60年代のミニ歴史





60年代のミニ歴史

60年代は、日本が凄ざまじいパワーで、一気に走り始め、様々な事件も起きたが、みんな、夢中で『良い生活』を目指して『モーレツ』に働いていた。

東海道新幹線、名神高速道路、東京モノレールの開通に続き、東京オリンピックが開催されたのは'64年。
東京都いう都市が世界から注目され、高度成長時代へと一気に加速していったこの年、我が国でザ・ビートルズの「プリース・プリーズ・ミー」のシングル・レコードがリリースになり、ザ・ヴェンチャーズ(ベンチャーズ)の「急がば廻れ」が大ヒットした。

テレビはカラー放送がNHKで始まり、東京オリンピックを総天然色の画面で観ることが『金持ち』のステイタスでもあった。
日本選手団の赤と白のユニフォームに日本人の『美意識』を感じ、東洋の魔女、ウルトラC、素足のマラソン・ランナーのアベベのゴールに酔いしれていたこの年、グループ・サウンズ(GS)の先駆けのザ・スパイダースに井上 順が加入し、ザ・ジャガーズの前身の宮 ユキオとプレイファイブが結成された。

日本におけるGSは、この年にその片鱗をみせていく。
豊かになることを求め、モーレツ社員が生まれていった時代で、最も多感な青春時代を過ごしていた若者から自然発生的に全国各地で結成されたのがGS。

'65年、ベンチャーズを頂点とする、空前のエレキ・ブームが到来する。寺内タケシとブルージーンズを筆頭に全国にプロ、アマ問わず数え切れないエレキ・バンドが誕生していく。
当時は、エレキ・ギターの生産が需要に追いつかず楽器店では品切れが続発した。
それまでのギターの音が突然として耳をつんざく音を発し、ギターの革命を告げるものだった。
京都では、岸部 修、森本太郎、沢田研二らがザ・ファニーズを結成しバンド活動を開始した。
関東ではザ・サベージ、ザ・テンプターズなども活動を開始した。
そして、ブルー・コメッツがロカビリー歌手のバック・バンドから独立し、GSとして脱皮をはじめ、ザ・スパイダースも「フリ・フリ」で鮮烈なレコード・デビューをした。

この年は、大学生の数が100万人を突破し、大都市に地方から若者が集中し若者文化が開花する時期でもあった。
'66年になり、学生文化ともいうべき、東宝映画の加山雄三の若大将シリーズが大ヒットし、「ボクァ~しあわせだなあ」の流行語まで生まれた。
更に、GS界にに大きな影響を与えたのが、6月22日の深夜に羽田空港に降りたったザ・ビートルズ。6月30日から5日間、日本武道館で行われた公演を境にして日本のGS形態が確立されたのです。
それまで、ロカビリーを基準としたサウンドとエレキ・ブームから派生するエレキにボーカルをつけ足しただけのバンドが、コーラスを主体にファッション、アイドル性といった新しい要素を取り入れ、演出する方向へと急速に変化していく。

そして、スタイリスト、ヘアー・メイクなどの職業もこの時代から確立されたのです。
GSサウンドも、ロック、フォーク、歌謡ポップスといった今でははっきりとジャンルわけできる音楽の創世記でもあり、原点でもあった時代です。
'67年1月、日劇で開催されたウエスタン・カーニバルで、GSブームは最高潮を向かえた。
ザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズ、ザ・ゴールデン・カップス、田辺昭知とザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツなどのGSが出演するというのでチケットを購入するファンの列が、日劇の受付から1km先にもおよんだ。

2月には、ザ・タイガースのデビュー曲「僕のマリー」がリリースされ、ザ・カーナビーツが結成された。
4月にリリースされたザ・ブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が、GS最大のヒットとなりミリオン・セラーのセールスを記録した。
そして、ザ・ゴールデン・カップスも「いとしのジザベル」で、レコード・デビューをし、ザ・モップス、ザ・ハプニングス・フォー、ザ・テンプターズといったGSもその後に続いた。

ファッション界では、ミニの女王と当時いわれたツイギーが来日し、若い女性は競ってミニ・スカートを買いあさった。
街にはゴー・ゴー喫茶、アングラ酒場が乱立し、フーテン族と呼ばれるヒッピーが、六本木・原宿などにたむろする。

一方、民放ラジオ各局は深夜放送を開始(オールナイト・ニッポン、セイ・ヤング、パックイン・ミュージックなど)し受験生や学生に圧倒的に支持され、その中から学生フォーク・ソングのブームの兆しが始まり、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」が大ヒットした。
ジャッキー吉川とブルー・コメッツが「ブルー・シャトウ」でGSとして初めてレコード大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出場した。

しかし、長髪や派手なファッションという理由で世論や教育関係者からの風当たりは益々強くなる一方だった。
だが、大人から反対を受ければ受けるほど若者はより強く反発するのは現在でも何ら変わらない。
‘68年の年が明けると、GS人気のブームは頂点を極めた。同時にGS界にも勢力分布図に変化が起こり、2大GS王者であったジャッキー吉川とブルー・コメッツとザ・スパイダースに替わり、ザ・タイガースとザ・テンプターズの2大GSが台頭してくる。
その一つの要因としてあげられるのが、この頃徐々に社会問題化しつつあった、学生運動だった。3月28日、東大医学部の学生が安田講堂にに立てこもり、全国に学園紛争が拡がっていった。
海外では、ザ・ビートルズやサイモンとガーファンクルなどがよりメッセージ色の強い楽曲をヒットさせ、若者が体制を批判すること自体がファッション化されつつあった。

この年、ザ・テンプターズは「エメラルドの伝説」をリリースし、ザ・タイガースは後楽園球場で2万人の大コンサートを敢行した。
オックスが「ガール・フレンド」でレコード・デビューをしたが、GSの絶頂期であり同時に末期的症状にもなっていた。
オックスは失神バンドといわれ赤松 愛がオルガンを演奏しながら、バッタリと失神すると会場のファンが連鎖的にバタバタと失神していく。
この現象が社会問題として取り上げられGSには、会場を提供しないホールが続出する。そして、演奏の場を失ったGSはバワーを次第に失っていった。
アメリカからザ・ビートルズを目指しショー・ビジネス界が作り上げたザ・モンキーズが来日した年でもあり、沢村 忠のキック・ボクシングが空前のブームともなった。

‘69年、ついにGS末期を迎える。多くのGSが解散に追い込まれた年になった。
世の中の動きは、新宿西口広場ではフォーク集会が開かれその度機動隊と衝突し、アポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した感動の年でもあった。



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