魂の還る場所

魂の還る場所

満月の呪縛-つき の かせ-

 今まで不幸だと思ったことも、辛いと思ったこともなかったけれど。

 「あの人」と逢って、私は…
 …私は…---

  ---『孤独』を覚えてしまった…。


「ごきげんいかがですか、お姫様方」
 飄々と言う青い髪の守護騎士に、あどけなさを残した愛らしい笑顔で、光の姫が答える。
「もちろん、いいわよ」
 それは良かった、と頷く彼は、微笑みをもう一人へ向ける。
「…」
 暗黙のうちに彼の意思を感じ、闇の姫は黙って頷いてみせた。
「ラキュールは?」
 無邪気で明るい声で尋ねられ、彼も笑顔でそれに答える。
「もちろん、いいですよ」
  ---光の姫・エスフィーナと、闇の姫・シャレーヌ。
 アルテナには、すべてを見守る二人の姫が必要だった。
 そして、二人には、二人を守るラキュールという名の守護騎士がいた。

 一風変わった、守護騎士だった。
「よーく見てて下さいね」
 顔の前に拳を突き出す。
 二人の姫は、いわれた通りに視線を向けた。
「いいですか、三つ数えますよ。
 いち、にぃ、さん」
 はいっ、と言った瞬間、彼の手から…
『くるっくぅー』
…鳩が出た。
「…は、はと…?」
 エスフィーナがきょとんとする。
「おや、鳩はお好きじゃありませんかー」
 ---守護騎士の前の仕事は旅芸人、という経歴の持ち主だった。
 彼の陽気さ、人懐こさ・親しみ易さは、天性のように思われた。
 一度(ひとたび)街を歩けば、
「守護騎士様だ!」
「ラキュール様!
人々は声を掛け、子供達は駆け寄った。
 多くの町を行き来し、見聞してきた彼の知識と経験は、とても興味深く面白かったので。
 そして彼の人柄 ---人当たりの良さ---に、誰もが魅かれた。
 歴代守護騎士の中でも慕われたものの一人であろう。
 …更に、彼が『変わって』いたのは、それだけではない。
「たまには、こういうのも良いでしょう?」
 真夜中、彼は二人の姫を連れ出した。
 しかもそれは、『抜け出す』という形で。
「今日は満月ですから、明るいでしょう。星の光は隠れてしまいますが」
 ラキュールがにっこりと微笑んでみせる。
 その笑顔にエスフィーナは、僅かに困惑を混ぜ込んだ微笑を返した。
「…大丈夫なの?こんなこと最長老に知れてしまったら…」
「だーいじょうぶですよ」
 不安までは隠し切れなかったエスフィーナに、より強く笑う。
「私は前からずっと考えていたんです。お二人に、いつか世界をお見せできればいいなって」
「…世界…?」
 シャレーヌが不思議そうに小首を傾げる。
 「世界」とは、どういうことなのか。
 見せたかった…?一体それは…?
 二人の姫がその意思を計りかねている間に、ラキュールに導かれ、いつしか丘へと着いていた。
 そこは、いつから、何のために存在するのかさえ忘れられた、崩れ掛けた神殿のある丘だった。
 小高い丘を上り、更に神殿へと続く石段を進んでいく。
 月明りを頼りにしていたはずの歩みが、突然の驚きで止まってしまうのに、長い時間は必要無かった。
「…わぁ…っ」
 エスフィーナが思わず声を上げる。
 その瞳の先には、夜空があった。
 光闇宮を抜け出したときには月に負けてしまっていたはずの星々が、負けじと光を放っているのを目の当たりにしたのだ。
