神頼みな毎日

神頼みな毎日

主婦のお仕事。


 ニュースを見て、出かけるための一通りの準備を済ませてから家を出る。玄関で、里佳子がいってらっしゃいと見送ってくれた。これだけでお母さん元気出るよ。
 いつもの南公園でご近所の主婦仲間と合流し、二人づつに別れて夜の静けさの中を循環した。いつもどおり、自分は緑岡さん組んだ。
 南公園の西側の遊歩道で、ちらちらと光るものを見つけ駆け寄る。――火風だ。今回のは、なかなか大きい……私の背丈の半分くらいはある。
 木の葉が風で巻き上げられ、クルクルと小さな台風のように回転してるのをよく見かけるが、火風はそれに似ていて、ただ木の葉の代わりに火が巻き上げられているだけの違いだった。
 それだけの違いと言っても、近くに寄ると耳鳴りのするほど激しく音を立てて渦巻いている炎の勢いは、木の葉のそれとは風格が違う。
 その火の台風は勢い弱まることなく、少しづつ風に揺られて動いていく。遊歩道が、黒く焦げて台風の軌跡を描く。
 遊歩道の砂利道を焦がしながら炎の柱は、住宅街に向かっていく。このまま放置すれば、この先の住宅のどれかが炎上するだろう。それを食い止めるべく自分たちがいるのだが。
 「まぁ随分と大きくなったものね」
 緑岡さんが、独り言を呟いた。私は足早に、火風の進行方向へと回りこんだ。緑岡さんと火風を取り囲み、消火器のホースをしっかり掴んだ。
 火風はゆっくりとこっちに近づいてくる。暑い。これだけ近づくと、炎の熱気は本当に凄い。ほんとうに、火とは偉大で強大な力だと感心する。
 「それじゃ、三――、ニ――、一っ」
 緑岡さんの掛け声にあわせ、消火器を始動させた。レバーを握り締め、火風に白煙をぶち当てる。反対方向からも真っ白な息吹が上がり、私と緑岡さんのとで火風を完全に挟み込み、火風は真っ白な煙の中に埋もれていっ
た。
 しばらく白煙を噴出する発射音が響き渡る。高圧力のパイプに亀裂が走ってしまったような音だ。この前映画で見た。
 やがてその音も力を失い、次第に薄れていく。そして静寂が戻った。
 白い霧が晴れたとき、そこには火風の姿はなかった。

 ◇

 眠い。昨日の夜が当番で、次の日の朝も当番と言うのはなんだ、いじめなのか?
 重いまぶたを擦りながら、洗面台でいやがらせと思えるほど冷えた冬の水で顔を洗う。いやおうなしに目が覚める。
 洗面台の鏡に映った顔は、目の下にクマができていて、ツヤもない。自分はまだ若いはずなんだがなぁ、なんせまだ22だぞ。
 やっぱり火事の忙しさにおぼれる主婦は、人より年を取るのが早いようだ。若妻なんて言われる時期なんてあっという間に過ぎて、おばさんたちの仲間入りを見事に果たしている自分が鏡に写っている。
 まぁいいさ、愛する娘がいるんだ。旦那は死んじまって、なんでもかんでも一人でやんなきゃいけなくて、大変だけど……私は幸せさ。
 「お母さんー?」
 このラブリーな声は、お姫様のお目覚めだな。振り返ると、眠そうに眼をこする里佳子がいた。左手に熊のぬいぐるみを抱えている。
 里佳子は私の娘だ。亡くなった夫の趣味で髪は、光り輝く黒のロングストレート。顔立ちはまだまだ幼いが、すでに私に似てとってもキュートだ。
 ……いま親ばかだと笑った奴、ちょっと来い。

