風に恋して ~自由人への応援歌~

風に恋して ~自由人への応援歌~

旅 「イスラエル」編 3章


平成8年2月21日

鳥のさえずりで目覚める。6時、まだ今日の太陽は顔を出さない。部屋から死海を見る。あまりの美しさに、しばし時を忘れる。自分の体が溶けて、この神々しい静謐の中へ、融合していく。私の意識は光りとなり、空間そのものと一体化していく。
昨日は、波動のオーバーチャージで、まるで酔いどれ状態。ベッドに入っても身体がグアングアンと、激しく震動し続け、宙に浮きあがっていきそうだった。昨夜は、私のお別れパーティーということで、日下部会長たち全員での食事。ビュッフェスタイルで、レストランの中央に色とりどりの料理が並んでいる。食べることが、大好きな私は、目を輝かし、端から点検していく。どの国へ行っても、まずトライするのは、地元の料理。初めて味わう食材や、料理法が嬉しく、旅の醍醐味の一つである。珍しいもの、全て食べてみたいという欲望のため、たいてい旅に出ると、3キログラムは太って帰国する。海外の食事が、受け付けられず、どの国へ行っても和食レストランばかり探している人達を、可哀相に思ってしまう。もちろん、私は日本食が大好きだけれど、旅をしているときは、できる限り、その土地特有の食文化に触れることを優先する。テーブルには、野菜、チーズ、オリーブ、パンがメインで、肉は隅っこに追いやられている。肉よりむしろ、魚の方が幅を利かしているが、全体的に見ると、魚肉料理は、ほんの付け足しといった感じである。調理という視点から見れば、おおざっぱであるが、ヘルシーという点で見れば優れている。料理はやっぱり日本が一番。日本食は、世界一の芸術品だとあらためて感動してしまう。
さて、朝食は何だろうと、わくわくしながらレストランへ降りていく。野菜サラダの見本市みたい。順番に少しずつ取っても、種類が多すぎて、とても全種類トライできない。5~6種類トライすると、それだけで満腹となってくる。

フルーツ、フルーツジュース、そして、シンプルなパンとコーヒー。とてもヘルシー&シンプル。「さすがですね」と声を掛けたくなる。生クリーム状のケーキのようなものが、5~6種類あったので食べてみると、これがすべてチーズ。少しずつ試食してみた。美味しいけれど、これだけあると私には少し強すぎる。おしんこの替わりとして、オリーブがグッド。コーヒーを飲みながら、オリーブをポリポリガリガリ、手が止まらない。イスラエルの料理は、素材をできるだけそのままに、シンプルな味付けで、調理されているものは、すこし物足りない。塩と胡椒が欲しくなる。
           流浪の民であった、この地の
          食習慣が偲ばれる。塩分はチー
          ズから、味付けはレモンで、神
から与えられた食材は、できるだけそのままに食していたのだろう。ピタと呼ばれるパンがとてもシンプルで美味しい。平たい円形パンを割ると、真ん中が空洞になっている。そこを開き、パンの中に各種雑多、色とりどりの生野菜を詰めて食べるのだそうで、これまたナイスなテイスト。今、日本で出回っている味の濃いソースや、肉類は登場してこない。
テルアビブへの飛行機で、ロサンゼルスからだという男性と少し会話をしたのだが、家族は皆こちらに住んでいるのだという。イスラエルに帰れるのが、とにかく嬉しいと、その全身で喜びを伝えてくる。望郷の念は、国籍人種を問わない。世界中に散っている、この地をルーツとする民が、いまエルサレム建都3千年祭で里帰りしているようだ。宗教上の目的からも、この地を目指して、多くの人達が集まって来ているらしい。日本からも、幕屋グループの人達が1,500~3,000人、入って来ているというし、韓国からも2万人入って来ている、という噂が入ってきた。

私は既存の宗教に一切興味がなく、これまでも特定の宗教に触れたことは一度もないので、にわかに耳にする幕屋グループというものに対する予備知識がない。イスラエルへ旅立つ前だったと思うが、吉田泰治氏より「この本を読んでみたら。」と手渡された「生命之光」(No.320)が本箱の片隅に在ることを思い出し、関連する頁を探してみると、133頁~140頁に「幕屋とは何か?―現在に聖書を生きる民―」というのがあった。

