出光氏文第5章『寄贈の品々、繁栄の跡』


(1)七社宮の棟札
系図で4代目石松甚次郎マタ惣左衛門良盛について、七社宮の延宝七年ノ棟札ニ出光甚次郎トアリ、と記されている。
この棟札がいつ発見されたのか不明である。現在、神官がいなく調べようがない。宗像郡誌の七社宮に関する記事も資料不足で、我が家の七社宮巻物を研究する必要がある。漢字、ひらがなのくずした文字なので、ほとんど読めない。最後の末尾のみ、漢字ばかりでしっかり書いてあるので、「七社宮巻物」の項目で紹介する。

宗像郡誌より七社神社について抜書きしてみよう。
赤間村大字石丸宮ノ下にあり。
[筑前国続風土記拾遺]七社宮
郡村にあり。所祭神、国常立尊、忍穂耳尊、国狭槌尊、伊奘冊尊、??杵尊、惶根尊也。社説に天武天皇白鳳年中鎮座し給う。其の始めは赤間山の上にありしといへり。宗像大宮司氏俊寄付の調拍子、氏貞寄進の太刀一振、仮面一つあり。其の餘の神宝は元禄15年の火災に焼失せり。昔は祭祀も繁かりしが、近代3月9月11月年中に3度の祭あり。那珂にも9月18日を大祭として、産徒等斉祀をなす。社の乾に神木松あり。縁起あり。元禄中に神谷英明選べリ。本社に元禄2年神谷英明の記せる上棟銘、寶永3年5月大鶴正知の書ける縁起、正徳元年4月矢野祐則の書ける縁起あり。
(2)祇園社に天満宮を建立
出光系図(弘化五年作成)で4代目石松甚次郎マタ惣左衛門良盛について、元禄年中ニ祇園社崇敬ノアマリ御末社天満宮ヲ只壱家ニテ建立ス、と記されている。
祇園社(須賀神社)巻物では、元禄元年8月、出光良盛ト云エル人、祇園社崇敬ノアマリニ、御末社天満宮ヲ勧請ス、其ノ後、絶エズ、出光氏ヨリ修理ヲ加ウルモノ也、とある。
宗像郡誌の須賀神社の記事には、この事は書いてない。
宗像郡誌より須賀神社について抜書きしてみよう。
赤間村大字赤間字ケスガ浦にあり。
[筑前国続風土記拾遺]赤間村
祇園社、上町に在り。大己貴命、稲田姫をも相殿に祭る。古は石丸村七社の社内に在りしをいずれの頃にかここに遷し祭れり。社内に貴船社、天満宮、水神社あり。
[福岡県地理全誌]須賀神社
町口ニアリ。祭神素盞鳴命、大己貴命、稲田姫命、祭日七月二十四日、末社五、菅原神社、天照神社、貴船神社、水神社、蛭子神社、共に社地。
(3)享保の飢饉で寄進願い出る
享保16年、国中が餓死者多く、貧窮の人は捨て子いたす事、御上へも聞こし召し御停止仰せ出させられ候。其のみぎり、蛭子屋大黒屋一党五家より養育米1ヵ年に壱拾七俵指出し申すべき由を願い出し、願いの通り相叶ひ、御褒美の為、御通賀御往来宿口にて御目見え仰せ付けられ、麻上下着用つかまつり、まかり出、もうし上ぐる。勿論、御通りの御時節、神谷宅右衛門様、まかり、御申し上ぐるなり。

以上が、出光系図の4つの囲み記事の中の享保16年の話の大要である。
享保の飢饉で蛭子屋大黒屋一党五家にて御上に寄進を申し出ているが、その五家とはどこなのか?蛭子屋はちょうど四家に分かれ何れも繁盛繁栄し始めた頃である。大黒屋の系図を比較研究する必要を感じる。

