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魂の還る場所
transition
このまま電車を降りずに終点まで乗ったら?
この角を右じゃなくて左に曲がったら?
その先には何があるんだろう?
「…てことを毎日思ってたんだけどね」
カフェオレ・ボウルになみなみと注がれたそれは思いの外熱くて、猫舌の沙絵はひりひりする舌に顔をしかめつつ、それでも果敢に二口目にチャレンジしようとした。
…このままみんなと違う道を進んだら…と思いながら結局無遅刻無欠席の高校生活が終わろうとしている。
短大も推薦でとっくに決まったし、学期末テストも終わり、のんびりと終業式までのテスト休みを過ごしている。
冬にしては穏やかな日差しの日だったので、このカフェのガラス張りの席では暑いくらいだ。
目の前で「ふーん」と呟いている保のタートルの黒のニットを見て、小学生の時の理科の実験を思い出した。
虫メガネで太陽光を一点に集めて黒画用紙に穴を開ける、あの実験だ。
沙絵は自分のメガネを外して、ガラスと黒のニットの間にかざしてみる。
「何のまね」
「理科の実験でしなかった?」
「だからって何で僕の服に穴あけようとするの」
淡々と言いながら、沙絵の方を向くようにメガネの向きを変える。
二つ上のこの従兄を時々大人げないなーと沙絵は思っている。
本人に言ったこともあるけれど、保曰く沙絵のレベルに合わせてくれているらしい。
「で、この道を曲がったらー、の続きは」
言いながら保はコーヒーを一口飲もうとして「あっつ…」と慌ててカップを置いた。
彼もまた猫舌なのだ。
「うわっ保ダサっ」
間髪入れずに言うと、「人のこと言えるのか」と沙絵の額を指で弾いてきた。
保は淡々とした口調と普段の物腰から落ち着いて見えるけど、その行動や言動はどうも違う気がする。
やっぱり大人げないなぁと思いつつ、「砂糖を入れたらその分だけ冷めるかもよ?」とテーブルの上にある砂糖に手を伸ばす。
沙絵より先に保はサッと砂糖を引いた。甘いものが苦手なのだ。
「全然話が進んでないんですけどねぇ、お嬢さん」
熱いのは学習済みなので、注意深くコーヒーに口を付けている。
沙絵の方も、注意深くカフェオレに口を付けた。
「あぁ、はいはい」
さっきヤケドした所為で味が判らない状態になっている。
「…いたい…味が判らない…」
呟いた沙絵に「砂糖10杯くらい入れたら判るようになるかもしんないぞ」と保が入れようとしてきた。
甘党の沙絵でも流石に砂糖10杯入りのカフェオレは遠慮する。
「砂糖は要らない。けど、ケーキ追加して良い?」
既にメニューを広げている。
「どうぞお好きなように」
保はコーヒーを啜って、また「あつっ」と呟いた。
多分私はこの人が好きなのだ。
…と沙絵の中に漠然としたものがある。
本当に漠然としている。
多分小さい頃から知りすぎている所為で、確証を持てないままここまで来てしまったのだ。
家が近いこともあって行き来が多く、今でも何かとどちらかの家に家族で集まったりする。
姉妹である母親たちの仲が良いから集まる機会が自然と増えるのだろう。
物心付いた頃には保と遊ぶのは普通というか自然なことになっていて、当たり前とか違うとか疑問を持つ間も無かった。
叔母の家に行けば保と遊んでいたし、うちに来ても保と遊んでいた。
お互い一人っ子だというのも大きな理由だろうけれど、保と居ると何となく楽なのだ。
こうしてばったり会って、お茶を飲んだり出来る。
気を遣おうが遣うまいが保の態度は同じだから。
「なに見てんの」
メニューを見ていたはずが、いつの間にか保を見ていたらしい。
頬杖をついていた沙絵は、別に動じることもなくそのまま頬杖を崩すこともなく、
「保も見てたみたい」
と答えた。
「その『も』って何」
「メニューも見てたから」
「あっそ」
保の語尾が上がるのを聞いたことがないなぁ…と思う。
いつも断定的と言うか、言い切りと言うか。
「決まったの」
どのケーキを注文するのか決まったのかと訊く時でさえ。
「さあ、ここで質問です。
沙絵ちゃんはどのケーキを注文するでしょう?」
逆に聞き返すと、テーブルに広げられたメニューを見て、
「これ」
と保はまっすぐにクラシックショコラを指差した。
やはり断定的に、きっぱりと言って。
「あたり」
素直に認めると、保はウェイトレスを呼び止めて注文してくれた。
沙絵は頬杖をついたままその様子を見ていたが、ウェイトレスが立ち去ると同時に質問した。
「何で解ったの?」
メニューを戻そうとしていた保は、話しかけられたことで一瞬だけ動きが止まったものの、
「直感」
とメニューを戻しながら答えた。
