう。

大切なコミュニケーションの一つに相手を認めるということがあるのではないだろうか。

これが全く仮に相手に無い場合、どのように関係を成り立たせていくのが良い関係なのだろうか、ぜひ、多くの方にも考えて頂きたい。

私なら、相手の出方をしっかり把握するまではとにかく懸命に尽くす。



それは、認めないということが前提にある以上、認めて貰うための努力を示すためだ。

これをしなかった場合も別に気づいてもらえばいいと思うかもしれないが、逆にこれが相手への服従にしか他ならず、相手を思ってしたことが相手には「何でもしてくれる便利な人間」にしか映らない可能性がある。

それだけは今後の関係のためにも避けたいことである。

どれが最善の策かは私にも分からないが、これが成功するかどうかも分からない以上答えはない。

さて、皆さんの意見を求める。

ちなみにこれはあくまで意外なケースではあるが、アピールしたことが相手にとって自分が絶対だという強いプライドがあるなら、ただ相手のしたことが見返りを求めた行動にしか見られず、見下した態度だと変な誤解を受ける可能性があることは示唆しておく。





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最終更新日  2007年05月31日 14時37分06秒


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