「享保の改革」という言葉は、日本史で習う。8代将軍徳川吉宗の治世(享保元年すなわち1716年より)の代名詞として使っている。中学校、高校での教科書では、「享保の飢饉」は出てこない。福岡市発行の「福岡の歴史」(昭和54年10月)の年表に、享保17年(1732年)、大飢饉で死者が多かった、享保18年、疫病が流行して死者が続出した、引き続き飢饉のため餓死する者が多かった、との記載あり。

神谷宅右衛門は、当時の赤間宿の御茶屋奉行で、所謂、代官である。

その当時の福岡藩主は、黒田継高(6代目)である。1719年~1769年が、6代目の治世である。

出光氏文第五章
(4)祇園神輿
宝暦元年に松尾長三郎徹心、出光右助良次、庄屋出光甚助良則(29歳)、この三人心を合わせて棟梁として祇園社の神輿を大坂より下し宿中申し合わせ、なごしの大祓を始むるなり古伝あり。(出光系図)

和大祓の始めは、宝暦元年、出光甚助良則、祝部古田讃岐守信正、庄屋出光甚助良則、宿中談合の上、松尾長三郎直之、出光右助良次、この両人棟梁として、おほくの財を出だし、おほひなる神輿を下し、物部文雄と申す人に、その法を習ひて、かく和大祓を始められしもの也。(祇園社巻物)

出光甚助良則(本家七代目)は、兄良時(本家六代目)がなくなる三年前、すなわち寛保元年より19歳にして赤間庄屋を勤めており、祇園神輿を大坂より下す宝暦元年は、29歳であった。兄良時は石松姓を名乗ったが、本家は四代目、五代目、六代目と三代に亘って石松姓を名乗っている。系図にその理由が書いてある。
出光甚助良則の叔父が松尾長三郎と出光右助良次である。
以下p22~24省略
原本には、昭和59年の楽係で私と町浦建設の大工さんが半端扱いされた件が載っている。楽係が9人なのに、10人練習してたから、余った次第。2日の内、1日づつ私と町浦で担当した。この屈辱を子々孫々に残すためにいきさつを明記。

(5)小太刀(進藤五国光)を祇園社に奉納
宝暦元年12月に、出光夘助良次祇園社へ進藤五国光の小太刀一口奉納仕る。[出光系図]
宝暦元年12月、進藤五国光の小太刀一口、出光右助良次より奉納也。[祇園社巻物]

この小太刀は、現在宗像大社宝物館にある。

鎌倉初期、後鳥羽上皇は万の道に優れていたが、刀剣の鑑定のことは「その道の者にたちまさりて」(増鏡)いた。殿上において刀剣の鑑定会を開かれ、御所にて鍛刀せしめられた。参加者は山城国粟田口派から国友・国安・国清・国綱の兄弟、備前からは一文字則宗・助宗等、備中青江派からは次家・貞次・助次等である。こうした後鳥羽院の奨励が日本刀の進歩に大きく役立った。
鎌倉の地には名工はいなかったので、備前から助真・国宗、山城国粟田口から国綱等が北条時頼に召されて移住した。国綱の子の進藤五国光によって鎌倉の特に短刀が名を残した。粟田口派の藤四郎吉光と並び称せられたのが進藤五国光で、門人に行光・則重・正宗が輩出した。地には地景を現し、刃に金筋・稲妻を躍らしつつ沸できの妙味を遺憾なく発揮する相州伝が正宗で大成した。

(6)法然寺の観音堂建立
宗像郡誌「法然寺」の項目に、観音堂由緒、宝暦10年3月21日出光卯助創立、とある。

出光卯助は、祇園神輿、進藤五国光奉納の項目で既に説明した、出光中家の始祖である。今は赤間にいない、酒屋蛭子である。この家から2度、醤油屋蛭子(我が家)に養子がきている。だから、出光卯助は私の祖先のひとりだ。そして、私の曽祖父も卯助という。それは由緒ある名前を継いだわけだ。
この出光中家は赤間の大庄屋をしていた。平成16年2月の宗像市とのやりとりの資料でもっとはっきりでてきた。私は、出光中家3代目の出光卯惣太が大庄屋というのは知っていたが、その親の卯右衛門もまた、大庄屋であった。