直感ねぇ…と反芻していると、保はふと思いついたように言った。
「もしかしてクリスマスって来週か」
「もしかして」と言ってはいるが、やはり断定だ。
保の言葉に、沙絵もふと思い出したことがあった。
「あ、そうだ、今年もおばさんケーキ焼くよね?楽しみだなー」
叔母はケーキを焼くのが趣味なのだ。
そう、保が甘いものが苦手になった原因はここにある。
もともとケーキ作りが趣味だった叔母は、保が物心つくようになると益々張り切って作るようになった。
毎日焼いても食べてくれる相手がいるのだ。
そうして毎日のように続くケーキに、保はとうとうケーキの夢に魘(うな)されるほど苦手になってしまったのだ。
頼むからケーキはもう止めてくれと言った保に、叔母は「母さんの趣味を奪うなんて、そんな息子に育てた覚えはない」と言って、ケーキを焼き続けた。
好きになれ、と。
そう言われて好きになれる訳がない。
結局、家ではクリスマスと家族の誕生日のみ解禁、それ以外に友達の誕生日など人にあげるためなら良し、という取り決めがなされたらしい。
叔母はとてもユニークな人だと沙絵は思う。
「おばさんのケーキ、ほんと美味しいから、私なら毎日でも良いけどなぁ」
ケーキに限らず甘いものが好きな沙絵としては、それは天国のような毎日だ。
「僕の身にもなれ」
とにかく甘いもの全て苦手になった保としては、それは地獄のような毎日だった。
「えー、なりたいなりたい」
「じゃあ、うちの子供になれば」
「なるなる!!」
勢いで答えたものの、それって…と思って心拍数が上がり掛けたところで、
「代わりに僕が沙絵ん家の子供になるし」
…まるで中学生の会話みたいだ。
そう思いつつ、運ばれてきたクラシックショコラで元気を取り戻すのだから、沙絵も同じようなものだ。
このカフェのケーキはどれも美味しいので、沙絵は一口食べただけでもかなり幸せだ。
「幸せそうだな」
「そりゃもう」
ほろ苦いチョコレートケーキと添えられたクリームの甘さの絶妙さについて語りたくなるくらいに、と付け加えたが辞退されてしまった。
じゃあ一口食べてみる?と言ったらイヤな顔をされた。
「沙絵のそう言うところ、母さんに似てるかも」
「まぁ血が繋がってますんで」
それには保も頷くしかない。
暫くの間、二人の間に会話がなくなったが、沙絵が「ごちそうさまでした」と言うのを待っていたかのように保が口を開いた。
「で、結局、終点まで言ったら云々(うんぬん)って話は」
飲み頃になったカフェオレを半分くらいまで飲んで、沙絵は顔を上げた。
「そういう風に思った三年間だったなぁ…と」
「で」
「終わり」
保は少し視線をずらし、微かに首を傾け、そうと解らないくらい小さいけれど解る溜め息をついて「あっそ」と言った。
呆れたらしい。
それで今更落ち込むこともなく、沙絵は涼しい顔でカフェオレを飲んだ。
「そろそろ出ますか」
そう言って保は残っていたコーヒーを飲み干した。
沙絵も少し急いでカフェオレを飲み干す。
「焦ると気管に入るぞ」
案の定、沙絵はむせた。
「わかりやすー」
「うるさいなーっ」
収まった所で保が先に伝票を持って席を立ったから、沙絵は慌てて追いかけた。
ありがとうございましたーと言う声に送られながら外に出る。
「私の分、いくら?」
沙絵が鞄から出した財布は「いい」と短く言った保に戻されてしまった。
「うわー、珍しい。明日の天気、大丈夫かなぁ?」
言ってろ、と沙絵を置いて保は歩き始めた。
小走りで追いかけて、上着のまん中を引っ張る。
「こら、引っ張るな」
抗議の声を無視して保の腕を引っ張った。
「ねぇねぇ、ついでにクリスマスプレゼント買いに行こうよ」
「誰に」
笑いながら自分を指差す。
暫くの沈黙の後、「ま、たまには良いか」と、保は苦笑した。
「え?うそ?ホントに?」
冗談のつもりで言ったのに、本気にされてしまった。
「あんま高いものだったら、それ相応のお返しはしてもらうけど」
それ相応って何???と訊くと、それは沙絵次第と返された。
何にしようかなぁ…と、わくわくしながら並んで歩いていると、不意に保が立ち止まった。
一歩前に出た形になった沙絵が振り向いて「どうしたの?」と尋ねると、保は
「あの角を曲がったら、何か変わるかもしんないぞ」
そう言って、少し先の曲がり角を指差した。
「何かって?」
保が沙絵を真っ直ぐに見た。
一瞬より少し長いくらいだったけれど。
「ま、それは曲がってみたら解る」
「えー?なにー?」
先に歩き始めた保を追いかける。
あの角を曲がったら何か変わるかも知れない?
…それは、ご想像のままに。
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