あたしはあたしの道をいく

2008.02.04
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ヒットラーのむすめ

何で薦められていたのか、忘れてしまったけれど、

どこかで書評を読んで気になっていた本。



児童書のくくりに入る本だと思う。

オーストラリアに住む少年、マーク。

ある雨の日、想像の話聞かせる遊びの中で、

マークの友達のアンナが、「ヒットラーの娘」の話を始めた。



ドイツの独裁者、アドルフ・ヒトラーには娘が居た。

彼女は頬にあざがあり、左右の脚の長さが違う。

ヒトラーが行ったホロコーストはユダヤ人だけに限ったものでなく、



出自のためだけでなく、その「資格」もあって、彼女の存在は隠されていた。

でも、彼女は独裁者、アドルフ・ヒトラーの娘だった。



アンナは、朝のバスを待つ10分程度の時間で、この話をする。

1日に話せる時間はその時間だけのために、話は細切れで、少しずつ進んでいく。

主人公マークは、その話を聞きながら、自分だったらどうするだろう、と考える。



今では、ヒトラーの行ったホロコーストは歴史上稀に見る大虐殺だとされている。

でも、たしかに当時はドイツ国内で熱狂的に支持されていたのだ。

敵国は兎も角、ドイツ国内では彼を疑う人は居なかったはずだ。

少なくとも、面と向かって間違いを指弾するする人は、居なかった。

たとえそれが、弾圧による表面上のものであったとしても。



アンナの話を聞きながら、マークは考える。





話は、徐々に複雑になっていく。

人が重大な間違いを犯していることを知ったなら、それが親であっても諌めるべきだ。



でも、親の間違いに子は気付くことが出来るのだろうか?

親は正しいものだ、という価値観を子どもは持っている。

それを覆すのは、易しいことではない。





子どもに知らされない事柄というのは、たくさんあるものなのだ。

隠されているからこそ臭うこともあるだろうが、それを明らかにするのは難しい。



さらに、周囲が皆、騙されていたとしたら?

ヒトラー独裁下のドイツのように、皆が騙されて居たら?

周囲に正しい情報を持った大人が居なかったら、子どもが正しい判断をするのは難しい。



主人公マークは、アンナの話を聞きながら、色々考える。

自分がヒトラーの娘だったら、大量虐殺を止めることが出来ただろうか?

そのことに始まったマークの疑問はどんどん深くなっていく。



でも、この本のすごいところは、それだけに収まらないところだ。



マークは考えながら、周囲の大人にも質問するが、大人はなかなか取り合ってくれない。

適当に誤魔化したり、からかったり、明確に拒絶したり。

大人が与えたいと思う情報以外を子どもが知りたがるのを、大人は喜ばないのだ。

マークは少なからず幻滅する。

しかも、それが今回に限ったことではなく、普段からあるように書かれる。

大人と子どもの間に生まれる溝を感じさせる。

「大人」に対する幻滅、それもまた、成長の一過程だ。



また、初日に一緒に話を聞いた、友達のベン。

彼はこの話を好まず、すぐに話をまぜかえしてしまうために、

この話の期間中、風邪をひいて休んでいるのを喜ばれる。

過去の事件に真摯に向き合おうとしない彼の姿は、社会の縮図のようにも感じられる。

どこの社会にも必ずいる彼のような人は、子どもの社会にも居るのだ。

風邪をひいて休む、というのはベンの側の都合によるものだが、

マークたちはそのことを「都合が良い」と解釈する。

積極的ではないにしろ、排除、ではあるだろう。



とても面白かった。

オススメ。



*****************



どーでもいいけど。

Wikipediaのヒトラーの項を読んでみたくて、

「ヒットラー」ってググってみたら、「ヒトラーではありませんか?」だって。

そういえば、あんまり「ヒットラー」って言わないね。

いつも、「ヒトラー」って言ってる気がする。

でも、あたしが中学生のごろは「ヒットラー」だった気がする。

変わった?







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Last updated  2008.02.04 11:54:26
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