1
10月後半、中国アパレル経営者日本研修ツアーのお手伝いをしましたが、このとき紳士服アパレル最大手ヤンガー集団は4人の幹部を派遣してきました。ヤンガー集団は李如成総裁が一代で築きあげた創業約50年の会社。アパレル部門は中国内トップの売上、ほかに不動産など多角経営しているのでグループ全体では推定2兆円規模と聞いていますが、そんな大企業が副総裁クラスを日本研修に送るのです。問題意識のある真面目な会社と思います。ヤンガー集団の本社は上海の南側、浙江省寧波市にあります。寧波には競合大手アパレル杉杉(シャンシャン)集団もありますが、私は前職官民投資ファンド社長のときに杉杉集団幹部と接点がありました。阪急阪神百貨店のH2Oリテイリングと杉杉集団が協力して新規開店するショッピングモール阪急寧波への投資が接点でした。阪急寧波外観私もこのプロジェクトが持ち込まれる前まで、寧波が隋、唐の時代から国際港だったとは知りませんでした。聖徳太子が送った遣隋使は寧波港で下船して隋の都だった長安(現在の西安市)まで旅したとか。また名僧鑑真は寧波港から日本行きを何度も試みては失敗した末最後に成功して日本に帰化し、麻雀は日本行き船中で時間を持て余す中国人たちが考案したゲームだそうです。そんな寧波市が歴史ある国際港だったとは、阪急プロジェクトに関わるまで全く知りませんでした。経営者として私が責任を負った投資案件の中で最も多額の資金提供したプロジェクトがこの阪急百貨店を中核とするショッピングモール計画、巨額ゆえ失敗は許されませんでした。なので出資を決めるまで、さらに最終的にオープンするまで、H2Oリテイリング椙岡会長、荒木社長、現場責任者とは何度も打ち合わせを重ねました。阪急寧波全館オープン時の様子阪急寧波のトトロスーパーマリオもお出迎えデパ地下にはH2O系列のスーパー泉屋中国でも獺祭は人気最初に合意した点は、集客のためには主だったラグジュアリーブランドをズラリ揃える、そして日本の優れものや美味しいものを地域社会に浸透させる、でした。まずラグジュアリーブランドを一通り揃えないことには消費者の間でショッピングモールの格は上がらず集客できません。格が上がらなければ日本の生活文化産業を中国市場に浸透させることはできないのです。阪急寧波がオープンする前、中国のみならずアジア各地には日本の百貨店が店舗を構えていました。が、どれもお客様で賑わっているとは言えない状態。なぜならそれなりの所得階層を集客するためにはお店の格、つまり市場における高感度ポジショニング戦略が欠かせませんが、日系百貨店にはラグジュアリーブランドが揃っている店はありませんでした。当時これらが揃っているのは唯一シンガポール髙島屋ショッピングセンターだけでした。1つか2つメインフロアにラグジュアリーブランドのショップがある日系百貨店はありましたが、導入ブランドの大半は外資ブランドでもラグジュアリーと呼べないボリュームゾーンに毛の生えたポジションにあるもの、これではお店の格は上がらず、富裕層の来店は期待できません。そもそもそれなりの所得階層でなければ百貨店という器で買い物しませんから。そこで、多額の投資をする側の意見として、新規オープンする阪急寧波にはラグジュアリーブランドを多数導入することを提案しました。大阪の阪急梅田本店ならラグジュアリー企業との交渉は簡単でしょうが、これから建設する新規店舗、しかも上海、北京、広州、深圳のような一級都市ではない中国地方都市ですから交渉は容易ではありません。中国やアジア本部のあるシンガポールで出店交渉を重ね、パリ、ミラノ本社トップの了解も得る必要があり、予想通り交渉は難航しました。なかなかブランド側の了解が得られないので、最後にはH2Oのトップに「あなた自身がパリに出張してトップ同士で交渉してください」ときついことを申し上げたこともあります。建物は予定通り完成しましたが、多数のラグジュアリーブランドから出店快諾を得られず、モールの開店は延び延びになり、ついには日本の国会で野党議員から「遅い!」とお叱りを受けました。官民投資ファンドのつらいところです。しかしながら野党の先生方が何と言おうと中途半端な形でオープンしたらモールの格は下がり、集客できないいつも通りの日系百貨店になってしまいます。H2Oと杉杉集団、そして我々官民投資ファンドもじっと我慢、出店交渉の進展を待ちました。阪急寧波総合受付予定より遅れること約3年、阪急寧波は晴れてオープンしました。開店景気もあってモール全体で予算比の2倍、ルイヴィトン、エルメス、グッチ、プラダ、サンローラン、ロジェヴィヴィエなどが並んだメインフロアは予算比の3倍の売上の報告に、すでに私は投資ファンド社長を退任してはいましたが大喜びでした。が、またも国会ではお叱り。「外国ブランドばかり売ってどこがクールジャパンなんだ!」、と。正直言って、ファッションビジネスを知らない国会議員の言う通りに海外ビジネスしていたら、せっかくのチャンスを逃してしまいます。まずはモールへの集客が最優先、お客様が来なかったらいくら日本の優れものや美味しいものを集めても評判にはなりません。何度もモールに足を運んでくださるそれなりの所得階層を顧客化する、その上で日本の食料品、総菜、化粧品、雑貨、家具、アニメ漫画、ゲームソフトやキャラクターグッズを販売してファンを広げる、海外日系商業施設におけるクールジャパン戦略はこの方法しかないんです。いまの都内百貨店を見れば同じことが言えます。百貨店内のラグジュアリーブランドのインショップに行列を作っているのはどういうお客様でしょう。いま物価高が問題になっている中、売上が伸びている要因は海外からのお客様のラグジュアリーブランド消費、そのおかげで都心店は過去最高の売上を記録していますよね。もしもラグジュアリーブランドの導入数が少ない百貨店ならば、インバウンド消費は見込めず館全体の売上も伸びません。「買い物しているのは外国人ばかりじゃないか」と批判的意見の方もいらっしゃいますが、ロンドン、パリ、ニューヨークなど世界主要都市の高級デパートや都心型モールを見てください。どこもラグジュアリーブランド購入の外国人の売上に支えられているのが現実なのです。コロナ明けで東京はインバウンド客数が再び上昇、やっと欧米主要都市並みになりつつあるのです。円高が続くこともプラス要因でしょうが、日本でラグジュアリーブランドを買うのはインバウンド客の旅の喜びの一つと言っても過言ではありません。メインフロアにはエルメスはじめラグジュアリーが並ぶ全館オープン時の賑わいそして見落としてはいけないのは、消費欲旺盛なインバウンド客はラグジュアリーブランドのみならず、日本のコンテンツ産品、伝統的雑貨や食料品にも高い関心を示しているのです。彼らのおかげで美味しいラーメン店、たこ焼き屋、寿司店やてんぷら屋はこれまで以上に行列ができていますし、合羽橋の道具屋商店街も築地の元場外飲食街も新宿ゴールデン街も池袋サンシャイン通りも、インバウンドで大変賑わっています。つまりラグジュアリーブランドを爆買いする外国人は、クールジャパン戦略の一環として世界に広めたい日本の優れものや美味しいものも消費し、日本のディープな街をSNSで世界に拡散してくれるのです。阪急寧波オープン時に批判した国会議員の皆さん、世界の主要都市の商業施設を歩いてください。合羽橋商店街や池袋サンシャイン通りをしっかり歩いてください。銀座や新宿でブランドのショッパーを持って歩く外国人がどこに向かうかをよーく観察してください。日本の消費全体を底上げするためにもクールジャパン戦略をさらに推進するためにも、ラグジュアリーブランドの役割は決して小さくはないのです。
2024.11.16
閲覧総数 2417
2
この1年間中国アパレル業界向けに日本と中国で研修を担当する機会が増えました。先月末もアパレル経営者訪日研修団のお世話をし、いろんな講師にレクチャーをお願いしました。マーチャンダイジングに関する講義のほかに、テキスタイルデザイナー須藤玲子さん、beautiful peopleデザイナー熊切秀典さん、私的勉強会教え子だった元BAO BAO ISSEY MIYAKEデザイナー松村光くんにもそれぞれものづくりの考え方を話してもらいました。訪日研修団レクチャー後の記念撮影日本の織物産地について語る須藤玲子さん私自身はバブル崩壊から今日まで日本のファッションビジネスがたどった道をレクチャー、リーマンショックや新型コロナウイルスの混乱を経て下降線の会社と上昇している会社の差異について私見を述べました。特にユニクロが急成長した要因、単に価格政策だけでなくどういう姿勢でものづくりしているか、織物工場で遭遇したユニクロ用素材の事例をあげて説明しました。これまで国内でも海外でもセミナーでは何度も話してきた、お客様に人気の回転ずし店と不人気の店の違いのたとえ話。これは国を越えて誰にも理解しやすいのでいつも話しています。近海でとれた生の本マグロは美味しいけれど原価は高い。一方、遠洋漁業の冷凍マグロや養殖マグロは供給量も多く値段は生の本マグロに比べれば安い。お客様が喜ぶ高い生のマグロを使うなら、たくさん仕入れて少し薄く切るか、ネタを小さく握ると価格は抑えられます。冷凍ものや養殖マグロを使うなら、分厚く切るか、大きめに握ればお客様にある程度満足感を提供できます、と。しかしながら、価格抑制、コストのことばかり考えて冷凍ものや養殖マグロを薄く切る、あるいは小さめに握れば、お客様の反応はどうでしょう。おそらく満足感はないでしょう。ラグジュアリーブランドに供給している第一織物アパレルで言うなら、品質のいい素材を大量購入してコストカットを図る、あるいは使用生地をなるべく少ないデザインを考案して原料費を抑える工夫をすれば顧客満足度は上がります。が、超安い素材を使ってアパレル製品を製造すれば、テキスタイルの素人であってもお客様はいずれ見抜きます。後者のたどる道は、安価なマグロを薄く切って信頼を失う寿司店と同じ、消費者からは見放されます。ではユニクロはどうなのか。ユニクロのジーンズに付けられたKAIHARA製デニム使用の商品タグ写真を見せながら、ほかの織物産地でもラグジュアリーブランドが使用するレベルのテキスタイルをユニクロは使用、その発注量は我々の想像をはるかに超えていると説明しました。もちろんほかにもユニクロ成長の要因はたくさんあるでしょうが、ものづくりの姿勢は「中国アパレルにはヒントになるのではないでしょうか」と説明。ユニクロジーンズの商品タグほんの一例ですが、ユニクロダウンの高密度ポリエステルは北陸産地の織物工場で生産、その糸と織物のレベルはラグジュアリーブランド級、だからダウンコートの内側から羽毛は飛び出してきません。ジル・サンダー女史と組んだ「+J」のダウンはかなりの優れものですよね。