 『幕屋というのは、聖書にある言葉で、天幕(テント)の意味です。昔、イスラエルの民がアブラハム以来、天幕を張って砂漠を旅してゆきましたが、幕屋が移動する所、神も人と共に歩かれたとあります。(出エジプト記)聖書的な宗教生活はこのように固定した会堂で行われるのではなく、自由にいつでもたたんだり展げたりできる、簡易な天幕的集会です。その中で、ひたすら霊と真とを持って生ける神を拝する―これが幕屋的信仰の意味です。宗教が堕落する根本的な原因は、大きな寺院仏閣、伽藍を築き、教会堂を建てて、それを維持してゆこうとするところにあります。神を外に拝し、どこかの教会堂やお宮に詣でたりするのは、本当の礼拝ではない。神は私達の心の奥を聖所として住み給うというのが、霊的な礼拝です。旧・新約聖書はずっと、この無教会的精神で貫かれています。聖書の神様は、家に住まわず、天幕から天幕に、幕屋から幕屋に移った神でして、信仰深いダビデ王でも神の宮を建てようとすると、「おまえは神殿を建てたりしてはいけない。」と、神は禁止しました。全宇宙を支配する神が、人の手で作った神殿なんか小さくてとても住めるものではありません。イエス・キリストは、「エルサレムの神殿なんか、やがて人の手によって、石一つ残らないほどに破壊されるだろう。そして、人間の身体こそ永遠に神の宮として、神の霊が住むところとなる。」(ヨハネ伝二章)と叫ばれた。また、使徒パウロも「あなた達は神の宮である。だから、身体を尊べ。神の霊は、人間の身体を宮として住む。」と説きました。このように、聖書の信仰は、無教会的なのです。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい去って下さる。もはや、死もなく、悲しみもなく、叫びも痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったからである。」(黙示録21・3~4)』

(「生命之光」320号より)

 この考え方はストレートに私の心に染み通る。以前、エステ業界のツアーでヨーロッパ旅行したとき、多くの壮大ともいうべき教会に連れて行かれたことがあるが、どこも私の心に残るところはなく、むしろ大きくて立派であればあるほど、この建設のためにどれだけの人間が犠牲になり、苦しめられたことだろうとの想いが強く湧き、神聖さより、違和感、虚しさ、不快感を味わった記憶が甦る。

 さて、今日から、いよいよ単独行動に入っていく。緊張感が高まる。日下部会長達とここで別れ、私は一人でマサダ、エンゲディ、クムラン方面へ出かけることにしており、交通網の無い地のため、昨日、ガイド兼ドライバーの予約をしてあった。午前10時半にはピックアップしてもらう予定で、私は、いそいそとロビーで待機していたのだが、1時間が過ぎてもだれもやってこない。そのうち、チェックアウトのため、降りてきた日下部会長達に会ってしまう。「あら、どうしたの?もう出発しているはずだよね。」「そうなんだけど…。」いいかげんにしてよ、誰が邪魔しているの?引き続くトラブルに苛立ち始める。予約をしてくれたガイド嬢がいたので調べてもらったところ、連絡が上手く伝わっていなくて、そのイスラム人は、まだエルサレムにいる。今から、エンボケックのこのホテルに迎えに来るとして、ここに着くのは、午後2時半から3時になるという。午後3時からのスタートでは、今日の行動が、大幅に制限されてしまう。「えーい、ままよ、なるようになる。私にはモーセがついているんだ!」とそのドライバーを断り、日下部会長達がエンゲディへ向かうという車に便乗させてもらう。マサダの砦の前を通るので、そこで降ろしてもらうことにした。いったい誰なの、私の邪魔をするのは?でもこんなことでは怯まないわよ。Don’t worry about it.ケ・セラ・セラで前進あるのみ!マサダまでの道中、車内が静かだ。「大丈夫?」と、それぞれが私の心配をして下さっているようだ。「大丈夫、大丈夫。地球は丸いんだから、帰って来れるわよ。」と笑顔で答える。マサダに到着。
「See you again in Japan!」と、元気よく皆に別れを告げ、一人荒野へ降り立つ。車を見送って、目の前に広がる砂の大地を睨みつつ前進する。私が戦って死んだ(?)らしいマサダにやってくることは来たが、この後はどうやってエンゲディまで行けるのだろうと神妙に考えを巡らしながら、炎天下、要塞に向けて赤砂の上り坂を進んでいると、頭の上の方から、大きな声がする。男性の声。誰か親しい人に合図を送っているような声で、顔を上げると、こちらに大きく手を振っている。私に、であるはずが無いので、左右前後と首を回してみるが、私以外だれもいない。呼ばれているのは私のようだ???「早速現われたのですね、モーセさん。」心の中で独り言。何だか訳が分からないけれど、全身で私を呼び続ける男が待つ要塞入り口へ向かう。

