三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

六大の話



すなわち、人間もその他の生き物もさらにはこの世の中を

作り上げているすべてのものが、じつはどんどん細かくしていくと

素粒子という同じものでできている、というのです。

これは驚くべきことで、人間が自分の体と思っているもの(部分)

とそうでないほかのすべてのものには密度に違いがあるだけで

境というものはないのです。

では、なぜ人間は自分の体と思っているもの(部分)を自由に

動かせるのでしょうか。

こんなことを考えたことはありませんか。

また、なぜ生き物は生まれるのでしょう。

そして、なぜ死ぬのでしょうか。

いわゆる、物質だけを考えていたのでは、いつまで経っても

この答えは出ません。

「六大無碍にして常に瑜伽なり」というのは五大(いわゆる物質)

と識大(物質でないもの)が互いに妨げることなく融合した状態で

存在していることをあらわしています。

ここに1本の木があります。この木の枝を切ります。

切った枝を挿し木にすることは可能でしょう。

さらに枝の皮を剥いた状態でも挿し木にすることは難しいかも

知れませんが、培養することは可能です。

ところが、皮を剥いた状態で1年も置いておくと培養することも

できないでしょう。

世の中にたくさんの木製品が出回っていますが、その木から

挿し木をする人はいません。

では、その木はいつ死んだのでしょうか。

そして、生きている状態と、死んだ状態、その境があるとしたら

物質的には全く同じはずです。

木を例にあげましたが木だけではなくこの世のすべてに

いえることです。

さらに、可能性を言えば生きていないとされるものに対しても

生というものを与えることが、できるはずです。

いわゆる御札がそうです。  

密教では、形あるものとしての五大があります。

これは、塔婆や五輪塔にある地、水、火、風、空と呼ばれています。

たとえば、木を燃やすとまず(火)となり、煙(風)が出て

燃えかすは(水)に溶け土(地)に還ります。

それ以外のものとして、(空)を置きました。

ただし、この五大は構成要素ではなく、形あるものを代表する

シンボルのようなものであります。

それに対して、生きているものを、生かしている物質以外の

何かが識大です。

この識大と五大を加えたものが六大と呼ばれています。

この六大によりこの世の中のものはすべてできているのです。

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