「…すごい…」
 シャレーヌからも溜め息が零れる。
 感激と感動とがそのまま表へ現れた二人にラキュールが笑顔を見せた。
「すごいでしょう?本当は、新月の夜の方が良かったんですが。お月見と星見が同時にできるのも悪くはないかな、と」
 空を見上げる二人の様子に、僅かに後ろに離れていたラキュールが呟くように言った。
 暫くの間、三人は黙ってそうしていたが、不意にラキュールが話し始めた。
「…お二人に、どうしてもこの景色をお見せしたかった…」
「…え…?」
 目を細めるラキュールを、シャレーヌが振り向く。
 彼は改めて微笑みを浮かべると、その指先を地上へと向けた。
 シャレーヌと、少し遅れて気付いたエスフィーナが、その先を視線で辿る。
「あれが何か、わかりますか?」
 地上の暗闇の中、微かに揺れる小さな光が点在しているのを見、シャレーヌが口を開く。
「家々の明り…でしょう…?」
 シャレーヌの答えに、ラキュールは笑うことで解答を示す。
「…そう。私はお二人に見て、知ってほしかった」
 二人の姫の視線が、地上から彼へと動く。
「光闇宮の中からではなく、こうして御自分の目で見て頂きたかった。…欲をいえば、昼間外へ出て、直接アルテナの人々と触れてほしいのですが…」
 ラキュールはそこで言葉を切ると、口元に笑みを浮かべたまま、片目を閉じてみせる。
「…そんなことをすれば、最長老殿は間違いなくお倒れになられる」
「…」
 二人の姫はお互いに顔を見合わせ少しの沈黙を作ったが、やがてくすくす…と笑いを零した。
 楽しげな二人の姫に優しい微笑を浮かべ、暫く見つめると、ラキュールは言葉を繋いだ。
「…どうか、覚えていて下さい。お二人のいるこの世界がどんなものか。守り続けるためにも」
 その言葉に、シャレーヌが彼を見つめた。
「…」
 そうして、黙って頷く。
 ラキュールも、言葉のないまま頷いてみせた。
 …その後、彼等は案の定、最長老に酷く叱られる羽目となった。
「…全く!よりによって守護騎士が姫様達を連れ出すなど!何を考えておるのじゃ、ラキュール!」
「まぁまぁ、落ち着いて下さいよ、最長老様。血圧上がりますよ?」
「ラキュールッ!そなた分かっておるのかっ!もしも姫様達に万が一のことでもあったら…っ」
「あれ?最長老様は私のことを何だと思っていらっしゃるんです?これでも姫様達をお守りする守護騎士なんですよ?…もしかして最長老様は私のことを信じていらっしゃらないとか…」
「ワ、ワシが言うておるのはそういうことではなくてじゃな…っ」
「…あ。もしかして一緒に行きたかったんですか?それならそうと仰って下さいよ」
「ラキュールーッ!」
 弁解や言い訳がしたいのか、怒らせたいのか、からかっているだけなのか分からないその様子を、シャレーヌはエスフィーナと共に見つめていた。
 …「ここは私に任せて。お二人はどうかお戻り下さい」…。
 ラキュールはそう言ったが二人は心配になり、結局ことの成り行きを見るために自分達の「いるべき場所」へ戻らずにいた。
 光闇宮内の最長老の執務室からは、扉を閉めているにも拘らず、はっきりと声が漏れていた。
 二人の姫は暫くの間そうして扉の前にいたのだが。
「シャレーヌ?]
 やがて、不思議そうに自分を見上げたエスフィーナより一歩前へ踏み出したシャレーヌが、目の前の扉を軽くノックし、返事を待って中へ入る。