「朝からずっと君を待っていた。車から降りた君を見て、僕のハートは高鳴った。君は、光に包まれていた。マサダをすべて僕が案内する。そして、エンゲディ、クムランにも行きたいだろ?君の望む場所、全てに僕が連れて行く。安くて良いレストランにも連れていってあげる。僕はベドウィンで、全て安くなるから僕にまかせなさい。」「君に会うために、僕は朝からずっとここで待っていたんだ。」一人でしゃべり続けている。「ママは行く先々で導き手が現われるから、心配しないで流れに任せなさい。」昌美嬢の言葉はこの男のこと?入り口で料金を払おうとすると、「払わなくていいよ。こっちへついておいで。」と観光客が並んでいる列から、別の方向へ私を引っ張っていく。
35~36歳ぐらいであろうか。一生懸命さが伝わってくる。悪い人間ではなさそうだし、ユダの荒野を走っているとき、目にしたベドウィンの仮設テント等の映像が甦り、親しみが少しずつ出てきて、彼を案内役として、受け入れることにした。

ベドウィンの生活って、どんなものだろう。見てみたいなと思う心がある。「君が望むなら、これからすぐ僕の家に一緒に行かないかい?僕たちの生活を見せてあげるよ。一週間ぐらい僕たち家族と一緒に暮らしてみないかい?おふくろの作るチーズは最高だよ。作り方を覚えるといい。」とっても素敵な申し出で、心が動く。ベドウィンの生活を体験してみたいと心が騒ぐが、今回は、それでも多少スケジュールを作っている。自分で勝手に作ったスケジュールではあるが、12日間の旅で、一週間この地に留まることはできない。「残念だけど、次回来たときには、お願いするわ。」誠実に、丁寧に、この地の歴史を語ってくれる。とても気のつく優しい男性だ。
マサダの見張り台頂上に着いた頃から、私一人の御神業、さてどうするかな?と迷ったがUFO氏から預かっている御札を埋めていくのが私の役目。やらないでどうする。彼を無視して、しゃがみこみ私は穴を掘り始める。「What do you do?」説明するのは難しい。無視して一連の作業を進める。UFO氏から国際電話で教えられた言葉、「エルヤーベハネハボーダーヨーダー」覚えられなくてメモしてきた紙を取り出す。UFO氏もこの意味は不明らしいのだが、モーセから伝えられたので、この言葉を繰り返すようにとの連絡を受けていた。古代ヘブル語(?)の類らしい。メモを見ながら、小さな声で「エルヤーベハネハボーダーヨーダー」と「光明浄化、因縁消滅、波動浄化」の言葉を繰り返す。炎天下でまったくの無風。乾いた砂と、石の大地にそよ風が吹き始めた。よーし、OKだ。私が祈りを繰り返しているうちに、それまでうるさく「どうしたの?何をしているの?」と聞いていた彼の態度が変化してきた。何も言わず、少し離れた所でじっと私の行動が終るのを待っている。2ケ所目も同様、静かに見守ってくれている。
私の御神業の合間を見ては、マサダの歴史的意味や、遺跡内部の説明をわかりやすい単語と速度で丁寧に説明をしてくれる。大きな貯水槽の内部に入って、一連の祈りをしているとき、私は呼吸が苦しくなった。貯水槽の内部には、私と彼のみ、いつのまにか他の人の姿は消えている。呼吸ができない、両手を地面につき、肩で大きくあえぐ。「やめて!祈るのをやめて!もう充分だよ。」それまで黙って見守り続けていた男が駆け寄り、倒れそうになっている私を抱き上げ、外に連れ出してくれた。呼吸が少しずつ楽になる。
「少し話しがしたい。この石に座ってくれ。」真剣な顔付きになっている。「君を見た瞬間に僕のハートはドキドキと大きく揺れ動いた。僕は、君に会うことが運命付けられていたと思う。僕たちは、深いつながりがある。」まるで、安物の小説を読んでいるようなセリフに「くさいよ。出来過ぎだよ。」と思う心と裏腹に全身が総毛立つ。この身体反応は何なの?これは必然?いい人そうだから、まあいいか。でも本当かな?誰かに騙されているような、妙にこそばゆい感じだが、流れに乗ってみるか、と思ったらそれ以後「僕は君であり、君は僕だ。」「僕たちは一つだよ。」「君は神から与えられた僕へのプレゼント。」「僕は、君へ与えられた神からのプレゼント。」等とやたら口数が増えてきて、ところ構わず抱きしめ、キスの雨嵐…。ちょっと待って、ちょおっと待ってよ!!「私はあなたの気持ちに同意するし、あなたを嫌いじゃないけれど、キスするのは止めて!!」「なぜ?」「…なぜ…か…わからない。でも好きじゃないのよ。」「なぜ?なぜ?」マサダを隈なく説明し、連れて歩いてくれる。私が各所で御神業を始めると必ずそれまでたくさんいた人々が全員いなくなる。終ると、神から与えられたらしいこの男に抱きしめられキスされる。誰か何とかしてよ。この男、本当に神からのプレゼントなの?
一回目の祈りから、ずっと太陽の強さは変らないままだが、涼しい風が祈りの度ごとに止むこと無く続いている。ありがとう神さま。でも、私は、この人をどうすればいいの?私が日本へ旅立つその瞬間まで、ずっと私の側について、私を守るといい続けているけれど…。明日は死海を後にして、エルサレムに入る予定だが、明日はエリコへ連れて行きたい。オリーブ山や嘆きの壁、エルサレムの全てとベツレヘムまで行こう。あそこへもここへも、連れて行きたい。観光客の行かないとても素敵な聖所があるから、そこへも行こう。ガリラヤへも連れて行く。ハイファー、ヤッフォも良い。イスラエルの全てを君に見せてあげる。この男は一人で舞い上がっている。お願い、勝手に私を振り回さないで、と大声で叫び出したくなる。2月29日帰国まで一日も離れず私を守り、案内すると言ってくれるのは嬉しいけれど、No Thanks.私の導き手は、あなた一人とは決まっていないわ。別の人が待っているかもしれないじゃない。私は、あなたと過去生で共に生きた仲間かもしれないけれど、今日と明日の2日間だけにしてちょうだい。こう矢継ぎ早に炎天下で抱きしめられ、キスの嵐に私の感性は絶えられそうに無い。何度も繰り返す言葉「Stop kiss to me.」「I don’t like kiss.」に疲れてきた。あなたは誠実で優しいけれど、二日が限界よと心が泣きを入れてくる。