が、安価な、名ばかりの高密度ポリエステルで作ったブランドのコートは時々内側の羽毛が表地から飛び出し、消費者に不信感を与えます。つまり薄く切った冷凍マグロと同じようなもの。中国の経営者たちに何度もアドバイスしているのは、コストダウンのため安価な冷凍マグロを仕入れるのではなく美味しい本マグロを提供しつついかに寿司店としてコストダウンを図るか、です。ラグジュアリーブランドが使用している日本製高密度ポリエステルは1メートル800~1000円(中には1300円のものもあります)、仮に1着作るのに2メートル使用しても素材原価は1600~2000円なのです。あくまで個人的な見解ですが、ユニクロ+Jはこのレベルの高密度ポリエステルでしょう。これに対して1メートル300円程度、1着分原価600円の素材でどうやってユニクロ+Jに勝てるのでしょう。安い素材では質感あるダウンコートは作れませんし、賢い一般消費者はすぐ見抜いてしまいます。だから、私は中国アパレルの経営層に呼びかけています。「日本の優れた素材をもっと活用してみては」と。先月末の訪日研修団に参加した経営層には売上数千億円以上の大手アパレルが数社いましたが、「日本で機能素材を探したい」「いいテキスタイルメーカーを紹介してくれませんか」と言われました。彼らも原材料に対する意識は持っているのです。どれくらい本気モードなのか、私が納得できないうちは日本の素材メーカーを簡単に紹介するわけにはいきませんが、もしも真剣に取り組む姿勢が見えたらいくつかアドバイスしようと思います。プレミアム・テキスタイル・ジャパン展サンコロナ小田のブース(上2枚とも)研修最終日の夜は品川から屋形船に乗って打ち上げでした。宴会の最後に研修の総括として、「今回のプログラムにはスキルを伝えるレクチャーとスピリットを考えてもらうもの両方を組みました。長くビジネスを続けるためにはスピリットがとても重要です」と言いました。ものづくりのスピリット、最後のまとめはかなり受講者に響いたようでした。彼らが研修を終えて帰国した翌週、恒例のプレミアム・テキスタイル・ジャパン展が有楽町国際フォーラムで開催されました。出品者のブースにあるテキスタイルを見ながら、次回の訪日研修団は同展開催時とタイミングを合わせるよう中国側に伝えなければと思いました。もっといいものづくりをしてもらうために。いま中国はバブル崩壊後の日本によく似た状況です。中国アパレル関係者は誰もが不景気と言いますし、これまで絶好調だったラグジュアリーブランドは中国各地の店舗を徐々に減らしています。不景気だからこそ打開策を探すべくバブル崩壊後日本がたどった道を知りたがっています。中国側の要請もあって近々このテーマで現地セミナーをすることにもなっていますが、どうやって不況の中から脱することができるか、そのヒントを提供できればと思います。彼ら、かなり必死ですから。
2024.11.09
閲覧総数 3328
3
今週水曜日本年度毎日ファッション大賞の授賞式が都内で開催されました、今年で42回目、私は1988年第6回から1995年12回までの7年間と、2013年第31回から現在までの12年間選考委員の端くれとして選考委員会に参加してきました。本年度受賞者は、ファッション大賞にメゾンミハラヤスヒロの三原康裕さん、新人賞にはハルノブムラタの村田晴信さん、鯨岡阿美子賞には日本ファッションウイーク推進機構の前理事長三宅正彦さん。例年話題賞や特別賞などがありますが、今年表彰されたのはこの3人だけ。毎年選考委員の意見が分かれて何度も決戦投票を繰り返しますが、今年の選考会は案外すんなり決まりました。三原さんの名前を私が初めて知ったのは2001年だったでしょうか、まだニューヨークのミートマーケット地区が完全にファッションタウンに仕上がる直前のことでした。同エリア再開発の牽引者だったハイエンドセレクトショップJEFFREYの並びにオープンしたプーマ大型店、エントランスにズラリ陳列されたシューズにミハラヤスヒロの名前がありました。世界的スポーツブランドが日本の若手デザイナーとコラボしている、あのときの驚き、いまもはっきり覚えています。三原康裕さんご本人によれば、あのとき最初は海外店のみの展開、日本市場はそのあとだったそうです。大手メーカーがコラボする場合、概して市場でポジションを確立したデザイナーを選ぶものですが、プーマはまだ世界では無名と言っていい三原さんを選択したのです。デザイナーとスポーツブランドのコラボが当たり前になったいまならわかりますが、当時は異例の取り組みでした。プーマの幹部をその気にさせたんですからすごいことです。これまで三原さんがファッション大賞に無縁だったことが不思議なくらい。実力と知名度から言っても、また近年の様々なイベントの仕掛や次世代デザイナーを育成する姿を見ても、ノミネートされた他の候補者よりも抜きん出た存在でした。新人賞の規定はブランド設立5年以内となっていますから、デビュー5年目の村田さんは規定ギリギリの受賞です。ヨーロッパに渡ってジルサンダーなどで経験を積んで帰国、自分のブランドをスタート。デビュー以来ずっと自分なりのラグジュアリーを表現してきたデザイナーです。ファッション大賞恒例の新人賞デザイナーのプレゼン新人賞を受賞して数年後にファッション大賞を受賞するデザイナーは過去何人もいますから、村田さんには次はファッション大賞受賞を期待したいです。三宅正彦さんは御年89歳、今年JFW(日本ファッションウイーク推進機構)理事長を退任されたばかりです。経済産業省の肝いりでJFWは発足、我々が設立したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)から東京コレクション開催を受け継いだ時点ではJFW実行委員長、その後初代理事長の馬場彰さんから理事長のバトンを渡され、若手デザイナーの育成などに尽力されました。JFWの東京コレクションがスタートした2005年、CFD東京コレクションを10年間運営してきた私は全くの部外者、ただのショー観客の一人でした。が、初回JFW東京コレクションが終わった直後、実行委員長だったTSI代表取締役の三宅さんから呼び出され、私は再び東京コレクションのお手伝いを始めることになりました。なぜなら、三宅さんらが頑張っているのに東京コレクションを立ち上げた自分は放っておけないと思ったからです。当時政府からJFWに補助金が出ていました。秋冬コレクションの開催は3月下旬、終了したら即刻業者らに支払いを行い、数日後の年度末までにお役所に補助金申請をしなくてはなりません。しかし支払った上で領収書を添えて報告しなければならないのに、JFW事務局には手元キャッシュがありません。そこで三宅実行委員長は銀行から個人名義で(会社の資金を充てるわけにはいきません)数億円借りて事務局に渡し、JFWは急いで業者に支払って領収書を集めてお役所にイベント決算報告をしていました。東京コレクションを引き継いだJFWの実行委員長がそこまでしているのですから、協力要請された私は傍観者のままではいられませんでした。三宅正彦さん現在の東京コレクションはRakuten Fashion Week Tokyoの名で開催していますが、早いものでJFWが運営を始めてもうすぐ20年になります。ここまでどうにか継続できたのは理事長、実行委員長としての三宅さんの貢献が大きいと思います。受賞された3人の皆様、おめでとうございます。
2024.10.26
閲覧総数 4882
4
日本デニム業界の技術は世界の中でトップレベル、パリ、ミラノのラグジュアリーブランドがたくさん使用してい流のは周知の事実。2011年3月東北大震災があった翌年の春、銀座歩行者天国を舞台に「ジャパンデニム」のタイトルで青空ファッションショーを企画したくらい、日本製デニムは世界に誇る日本の重要なコンテンツだと信じています。しかし、私は個人的にゴワゴワ触感のデニムが好きではありませんでした。小学1年生の頃だったと思います、オフクロがジーンズを買ってくれましたが、ゴワゴワ触感が嫌いと言ったら、それ以来オフクロはジーンズを買ってくれませんでした。大学時代はデニムのベルボトムが大流行、そのあとカラージンズも人気ありましたが、買ったのはソフトデニム1本のみ。ニューヨーク8年間の生活でもジーンズは履かずに過ごし、帰国してからもジーンズとは無縁。5年前に児島ジーンズストリートのお店でソフトデニムを1本買っただけです。先日、久しぶりに児島ジーンズストリートを歩きました。ここでゴワゴワのデニムジャケットとダボダボ分量のジーンズ2本購入。デニムジャケット(写真と同型のブラックデニム)はこの年になるまで一度も着たことがなく、生まれて初めてワードローブに加えました。まだ買ったばかり、慣れないので自分らしくないとは思いますが、当分これを楽しんでみようと思っています。日本産デニムは後加工技術を含めて世界に誇る優れもの、それを使用したジーンズは重要なコンテンツだと思います。5年前に児島ジーンズストリートを訪れたとき、日本産デニムと児島ジーンズストリートをもっと全国的に宣伝して賑わう観光地にできないものかと思いました。そのためにはそれだけで集客できるカフェやレストランを誘致することは不可欠でしょうし、児島デニムのことならなんでもわかる博物館、資料館を作り(すでにあるのかもしれませんが)、もっと消費者向けイベントを仕掛けて全国に報道されるような広報活動が大切だと思いました。しかし先日ジーンズストリートを訪れてちょっとショックでした。5年前に比べ、地方都市でよく見かけるシャッター降りた店舗が並び、暑い夏ということもあるでしょうが観光客らしき人はほとんど見当たらず、街全体が寂れていました。買い物に訪れた同ストリートのはずれにあるジャパンブルージーンズや桃太郎ジーンズ(両方とも株式会社ジャパンブルーのブランド)には買い物客がいましたが、下の写真のように通りに人影はありません。人影のないジーンズストリート桃太郎ジーンズのキャラクタージーンズ業界にはジーンズの普及を目的に毎年「ベストジーニスト」AWARDを発表している日本ジーンズ協議会があります。 https://best-jeans.com/有名タレントや俳優、ミュージシャンが受賞するのでテレビのバラエティー番組やスポーツ紙芸能欄で毎年ニュースにはなりますが、このイベント以外にジーンズのことが一般社会で話題になることは残念ながらありません。児島がある岡山県倉敷市は明治時代半ばに倉敷紡績が設立された繊維にゆかりのある都市、倉敷紡績創業家が設立した大原美術館(モネ、ドガ、ルノワール、ゴーギャンなどの収蔵品多数)や倉敷美観地区にはたくさんの観光客が訪れます。同じ倉敷市に世界に冠たるデニムのメッカがあるのですから、倉敷市中心部を訪れる多数の観光客を児島ジーンズストリートまで引っ張ってくる工夫、できないのでしょうか。それにはデニムを生産する紡績メーカー、後加工業者やジーンズ縫製工場と倉敷市、岡山県の行政機関が密に連携する必要があるでしょう。せっかく世界に誇ることができる有力コンテンツがありながら、倉敷市に観光客を集めることができる施設がありながら、児島ジーンズストリートはどんどんシャッター街に落ちぶれ、閑古鳥状態が続くのはどうなんでしょう。正直、もったいないです。強烈な言い方をすれば「倉敷市は何をしてるんだ!」です。JR西日本児島駅前コロナウイルス感染がおさまり、再び外国人観光客が復活して年間3000万人余のインバウンド客、これからさらに増えそうな気配。しかも東京、京都、大阪のみならず、全国各地がインバウンド消費の恩恵を受け、外国人は日本経済に貢献してくれています。こんな路地裏の居酒屋に、こんな地方都市のラーメン店に、こんな田舎の温泉にと驚くシーンも増えています。ジャパンデニムの聖地にもきっとチャンスはあるでしょう。チャンスはあるはずですから、官民共同でインバウンド客に向けてどう仕掛けるかが肝要ではないでしょうか。ジーンズストリートを歩いてそんなことを思いました。頑張ってほしいなあ。