「シャレーヌ様?如何なされました?」
 驚いた顔を見せる最長老を前に、シャレーヌは言った。
「…私が…お願いしたのです」
「…は…?」
「私がラキュールに頼んだのです。外へ行きたい、と。そのために手筈を整えてほしい、と」
「姫様っ!?」
 叫んだ最長老の側で、ラキュールの目が見開かれる。
「一体それは…っ!」
「シャレー…ッ」
 最長老とラキュールがそれぞれ言葉を発し掛けたとき、エスフィーナまでもが部屋へ飛び込んできた。
「本当よ!私とシャレーヌでお願いしたの!外へ行きたいって。連れ出してほしいって!」
「な…な…な…っ」
 最長老が何も言えず、それこそ倒れてしまいそうになってしまった。
「…あーあ…」
 ラキュールは右手で顔を覆いながら天を仰ぐと、やがて、軽快な音を立てて両手を合わせる。
 すると、何故かイワトビペンギンが現れた。
『…は…?』
 彼以外の人間が呆然とその様子を見ている間に、ラキュールは笑顔と共に、最長老へとイワトビペンギンを差し出した。
「…一体なんのまね…っ」
「夜更かしは体によくありませんから。さぁさぁ、最長老様」
「なに…っ…!?・・・」
 ラキュールがイワトビペンギンを強引に手渡した途端。
『…えっ?』
 二人の姫が声を上げる中、最長老は眠ってしまった。
「一体どうして…?」
 シャレーヌが呆然と呟くが、ラキュールは最長老をソファーへ運び毛布を掛けると、笑顔で二人の姫を促し部屋を後にした。
「あのイワトビペンギンさんは御近所でも評判の方なんです。添い寝をさせれば世界一、どんなに寝付きの悪い人でも三秒で眠らせてしまうというスペシャリストなんですよ」
 ラキュールは、にっこりと微笑んでみせる。
『…は、はぁ…』
 二人の姫は何も言葉が浮かばなかった。
 その二人に、ラキュールは「あぁ、そうだ…」と呟くと、目の前で恭しく片膝を付いた。
「お二人に余計なご心配をおかけした上お助け頂き、感謝致しますと同時にお詫び申し上げます。シャレーヌ様、エスフィーナ様」
「そんな…」
「気にしないで、ラキュール。私達、楽しかったもの。お礼を言わなくちゃいけないのは私達の方だわ。ね、シャレーヌ?」
 エスフィーナの言葉に、シャレーヌはただ黙って頷いた。
 …本当は、言いたいことがあったはずなのに、何故か、言えなかった。
「…喜んで頂けたなら、それだけで充分ですよ」
 二人を見ながらラキュールは微笑み、立ち上がる。
 そして二人にも戻るように告げ、二人がいるべき場所のその扉の前まで送り届けた。
「今日は本当にありがとう。ラキュール」
 エスフィーナがにっこりと笑う。
「どう致しまして」
 ラキュールもまた、笑顔を返した。
「…」
 エスフィーナの隣りで口を開き掛けたシャレーヌがタイミングを外してしまい、何となくそのままになってしまった。
 …きちんとお礼が言えなかった…。
「…シャレーヌ様」
 僅かに俯いたシャレーヌに、その身を屈めたラキュールが耳元で囁く。
「次は、昼のアルテナへチャレンジしましょう」
「…ラキ…ッ…」
 咄嗟にあげた視線がラキュールのそれと合うと、彼は笑顔を向けた。
「それでは、失礼します」
 その言葉と笑顔を残し、彼は退がった。
(…ラキュール…)
 背に向けた視線を、シャレーヌは暫くのあいだ外せなかった…。