 エンゲディ国立公園に入ったとき、またしても全身に鳥肌。懐かしさに涙が溢れてくる。ハートが苦しい。「ワタシハ、ココデイキテイタ」の内なる声。ダビデの滝の付近に、私の視線は吸い寄せられる。いつまでもエンゲディの赤い大地を見つめ続ける。この場にもっといたい。一人静かに、このそびえ立つ岩山を感じていたい。かすかな記憶。私はここを知っている。夕陽に空が赤く染まり、この空間の中に、私の心は溶けていく。死海の美しさ、夕陽を受けたヨルダンの赤い大地が、鏡のような水面に投影している。意識が幻のようなこの光景の中へ溶けていき、私は、この光景そのものとなる。言葉が無い。この美しさを、私は表現しきれない。どんな宝石も、この空間の前では色褪せてしまうだろう。ありがとうイスラエル、ありがとう神さま。こんな素晴らしい場を与えてもらえるなんて私は何と恵まれていることか。何と愛されていることか。感謝の思いで胸が詰まる。見たいと願っていた野生の鹿(ムビアンアイベックスと呼ばれ古くは、中東及び北東アフリカ、アラビア半島にまで生息していたが、現在は、ここエンゲディ自然保護区に残るのみ)が2頭ずつ2回私の前に姿をあらわしてくれた。これも必然?Present for me?こんな素敵な地球があるなんて!なぜこんなにも調和がとれているの?なぜ、こんなに心を安らかにしてくれるの?なぜ、こんなに美しいの?……「何も無いから。」それが私の答え。人間の手が加えられていない神が創ったそのままの姿だから。空、雲、夕陽、岩、石、植物…、神はこの地球をこよなく美しく創造した。それを汚したのが人間。人間は何をやってきたのだろう。かつて日本もこのように美しい国だった筈。不謹慎かもしれないが、中近東の戦いは、この神の創った偉大なる自然を残しておくために続けさせられたのではないかとさえ思ってしまった。
 紀元前から、ずっと国が安定し続けていれば、この地は今日と違ったものになっていただろう。この超自然とも言うべき美しさ、静けさは、消え失せていたことだろう。数限りない戦いで散っていった生命にこんなこと言える筈も無いけれど、「ありがとう。地球をあるがままに守ってくれたのね。」と独り言。「地球本来の美しさを思い出させるためにこの地を残してくれたのね。」人間の愚かさに涙が出てしまう。ホテルへの帰路、空を見上げて驚いた。鳳凰雲が私の行く手に大きく広がっている。私を歓迎し、祝福してくれているのね。ありがとう。この映像が心に消えることの無いよう、私は一心に見詰め続ける。ありがとうイスラエル、ありがとうベドウィンの男、明日はどんな一日がやってくるだろう。エルサレム、ベツレヘム、エリコ…。明朝8時に神からのプレゼントが迎えにやって来る。明日、もう一日、キスの嵐に耐えていこう。
To be continued.


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