(7)七社宮の備前始祖則光を修繕
宝暦10年9月、出光良次、松尾良清両人にて七社宮の宝剣備前始祖則光(身長1尺5寸、棒鞘1尺5寸5歩、これは宗像大宮司氏貞卿の奉納也)が、数世を経て棒鞘太刀袋剣画共に破壊するによって、太刀を磨き、諸具を改作し、以って謹んで奉納神庫するものなり。[出光系図]

出光良次は、「法然寺の観音堂建立」で述べた出光卯助良次である。
松尾良清は、誰か?大黒屋系図の研究が必要である。
この宝刀は、現在、宗像大社宝物館にある。

・・・出光中家の系図省略・・・

出光卯助良次は、出光中家の始祖。この家より、出光下家(醤油屋蛭子=我が家)は、2回、養子をもらっている。卯助良次は本家5代目の兄弟。出光下家始祖・久芳孫右衛門は本家六代目七代目と兄弟。
出光卯助良次は、祇園社の神輿を大坂より下した時の棟梁であり、祇園社に小太刀奉納、法然寺の観音堂建立、そして備前始祖則光の修理をしている。そして、かれの名前は、宗像郡誌に刻まれている。今は、赤間にいない、酒屋蛭子の始祖で、この家が2代目(大黒屋からの入り婿)卯右衛門、3代目(鎌屋からの入り婿)卯惣太と、赤間の大庄屋をしている。庄屋は恵比須屋(酒屋⇒はたご⇒農民)本家が、赤間で一番長い。庄屋をしたことのある家は、他に油屋、鎌屋、新屋を挙げる事ができる。

(8)七社宮へ御幕半張奉納
天明5年9月、七社宮へ御幕半張奉納つかまつるなり。[出光系図]

出光系図(弘化5年編纂、我が家所有)の出光中家2代目出光惣兵衛清幸入道了海(=卯右衛門)についての記事に、上記のように書いてある。
また、惣兵衛(=卯右衛門)は、大黒屋松尾長三郎の子であり、中2代目は夫婦共に跡継ぎの丸印が付いている。後継ぎ娘に婿養子を迎えた場合は、夫婦が跡継ぎ(所有権者)なのだという意味であろう。
中2代目夫婦は、いとこ結婚であった。ほんとに、我が家なんかずっと、いとこ結婚だった。それの悪い代表が我が父であった。父の兄弟合わせて四人、いとこ結婚の最たるものとして、遺伝学上のサンプルとなりうる。信じられないいとこ結婚。今日は、そのいとこ結婚については、カット。四ヶ月前に、「いいたい放題」で、既に書いている筈。興味のある方は、CHECK.]

(9)先祖出光右京太夫良元の石碑を建立
寛永3年7月9日、一子良国を残し置いて赤間駅を立ち出でて其の後、帰り来らずと云う。寛永3年より192年目の文化14年に至りて出光卯惣太良義と云う人、発起して良元の石碑を建立す。[出光系図]

上記は先祖出光右京太夫良元についての記事の後半部である。宗像郡誌には法然寺の項目に年号が誤って記載されている。

此の寺に嘉永3年7月出光氏墓あり。[宗像郡誌]

墓は、人が死んだ年に必ずしも建立されていないことが分かる。宗像郡誌は墓と書いているが、出光系図は石碑と書いている。東方へ旅だった年を銘記しているだけで没年ではない。故に墓ではない、記念碑であろう。六角柱の石碑で我が家の墓地にある。石油屋さんは、人にはそれが自分のところの石碑だと吹聴しているらしい。とんでもない。なんで石油屋さんところが宗像郡誌に載るの?宗像郡誌に載っているのは、出光はすべて我が蛭子屋出光ですよ。このHPでは、もう10回以上、蛭子屋と紺屋は違う系統だと断言してます。一緒にされたくない。それは、アマチュア歴史家の単純志向です。迷惑。何度も何度も、嘘八百がいかに迷惑か、ここで断わっています。こちらは、先祖をしっかりとられた側。40年前は先祖の名前を空でいうこともできなかった人たちが、蛭子屋と同じご先祖を名乗っている、迷惑千万、どちらかが、うそを言ってるように取られる。そのうえ、金と権力がない当方は、いかに古い資料を持っていても、うそつき呼ばわりされる、これって当方からすれば腹立たしいこと、この上ない。この気分は当事者でないと痛みはわきゃりませーん。ま、赤間の人達も紺屋の親戚が多い、石油屋に世話になった者が大勢いるという状況下では、私らの負け、負け犬の遠吼え。