 ---いつからだろう…。
 闇の姫としてではなく彼を見つめ、
 守護騎士としてではなく、傍にいてほしいと思うようになったのは。
 気付いた頃には手遅れだった。
 あまりに優しく、あまりに暖かだったから…。
 笑うことを、止めなかった。
 泣くことを、咎めなかった。
 正しさだけを、求めなかった。
 「闇の姫」ではなく、「一存在」であることを認めてくれた。
 それが自然なことから伝わったから、シャレーヌは彼が特別なのだということを、直ぐには気付かなかった。
 自分の中で、彼が「特別」になっていたのだということを。
 それは、否定されねばならなかったのだけれど---。
 ---…彼には、「何か」が届いていた。
 いつも毅然と振る舞うことを望まれていた彼女。
 アルテナの平和と安定を司るものとして、俯き、立ち止まり、間違うことを許されなかった闇の姫。
 光の姫と対でありながら、何故か大人であらねばと強いられていた…。
 天性故(ゆえ)か、それとも別の理由からか。
 いずれにしろ、彼には伝わってしまった。
 彼女が、無理をしているということ。
 自分を隠すことで、闇の姫としての自分を、保っているということ。
 何か言いたげな瞳の奥には、いつも、子供のような思いが見え隠れしていた。
 それが見えてしまったから、放っておくことなど出来なかった。
 もっと、自由でいて良いのだと。
 もっと、自分の望みを持って良いのだと。
 言葉にするのは簡単でも、理解させ、納得させ、実行させるのは難しいことだから。
 無理をしなくても良いのだと。
 笑っても良いのだと、涙を流しても良いのだと、感情を殺す必要などないのだと、伝えたかった。
 その一つ一つが、彼女を、アルテナを包み守る、新たな力となるのだから。
 だからこそ、光闇宮を抜け出し、人々の暮らす土地を見せ、直接触れてほしいと言ったのだ。
 自分の出来得る限りで、彼女に笑顔を、感情をもたらしたのだ。
 ---それなのに。
 どこで何をどう間違えてしまったのか。
 違う何かが生まれ、育ち、届いてしまった。
 それは、どうしようもなく。
 今更、消すことなんて、出来なかった。
 「ひとり」でいることの不安。哀しみ。切なさ。
 知らずにいれば、きっと、楽だったのだろうけれど。
 ---『…ラキュール…』
 真夜中、彼は自分を呼ぶ声を聞き。
「…」
 そして、それを受け止めた。