2024.09.21
閲覧総数 10260
5
毎年この時期、建築を学ぶ学生のNPO法人AAF(Art & Architect Festa)が主催する「建築学生ワークショップ」最終プレゼンが開催されます。今年は京都山科の醍醐寺、豊臣秀吉が大きな花見を開いたことで有名な寺院です。これまで比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺、東大寺、伊勢神宮、出雲大社など誰もが知っている「聖地」で開催してきました。エントリーした全国の大学生、大学院生約50人が10チームに分かれて、聖地の歴史や周辺環境などを調査分析してテーマを設定、フォリー(小さな建造物)をデザイン、現地で組み立てて講評者にプレゼン、上位3チームが表彰されるイベント。私は2018年伊勢神宮開催から講評者の一人として参加しています。今年は7月に醍醐寺で開催された中間発表にも参加、各チームが制作した小さな模型を見せてもらっているので本番までに各チームでどんな葛藤があったのかがよく分かりました。また、プレゼン前日に醍醐寺に入って学生とアドバイザーの施工会社の方々が準備している様子を拝見、正直言って「明日フォリーは無事建つのかなあ」と疑問視したチームもありましたが、建築指導する大学の先生たちの熱血サポートもあって全10チームどうにかフォリーは立派に建ちました。最初のテーマ出しから小型模型の中間発表、本番のフォリーの組み立てまで、建築家、構造家の先生たちがアドバイス、時には学生と一緒にフォリーを組み立てる姿は毎回感動します。また、ゼネコン、施工会社の専門家がチームごとにアドバイザーとして付きっきりでサポート、まさに実学そのものです。参加するたびファッションの世界でも学校単位でなくランダムに編成された学生さんをプロが現場指導しながらものづくりを進める実践教育プログラムができたらなあ、と思います。境内の落ち葉を集めて固めたブロック125個を積み上げた作品和紙と細い木で作った障子のようなものをランダムに繋いだ作品竹を割ってタイムトンネルのような形状に組み立てた作品でんぷん糊、片栗粉、砂糖を混ぜた特別素材を乾燥させた作品京都の羊農家から調達した羊毛を洗濯し染めた綿を貼った朱塗り球体五重塔前にあえて屋根のない長さの違うパネルを組んだ作品細い針金で作ったオブジェのような作品はどうにか建ちました昨年台風の被害で倒れた境内のたくさんの桜の木を組み立てた作品竹を曲げて緩やかなカーブをつけた作品壁土をはめ込んだダビデの星のような形状のパネルを組んだ作品20余名の講評者は最終プレゼンを受けたあと、10チームの作品の中から3点を選び、持ち点100点を3つに割り振ります。私は地元京都の農家から調達した羊の毛を自分たちで何度も洗い(これが半端なく大変な作業なんです)、寺院ゆかりの朱色に染めて(初めて色のある作品を見ました)球体のフォリーに貼り付けたチームの作品に最高点をつけました。醍醐寺の正面入り口である仁王門からそこそこ距離がある位置に設置されたフォリーですが、仁王門からもその存在がはっきりわかる点も評価しました。選考会の最終結果は近々主催者AAFから公式発表があるでしょうから、そちらをご覧ください。
2024.09.18
閲覧総数 10721
6
9月2日から7日までJFW(日本ファッションウイーク推進機構)主催の2025年春夏東京コレクション(正式名称はRakuten Fashion Week Tokyo)が開催されました。4日だけ京都出張があって視察することができませんでしたが、1日平均11000歩以上を歩いて会場感を移動、今朝一番整骨院で高周波治療をしてきました。今シーズンは例年よりショーの本数そのものは少なかったけれど、いつもより海外からの取材陣は多く、なかなか見応えのあるコレクションをいくつか見ることができました。公式スケジュールにある全てのランウェイショーを見たわけではありませんが、個人的に気になるコレクションをここにアップします。SUPPORT SURFACE(研壁宣男デザイナー)FETICO(舟山瑛美デザイナー)ミューラル(村松祐輔・関口愛弓デザイナー)ピリングス(村上亮太デザイナー)シンヤコヅカ(小塚信哉デザイナー)テルマ(中島輝道デザイナー)ヴィルドホワイレン(ループ志村デザイナー)写真は全て自分のスマホで撮影したもの、プロのカメラマンと違って写真の出来は良くありません。撮影しやすい前方のシートをくださったブランド関係者には感謝申し上げます。各コレクションの全ての写真、映像は、以下の公式サイトにアクセスしてご覧ください。https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/brands/CFD(東京ファッションデザイナー協議会)から東京コレクションの主催がJFWに移管された2005年を1とするならば、直近の媒体換算(メディア記事と写真掲載を広告費に換算した場合の数字)200、ネット報道が増えたおかげで海外からのアクセスが急増、とんでもない数字になっています。つまり東京でコレクション発表しても、海外バイヤーやプレス関係者がJFW公式サイトやネット報道をよくチェックしてくれるので海外コレクションに参加した場合とあまり変わらない効果があると言っても過言ではありません。我々がCFD東京コレクションを開始した1985年当時ネットはなく、コレクション報道は新聞雑誌しかありませんでしたから、本当に便利になりました。次回2025年秋冬東京コレクションは来年3月10日開幕の予定です。
2024.09.09
閲覧総数 12017
7
昨年秋に出会って以来懇意にしている中国コンサルティング金時光さんから「ニュージーランドの羊牧場に行ってみませんか」と誘われ、初めてニュージーランドに出かけました。Lake Wanaka湖畔のホテル裏庭オーストラリアのシドニー空港まで9時間、乗り継いで南島クイーンズタウンまで3時間のフライト。残雪の山脈に囲まれたクイーンズタウン、そこから車で1時間の近隣ワナカ湖畔の景色は実に美しく、まるでスイスアルプスに来たような印象でした。宿泊したワナカ湖畔のエッジウォーターホテル、部屋のテラスを出るとすぐ目の前はワナカ湖、庭にはカモが飛来、湖面を照らす日の出と山に沈む夕日を見ることができ、ひと言で言うなら楽園、バカンスなら最高気分だったでしょう。翌朝ワナカ湖から車で1時間くらいの所にあるFOREST RANGEという名の牧場主エマーソン一家を訪問、まずは羊の毛を刈り取る作業場を案内されました。1日一人約200頭の毛を刈るステージ1頭ずつ塊で陳列してありますエマーソン一家は創業150年の牧場、3代目ラッセルとジャネットご夫妻、4代目ご子息デイビッドから牧場のこと、生産しているメリノウールのことを詳しく説明がありました。おそらく一家の管理する土地は八王子市全域の広さとほぼ同じでしょうか、とにかく広いんです。彼らが管理する羊は現在14,000頭、最盛期には70,000頭いたと言いますからかなりの減産状態。が、減産してはいますがメリノウールのクオリティーを上げて量より質向上の努力をしていることがよくわかりました。年号ごとに毛の細さの進捗状況を表記作業場の壁にはGENETIC PROGRESS(遺伝的進捗)の表記、1982年から毎年メリノウール糸の細さがどのように推移してきたかがわかります。1982年が19.56マイクロメートル(1ミリの1000分の1の太さが1マイクロメートル)、現在は11マイクロンに到達したそうです。カシミヤの太さが約14から16マイクロン、一般的ウールが約19から24マイクロンですから、エマーソン一家が生産するメリノウールはかなりの極細繊維です。彼らのメリノウールがカシミアよりも細いとは想像していなかったので驚きでした。近年は羊毛の管理はバーコードとコンピュータ。飼育する羊の耳には全頭バーコードを付け、刈り上げたあとはそれぞれの羊の毛がどれくらい細いかを検査してデータを残します。下の写真のデータには、総重量が4.25kg、太さは11.0MICRONとありますから、この羊の毛はかなり上質だとわかります。この毛の塊からは超極細の糸が生まれます羊毛生産の現場もいまやコンピュータ管理ラッセルさんに聞きました。メリノ種の羊は毛を刈り上げた後24時間ほどで厚い皮下脂肪ができ、丸裸になっても寒さに耐えられる習性があるそうです。出なければ羊は風邪をひいてしまいます。春に気温が上昇する頃、この牧場では一斉に刈り取リます。そんな説明を受けていざ広大な牧場へ。我々が到着すると、遠くで群れをなしていた羊を牧羊犬(シープドッグ) ウエルシュ・コーギー・カーディガンが我々の目の前まで誘導してきました。飼い主さんが何を求めているのか理解している、実に賢いワンちゃんなんです。4代目デイビッドがさらに檻の中に羊数頭を追い込んで表の毛をガバッとめくって中の暖かくて白い毛を触らせてくれました。賢いワンちゃんが群れを誘導よく見ると1頭ずつ顔が違いますそのあと丘陵地帯をランドクルーザーで肌寒い山頂まで登り、眼下に広がる羊牧場や放牧するための山々を見せてもらいましたが、とんでもなく広くてびっくりでした。1,000メートル級の山頂付近にもたくさんの羊の排泄物が転がっていましたから、羊はこんな高い山頂まで登り、その寒さに備えるためもっと毛が生えてくるんだろうと素人の私にもわかりました。山から羊を追うのはワンちゃんだけでなく、時々小型ヘリコプターを使って麓まで下ろすそうです。