 そんな里佳子も今年で六歳だ。幼稚園も今年で卒業で、来年から小学生になる。よくここまで育ってくれたものだ。涙は結婚式の時までとっておくつもりなので見せない。私は父親役もこなすつもりだからな。
 「今日幼稚園はー?」
 「休みでしょ、昨日遠足行ったから」
 「あ、そっかー。じゃあ今日は遊びにいこー」
 「うん。でももう少し寝てなさい」
 半分寝ぼけてる里佳子を、布団へと誘導し夢の世界へと押し返す。悪いけど、もう少し寝ててくれ。今日は朝の番なんだ、火事が終わらせたら遊んでやるから。今日は仕事も休みだし。
 娘を寝かしつけてから、テレビをつけた。地方チャンネルにあわせ、居間のイスに座る。大きなあくびが出た。昨日は夜の番だったからな。
 ……うん? なんか忘れてる気がするな。今日はなんだか面倒な日だった気がするぞ。壁にかかってるカレンダーに、目線を投げる。
 そうだった、荒井さんだ。今日からだったな。
 お隣に引っ越してきた荒井さんは、新婚。今日から彼女は私が教育するのだ、お隣さんだし。
 はあ……、大人しそうでお嬢様みたいな人だった気がするが、彼女の今後を私が決めるのか……、気が重い。まぁちょっとおおげさかな。
 テレビでは気難しそうなアナウンサーが喋り続けていた。昨日あった三度目の連続通り魔事件について、犯人がいまだ逃走中で行方が分からないとの事だった。
 淡々と事件の内容を語るアナウンサーの横に、容疑者の顔写真が写る。若い男で、まぁ凶悪そうな顔をしているんじゃないか? ハンサムではないな。
 この道行く人を刃物で襲う恐ろしい事件は、一週間前に第一被害者が出た。今では被害者は三人になり、二人が重症。一人が既に亡くなったそうだ。
 そんなどうでもいい事件の話はいいからさ、はやく次いってよ……。自分に関係ない事はどうでもいいよ、明日には忘れるから。
 そう思って眺めていると『火風情報』という文字が点滅する。これこれ、これが重要なの。
 「今朝の火風は、○○市の南公園と三丁目の……」
 別の女子アナウンサーが、この辺一体の地域の地図を使い『火風』の現在位置の説明を行っていた。この辺に三つほど発生している事と、位置を確認して普段より忙しいことが分かった。うん、実にめんどうだ。
 わざわざ地方チャンネルに回すのも、いまでは完全な日課だ。周辺地図でこれだけ細かく速報してくれるのは、その地方ごとのチャンネルだけだから。
 テレビの電源を落とし、薄汚れたジャージのような防火服に着替える。化学君は、順調に進歩しているようで、ここまで防火服の軽量化が進んでるが、ここまでぼろいと心底頼りない。
 赤い筒状で緑色のレバーと黒いホースがついているの消火器を担ぐ。最近では様々なタイプの消化機が販売されているが、このメーカーのこの製品が一番信頼できるんだようなぁ。
 装備を整え、家を出る。とその前に……。
 少し戻って寝室に音を立てず滑り込む。すやすや眠る里佳子の寝顔を一目見て少し汗ばんだおでこを軽く撫でる。
 よし、これで今日一日分の元気は補充されたな。一人でにんまりと微笑みながら、戸締りをして家を後にした。 
 あ、私の事うるさい女とか思ったろ。だがなこれは仕方ないのだ。
 なぜなら、主婦は元気に生きないと、簡単に死んでしまうものなんだから。