 ---…満月は、人の理性を狂わせる…。---
 天頂に高く月の光を浴びながら、ラキュールは歩いた。
 …届けられたメッセージ、自分を求める声…。
 それに応えるため、彼はこの世界を見下ろす丘にある神殿に向かったのだ。
「…」
 ふと立ち止まって、月を仰ぐ。
「…歴代守護騎士の方々に顔向け出来ないなぁ…」
 いつもどおりの飄々とした口調で呟きを落とすが。
「…許される…ものなら…」
 その表情に、笑みはなかった。
 崩れ掛けた神殿。丘へ着くまで、幾らと時間は掛からなかった。
 神殿へ続く石段を数段上ったところで、長く伸びた影に気付く。
 顔を上げたその両の瞳に映ったものは。
 聳(そび)え建つ二本の柱、その間で柔らかな光を放つ月。
 そして。
「待たせてしまいましたね」
 月を背に佇む…
「申し訳ありません、シャレーヌ様」
「…いいえ…」
 …その姿は、さながら、月の女神…。
「こんな時間に呼び立てて…謝らねばならないのは私の方です」
 闇の姫の美しさが一際映える。
「いいえ、お会いできて嬉しいですよ」
 更に数段上り、シャレーヌよりも二段分下がった位置で立ち止まったラキュールは、その場に片膝をつき、頭を下げた。
 手を伸ばせば届く距離。
 けれど、それ以上は近付けない。
 ---決して。
「…」
 シャレーヌの睫がその顔に影を落とす。
 ラキュールの行為が、自然と彼女の瞳を伏せさせた。
 守護騎士として当然のこと。
 自分に対して、充分に礼を尽くしてくれている。
 それなのに。
 彼女には、微笑みを浮かべることはできなかった。
「どうかなさいましたか?こんな夜更けに。
 怖い夢を御覧になって眠れなくなってしまったとか」
 顔を上げたラキュールが、優しい瞳で微笑む。
 いつもと変わらない、彼の持つ独特の雰囲気で。
「いいえ」
 シャレーヌは表情を変えなかった。
「…いいえ、そうではありません」
 ゆっくりと、瞳が閉じられる。
「ただ…」
 次にその瞳が開いたとき、悲しみを含みながらも迷いのない声でシャレーヌは言った。
「…ただ…貴方に会いたかったのです」
 そう言った彼女の顔は、不思議と幼さが垣間(かいま)見えた。
「…」
 ラキュールは、軽い眩暈(めまい)を覚えた。
 思わず顔を上げてしまったことに後悔し、感情が表へ出ようとするのを危うく隠す。
「光栄ですね、シャレーヌ様にそう言って頂けるとは」
 にっこりと笑ってみせる。
 もう一度頭を垂れて、言葉を繋ぐ。
「守護騎士として、これ以上にないほど」
 ギリギリの防御線。
 自分の情け無さに馬鹿らしくなる。
 ---本当は分かっているのに。
 彼女の言葉の意味するものが。
 卑怯な手だと知りながら、気付かないふりをしている。
 自分に向けられた、彼女の想い。
 他人へ向けられているものとは明らかに違うこと、それに気付きながら彼は、躱(かわ)すことしかできない。
「…ラキュール…」
 シャレーヌの声が、耳に届いた。
「はい」
 名を呼ばれて、彼は顔を上げた。
「…っ」
 瞬間、ラキュールの意思が僅かに崩れる。
「…シャレーヌ…様…?」
 シャレーヌの言葉にその大半はなくしたものの、どうにか保っていた余裕が消えた。
 …涙が…
 閉じられることのない瞳から、一筋の涙が伝い落ちていた。
「いかがなさいましたっ?」
 思わず立ち上がりそうになったのを押し止める。
 ---近付いてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。
「…あっ…ごめんなさい…」
 シャレーヌ自身、無意識のことだった。
 ラキュールの言葉に、透明で、だが確実に張られた壁のようなものを感じ、涙が溢れていた。
 両手で顔を隠しながら顔を背ける。
「…」
 ラキュールは何も言葉を発せないまま、拳を握り締めた。
 非力な自分。
 何もできない自分。
 守護騎士として、また一つ罪を犯す。
「…シャレーヌ様」
 悟られないよう息をつき、彼は言った。
「こんな時間では、さすがに私でも慰める術(すべ)をもちません。
 鳩も眠っていますので」
 明るい口調で。
 シャレーヌは、どうにか涙を止めて、ラキュールへ微笑み掛ける。
「…ごめんなさい…」
 いつもの、儚い笑みで。
「…」
 胸が痛んだ。
(…こんなにも…っ)
 溢れ出しそうだった。
(…---しいのに…っ)
 心の中でさえ、その言葉を隠してしまう。
「…本当に…ごめんなさい…」
 消え入りそうな声が聞こえた。
 その声に、はっと正気を取り戻す。
 シャレーヌは『闇の姫』に戻りつつあった。
「光闇宮に戻ります。けれど…」
 僅かに名残を残しながら。
「…けれど、ひとりにして下さい。…守護騎士としては心配でしょうけれど…」
 ラキュールの返事を待つことなく、シャレーヌはゆっくりと歩き始めた。
 彼は立ち上がり、その行く手を譲るように、石段に足を掛ける。
 長い黒髪が微かに揺れる。
 見下ろす瞳と、見上げる瞳が僅かのあいだ絡み合う。
「…私は…」
 シャレーヌを見上げる視線を外し、ラキュールは自嘲的に笑った。
「…私は守護騎士失格ですね」
 えっ…?と、小さな問いの声を彼女は漏らした。
(もし…許されるなら…)
「お二人をお守りすることが私の役目だというのに…」
 そう言って、微笑み掛けた、その、刹那。
「一体どう…」
(…っ?!)
  ---…ふわり…
 夜風を遮る、あたたかな…。
「…闇の姫に特別な感情を抱いてしまうなんて…」
 すぐ耳元で、ラキュールの声が響いた。
「…ラキュール…?」
 …それは、ほんの僅かな時間だった。
「忘れて下さい」
 シャレーヌがその名を呟いたときには、もう、彼は石段を上っていた。
 振り向いたラキュールは、膝をつき、頭を下げた。
 『闇の姫』より高い位置に来てしまいながらも、せめて見下ろさずにすむように。
「私は守護騎士ですから。お守りしますよ。
 …お二人を」
「…ラキュール…」
 その言葉に、心が揺れなかった訳ではなかったが。
「お願いしますね…」
 生まれたものを消すことはできない、
 止まらない想いはどうすることもできない。
 …言うことは、できなかった。

 ---…満月は、人の理性を狂わせた…。---


 そしてそれが、歪(ひず)みを生む。  




© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: