温故知新

2005.03.12
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あ…

その上に大人用のダイニング椅子が覆いかぶさっていた。

一瞬、彼女の口からは聞いたことのない、小動物の甲高い悲鳴のような声をほとぼらせた後、しばしの沈黙。
そして、火が点いたように泣き出し…もせず、そのまま静寂の中で横たわっていた。

時間は、夕方6時。
その日は夫が、家で仕事をする、といって帰ってきていた。

食事の準備と、彼の仕事場所の確保。
普段から汚くしているため、これがなかなか終わらない。



火にかけている鍋を気にしながらも、彼が仕事をする場所に溜まっていた物を、
空いている場所へとピストン輸送していた。

たとえ、仕事場が汚くても、子供が遊び絡んでいっても、彼は気にはしない。
子供が遊びに行けば、それをきっかけに少し休憩し、また、仕事モードに戻っていく。
だからこそ、こちらも彼に甘えず、彼が仕事をし易いように気を使ってあげなくては…と、頭はそのことでいっぱいになった。

いや、それだけではない。
娘の保育園が決まり、その準備に、半ば浮かれていたのだろう。
購入した物や、名前付けの最中のものも、散らばっていた。

そんな中、彼女は私を戒めるかのように、椅子から落ちた。

それでも。

私は思った。



聞いたことのない声をあげ、いつまでも起き上がらない彼女を、静かだから、と、それをいいことに、作業を進めていった。

…どれぐらいが経っただろう。

食事も出来、彼も仕事をやり始め、やれやれと思って娘を見ると、床で遊んでいた。

ご飯だからおいで。

と、言っても来る気配がない。



その光景は今でも忘れられない。
心臓が壊れ、血が逆流したかのような衝撃と共に、きっと一生、忘れないだろう。

娘が左足を引きずって歩いてきたのだ。

一歩歩く毎に顔をしかめ、不安そうに、周囲に支えるものを求めて、細い両手を伸ばしている。

私は夢の中を走っているかのようなもどかさを感じながら、彼女の元へ駆け寄った。
庇っている左足を点検し、頭に陥没した後がないかを確かめていた私の手は、きっと震えていただろう。

左足の甲の骨にヒビ。

それが彼女の診断だった。

子供に怪我はつきものだ。
これから保育園に入れば、ある程度の怪我や喧嘩もしてくるに違いない。
だから私は、そのことがショックだったのではない。

いくら他に目がいっていたとはいえ、我が子が椅子から落ちたのに、その怪我の有無はともかくとして、瞬間、トロい、と、思った、
そのことが悲しい。
その状態がいつもと違う、と、咄嗟に分かったのに、それを優先させなかった、自分の母親としての資質が、なんとも情けなくて悔しい。

翌日。
娘は歩こうとしなかった。
歩くどころか、ハイハイすら、立つことすら拒んだ。
気落ちしたように、一日中、肩を落として、食事もほとんど手をつけなかった。

痛みの走った足よりも、きっと、何分か、何十分か分からないが、あの静寂の時間。
彼女がどれだけの痛みと、不安と、叱られるかもしれない、という恐怖との中で、うち震えていたのだろう、と、思うと、
あの場で、大きな声で泣き叫んで助けを求めなかった娘に、自分との関係を通告されたような気がして、気が狂いそうなほど辛くなった。

身体に力が入らないのか、赤ちゃんに戻ってしまったようにクネクネした娘の体を抱き寄せると、涙が自然とばたばたと音をたてて娘の顔に落ちた。

ごめんねごめんね、と、呪文のように繰り返して娘の顔に頬をすり寄せたが、その表情を何度見ても、私を責めているようには見えなかった。
足に痛みを抱えているとは到底思えないような、いつもと全く同じ笑顔だった。





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Last updated  2005.03.14 18:14:38
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