あたしはあたしの道をいく

2007.09.06
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「連鎖」「条件付の愛」と書いてきて、タロウに対する気持ちがずいぶん変化してきた。

素直に相手が出来るようになったし、相手をするのが辛くなくなった。

子ども、というのは面白いもので、親の変化を敏感に察知するらしく、

タロウの反応がここしばらく、とても穏やかでグズリが無い。

単に機嫌を損ねるようなことに遭遇していないだけかも知れないけれど、

つい先日までは連日グズリ通しだったから、とても穏やかな気分で過ごせる。




ありのままのタロウを受け入れること。

それは何て気持ちが楽なんだろう、と思うけれど、あたしの中でストップがかかる。

タロウを愛してはいけない、とブレーキがかかる。






大切なものを理不尽に失うことが続くと、大切なものを持たないようになる。

大切なものが元々無ければ、大切なものを失うという痛みに遭うことも無いから。

大切なものが出来れば、それは必ず失うものだという心の準備もする。

そうすれば、失ったときに辛くないから。



あたしは、未だに、これから抜けられない。

タロウをかわいいと思うたびに、愛してはいけないものだと自制してしまうし、

タロウを失うことを連鎖反応的に思い浮かべてしまう。



確かに、母親はいつか子どもを失うものだとは思う。

親離れ・子離れ、というアレだ。


いつまでも幼い頃の蜜月が続くわけではなく、

思春期になれば秘密も持つし、青年期になればパートナーを見つける。





だけど、あたしが連想する「失う」は、文字通り「失う」ことだ。

タロウを愛しく思うと同時に、タロウを失うことを連想する。

交通事故などの不慮の病気や大病で失うこと、つまり「死」を連想する。



これは、タロウが生まれてすぐ、病院のベッドにいる頃からあたしを支配している感覚だ。

幼い子どもを失っても思い出がちゃんと残るように、



タロウを失って、悲嘆に暮ながら、遺物を撫でる自分を想像することも難しくないし、

それらの「思い出の品」に囲まれた仏壇を思い浮かべるのも、難しくない。

今では、弔問客への謝辞もあらかた出来てしまっているくらいだ。

タロウを愛しく思うとほぼ同時に、私の中では自動的にその挨拶が推敲される。



そんな感覚が、あたしにブレーキをかける。

この子は失う定めの子だ、と。


なぜか、ハナコにこの感覚は湧かない。

ハナコは二人目だけあってとんでもない猪で、体に生傷が絶えないし、

椅子から落ちたり、階段から落ちたり、落ち物系は日常茶飯事。

不慮の事故の確率なら、こっちのほうが余程高いように思えるのに、

なぜか、まったく、ハナコについてはそのブレーキがかからない。

親離れ・子離れ以上の感覚で、ハナコを失うことは考えられない。


なのに、タロウは失うことに決まっている。

少なくとも、あたしの直感はそう捕らえていて、そうなると知っている。

たぶん、今、不慮の事故でタロウを失っても、「やっぱり」と思うだろう。

こういう運命だったのだ、と何の疑問も持たないだろうし、むしろ納得するだろう。

あたしには最初から分かっていたのよ、仕方が無いことよ、と。



理屈ではなく、あたしは「いずれタロウを失う」ということを知っている。

そこには何の根拠もないけれど、あたしの感覚はそれを知っていて、

そのための心積もりをしてしまう。


この感覚から抜け出すのは、とても難しい。

「第六感」に近い感覚を否定するのも、とても難しい。



どうしたら、あたし自身を納得させることが出来るんだろう?

あたしはタロウを失わない。

あたしはタロウを愛して良い。

思う存分、執着して良い。



書くとものすごく笑止。

ばかばかしい限りだ。

なのに、難しいなあ……。





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Last updated  2007.09.06 14:09:52
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