左は3代目ラッセルさん、右は息子のデイビッドさん久しぶりに目にしたウールマークかつてウールを世界に広めるための広報宣伝部門IWS(国際羊毛事務局)という機関がありました。羊毛公社が牧場から羊の毛を買い上げるとき1頭につき1ドル(ポンド?)をプール、その資金を使ってウール製品を製造する会社にIWSは補助を出し、アパレル製品にはウールマークの下げ札が付いていました。1980年代後半中国解放政策で中国人がオシャレをし始め、将来の中国需要を見込んで羊毛公社は羊毛増産を計画。ところが天安門事件で需要が一瞬鈍化、大量の原毛在庫が増え、IWSが補助金を出すことが難しくなってウールマーク下げ札は売り場から消えました。当然原毛生産現場では減産が始まり、オーストラリアやニュージーランドの生産者は窮地に。おそらくエマーソン一家が70,000頭を飼育削いていたのはこの頃ではないでしょうか。その後もリーマンショックやコロナウイルスの不景気もあり、さらに地球環境の変化で天候不順もあったでしょう、150年の間には山あり谷ありだったと思います。近隣牧場主は牛の飼育を開始してリスクヘッジしましたが、エマーソン一家は牛の生産には手を染めず、先祖から受け継いだ広大な土地で羊だけ飼育する道を選び、少しでも良質なメリノウールを生産しようとこれまで努力してきました。山を登る羊たちそして、ニュージーランドの国立大学大学院を卒業後ニュージーランドの羊毛洗浄機械の最大手に就職してから母国に戻った中国人エンジニアと信頼関係を結び、エマーソン一家は原毛の大半を中国に出荷するようになったと聞きました。今回牧場視察を勧めてくれたのはこの中国人エンジニアとビジネスパートナーの金さんです。エマーソン一家の上質メリノウールをアパレル製品化し、世界に販売したいというのが彼らの夢なのです。先祖代々の仕事を守る純朴なニュージーランド人、それを支援する中国人エンジニアとビジネスパートナー国籍を超えた友情を目の当たりにして、日本人の私もお手伝いできることがあると思いました。素晴らしい景色に癒され、真摯なものづくりと友情に触れ、短い滞在でしたが充実した出張でした。
2024.10.22
閲覧総数 5180
8
大学を卒業して就職せずすぐに渡米、ずっとフリーランスのライターとしてニューヨークのデザイナー周辺を取材してきた私は日本の役所や役人とは全く無縁、仕事で顔を合わすことはありませんでした。米国商務省の「BUY AMERICAN」(米国製品を世界に売り込む事業)のお手伝いをしていた関係で米国商務省繊維部門マネージャーと数回面談したことはありましたが。帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立に奔走、その事務局責任者になった直後に当時婦人服専門店チェーン最大手鈴屋の鈴木義雄社長の紹介でCFD事務局を訪ねてきた通商産業省繊維製品課渡辺光男課長(みつおの字が間違っているかもしれません)が初めて出会った中央官庁官僚。課長の要請でファッション関係の検討委員会に参加、そこから繊維製品課長やその上司である生活産業局長と面談するようになりました。ファッション繊維業界各団体の責任者らが名を連ねる検討委員会に初参加したとき、弱冠32歳でなおかつ帰国したばかりで日本の業界事情をよく知らない私が発言を許されたのは会議の最後の最後。それまでほかの委員の面白くもなんともない発言に疑問を感じながら、私は2時間じっと我慢して拝聴するしかありません。会議後渡辺課長に直談判、「発言の順番は年齢順なのでしょうか」と。委員会の構成メンバーに30代はおろか40代も見当たらず、ほとんどが50代後半か60代の協会理事長や組合長さんばかり、若輩者は最後の最後というのがどうにも我慢できません。座長が指名する順番ではなく、年齢に関係なく挙手制にしてもらえませんか、と生意気なことを申し上げました。そして次回からは挙手制、私にも早く順番が回ってくるようになりました。その次の次の課長が林康夫さん、のちに中小企業庁長官やJETRO理事長をされた方です。林課長はよくCFD事務局に足を運び、真摯に意見を聞いてくれました。CFDは役所の認可団体でもないみなし法人でしたが、どういうわけか何度も面談、「局長がデザイナー側の声をヒアリングする機会を設けましょう」と岡松壮三郎局長(のちの通商産業審議官、タフネゴシエイターとして日米構造協議で米国側と渡り合ったことで有名)とデザイナーの意見交換会までセットしてくれました。以来いまも年賀状のやり取りをさせてもらっています。林康夫さんCFDとほぼ同時期に東京商工会議所主導で設立された東京ファッション協会事務局メンバーから「通産省課長がわざわざ訪ねていくなんて考えられない。我々は役所に出向く、あんたたちは特別扱いなんだよ」とよくからかわれたものです。この頃繊維製品課は直近の「繊維ビジョン」(わが国繊維産業の方向性を策定した白書のようなもの)に盛られた「ワールド・ファッション・フェア」という大型イベント開催と「ファッション・コミュニティー・センター」という発信拠点を全国に建設する事業の具体化を進めていました。このとき大型イベントや拠点建設よりも人材育成を最優先すべきと私は発言、その流れでCFD事務局でボランティアの塾「月曜会」をスタートすることになったのです。月曜会の様子を見に来てくれた同課員らに当時区役所移転を計画していた墨田区商工部長を紹介され、私は「立派な仏壇を建設するよりもどんな仏様をそこに入れるかが重要でしょ、人材育成を柱にした施設を墨田区につくりませんか」と進言。そして墨田区にファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長だった松尾武幸さんを座長に議論開始、まとまったところで松屋の山中会長に理事長をお願いしてさらに議論を重ねました。言い出した自分が座長にならなかったのは、年齢が若過ぎるから。年功序列社会で若輩が座長では角が立つ、ここは恩師でもある松尾さんにお願いすれば丸く収まると墨田区部長に推薦しました。松尾さんとコルクルーム代表安達市三さんと三人で頻繁に集まり、カリキュラムの構想を練りました。しかし、不思議なことに墨田区戦略会議は解散、議論は通産省繊維製品課に移されて議論再開。このとき墨田区戦略会議メンバーで委員継続を頼まれたのは私一人、区役所レベルの案を国は採用しないという意思表示なんだろうと委員一同受け止めました。そこで、林課長の次の繊維製品課長に面会を申し込み、墨田区が考えた理事長案は却下しないで欲しい、でなければ自分は委員を引き受けないと長時間交渉、山中さんは理事長含みで委員になりました。理事長就任の際「俺のハシゴを外すなよ」と言われ、山中理事長が亡くなるまで私はフルに新設IFIビジネススクールで指導に当たりました。IFIビジネススクール夜間コース終了式、前列中央が山中理事長その後しばらくの間私は役所と完全に無縁に。民間企業2社を掛け持ちで超多忙、ビジネススクールの指導も難しくなり、誰が繊維製品課長や生活産業局長に就任したのか全く興味ありませんでした。それから4年後、ビジネススクール立ち上げでお世話になった業界人から社内中堅幹部研修の講師を頼まれ、そこでもう一人の講師だった繊維課(それまでの繊維製品課)山本健介課長と名刺交換、気がつけば山本さんに乗せられて中小繊維事業者自立支援事業の面接官や内閣官房のコンテンツ事業戦略会議(のちのクールジャパン事業)委員に。山本さんの「お手間取れせませんから」は真っ赤なウソ、目が痛くなるほど大量の申請書類を読むことになり、長時間事業者の面接に立ち会い、最後はコンテンツ会議で4年も委員をすることになりました。これがのちに官民投資ファンド株式会社クールジャパン機構に繋がります。ちょうどコンテンツ戦略会議の議論に加わった頃、繊維課長に宗像直子さんが就任、さっそく会食に誘われました。内閣官房コンテンツ戦略会議でどんな議論をしているのか、そして繊維課に期待することは何かのヒアリング。このとき数多い繊維関連の協会、団体の集約とCFDが担ってきた東京コレクションへの支援の話をしました。宗像さんはすぐに東京コレクションへの支援と新しい受け皿の設立に奔走、日本ファッションウイーク推進機構(馬場彰理事長・オンワード樫山会長)がスタート。この時点で私はCFDに代わる新たなファッションウイークには全くノータッチ、完全な部外者でした。宗像直子さん私がCFDで10年、後任議長久田直子さんの下でも10年CFD自主運営東京コレクションは続きましたが、資金的にそろそろ国の補助や大手企業の援助がなければコレクション運営は継続できそうにない状況でした。宗像さんの尽力で新たな組織が2005年に生まれ、東京コレクションは官民事業のファッションウイーク推進機構が主催者として運営するようになったのです。宗像さんのアパレルやテキスタイル業界への根回しがあったからこそ今日のRakuten Fashion Week Tokyoがあります。現在はRakuten Fashion Week Tokyoに FETICO@Rakuten Fashion Week Tokyo国が主導する事業ですから特定団体や特定のデザイナーだけを支援するわけにはいきません。CFD側からは会員デザイナーを優遇して欲しいという要望がありましたが、国の予算(当初3年間は国から補助金が出る約束)である以上CFD会員デザイナーだけ支援するわけにはいかない。結構ゴタゴタしました。ファッションウイーク推進機構実行委員長だったTSI会長三宅正彦さんから頼まれ、私は2006年10月第3回からコレクション担当理事を引き受け、再び東京コレクションに協力することになったのです。デザイナー有志と共に1985年に立ち上げた東京コレクション、これを新組織で大手アパレルの会長たちが一生懸命世話している様を見て自分が部外者のままでは申し訳ない、それが三宅さんの要請を引き受けた理由です。当然報酬ゼロ、推進機構会費は自腹、こうして18年間ファッションウイークをお手伝いし、若手デザイナー育成に力を注いできました。2011年私が松屋に復帰した直後に東北大震災、原発事故で電力不足、銀座の街は夜真っ暗に。このとき銀座の競合店三越銀座と共に銀座を元気にするファッションイベントを仕掛け、両店共同の銀座ファッションウイーク、そして歩行者天国での屋外ファッションイベントGINZA RUNWAYを企画。でも初の歩行者天国でのファッションショーは警視庁からなかなか許可が下りません。このとき警視庁に何度も掛け合ってくれ、最後は経済産業大臣の協力を引き出してくれたのが経産省に新設された生活文化創造産業課(クールジャパン)の渡辺哲也課長。松屋の販促課長と共に渡辺さんは警視庁に出向き、六法全書を見せながら「どこに歩行者天国でイベントをやってはいけないと書いてあるんですか」と交渉してくれ、それでも許可が下りないとなると経産大臣に相談して警視庁の許可を取り付けてくれました。