漢詩と春



 高校入学十六の春、古典乙一(漢文)に出会った。九州筑豊の鄙には珍しく、東大出ではあるが、朴訥・鷹揚な定年間近の先生がおられた。
 茫洋とした風采に接し、老先生の漢文の時間が楽しみだった。
 今は若き日の感激も薄れつつあるが、新しい学科漢詩の朗読と解説に耳を傾けていた春の午後の教室が、思い出される。

 唐詩選の初心者向け漢詩の数々。年年歳歳花相似たり歳々年々人同じからず。
 当時は知らず。改めて37年前の教科書を捲ると何故か「春」を詠んだ詩が多い。大陸の冬は事のほか厳しい。大詩人達の春を待ち・迎える高揚と名句の横溢は、四季が綺麗に順番に巡って来る、日本人の愛唱詩歌だった。
 無学にして恐縮だが、盛唐時代の漢詩は、東洋文学の精華だろう。当時の人家・山村・暮らしのあり様が、大自然の中に一幅の絵として息づき余すところがない。普遍の人生と宇宙。飲んでは謳い、歌って酔うか李白・杜甫。

 揚子江は漢詩の故郷、中国人の父であり母である。貴重な文物・遺跡の宝庫。
 未だ、発掘されていない数多の遺品も眠っている所。
 既に、世界最先端の経済至上主義を突き進む現在の中国。黄河に巨大ダムを建設中。アスワン・ハイダムは、エジプト最大の土木事業の大失敗。流域の肥沃な農地を失い、古代遺跡を水没させ環境を破壊して得たものは数少ない。聡明・巨大な隣国の成果や如何に。誰ぞ常ならん。

 漢詩の主題は多種多様。僻地・戦場に赴く友を送る惜別の歌。左遷に耐え、都への復帰・帰還を願う哀切・望郷・未練の調べ。田園風景を楽しむ五言絶句や七言律詩と辞。韻を踏み、対句・起承転結の作法で人生・自然をおおらかかつ美しく歌い上げ、何と大法螺と思えるものまで格調高い。
 簡体字が普及し、往年の漢詩文化の伝統・継承は、どうなっているのか?

 三月十日、西日本に春一番。思わず浮かぶ孟浩然の「春暁」。昔も今も「夜来風雨の声、花落ちること知る多少」。農家のビニール畑は大丈夫だったろうか?
 桜の開花の時期も迫り、「春眠暁を覚えず」の一時を楽しみ、花粉症に負けるなと願う。

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