 ◇

 南公園はこの辺で唯一の公園で、よくなにかと集合場所として活用されている。ブランコ、滑り台、砂場と公園にあるべき三種の神器は揃っているがなんともこじまんりとした公園である。
 私が公園に到着したころにはすでに、六人ぐらいの奥さま方が会話に花咲かせていた。いつもより何人か多い……、見知った顔の中に二人ほど知らない顔がいる。最近のマイハウス建設ラッシュで、この辺の人口が増えた
ので、当番の人数が増えたようだった。
 しかし、人が増えればその分火風も増えてしまうから、仕事は決して楽にはならないのだから、やりきれない。
 「吉川さん、吉川さん」
 自分の名を呼ぶ声に振り返ると、緑さんが人なつっこい笑顔を振りまきながらこっちに駆け寄ってきた。ちょっと豊かすぎるお腹をお持ちの緑岡さんは、私達吉川家に対し何かと世話してくれたお人で、ずいぶん助けてい
ただいた。
 そしてその後ろから、ひょこひょこと荒井さんがついてきていた。今日から彼女の面倒は私が見るんだったな、まぁ緑岡さんと一緒なら大丈夫か。
 緑岡さんのすぐ隣で、縮こまって立っている彼女は、背格好が小さくて細身に見えた。隣にいるのが緑岡さんなので、さらに小さく見える。
 髪は少し茶髪の入った黒色で、ショートヘア。うん、ショートも可愛い。ショートな里佳子も見てみたいなぁ。
 「きょ、今日からよろしくお願いします」
 緊張気味で挨拶をしてくれる荒井さん。自分も妄想をほどほどに笑顔で挨拶を返して、人が多いですねと呟く。新人さんが多いからねぇと緑岡さんは呟き返してくれた。そして少しまゆをひそめ、心配げな表情を作る。
 「吉川さん、通年の慣わしで……ついにあんたにも後輩ができるね。大丈夫かい?」
 「ええ、大丈夫ですよ。私も緑岡さんのお陰でいまや立派な主婦ですから」
 「はははは、にしてもあんた良かったねぇ。お隣が吉川さんで。たしか長島さんの家の隣に引っ越してきた新婚さんもいたわ、かわいそうに」
 急にひそひそ声で話す緑岡さんに、新人の荒井さんはきょとんとした顔で私を見ていた。たしかにあの長島さんの隣になるのは、大変辛い生活が待っているだろうな。
 「あら、今日から吉川さんも教育係ですの?」
 甲高い声に早くもうんざりとした気分に落ちる。振り返れば案の定、長島さんがこちらに歩いてくるところだった。
 長島さんは、痩せすぎとも思える体型で気難しそうな顔立ちをしていて、めがねをかけている。まるでノイローゼ気味の教育ママだ。
 その後ろからついて来るのは、なんともトロそうな若い娘だった。おそらく長島さんが一番嫌いなタイプのおっとり系で、ほんわかとした顔立ちに、漂わせている空気も柔らかかった。
 「こちら、うちのお隣に引っ越してこられた。上杉さんです」
 教育ママがほんわか娘を紹介した。なんと意地悪な組み合わせになったものだ。
 「こんにちわぁ、おせわにありま~す」
 奇妙に語尾が間延びしていて、眠くなる口調だ。髪の毛は栗色で、毛先がやわらかくカーブしている。なるほど、ウェーブをかけるのもいいなぁ。今度里佳子に……。
 「ところでそちらは?」
 教育ママこと長島さんに現実に引き戻され、慌てて荒井さんのことを紹介した。新井さんは丁寧にお辞儀をして、微笑んでいた。
 「ところで今日は、上杉さんと長島さん。吉川さんと荒井さん。そして私は他の人たちと……でしたね」
 「え? 私と荒井さんの二人だけなんですか?」
 思わず声を上げてしまった。さすがに一人で新人を見るほど自信はない。
 「あら、不安ですか?まぁまだ吉川さんも未熟な限りですからねぇ」
 教育ママがいやらしげにニヤニヤと笑っている。うるさいな、おめぇさんとは違ってこちとらか弱い乙女だ。
 「大丈夫ですよね、吉川さん」
 緑岡さんがにっこり微笑んだ。笑顔に押され、ついはいと答えてしまう。