渡辺哲也さん震災から1年後の2012年3月渡辺課長と課員たちの協力で歩行者天国初のファッションショーを開催。私は課長の計らいで経産大臣に会い「被災地のちびっ子と一緒に大臣もモデルとして参加しませんか」と申し上げ、フィナーレに東北被災地のちびっ子と大臣が手を繋いでランウェイを歩くショーが実現。その日の夕方全テレビ局がニュースで取り上げ、翌日全ての全国紙とジャパンタイムズが写真付きで1面掲載、大きな話題になりました。私自身もたくさん取材され、このことがのちの官民ファンド社長就任に関係します。歩行者天国初のファッションショーGINZA RUNWAYコンテンツ事業戦略会議の一員として4年間議論した政策は民主党政権下でも議論が継続され、自民党に政権交代した2013年国会でクールジャパン戦略を推進するため官民ファンド設立が可決されました。そのときは委員でもなんでもないので国会で新会社設立が決定とは全く知りませんでした。そして8月米国西海岸市場視察に出かけたちょうどその日、経産省商務情報政策局富田健介局長らが松屋の秋田正樹社長を訪ね、新設するクールジャパン機構社長に私を指名したいとびっくり仰天の話があったのです。富田局長は私をお役所の委員に引き摺り込んだ山本健介さんの同期、何人かの社長候補者に断られたのかもしれません、私は最後の頼みの綱だったのでしょう。松屋に復帰して楽しく仕事をしている上に投資の世界には全く興味なく、正直「なんで俺なの」でした。秋田社長は総理大臣の安倍さんとは祖父、父と三代続きの深い関係、秋田社長に頼みやすかったのかな。帰国して秋田社長と相談、会社として正式に引き受けることになりました。クールジャパン機構開所式のミナペルホネン2013年11月に発足したクールジャパン機構(正式には株式会社海外需要開拓支援機構)には経産省と財務省からそれぞれ数名出向、社長の私を補佐してくれました。5年間社長を務めましたが、任期の最後に経産省から出向してきた若い役人がユニークな熱血漢でした。ある事件があってその解決を先輩から引き継いだ新任はある日突然坊主頭で出社、どうしたのと訊ねたら「先方に誠意を見せるため頭丸めて交渉に行きました」。着任する前の事件、彼に責任はありませんが、自らの判断で坊主頭になって当事者を訪ねたのです。なかなかできることではありません。私が正式に社長退任を発表した夜、私は彼だけ連れて食事に出かけました。部下を坊主頭にさせてしまった上司として最後に美味しいものをご馳走せねばと思ったから。赤坂の寿司店から西麻布の居酒屋をハシゴ、たまたま2軒目に居合わせた前ヨウジヤマモト社長大塚昌平さんらと一緒にかなり盃が進みました。その佐伯徳彦さんは西海岸での勤務も経験し、今回の人事異動でなんとクールジャパン戦略及びファッション政策を所管する課長に就任。この熱血漢には課長在任中にクールジャパン関連事業が世界市場でしっかり旗を立てられるよう頑張って欲しいです。佐伯徳彦さんフリーランスで役所や役人には無縁だった私でしたが、気がつけば熱い官僚たちと共にファッションでもクールジャパンでも仕事する立場になっていました。クリエーションが重要な柔らか産業に従事しているのに不思議なもんです。
2024.07.09
閲覧総数 11269
9
1980年代三越のデザイナーブランド導入を推進した山縣憲一さん(のちにロロピアーナ日本法人社長)の葬儀、昨日田園調布のカトリック教会で行われました。パロマピカソとの契約交渉でパリとニューヨークを飛び回り、過剰なスケジュールが原因で自律神経失調症に。「太田、身体だけは気をつけろよ」と忠告されました。慶應義塾体操部の監督でもあり、丈夫な人だったので驚いたことを覚えています。ご冥福をお祈りします。
2022.08.19
閲覧総数 3137
10
今回杭州セミナーを企画してくれた金さん(英語表記Aaron Jin)の名刺をもう一度よーく見たら、会社名は「佐吉企业管理咨询(上海)有限公司」とありました。創業者の豊田佐吉氏金さんは大学卒業後豊田通商上海支店に就職、28歳のときに独立。社名「佐吉」はトヨタグループ創業者の豊田佐吉に由来しているのかもしれないと思って金さんにメールで問い合わせたところ、やはりそうでした。豊田佐吉の名前を知っている中国人がどれくらいいるのかわかりませんが、金さんは佐吉翁に敬意を込めてその名前を社名に引用したかったのでしょう。我々が大学で経営学をかじった頃はまだ米国自動車フォードのヘンリー・フォードが生み出した「フォード生産管理方式」が製造業経営のお手本でした。少品種大量生産こそが近代経営の成功事例、と。しかし、必要な物を必要な時に必要な量だけ作るトヨタ自動車の「トヨタかんばん方式」が効率的経営と評価されるようになり、20世紀の末にはフォード生産管理方式は主役の座から滑り落ちます。金さんは豊田通商在籍中にトヨタかんばん方式を先輩たちから、あるいは書物から学んだのでしょう。独立してサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を上海で立ち上げていろんな分野の生産ライン改善を契約企業にアドバイスしてきました。「良い工場は美しい。汚い工場はダメです」、金さんの言葉は繊維工場にも当てはまることです。大野耐一副社長商品の生産に関する合理的な考え方はグループ創業者の佐吉翁から子息でトヨタ自動車を起こした豊田喜一郎氏に受け継がれ、そしてのちに副社長の大野耐一氏によって体系化されたと言われ、大野副社長はその功績により日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りを果たしています。先日金さんと会食した際にこの大野耐一副社長の話で随分盛り上がりました。それは私のオヤジから聞いたエピソードでした。オヤジは激戦のインパール作戦から帰還すると最初は名古屋の松坂屋百貨店紳士服部に就職、高級注文紳士服のパタンメーカーとして勤務しました。私が生まれた年にオヤジは独立して名古屋市の隣の三重県桑名市でテーラーを開業しました。ところが松坂屋のお客様の中にはオヤジがカッティングした洋服でなければ満足できないという方が何人もいて、テーラーを経営しつつ松坂屋の納入業者にもなりました。常連のお客様が友人を紹介してくださるうちにいつの間にか桑名市のテーラーながらお客様のほとんどが愛知県の大手企業幹部やお医者様など富裕層に広がりました。その中のお一人が当時トヨタ自動車副社長だった大野さんでした。洋服が完成するとオヤジは愛知県刈谷市のご自宅に洋服を納品しに行きますが、大野さんからは「太田さん、我が家にトヨタ以外の車でやってくるのは君だけだよ」と笑われたそうです。オヤジの車はずっと日産でしたから。ご自宅にお邪魔して出来上がった洋服のフィッティングを確認すると、大野さんはいつもお土産をくださいました。いまでも覚えているオヤジのセリフ、「トヨタの副社長さんは食べてるバナナもものが違うわ」。納品から戻ったオヤジから手渡される大野家のバナナを手に取ると、確かにバナナは重く大きく立派、甘さもたっぷりでした。大野耐一氏講演の様子オヤジにいつも洋服を注文してくださる大野副社長が果たしてトヨタかんばん方式を世に広めた大野耐一氏かどうか私には正確なことはわかりませんが、1960年代後半にトヨタ自動車工業(まだトヨタ自動車販売と分かれていた)副社長で刈谷市在住の大野さんは多分この方ではないかと思います。だからネットや書籍で大野さんの写真を見るたび、このスーツは我が家で作ったものに違いないと勝手に思っています。トヨタかんばん方式を世に広めた功労者であろう方の洋服を作っていたテーラーの倅が、その考え方に触れてサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を中国で立ち上げた中国人の若者に招聘され、中国の経営者たちにトヨタ車の写真を何枚も見せながらものづくりの最重要ポイント、ブランディングの難しさやブランドDNAの継承を講義する。なんとも不思議な筋書きじゃないか、と金さんたちと盛り上がりました。経営学のバイブルだったフォード生産管理方式が時代の変化と共に徐々に評価されなくなったように、トヨタかんばん方式がいつまでもサプライチェーンマネジメントのバイブルであり続けるとは思えません。生産管理システムそのものはまだ当分通用するかもしれませんが、自動車というマーチャンダイズ(=商品)のマーチャンダイジングやブランディング戦略の点ではヨーロッパの自動車メーカーと比べて優位性があるとは思えませんよね。また、今回の中国出張でEV車開発では日本は中国メーカーよりもかなり遅れていると実感しました。トヨタかんばん方式の考え方は素晴らしいんでしょうが、この先日本の自動車メーカーはどうなるんだろう、ちょっと不安になりました。中国語版「大野耐一的現場管理」
2023.12.23
閲覧総数 4865
11
8月18日田園調布のカトリック教会で山縣憲一さんの葬儀があり、参列させていただきました。このブログを読んでくださっている三越OBから連絡があり、11日午後病院で亡くなったことを知りました。祭壇のご遺影を眺めながら、三越本社での最初の出会いからニューヨーク駐在時代、三越本社、そしてパロマピカソ、グッチ、ロロピアーナ時代のことをあれこれ思い出し、涙が出てきました。1週間前のオフクロの死に涙は出なかったのに。告別式のお知らせを読んで、45年間私は大きな勘違いをしていたことが判明しました。帰国以来ずっと「山懸憲一」と思って年賀状や手紙を送ってきましたが、本当は「山縣」でした。三越本社で紹介された半年後、三越の初代ニューヨーク駐在員との名刺交換は英語、考えたら日本語の名刺をもらったことがなく、勝手に「山懸」だと思い込んでいたようです。「太田、違うぞ」と言ってくれなかったので45年間気がつかず、葬儀当日に間違いがわかるとは皮肉なものです。葬儀で繊維商社香港支店で鳴らした弟さんがご遺族挨拶の中でもおっしゃっていましたが、山縣さんはいつも人に媚びることなくマイペース、自分が納得しないことには動きません。だから山縣さんのメールアドレスはmyway-charlie@だったとか。三越事件で世間を騒がせた岡田茂社長(当時)とその愛人だった「三越の女帝」竹久みちの要求に屈しなかった山縣さん、彼らに追放される寸前に社長の解任と特別背任罪逮捕があって間一髪助かりました。ニューヨークオフィスの買付商品を竹久の会社オリエント交易を通さなかったので目をつけられ、それが理由で帰国命令が出たときに繊研新聞ニューヨーク通信員でもある私に詳しく話してくれました。もちろん記事にはしませんが、三越はとんでもない状況になっているとこのとき知りました。