出光卯惣太は我が家の9代目出光運平直良の父である。私のひいひいひいひいじいさんが出光卯惣太である。卯惣太は鎌屋より出光中家に婿養子に来ているが、その子はだれも出光中家を継いでいない。萩尾本家を継いだ勝三郎保吉、出光下家(我が家=醤油屋蛭子)を継いだ運平直良、出光中家に残ったが跡継ぎ(家の代表)とはならなかった吉三郎(その娘は出光中家六代目惣助直政の妻)、折尾本城の佐藤五八郎に嫁いだ娘(この子孫が芥川賞作家・平野啓一郎)、其の他にもうひとり男子がいるが早世かどうか不明。系図に後世の人が、「四男一女あり」と添え書きしている。

壬申戸籍では、中家六代目惣助直正は、惣太と書かれているが、その妻が、出光吉十郎の娘ミヨと明記してあったので、系図と壬申戸籍が一致してくる。
文化14年、卯惣太は47歳であった。義父の卯右衛門と、そして卯惣太と、大庄屋を勤めており、出光中家の繁栄の時であった。

(10)摩利支天神社の棟札
平成2年9月、東郷の摩利支天神社に、父から聞いていた棟札の事を確認に行ったところ、中村宮司は写真をくれ、其の上、保管してある棟札を見せてくれました。
・・・写真省略・・・
3つ、棟札があって、そのうちの1つに、
「文政2年、
御郡代 竹森安佐衛門 古野忠右衛門 
大庄屋 久末 城戸源右衛門 
    赤間 出光卯惣太 
    宮自 安部忠四郎 
普請方 野坂 仲村清次 
    下西郷 深川佐七 
    在自 安部源太郎 
東郷村庄屋 深川權平正仲
施主宗像郡中
大工 池田村 助  市 
   田 村 惣右衛門       」

と、はっきり読める。
3つの棟札から、拝殿に関し、文政2年に再建し、明治35年に改築したことが分かる。そして、昭和58年の改築で、古い棟札が出てきた次第。

文政2年の棟札で大庄屋出光卯惣太とあるのは、出光中家の3代目出光卯惣太マタ惣左衛門良義(出光系図の表記)である。文政8年六月26日、55歳にて卒す。我が家の9代目出光運平直良の父である。

文政2年、卯惣太は49歳であった。

(11)八代目出光運平直重の画像(我が家保管)
天保14年9月、七社宮へ石の玉垣を直重、直良父子にて献上す。[出光系図]

八代目出光運平直重は、遠賀郡底井野の鍵屋瓜生氏より婿養子に来る。弘化3年、鬼籍に入る。
八代目出光運平直重は、3代踏襲の運平の1代目であって、出光下家の繁栄の始まりを作った人だ。だから、世間様に対して、子、孫と運平を名乗る事がどこの出光か分かりやすかった。
現在、遠賀郡底井野の鍵屋瓜生氏とは親戚付き合いをしていないが、昭和55年にこの本「出光氏文」(平成3年発行、32部、和文204頁+英文97頁=計301頁、B5版)を発行するための資料作りに遠賀郡底井野に出向いた。底井野小学校の前の小川の近くに分家が残存していた。本家は、元は呉服屋であったという。今は、東京へ出て、作家をしていると聞いた。

平成15年、底井野の月瀬八幡宮での「小田宅子を語る会」に参加して、底井野の古い図面を入手。鍵屋瓜生氏は地蔵さまの隣だった。今は家もない。小田宅子(俳優の高倉健の先祖)生家が四つ角だが、月瀬八幡宮を真ん中にして逆方向の三叉路(地蔵さま)近くだ。この辺りを知ってる人には分かる。

(12)七社宮へ石の玉垣を献上
天保14年9月、七社宮へ石の玉垣を直重直良父子にて献上す。[出光系図]

八代目運平直重に関する記事である。
七社宮は宗像市石丸の赤間病院の斜め前にある。石段と玉垣は違う。どの玉垣か、確認してはいない。

八代目運平直重は、鍵屋瓜生氏から養子に入った。鍵屋瓜生氏とは、系図上で3回の婚姻が確認される。下家八代目の運平直重本人、下家9代目の運平直良の妻、中家吉十郎の妻は、瓜生氏の出だ。

親戚先は、偏っている。松尾大黒屋(赤間)、瓜生鍵屋(底井野)、佐藤(折尾本城)、旗生(岡垣の糠塚)。複数回の婚姻である。徹底した従弟結婚。これじゃあ、いいのは、生れない。


(13)青木様のこと
青木様は、4月4日と12月4日にいつも、父と弟妹とおこもりに行っていた。蔦が岳の麓にあり、今は福岡教育大学の体育館になっている辺りだろうか?石の祠で、父はお参りの日には酒をあげていた。

何時ごろ、作ったのか?なんのために作ったのか?
言い伝えは、先祖・出光右京太夫良元が赤間を去った方向を示すということだった。
昭和55年秋、青木様に関する由来を記した文書が入手できた。青木様は、七社宮の分社だった。七軒の家が各自、その分社を祭っていた。
(私の知っている所では、吉野屋、石松たばこ屋も所有。)

青木様は現在、法然寺の我が家の墓地にある。近年はお参りはしていない。神社関係の人が、神仏混合で場所がよくないといって、七社宮で預りましょうと返還を要望された(昭和58年?)。

貧乏のどん底にあって、系図2巻、神社巻物2巻、家の在銘指図、祖先画像2点、家屋三分の一、青木様の祠(その土地)を離さなかった我が家の祖先たちに感謝したい。お家再興だけが、合言葉として、執念として、我が家に百年間家訓として連綿と語り継がれてきた。明治28年、家、田地なくす、借家住まいの苦難を乗り越え、大正年間の返り咲き、昭和49年の三分の一の旧家屋買戻し、あと敷地に関しては残り三分の一が他人の手元にあるがこれはいたし方ない。信じられない復興だ。あとは、私、そして次の世代の仕事だ。無理をしないこと。

福岡教育大学の設置により、青木様の土地は替地として、女子寮の入り口をもらった。130坪位あろうか?なにも知らない登山客が往々、我が家の青木様替地を通っていく。蔦が岳への近道だ。市がわざわざ、「城山登山道はこちら」と、迂回するように、立て看板を2、3年前に立てている。

(14)祇園社に空屋敷を寄付
弘化2年4月、祇園社神門の右脇なる空屋敷1ヵ所、永代無上納に買い上げ寄付有り。其の施主は、伊豆善右衛門、白木喜右衛門、同姓喜兵衛、出光運平、水上駿平、八尋仁右衛門、石田伊平等也。[祇園社巻物]

出光運平は、八代目、九代目、十代目が出光運平だが、ここは九代目の出光運平直良である。

伊豆善右衛門は、元軒議会議員伊豆善也氏の祖先、1801年のおまさ事件の時も同姓同名、2世代違うかも。

白木喜右衛門は、米半・現在の赤間区の監査役の白木喜次氏の祖先。
白木喜兵衛=喜平は、米喜・白木正之氏の祖先。八尋仁右衛門は、八尋綿屋の祖先(今は赤間に居ない、江藤歯科敷地)。石田伊平は、元赤間区長・石田伊平の祖先?
水上姓は赤間には今はない。宗像市野坂に多い姓だ。

施主七人は、私の推測だが、40歳の厄落とし(初老の祝い)だったのでは?年齢を調べると面白いのでは?

(15)高倉神社に獅子頭を奉納
高倉神社(岡垣町)は、世襲神官の家が絶え、その後、何度も神官が交代したので、古い事は分からないとの現宮司の言葉(平成2年8月)。
父から聞いていた話で、高倉神社の神輿の獅子頭を九代目運平直良が奉納したということだ。文書としては、残っていない。
同時代の親戚、折尾本城の佐藤家と底井野の有吉家が狛犬を奉納しているので、多分、運平の獅子頭奉納も同じ年と推測する。弘化4年のことだ。次に狛犬に書いてある文字を記す。

(左)狛犬 底井野大庄屋
       有吉呉右衛門亘徳
      本城村大庄屋
       佐藤傅三郎信敏

(右)狛犬 ??村大庄屋
       松井仁十郎??
      ??村大庄屋
       仰木三兵衛茂?
       弘化4年

佐藤系図で傅三郎信敏を調べる必要あり。また、有吉家で呉右衛門亘徳について聞くべき。

(16)系図2巻
我が家(醤油屋蛭子⇒履物店⇒不動産屋)には、家の系図『出光系図』と、九代目の運平直良の父・出光卯惣太(萩尾鎌屋から養子)の『萩尾系図』がある。
ーーーー途中省略ーーーーーーー
萩尾系図を簡単に本家のみ記す。
一代目 萩尾掃部
二代目 萩尾市衛門
三代目 萩尾利右衛門
四代目 萩尾平四郎(妻は伊豆氏)
五代目 萩尾甚三郎(妻は博多の徳永氏)
六代目 萩尾弥右衛門(妻は光岡村某)
七代目 萩尾弥右衛門
    (寛政10年、25歳にて卒す。本家    相続するも子なし。故に蛭子屋に養子    に行った兄・卯惣太の子・勝三郎保吉    が鎌屋の養子となり八代目相続す。)
八代目 萩尾勝三郎 

以上が、弘化五年の『萩尾系図』の赤間にきたところからの要略。
萩尾は、糟屋郡篠栗の萩尾(はぎのう)出身。
藤原鎌足の子孫で系図には延々と書いてあるが、真偽の程はいかに?赤間の祖・萩尾掃部の兄・伊藤刑部太夫祐繁は、日向飫肥5万1千石
の大名。また、別な兄・萩尾松次郎保親は、立花家に仕う、「今柳川に萩尾某と云う人あり、寛永元年より立花家に仕う也」(萩尾系図)。もうひとりの兄は萩尾大学繁種と云い、子孫今に萩尾村にて相続す(萩尾系図)。
赤間の祖・萩尾掃部については、「太守光之公、御鷹狩の時、御前において、手鼓を拍しければ、御意に叶い、御褒美として、畑三畝余り、たまわりける」(萩尾系図)という。赤間法然寺過去帳に隣與院法譽三徳居士とある。

ーーー途中省略ーーー

萩尾系図は一代目、二代目、三代目の配偶者に
ついて、記していない。
出光系図は、原則全て記しているが、一代目と七代目の配偶者が記してない。出光系図については、p4~8に記した通り。ここで、再述しない。

(17)七社宮巻物
爾七社宮 一躰分身考 古田鬼麿謹撰録之 古文書ニ曰 筑前州宗像郡赤馬・・・」で始まる一躰分身考は、中に「八所宮撞鐘銘曰」と「銘曰」を含む。其の後の古田鬼麿の感想に、「七社宮八所宮高倉此の三社の縁起・・・」、「正保元年より明暦元年の・・・12年の・・・」といった言葉が見えるが、私の今の力では読解できない。
巻物の最後の「奥書」を、次に紹介する。