 ◇

 「あ、あのぉ……」
 三組ぐらいに分かれて、火風の探索に入る。消滅させるには、まず探さねば。そうして行動している最中、荒井さんがおとおどと訊ねてきた。
 「どうしたの?」
 できるだけ怯えさせないよう、優しく返事をすると、彼女はしばらく「自分はそのぉ……」とか「あのなんていうか」とか「お嬢様って言うんですか、その……」と一通り呟いた。全く持って聞こえないんだが。
 「その、すみません。あの……火風ってなんなんですか?」
 ……うん? この娘すごい事言わなかったか?
 私もたしかに昔、緑岡さんに「火風ってどんなものなんですか?」と聞いたことはある。しかしそれは実物をまじかで見たことがないからの質問であって、火風自体のことは知っていた。
 しかしこの子、火風ってなんだと聞いてきやがった。何者だあんたと聞き返したくなる。
 「火風を知らないの?」
 「すいません。家……父がすごく過保護といいますか……あの、……全然世間知らずなんです私っ」
 ぶっちゃければ、世間知らずのお嬢様って事。だけど世間知らずの域じゃないよ、奥さん。
 「そうかぁ――……」
 「す、すいません。名前は聞いたことがあるんですけど、詳しくはっ……」
 自分にかかっている負担は予想以上に重いものだと知る。そんな気持ちが出てたか、自分の表情におろおろと困惑するお嬢様。なんか泣きそうだ。
 「大丈夫大丈夫。いちから教えてあげるから」
 彼女の姿が、うちの里佳子にだぶって見えた。そういえば里佳子が平仮名をなかなか書けるようになれなくて、泣きそうになっていたのを慰め一緒に勉強した事があった。
 そんなことを思い出して、ふぅとため息をつく。なんとなく肩の荷が下りた気分だ。少し笑みがこぼれた。
 「しょうがないわね、説明しながら探しましょう」
 呆れた調子に言ってから、笑顔を見せてやる。彼女の困った泣き顔も少し緩んだ。
 「まず火風って言うのはね、そんなに現代でも解明されている現象ではないの」
 火風は、ひとつの自然現象だ。
 人の使う火種が、感じることさえない小さな台風に持ち去られることから始まる。エネルギーをどうやって台風(と言っても本物の台風ではなく、それに似た解明されてない何かだが)が持ち去っているかは知らないが、
自然と火のある場所に向かい集める傾向があるらしい。
 そして、かき集めた火のエネルギーが一定以上になると、炎の竜巻となる。が、火を集める習性は失われない。つまり……。
 「火を集めようと、炎の竜巻のまま人の家に近寄ってくるわけ」
 「それって……危ないですよね」
 「うん、危ないよ」
 それを事前に消すのが自分達『主婦』に課せられた任務である。最近は夫がやっている家庭もあるけどね。
 「人の多いところには、自然と多くの火風が発生するんだ、そして人の住んでいるところで、火風の発生しない場所はないの」
 それに、火がついてしまうほど危険なレベルになると、そのエネルギーは観測できるし、エネルギーの大きい炎の竜巻は動きが遅い。だから対応に間に合うわけ。
 「でも、そんな危険なもの、なんで私達が? 消防署の人たちがやれば……」
 「消防は、家が燃えた時だけ仕事をするの」
 消防署は知ってるんだな。と心の中で思いながらそれはねと続ける。
 「未然に防ぐべき事が全国で起こっているとして、こんな小さな地域でも一辺に三個よ? 対応は全然間に合わない」
 人手不足……と言うわけではないが、これも一つの理由。
 それにこれは、昔からの慣わしでもある。火風は歴史が長い。かなり昔から、それこそ人間が火を使いだした頃から、出現するようになったらしい。
 そして、火風対策は主婦が……と言う慣わしを作られたのは、江戸時代だ。
 「井戸端会議って知ってる?」
 「……はぁ」
 知らないな。こうなると世間知らずと言うよりは、ただのバ……いやなんでもない。
 つまり江戸時代の主婦達が、洗濯物などするために水場である井戸に集まる。そこでおしゃべりをしていたのを『井戸端会議』っていうの。
 んで、水場にたくさん主婦が集まってるでしょ? で誰かが「あっちで火風が」なんてタレ込んだりする。「じゃあ皆さん桶に水汲んで、いきましょうか」ってなるわけ。
 これが一般的に置ける主婦が火事をすることの発祥の定説である。荒井さんはへぇーと聞き入っていた。……まるで里佳子に絵本を読んでやってるようだな。いつも目を輝かせて聞いてくれるので、私も絵本を読みまくる
のだ。
 「と、ところで火風ってどんなのですか?」
 「う~ん、そうだなぁ」
 あの神々しさすら感じてしまう、美しいけれど危険な姿をどう表現したらいいものかと考えていると、荒井さんは私を指差して震える声で言った。
 「火柱が渦巻いてて、でもそれほど大きくなくて、本当に小さな火の台風って感じ。綺麗だけど危なっかしいような……」
 「そうそう、そんな感じ……え?」
 振り返ると、炎の化身とも思えるような火柱がいた。火風だ。相変わらず綺麗だな、お前は。
 消火器を構えながら、呆然としている荒井さんに声をかけた。消火器の使い方を教える。
 「これが火風だよ。消火器のホースを火風に向けて……そう、じゃあ合図をしたらレバーを引っ張ってね」
 「は、はい」
 私は早足で、火風を荒井さんとで挟みこんで消すため、反対側まで移動した。こいつはすこし小さいから、消すのは楽だろう。
 「あ、あの……少しづつ近寄ってくるんですけど……、熱っ」
 「大丈夫だから。はい。三――。二――。一ッ!」
 二つの噴射音が響く。真っ白い粉に挟まれて、火風が少し揺らいだのが見えたが、あっという間に白に呑まれていった。
 しばらく噴射音が響く。火のエネルギーは小さくなったが、消えてはいなかったではいけない。余計な仕事を増やすになるから。
 「もーいいよ。とめて」
 噴射音に阻まれながら、大声で指示する。すると噴射音が一つ分小さくなった。私もレバーを握る手から力を抜く。しばらく霧のような白い粉が辺りを漂う。
 霧が消えたあと、そこには火風はなかった。よし。おしまいと。
 「うわぁ――」
 さっきまで火風の居た場所を見つめ、感嘆の声を上げる荒井さん。昔は自分もやった気がする。ああいう風に感動していた気がする。
 「に、してもどういう仕組みですか。これ」
 消火器をまじまじと見つめる荒井さん。振ってみたり軽く叩いてみたりしている。こらこら止めなさい。
 「中に入ってる火風のエネルギーを奪う薬品を噴出しているだけよ、どういう薬品かは知らないけど、あ、一つ注意」
 思い出した。これは大切なことだ。
 「それ、間違っても人に当てないようにね?」
 「……なんでですか? どうなるんですか?」
 心配そうな顔で訊ねてくる荒井さん。手にしている消火器を投げ捨てたいというような表情だ。
 「いい、それをかけられるとね」
 「はい」
 「とっても煙い。それと白くなる」
 「え……」
 私が理由を言い終わると、彼女は目をまんまるくして、驚いたあと。しばらく笑い転げていた。

 ◇

 公園に戻ってきたが、まだ誰の姿も見えない。一番乗りか……、仕方ない、待とうか。ベンチに腰掛ける。

 「吉川さん……まだ全然若いのに、色々知ってるんですね」
 荒井さんが、随分げんきのない顔で俯いている。まぁ考えてみれば、自分達はそんなに年も離れていない。異様に若いものグループだ。
 「私は、まだ結婚なんかするつもりなかったのに……会社の知り合いだとかなんとかで。まだ色々勉強したかったのに……」
 今時めずらしい政略結婚とか言う奴らしかった。おいおいと泣き始める。こっちがおいおいだ、別の意味で。
 「まぁ……いろいろあるさ」
 この程度の慰めしかいえない、自分の語学力に涙が出る。これは娘に遺伝しないで欲しい。
 「吉川さんは、好きな人と結婚したんでしょ?」
 「え? ああ、まあ」
 「私もふつーに恋愛したかった……」
 また泣き出す。初対面の人の前で、なぜそこまで弱さを見せれるのかね、君。生きていけないぞ……この先。
 「私の旦那、もう死んでるけどね」
 「え?」
 「随分前に、事故で。かなり年の差だとかなんとかで、たくさん迷惑かけてこれからやっと三人でって時にねぇ」
 なんで私はこんなにしんみり語ってるやら。
 「そう、ですか……。三人……? お子さんが?」
 「うん、娘が一人。今は二人で頑張って楽しくやってるさ」
 毎日火事に追われ、そのあと仕事に出て、……決して楽なわけではないけれど。
 「そうですか、大変なんですね」
 「まぁなんとかやってるけどねー」
 はははっと笑う私。なんか重い空気になってしまった。いけないいけない。
 「再婚とか……しないんですか?」
 「んー、相手が居ないからね」

 再婚ね。考えたこともないと言えばうそになるが、主人を超える男はなかなかね。あ、いまのノロケね。
 遊歩道を、よたよたと歩く人影が見えた。緑岡さんたちだ。帰ってきたんだ。ベンチから立ち上がる。
 「戻ってきたね、長島さんたちはどうしたんだろ」
 「吉川さん、重荷に思ったりしません? 家族って」
 こっちに歩いてくる緑岡さん達に軽く手を振る私の後ろで、荒井さんはふと思いついただけであろう質問を投げかけてきた。
 「重荷?」
 「娘さんがいなかったら、そこまで頑張らなくても若いからやり直せるのにとか」
 二人の間に静寂が満ちる。重荷……か。
 「思いません? 家族なんてとか」
 この子は今の家から逃げ出したいんだろうなぁ……冷静に判断している自分がいた。質問の答えから、軽く逃げてる自分がいる。
 いなければよかったなんて、少しも思ったことないよ。そう断言して笑って談笑できない自分が、ただ嫌だった。
 もしかしたら、自分はいろいろ誤魔化して生きてきたのかもしれないと思ってしまう自分がいる。それに気がついて、ショックを受けている自分がいる。

 「吉川さん?」
 「え、あ、はい」
 ふと緑岡さんの声と、自分がぼぉーとしていたことに気付いて慌てて返事をした。
 「初めて新人つれて歩いて、緊張した?」
 「いえいえ、小さくて楽勝でしたよ」
 笑いながら、談笑。これも取り繕った自分かもしれない。元気なフリして、無理している自分がいるかもしれない。いや、そんなことはない。自分の事だ。
 「長島さんたちは?」
 「まだです。てこずってるのかな」
 あの長島さんに限って、新人が一人増えた程度で作業が遅くなることはないだろう。なにかあったのか?
 ちょうどそう思っているところで、上杉さんが、走ってきた。消火器具をがちゃがちゃ言わせ、顔中に汗をかきながら必死に走ってくる。
 「お帰りなさい、あれ? 長島さんは」
 のんびりと聞く私達に上杉さんは、肩で息をしながら、何を伝えようとして何度かむせながら、それでも必死に叫んだ。
 「長島……さんがっ、みんな呼んで来いって言われて……き、きてくらはい」
 若干舌の回っていない口でそういって、先ほど来た道をまた走り出した。皆、疑問符で一杯な表情で、彼女のあとを追う。消火器をがちゃがちゃいわせながら走る。
 上杉さんが止まったのは、みんなが日ごろの運動不足を心から後悔し始めた、公園から三分ほど走ったときのことだった。
 ぜぇぜぇ言いながら、長島さんの姿を見た……。地面にへたりこんでいる。
 「長島さんっ! どうしたの? 何があったの」
 緑岡さんが駆け寄り、辺りを見て呆然としていた。公園から少し離れた、遊歩道。しかし遊歩道は完全に黒ずんで色あざかなレンガの道ではなくなっていた。回りの木々が燃えていて、黒ずんだ煙があちこちから上がってる。
 「く、……くっついちゃった」
 長島さんが、緑岡さんに抱き起こされて、震える声で呟いた。
 「くっついたって……」
 「火風と火風が……くっついて、すごく大きくなって……物凄い速さで」
 炎の力に反応して動く火風だけど、回転しているものが……くっついた? そんな事……。こげた地面を見つめる。
 「と、とにかく辺りの消火。あと消防に連絡しないと」
 緑岡さんが、指示を出してホースの噴出音が聞こえた。私は何もせず、ただじっと地面のこげあとを目で追う。もしかして……。
 「吉川さん?」
 緑岡さんの声が聞こえる。でも、それどころじゃない。いかなきゃ。私は走り出した。器具をがちゃがちゃ言わせながら。
 「吉川さん? み、みんなここは頼むね。ちょっと吉川さん」
 緑岡さんの声が遠くで聞こえる。あと何かが燃える音もたしかに聞こえる。

 ◇ 

 「里佳子!」
 燃え盛る自分の家を前に、叫ぶことしかできない。閉まっている窓から、中が業火、黒煙で支配されているのが分かる。これでも無理して購入した小さな一軒屋が、丸ごと全部炎上している。
 着火点は、道に残るこげ後から里佳子の寝室の壁からだと分かった。遊歩道からこげ後は、うちまでしっかり続いていた。
 「里佳子!」
 娘の名前を叫ぶ。あの中で、自分の子が眠っているんだ……、いかなくては。
 「だめ、吉川さん」
 緑岡さんが追いつき、私の二の腕を掴んで離さない。離してっ! 離して。里佳子が……里佳子がっ。
 「冷静になって! あの中に飛び込んでも死ぬだけよ! あっ」
 緑岡さんの手を振り払い、炎に食い尽くされている我が家に近づく。どうする……どこから入る? 玄関のドアを開けようとしたが、鍵穴が熱で変形していた。
 くそっ! どうする……どうする。そうだ、窓を。
 庭とは言えないような小さな庭を通って、リビングの大きな窓のほうに移動する。よし、あとは……消火器でいいか。
 背中から、消火器を下ろし、両手で思いっきりガラスに叩きつけた。くもの巣ができる。さすがに簡単には割れないようだ。
 「くそっ! 割れろっ!」
 何度も何度も叩きつける。 くもの巣が重なりあい、ガラスは脆くなっていく。中からの炎の圧力もあるだろうが。
 数度目の消火器による打撃でついに、割れた。
 熱気が押し出てくる。こんな世界の中にいるのか。里佳子は。
 割れた穴から、手を突っ込み鍵を開ける。突っ込んだ手が焼ける音が聞こえたけど、かまわない。
 窓を開けると、荒れ狂う炎ととてつもない量の黒い煙が出てくる。意を決して進入する。
 家の中はまさに地獄絵図だ。イスも写真も、テレビも天井も壁も。なんでもかんでも全部炎に食われてる。里佳子は……どこだ。
 「里佳子っ! う……ごほごほっ」
 煙が凄い。これだけでしんでしまう。早く……早く里佳子を助けないと。
 消火器のホースを強くにぎり、レバーを引く。しかし火の勢いは全く消えない。
 「里佳子っ!」
 返事はない。物の燃える音が聞こえるだけだ。もしかしたら里佳子の燃える音かもしれない。
 「里佳子っ! ……里佳……子」
 意識が薄れてく。駄目だ。ここにいては駄目だ。
 皮膚が焼ける。所詮火風用の防火服なんてこんなものか。
 「里佳子!」
 気力を振り絞って、叫ぶ。かすかに視界で、何かが動く。リビングの奥。廊下の方。里佳子がうずくまっている。
 慌てて駆け寄る。炎の踊るリビングを抜け、廊下の壁にもたれている里佳子を抱き支える。
 「里佳子! 大丈夫っ、ねぇ?」
 「お母さん……おかぁさんっ!」
 里佳子は目を開けて、私を見つめ泣きながら抱きついてきた。おかあさんと呟いた。苦しそうだ。今助けてあげるから。
 「ごめんな……さい、ストーブ……だめって言われてるのに」
 考えてみれば、火風が寄ってきたと言う事は火のエネルギーに引き寄せられたんだ。……里佳子がストーブをつけた。 
 しかし風の向きでは、何もしなくても、うちについてもおかしくない。ストーブを付けに起きていなかったら? いや、今はどうでもいい。
 炎の勢いはますます強くなっていく一方だった。防火服のない里佳子を抱きしめる形で全身で包み、リビングを窓まで横断する。
 普段何気なく歩いてるリビングは、まるで別のもので、たった少しの距離も横断できない。リビングの中央あたりで、動けなくなった。
 ――私自身も、煙を吸いすぎたみたいだ。床にへたり込み、ただ里佳子を守る形でうずくまる。
 天井を仰ぎ見れば、炎が私を取り囲んでいる。暑い。いや、熱い。私は焼かれている。 
 あと少し……窓まで、あと少しなのに。この距離が動けない。二人では移動できない。
 ――重荷に思ったりしません?
 何がだ。里佳子のことか?
 ――ええ。その子を置いて歩けば、あなたは出れるんですよ。ここから。
 ……。里佳子は……。
 ――辛かったでしょう? 家が燃えてるところを見て、ほっとしませんでした?
 私は、私は。
 ――開放された。あの子も死んで、わたしは地獄から開放されたって。
 この子が……重荷?
 ――さぁ。その子を置いていけば、貴方はこの地獄から抜け出せますよ。
 私はゆっくり、私の胸で震えている里佳子のおでこを撫でた。
 「おかあさん?」
 押せばいい。この子をただ押せばいいんだ。そうすれば……助かる。里佳子を私の胸の中から出す。ごほごほと咳き込んでいる里佳子の背中に手をつく。
 「里佳子……ごめんね。ほんとに……ごめんね」

 私は里佳子の背中を押した。

 ◇

 「緑岡さん!」
 ぜいぜいと走ってきた荒井が、燃え盛る家の前で、必死に消火器を使っている緑岡の名前呼んだ。
 「吉川さんは?」
 家は音を立てて燃えている。ときどき何かがくずれる音がする。殆ど家は、火に飲まれていて、無残極まりない。
 「わからないのっ!庭のほうに走っていっちゃて……私どうしたらいいか」
 彼女が混乱するのも仕方のないことだった。これほどまでに炎が猛威を振るっているのだから、消火活動をどこから行えばいいのかなど分かるはずもない。
 「庭……庭ね?」
 それだけ聞くと彼女は走り出した。庭に出ると、割れた窓が開いている。窓の中は何も見えないほど、黒い煙がたちこめている。
 「吉川さん!」
 叫ぶ。が、炎が猛威を振るう音にかき消される。
 死――。彼女の脳裏にはもう、それしかなかった。
 (駄目だ。この中に飛び込んだんなら……助からない、助かるわけない)
 「娘を助けに……行くなんて。こんな火の中飛び込むなんて……吉川さんはホントに」
 黒煙が揺らいだ。
 かすかに揺れたかと思うと、体中に煙をまといながら勢いよく黒い塊のように人が出てきた。
 「吉川さんっ!」
 思わず叫ぶが
 「……違う?」
 出てきたのは里佳子だった。泣きながら咳き込んで、地面にうずくまっている。
 「あなた、吉川さんの……お母さんは? どこ?」
 「うぅ…ああ……おかあさん。おかあさんがぁ」
 ただ里佳子は、窓を指差して、なくだけだった。

 ◇

 ごめん。里佳子。せめてあなたが高校生になるまでは、一緒に居てあげたかったよ、お母さん。ごめん。一人になっちゃうね。
 火の粉舞う。私とあの人の家の終わりは、こんなにも綺麗で豪華だ。あぁ私達の思い出が黒い煙になって空に上ってく。
 ――馬鹿だな、君も。
 余計なお世話よ。どこの世界に、自分のかわいい子を捨てる母親がいるの?
 ――いるよ? 世界には一杯。
 でしょうね。悲しいことだわ、でも私は違う。
 ――ふぅ……君には呆れたよ。じゃあね。バイバイ。
 声は聞こえなくなった。ただの幻聴だったのかな。
 体がゆっくり炙られていくのが分かる。焼肉ってこんな感じなんだろうなぁと馬鹿みたいに考えていた。
 煙で見えないけど、すぐ目の前に窓の出口はあるのだ。だけど、もう力は出ない。
 最後に、あのお嬢ちゃんに言ってやりたいな。私は里佳子を重荷に思ったことはないって……。
 あぁ……意識が薄れ……てく、……死ぬんだ……私。

 光が見えた。真っ白な光。これが天国に続く光かぁ。ホントに天国はあったんだね。ごほごほ。
 私は、娘も旦那も一杯愛したから、悔いはない人生だった。天国くらいいけてもいいよね。ごほごほ。
 貴方も、天国にいるの? ごほごほ。
 なんかおかしいぞ? 妙に咳してるな私。こんなに辛いものなの? 天国いくのって。ごほごほごほごほ。
 違う。妙に現実じみてる、でも火じゃない。そういえば体熱くないぞ? あれ? あれれ?

 ◇

 「吉川さん!」
 消火器のレバーを思いっきり窓の中に向けて引く。消火器の中身を全部部屋の中にぶちまけてやった。
 勢いに押されて、炎がゆるんだところを突入。手当たりしだいホースを振り回し、辺りを白い世界に変える。
 「吉川さん!」
 「おーい、ここだよぉ」
 彼女は生きていた。白い粉に埋もれながら、助けを求めていた。
 「良かった。生きてたんですねっ!」
 荒井は、吉川の体を支えながら、火の手から逃げ延びた。窓から出るとき、ふと吉川は荒井に呟いた。

 「消火器は……、ひとに向けるな。煙い」
 「はぁ……助かったんだからいいんじゃないですか?」

 ◇

 結局、私の家は完璧に燃え崩れた。もとになる火風のでかさが例外的だったので、家一軒が簡単に燃え落ちた。
 家の残骸の残る、四角いスペースを見つめてたっていると、どこからか声が聞こえた。
 ――まだ生きてたんだ。しつこいね。
 当たり前だ。私が死んだら、子供のめんどうは誰が見るんだ。
 ――ご立派ですね
 立派なものか、当然だ当然。
 ――そう断言できる母親がいるだけ、里佳子は安心かもな。
 そうそう、いいこと言うねぇ~あんた。……てか、あんた誰なのよ?
 「おかあさーん」
 里佳子の声に振りかえる。早くいこーと声を張り上げている。しっかり元気に戻ったようだ。
 「はーい」
 大きな声で返事して、もう一度家のほうを振り返ったけど、声はもう聞こえなかった。 
 家が燃えたから、しばらくはアパートにお世話だな。新居探しと仕事を増やして、それと火事もいままでどおりこなさないと。


元気を出していこう。主婦は元気を出さないと死んでしまう職業なんだから。


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