名古屋三越の店次長だったときも、セミナーで出張した私と早めのディナーに合流、心配して「お店は大丈夫なの」と訊いたら、「今日は休みにしたよ。嫌いな役員が本社から来るからさ」。岡田天皇にも三越の女帝にも屈しなかった、上司にゴマスリできない性分を知っているから三越の部下や取引先ブランド企業にも慕われていました。帰国して三越本社のファッション部隊に配属され、国内のDCブランド導入に奔走した話は以前ブログで書きましたが、この頃のエピソードをもう一つ。ビギ、ニコルをはじめ多くのブランドを導入しはじめた山縣さんにとって最も交渉難航したのが某デザイナー企業でした。パリの有力メゾンで修行中だった若きデザイナーに当時ブランドと提携関係にあった三越のパリ駐在員は、三越のスタッフでもないのに「明日までにコレクションのスケッチを(大量に)描け」と命じるなど、極めて横柄な態度で接したそうです。将来自分のブランドを立ち上げたら絶対三越とは取引しない、若きデザイナーはそう決心するくらい駐在員は酷かったとか。山縣さんと交渉するこの企業の営業担当は山縣さんの人柄もあって三越との取引を進めたかったようですが、パリ修行時代に嫌な思いをしたデザイナーご本人の了解はなかなか得られません。東京ファッションデザイナー協議会発足直後、山縣さんは「太田から話してくれないか」。デザイナーの気持ちはよくわかりますし、もし私がその立場なら嫌な会社からの話は断るでしょう。しかし、アニキ分から頼まれた私はタイミングを見計らってお願いしました。「友人の山縣は三越らしくないいい男なんです、一度話だけでも聞いてやってくれませんか」、と。恐らくいきなりコレクションブランドというわけにはいかなかったのでしょうが、別ブランドで三越との取引は始まりました。その後三越仙台店長だった中村胤夫さん(のちの三越社長)が一生懸命後発ブランドの導入交渉をするなどして三越との関係は密になり、いつの間にか三越は国内で重要な取引先になりました。山縣さんと当時の営業担当や役員たちの信頼関係があったからこそ実現したことです。弟さんのご遺族挨拶でもう一つ謎が解けました。グッチジャパンに転職する経緯です。バーニーズジャパン初代社長の田代俊明さんが伊勢丹の小柴社長に辞表を提出した日、私は田代さんを荒木町の日本酒居酒屋に誘い、三越の山縣さんも交えて会食しました。このとき田代さんがグッチジャパン社長に就任することは決まっていたようですが、紹介した山縣さんを田代さんがグッチに連れていった思っていました。が、三越を退職してから次の職が決まっていなかった山縣さんにグッチから誘いがあった、どうやらこれが真相のようです。また、その後グッチ本社の社長の推薦があって山縣さんはロロピアーナ日本法人の社長に就任、ほかにもアメリカのいくつかのブランド企業から日本法人社長を打診されていました。長いものに巻かれない性格、ニューヨーク駐在の経験もあったので外資企業からは誘われない方がおかしいでしょうね。私がブランド企業の社長を退任する際に八雲茶寮で慰労会を開いてくれたのが山縣さん、バーニーズで田代さんの部下だった有賀昌男さん(エルメスジャポン社長)、デザイナーの皆川明さんと私の教え子たち、ありがたい業界仲間です。山縣さんとはニューヨークでも東京でも何度もご馳走になりましたが、葬儀でご遺影を眺めながらなぜか八雲茶寮の慰労会のことを思い出しました。いまはただご冥福をお祈りするのみ、山縣さん長い間ありがとうございました。
2022.09.06
閲覧総数 727
12
最近百貨店など商業施設でアパレルメーカーやブランド企業の幹部や営業・販促担当をとんと見かけなくなりました。本社のパソコンで在庫の状況や売上を把握できるから売り場を歩いて目視しなくてもよくなったからか、それとも以前より社内会議が増えたからか、理由はわかりませんが彼らと遭遇する場面はほとんどなくなりました。昔は大手アパレル取締役営業本部長クラスが数人の部下を連れて売り場を歩く姿をよく見かけたものですが。かつて経営トップの中には本社にスタッフの姿がないと「どこ行ったんだ」と不安で怒鳴る人は少なくなかったんですが、私は逆に自分のデスクに座っている社員を見ると不安になり、「時間があったら売り場に行けっ!」とよく言ったものです。加えて、「売り場で売上だけ販売スタッフに聞くのはダメ」「どんなお客様に、どのような商品が売れているのか、どういう買い方をなさるお客様が多いのかを聞いてこい」とうるさく言いました。早くも春夏物セールがはじまり週末はどこも賑わっています洋服ブランドをお求めになるお客様には、トップスとボトムを組み合わせて購入なさる方もいれば、色違いの同じデザインのものを複数枚お求めになる方や、トップスであれボトムであれ1枚だけ購入される方など十人十色、どういう買い方をなさるお客様が増えているのかを知っているのは店頭スタッフですから売り場で彼らにヒアリングするよう本社スタッフに求めました。商業施設の側の本部社員や幹部も同じ。売り場を歩いていると頻繁に顔を合わす経営者もいれば、売り場で一度も見かけたことのない経営者もいます。後者のような会社を私は信用していません。長く懇意に付き合ってくださった「百貨店経営の神様」山中鏆社長(I.F.I.ビジネススクール初代理事長兼学長)は開店時間直後の百貨店売り場を歩くため秘書に午前中アポを入れないよう命じていましたし、売り場を歩くためにゴム底シューズを履いていました。売り場歩きを大事にした山中さん山中さんは売り場でベンダーの販売スタッフや百貨店売り場担当にいくつか質問したり気がついたことをアドバイスしてその場を立ち去ると、壁や柱の陰に隠れている責任者が社長がその場でどんな発言をしたのか販売スタッフらに聞く。その行動がわかっているから、「販売スタッフにあれこれ言っておくと柱の陰にいた部課長に伝わるんだよ」、山中さんは笑いながらおっしゃってました。さすが「神様」、よく売り場を歩きました。いまや世界的に有名なラグジュアリーブランドのオーナー経営者、来日するとき売り場をよく歩くのでシューズは自社グループブランド革底靴ではなく、歩きやすいゴム底と聞いています。この経営者が売り場で指摘した点を次回来日するまでに修正、改装していないとジャパン社トップの首が飛ぶという噂があるくらい売り場を重要視している経営者なのでしょう。数年前の夕方、山中さんの出身百貨店である新宿伊勢丹の視察に行くと、当時のO社長からたびたび呼び止められ、ときには「お買い上げありがとうございます」と背後から声をかけられましたが、百貨店経営者は開店時間直後か混雑する夕方のいずれかは絶対に基幹店売り場を歩くべき、売り場で経営者を見かけない百貨店はろくでもない。私はいまもそう信じています。ニューヨーク時代に米国式マーチャンダイジングの極意を習得しようと連日売り場を歩いた私、ブルーミングデールズやサックスフィフスアベニューなどで頻繁に遭遇する日本人がいました。あの頃伊勢丹現地オフィスのコーディネイターをしていたS女史と、海外ブランドをどの百貨店よりも多く輸入していた西武百貨店のK駐在員、このお二人とは何度も売り場で顔を合わせました。Sさんはニューヨークをたたんで帰国するという噂が日本に流れてきたので、山中理事長とI.F.I.ビジネススクールの講師要請しようと帰国を促したことがあります。結果的に私と同じ職場で数年間働き、彼女は再びニューヨークに戻りました。西武百貨店Kさんは帰国後ラルフローレンやトミーフィルフィガーの日本法人社長を務めた人、残念ながら早く亡くなりました。この二人とニューヨークの売り場でよく遭遇したことは懐かしい思い出であり、私の青春時代の象徴的シーンです。私は10年間ブランド企業の経営者として本社の部下たちを連れてよく売り場を歩き、売り場における定数定量の問題点やマネキンの洋服の飾り方改善を口酸っぱく言い続けました。みんなかなりの年少で肉体的には私より相当勝っているはずなのに、連れて歩くと必ず私より歩くのは遅いし先にバテるんです。売り場を頻繁に歩いていない証明です。でも、一生懸命何かを吸収しようとハーハー言いながら私に付き合ってくれたものです。VPのお手本として感心するブランド(上)コムデギャルソン (下)マックスマーラしかしながら、近年売り場でアパレル本社の人間を見かけなくなりました。だからでしょうか、多くのブランドショップのVP、VMDは無茶苦茶、お客様に魅力的な飾り方をして足を止めるべきなのにこんなに汚いマネキンなら飾らない方がマシじゃないかと言いたくなる場面が増えました。はっきり言って売り場はどこも荒れていますね。ビジネススクールはじめ各種教育機関の授業でも、個別企業の社内MD研修でも、これまで売り場視察の具体的方法やマーチャンダイジングの基本、VMDの重要性を多くの人に伝授してきましたが、残念ながら近年売り場は乱れに乱れています。ファッションビジネスの中心が店頭販売からオンラインに移行しているからでしょうか。だからいま一度業界の責任者に申し上げたい。自ら売り場を歩いて、自社がどんなに酷い売り場運営をしているのか、ご自分の目で確かめてみては、と。もっと売り場を歩きましょうよ。
2024.06.29
閲覧総数 10190
13
昨年末と今年2月に続いて三度目の中国研修から戻りました。上海から杭州に入ってファッション企業幹部に丸1日、翌日ミナペルホネン皆川明さんの講演を聴いてから一緒に上海に移動。そして次の日は皆川さんと別れて上海の対岸にある寧波に。ここで中国最大手紳士服メーカーYOUNGOR(ヤンガー)創業者や経営幹部と会食、翌月曜日は午前と夕方の二部制で社員研修をさせてもらいました。ブランドDNA確立と継承が今回のテーマ最もDNAを継承しているブランド事例を説明過去2回の中国研修では主にマーチャンダイジングの基本的を中心に、ファッションをいかにロジカルに受け止め計画的に市場展開するか、言い換えれば「儲ける方法を共に考えましょう」でした。が、今回は直接的に儲ける話ではなく、ブランドビジネスの観念論、ブランドにとって重要な他社とは違うDNAをいかに作り上げことの重要性と、それを長く継承することの難しさが主題、果たして中国のビジネスマンに響くのかどうかちょっと心配でした。儲け話ではないのでしらけるのではないか、と。しかも2日目はデザイナーの皆川明さん、ご自身の展覧会で表明した「百年つづくブランド」を目指してどういう種まきをしているのか中国で話してくださいとお願いしたので、ミナペルホネンの成功体験でもなければ儲ける話でもありません。ところが意外や意外、会場の雰囲気からはセミナー参加者にはかなり響いたみたい、嬉しかったです。初日終盤の休憩時間中、ひとりの男性が通訳さん(同時通訳レベルで丁寧に解説してくださる方)に何やら長々と話していました。通訳さんに尋ねたら、いかに重要な話を聴いたか、自分はどれくらい感動したかを延々と感想を語ったとか。聴くうちに身体が熱くなり、将来が明るくなった気がする、と私も言われました。講演後参加者とのパーティーでも、ブランド経営者たちはやや興奮気味に感想を私に話してくれました。決して直接的な儲け話ではなかったのに。オリジナル素材を紹介しながら講演する皆川さん講演後皆川さんは多くの参加者から質問攻め地球環境を考え無駄なことはしない。余った生地はホームソーイング用に測り売り。織物工場が安心してものづくりできるよう何度も同じ技法の素材を発注するだけでなく、生産量と工場の空き具合を考えながら素材発注。アトリエのスタッフには刺繡にどれくらい時間とコストがかかったのかを報告させ、ものづくりのコスト意識を持たせる。生地の重量とコートの長さの両方のバランスからコートの最終デザインを決定する等々、ミナペルホネンのものづくりの姿勢を淡々と語る皆川さんの話、素晴らしかった。日本の一般アパレル経営者にも聴かせたいと思いました。私は「唯一無二」を連発、ブランドDNAは何もシャネルやクロエのようなデザイナー系ブランドに限ったことではなく一般アパレルメーカーにも必要なこと、それがないとブランドはお客様の信頼を徐々に失い、市場での存在感はどんどんなくなるという話をしました。米国GAPはどのタイミングから日本製デニムを使わなくなって低価格アジア製デニムに切り替えたか、それがどういう結果を招いたのかも詳しく話しました。一方、ユニクロは商品タグにわざわざ「カイハラデニム」を表記、それを使用している理由を消費者に訴求している。またユニクロはパリを代表するブランドと同じウールジャージーを起用していることも伝え、単純にコストカットしているわけではないと説明しました。ブランドDNAはデザイン、アイテム、色や柄の伝承などのではなく、ものづくりの精神性にあるとも説明、これが参加者のハートにそこそこ響いたようです。初日講演後参加者と記念撮影講演後、会場からすぐの場所で直営店舗を構えるブランド(経営者は集合写真で私の左)ショップを訪ねました。洋服をかけるハンガーの使い方に関して「どうして中国のブランドは服をこのように掛けるのが好きなんでしょう」と質問しました。トップスは普通にハンガー掛け、ボトムは長いフック(金具)をセットしてそれにハンガーを掛け、トップスの下にボトムがくるように並べる方法、個人的にはこの方法は反対、トップブランドの多くはこんな余計なことしていませんと説明。翌朝このショップを覗いたらハンガーラックにたくさんつけていた長いフックは全て撤収されていました。中国の人はアドバイスに納得したら即行動、そのスピード感はのんびり日本とは大違い。だから中国ではアドバイスのしがいがあります。全国オンライン参加もあったヤンガー者の社内研修寧波では日曜日にも関わらずヤンガー創業者や経営陣が出迎えてくれ、皆さんと楽しく会食しました。ちょうど今年は創業45年、私の講演午前の部と夕方の部の間に創業祭イベントが組み込まれていました。いまやグループ売上は2兆円の大企業、かつてアトリエサブの田中三郎さんら日本や欧米業界人が長く顧問としてアドバイスした会社だそうです。一代で2兆円規模に導いた創業者李如成さんのリーダーシップはさすが、「私の言うことは聞いてくれないので先生から話してもらいたい」と謙遜なさってましたが、でもどう見てもワンマン社長タイプ、彼の強烈なキャラクターが成長要因でしょう。ヤンガーでは午前の部でマーチャンダイジングの事例をお話しました。誰に、何を、どうのように、いくつ販売するのか仮説を立てて仕事しましょう。発注はギャンブルみたいなもの、リサーチを十分に行って思い切り大胆に発注すべき。ちまちました発注は機会ロスを生むだけ、しかも機内ロスの回数はカウントできない、コンピュータのデータにあがってこない。ファッションバイイングは一種のギャンブル、楽しまなきゃ。いつも日本で教えてきたことを会場150人、全国各地の営業所からオンライン参加も入れると300人の幹部が参加してくれました。午後の部は杭州セミナー同様「ブランドDNAの確立と継承」をテーマに講演。質疑応答にたっぷり時間をとって欲しい、私をヤンガーにつないでくれた中国コンサル企業からそう言われていたので話をコンパクトにまとめました。ところが、事前に聞いていた質疑応答はなくそのまま終演、ちょっと拍子抜けでした。オーナー社長の前で社員は下手な質問できないだろうと幹部が忖度して切り上げたのか、それともブランドDNAなんて観念論は最大手企業幹部には面白くなかったのかは不明です。杭州セミナー、寧波のヤンガー社員研修の結果はそのうち2つのプログラムを企画した佐吉事業コンサルティング社の金時光さんから連絡が来るでしょう。儲ける話でない中国でのセミナーが実際参加者にどのように受け止められたのか、本音の意見を知りたいです。
2024.07.27
閲覧総数 13824
14
デザイナーのヨーガン・レールさんが石垣島での交通事故で亡くなってもう8年、会社ヨーガンレールはビギグループから独立し、ヨーガンさんの意志を継いだスタッフたちがそのナチュラル路線を守っています。今日は久しぶりに江東区清澄の本社での展示会にお邪魔しました。このオフィスはずっと社員の福利厚生策として社員食堂でベジタリアンランチを提供し続けていますが、展示会期間中は我々訪問客もご馳走していただけます。ヘルシーで美味しいランチをいただき、新作を拝見してきました。個人的には晩年ヨーガンご本人が力を入れていた「ババグーリ」(以下の写真すべて)にもっと伸びる可能性を感じました。あくまで会社側にビジネスを拡大する気があればの話ですが。服だけでなくリビング雑貨のバリエーションもあって、ヨーガンが確立したかったババグーリ独自の世界観が理解しやすいですよね。できれば衣食住をトータルに訴求する実験、ポップアップや他ブランドとのコラボを仕掛けてもらいたいし、このブランドにはあまり価格のことなんぞ考えずに上質素材をどんどん使って日本のちょっと贅沢で素朴な暮らしの提案をして欲しいですね。スタッフの方々には「こんなことやったらどう」と余計なことをアドバイスしてきました。
2022.10.04
閲覧総数 5877
15
前述したIFIビジネススクールは1994年試験的な夜間プレスクールを開講、その後夜間プログラムを増やして98年には全日制2年間マスターコースがオープンしました。知識やノウハウを提供するのでなく、山中鏆理事長の言葉を借りるなら「実学で問題解決能力を身につけさせる」、これが建学精神でした。DCブランドブーム時代に人気があったアトリエサブの田中三郎社長から「息子を海外のどの学校に留学させたらいいだろう」と相談されたとき、数ヶ月後にビジネススクール全日制コースが始まるとIFI入学を勧め、また大学出たらファッションの道に進みたいと言い出した私の甥にもIFIを勧めました。実学で鍛える学校、なにも海外に行かなくても日本で教育できると信じていましたから。1986年私塾「月曜会」を始めたとき、自分なりの実践教育を日本でやってみようと考えました。そのベースとなったのは、私自身がかつて受講したパーソンズ(Parsons School of Design)夜間プログラムのバイヤー研修。売り場に並ぶ商品そのもの、品揃え、陳列方法が教材、毎回出される宿題は自ら売り場に行って考えなければならないものばかり、特に「敵情視察」はキツい、でも最も役に立った授業でした。業界の中心地7番街西40丁目角のParsons校舎1994年2月、IFIに委託されてニューヨークに出張、パーソンズの関係者にヒアリングして同校の実践教育をレポートしました。このときその教育方針を詳しく教えてくれたのは、名物学部長だったフランク・リゾーさん(交友録32で紹介)、マーケティング担当だったディーン・ステイドルさん、デザインの歴史を指導するジューン・ウィアーさん、多くの米国デザイナーを育て「ゴッドハンド(神の手)」と称されたパタンメーキングの名手ツヤコ・ナミキ先生でした。中央:ジューン・ウィアーさん、右:ディーン・ステイドルさん私がニューヨークコレクションの取材を開始した70年代後半、ジューン・ウィアーさんは専門媒体WWD紙の編集長でした。パリ五月革命に遭遇して「オートクチュールに未来はない」と渡米を決断した若き三宅一生さんが最初にポートフォリオを見せに行ったのがウィアー編集長。彼女は三宅さんのポートフォリオを見るなり当時人気デザイナーだったジェフリー・ビーン氏に電話をかけ、「ジェフリー、いま私の目の前にあなたにぴったりの若者がいるの。そちらに行かせるから会ってあげて」。こうして三宅さんはジェフリービーン社でアシスタントデザイナーを務め、のちに日本に帰国しました。「あの日のことはいまもよく覚えているわ。イッセイのポートフォリオを見た瞬間、ジェフリーに紹介しなきゃと思ったの」。上の写真撮影のときにウィアーさんから直接伺った話です。彼女はWWD編集長の後ニューヨークタイムズ紙日曜版エディターになり、退職してパーソンズで教鞭をとり、大手流通企業の社員研修でもファッションデザインと時代との関係を教えていました。ジューン・ウィアーさん概して、ファッションショーの最前列に陣取る主要媒体のベテランエディターや編集長は眉間にシワを寄せ、眼光鋭く登場する新作をチェック、きつーい性格なんだろうなという女性が少なくありませんでした。が、彼女は珍しく温和で人当たりの優しい方、多くのデザイナーに愛されました。この人の存在を日本に伝えたいと思った私は原宿クエストビルが主催するフォーラムの特別講師に彼女を招聘、企業研修用の貴重な写真とともにモードの変遷を解説してもらいました。ツヤコ・ナミキさんは以前このブログで触れた原口理恵基金「ミモザ賞」の受賞者のお一人。ペリーエリスのアシスタントデザイナーだったアイザック・ミズラヒ氏が独立して自分のブランドをスタートするとき、パーソンズの恩師だった並木先生にパタンメーキングをお願いし、学校で指導しながらアイザック社のチーフパタンナー兼務でした。ゴッドハンドの並木ツヤ子さん以下はミモザ賞10周年記念本に寄せられた教え子デザイナーたちのコメント。「花には太陽があるように、我々には並木ツヤ子がいる。彼女は太陽のように力強く、何も言わず、キラキラ輝きながら、至極当然のように創造を可能にする。」 (アイザック・ミズラヒさん)「誰しも生きる上で、アドバイザーや教師、すなわち自分を親身になって支え、励ましてくれる人を求めるものです。生徒が自分の創造性を模索する途上で経験する色々なこと(良いことも悪いことも)を常に温かく見守り、理解を示してくださる師、それが並木さんでした。先生はいつも公私両面で私を支えてくださいました。彼女はまさに時間や年齢を超えた存在です。」 (ダナ・キャランさん)「並木ツヤコ子さんは私にとって奇跡のような存在です。先生、アドバイザー、セラピスト、何でも話せる母親、魔術師、友人としての側面をすべて兼ね備えているからです。こうした面を持つ並木さんはこの地球に存在する最高の人間であり、私は常に敬愛申し上げております。」 (ジェフリー・バンクスさん)3デザイナーのコメントからも並木さんがいかに慕われていたかわかるでしょう。会食している間は失礼ながらごく普通の優しいおばさん、しかし話題がこと人材育成になると急に目がキリッと鋭くなって別人の表情に豹変、並木さんは根っからの教育者でした。パーソンズ退官後帰国され、目白ファッション&アートカレッジ(小嶋校長がパーソンズ出身)で指導されていました。恐らくもう引退されていると思いますが。パーソンズ流実学を最もわかりやすく解説してくれたのがディーン・ステイドルさん。私がニューヨークで取材活動をしていた頃ファッションショー会場でよく見かけたマーケティング専門家です。彼の授業の教材はニューヨークタイムズ紙の記事、いわゆる教科書の類いではありません。例えばパリコレの記事を読んで、書いたエディターの意見を自分自身はどう思うのか学生に発表させます。インターン研修でデザイナーブランドに配属されると、学生は売り場に行ってブランドの想定ターゲット、コレクションの特徴、市場競争力を考察、アシスタントデザイナーになったつもりでデザインします。そのためのマーケティングの目をステイドル先生は鍛えますが、ここにはアカデミックな「マーケテイング論」や「マネジメント論」は存在しません。学生から慕われていたステイドル先生90年代前半からニューヨーク出張のたびステイドルさんの講座で私は特別講義を担当しました。「もっと米国以外のブランドにも目を向けるべき」と発言したら、米国有力ブランドからの誘いを振り切ってヨーロッパに渡った学生が数人いて、「あなたの影響で優秀学生はヨーロッパに行ってしまったよ」と言われました。年間最優秀学生の一人は「どうしても日本で働きたい」と熱望、卒業後私は彼女の来日を根回ししたこともありました。特別講義の最後に私は必ずこのセリフを言いました。「いま私が教えたことは、かつて私がこの教室で教えてもらったことです」と。パーソンズの夜間プログラムで売り場の見方を鍛えられた日本人が後年同じ教室で学生にそれを伝授する、一種の高揚感がありました。出張のたびステイドルさんとはよく意見交換しましたが、ある日彼から1つ頼み事をされました。ウィスコンシン大学時代に学生寮のルームメイトだった日本人を探して欲しい、と。自宅が火事で学生時代のものは全て消失、記憶にあるのはルームメイトのニックネーム「ベン」、彼の実家は「ティーカンパニー」、「エンペラー(天皇陛下)と交流があるようだ」の3点でした。帰国して3つのヒントをもとに日本茶専門紙などに当たってもらいましたが、ベンはなかなか発見できません。ところが読売新聞社の生活家庭部の若い記者さんが「ひょっとしたら」と有力候補を教えてくれたのです。記者さんからもらった番号に電話して、奥様に「ご主人は若い頃ウィスコンシン大学に留学されていましたか」と訊ねたら、まさにステイドルさんのルームメイトでした。有名な日本茶会社の経営者、天皇陛下(現在の上皇様)のご学友、ファーストネームはBで始まる名前なのでニックネームは「ベン」。ステイドルさんは30余年ぶりにベンさんと日本で再会できました。しかもベンさんは私を松屋にスカウトしてくれた古屋勝彦社長をよく知る先輩、なんとも不思議なご縁でした。私流の実学はパーソンズの先生方との交流でヒントをたくさんもらい、何度も教え方に改善を加えて作ってきたものですが、一番見習ったことは、学生に対する厳しい姿勢と同時に優しい目線でした。人を育てるコツはなんといっても愛情ですから。
2023.06.06
閲覧総数 9320
16
先日、かつて同じ職場で働いた仲間で私が指導する社内研修の教え子、現在は諏訪湖の近くで会社を経営する小畑啓くんから会食のお誘いがありました。なんでも彼の叔父さんがイタリアの由緒あるワイン醸造村「カステッロ・ディ・ルッツァーノ」でワインをつくっていて、それを日本で輸入販売している人を紹介したいとのことでした。待ち合わせ場所は南青山4丁目にあるテーラーDrapper Hope、この店の代表でもある中野洋平さんを訪ねました。中野さんは神奈川県のサッカー高校としても有名な桐光学園の背番号10だったとか。製薬会社勤務を経て突然テーラーを起業したのは、サッカーで鍛えた身体にドンピシャサイズの既製服がなく、オーダーメイドは値段が高過ぎる、もっとリーズナブルなオーダー服をつくりたいという理由から。ファッションの世界での経験はゼロだった人がテーラーを開業とは驚きです。中野さんはご縁があって小畑くんの叔父さんがイタリアワインの販売も手がけることになりました。中野洋平さん(右)と小畑啓さん(中)とビストロで記念撮影南青山のテーラーから西麻布のビストロ「帝国食堂」に移動、美味しい料理と中野さんが持ち込んだワインをたっぷりいただきました。バランスの取れた私好みの白ワイン、早速知り合いのソムリエやレストラン事業者を紹介することに。ワインのことはこちらをのぞいてみてください。ほんとに美味しいです。www.castelloluzzano.itここでの本題はこのワインではありません。小畑くんのご両親のことです。2009年5月、当時私が社長をしていたアパレル企業の株主総会の夜、私は部長以上の幹部およそ20人を銀座7丁目のおでん屋「力」(りき)の2階座敷に集めました。そこそこお酒が入ったところで、「来年社長を退任するぞ」と宣言。業務革新が終わったら雇われマダムを退いて生え抜き社員にバトンタッチするつもりでした。社長就任当初、会議で「定数定量」と私が言えば下を向いてクスクス笑っていた社員たち、マーチャンダイジングの基礎を教え続けたら若手社員でさえ定数定量を意識して仕事をするようになりました。つまり私の役目はそろそろ終わりと思っていました。銀座おでん屋・力でも幹部たちは「冗談でしょ」と知らんぷりでした。が、翌年5月の株主総会の夜は同じ銀座の力で社長退任慰労会でした。前年の宣言通り私は社長退任し、生え抜き社員を後継に指名、総会で正式承認されて肩の荷が下りた楽しい宴席でした。いつも大人数でおしかける私たちをケアしてくれたのが小畑くんの母上。残念ながら数年前に急逝されたと先日聞きました。太平洋戦争の米軍空襲で東京は焦土と化したけれど、銀座はほんの一画だけ焼けずに建物が残りました。その燃えなかった古い1軒家を借りておでん屋をやっていたのが小畑くんの父上、小畑豊さんと奥様。関東風の濃い味ではなく、小畑さんのつくるおでんは昆布の出汁がきいた関西風の優しい味、関西圏生まれの私にはぴったりの味でした。だからことあるごとに利用させてもらいました。小畑豊さんのご先祖が慶應義塾の塾長だった小泉信三さんと関係が深かったことで、小畑さんは幼稚舎からの慶應ボーイ。ところが慶應義塾大学を中退して大阪の有名な料理人「㐂川」店主の上野修三さんに弟子入り、料理の道に転じました。㐂川育ちですから関西風の出汁だったのです。ちなみに啓くんはその頃大阪で生まれ、ご両親の転居で東京育ち、そして大学は私の後輩にあたります。力の小畑ご夫妻1995年、大親友の急逝に直面して私は本当にやりたい仕事をやろうと東京ファッションデザイナー協議会議長を退任。当時松屋社長だった古屋勝彦さんに誘われて百貨店に移籍、社員たちにマーチャンダイジングを教え始めました。外部の人間がそれなりの立場で老舗百貨店の組織に入って業務革新をやろうというのですから、社内にいろんな抵抗や軋轢が生まれます。このとき幹部社員たちとの飲み会に私を何度も誘って融和の機会を与えてくれたのが創業家一族の専務取締役古屋浩吉さんでした。古屋さんには銀座、浅草のお店を何軒も連れていってもらいましたが、そのうちの1軒が銀座の力。古屋浩吉さんはその後松屋社長に就任した後相談役のまま2018年に亡くなりましたが、私はいまも古屋さんに連れていってもらった焼き鳥屋、蕎麦屋、カウンターバーなどに通っています。実は力の小畑豊さんと古屋専務は慶応の同期、いわゆる竹馬の友。啓くんが松屋に就職したのもおそらく古屋専務の勧めがあったからでしょう。私は若手社員が力のご夫婦の息子だと最初は知りませんでしたが、力にお邪魔するたび小畑くんの母上は「うちの息子、ちゃんと仕事していますか?」と声をかけ、啓くんが退社して奥さんの実家の家業を継承するため諏訪に移住したら「ちっとも東京に帰って来ないんですよ」と漏らしていました。寡黙な料理人の父上、客あしらいのうまい明るい母上でした。先日中野さん、小畑くんとの雑談の中で面白いつながりがわかりました。イタリアでワインをつくっている叔父さんの奥様の旧姓を聞いてびっくり、神戸の灘地区で有名な珍しいファミリーネームでした。数年前、かつて古屋浩吉さんに連れて行ってもらった銀座のカウンターだけの小さなバーでのこと、松屋の歴代幹部をよくご存知のママさんと会話する中でお互い会社名を「М社」と言っていたら、隣席の男性客が「すみません。М社は銀座交差点に近い方ですか、それとも遠い方ですか。私のいとこが遠い方のМ社の....」と名刺交換。某大手食品メーカー役員Hさんでした。このHという姓名にピンときました。私をスカウトしてくれた古屋勝彦社長の奥様の母上の旧姓がHです。非常に珍しい姓名なので何代か遡れば小畑くんの叔母さんとは何か関係があるのかもしれません。叔母さんの父親は大手総合商社の元幹部、海外駐在も長く叔母さんは海外で育ったそうですから、きっと灘の富裕層でしょう。小畑くんの父上が慶應で仲良しだったのが古屋浩吉さん、母方の叔母さんの旧姓Hは古屋勝彦夫人の母上の旧姓と同じ、小畑くんによれば彼のご両親も古屋浩吉さんも恐らくご存知なかっただろう、と。ちなみにM社前社長は古屋勝彦夫人の弟である秋田正紀さん(現会長)、現社長の古屋毅彦さんは勝彦夫妻の長男です。さらに、小畑くんと仲良しの格闘家が所属する団体の会長はいろんな大臣を歴任した元代議士の深谷隆司さん、その甥っ子と結婚したのが古屋浩吉さんの次女です。また、小畑豊さんの料理の師匠上野修三さんの共著「酒肴 日本料理」(小畑豊さんが大事にしていた本)のパートナーはテレビでもおなじみ道場六三郎さん、道場さんの孫は私の息子たちの有機栽培農場で働いています。いろんなつながりがあるんです。たまたま元教え子の叔父さんが手がけるイタリアワインを飲むために集まったのですが、いろんな話をするうちに小畑家の「ファミリーヒストリー」(NHK番組)みたいになりました。不思議なつながり、世間はほんと狭いです。
2024.02.23
閲覧総数 7670