そもそも七社之一宮、古来赤石両村之境に在りて、即ち両村之産神也。然、古田氏社職の為、鞍手郡新分郷の金川氏に従って来る。古田氏の社職を継ぐ。暫く千国の都に至りて、一旦?者の口臭を避けると雖も、居るを僅かに1歳を許すのみ。嫡子存家にありて、放蕩ランダ、常に神務を事とせず。しかのみならず固有の社器及び雑記等多くすでに亡失す。ここにおいて、われ再び家に帰り社職を務むる、ここに年有り。独り、七社神の伝記及び雑録ことごとく失滅するを嘆く。しかうして人よく其の神縁を明らめて此れを尊ぶゆえんを知る由なし。因って神勤の隙をうかがい、故きを温ね、破籍を捜り、?調綴ちかごろ既に数巻を作れり。
おもへらく、諸人が神系を知りて、之れを仰ぎ尊ばせしむるに便なりと。唯だ恨むらくは、予数児有れども一人としてまさに之れを譲り与うべき無し。予、若し、泉下に赴けば、則ち此の数巻も亦たまさに塵芥と為るべし。因って更に一計を企て今日此れを赤駅の出光白木両氏に託す。願わくは両公、深くこれを櫃に収め永く後世に伝えんことを。
想うに出光直良、白木栄徳両公は、もと駅中の旧族にて資質聡明、思致厳密なり。家は冨みて??を張る。今此れを託せば則ちまさに後世子孫をして必ず此れを貴重させしむべく、万代廃滅の恐れ有らざる也。
予がつとに懇願を発す所以也と云うはしかり。

干時嘉永四歳八月日
       大祝部 古田式部鬼麿
      出光直良主人
      白木栄徳主人

以上のように神官古田鬼麿が記した後、安政五年六月に神代勝寛が古田鬼麻呂の奥書を追認する体裁をとった文が約200字の漢字のみでしたためてある。其の中に、「赤間富商出光白木二氏・・・」という文言がみえる。

(18)祇園社巻物
第一部 年々六月晦日和大祓之夜之れを読む其の為の作也
    赤間祇園社和大祓之縁起付祝詞
第二部 潮井川にて読み申す分也
    和大祓之祝詞
第三部 大尾

以上の3部構成で祇園社(須賀神社)の巻物は、成っている。第三部は、出光氏文の序文に収めてある。また、第一部と第二部は「第14章赤間祇園ナゴシのおおばらい」に入れた。
七社宮巻物と同じく、嘉永4年に出来あがっており、古田鬼麻呂が出光運平直良と白木喜平栄徳に託している。全く、同じスタイルだ。

(19)文久元年在銘指図
文久元年、九代目運平直良は53歳のときに屋敷の改築を行っている。
「司天皇台本職御免許 撰考西肥松浦産 古澤公度誌印印 文久元歳 ??六月改?」の前に、500字の文言。
タイトルは、「地理家?察改正三盤調和数方位」。

私は、太田静六氏の「福岡県の民家とその周辺」を見るまでは、我が家の文久元年在銘指図は、民間家屋の超一級資料と思っていた。ところが、他家にも案外、残っている事を、太田氏の著書で知った。それでも赤間では、大黒屋と蛭子屋(我が家)だけのようだ。
大黒屋の安政七年在銘指図を見たくて、「節婦おまさ」の登場人物把握の為に出向いたときに、松尾系図と家図面を見せてくださいと頼んだが、どこにあるか分からない有様だった。
我が家の文久元年在銘指図には方位線が入っているが、大黒屋の安政七年在銘指図には方位線が入っていない(太田氏著書より確認)。

・・・原本には、p46に我が家の文久元年在銘指図、そしてp47に平成2年の我が家図面、・・・


(20)九代目運平直良の画像
九代目出光運平直良は、赤間宿の蛭子屋一統出光中家(造り酒屋)より、下家(我が家=醤油屋蛭子)に養子に来た。文久3年、55歳にて卒す。
天保14年9月、直良35歳の時、父直重とともに七社宮へ石の玉垣を献上。
七社宮の分社(青木様)の建立。
弘化2年(40歳)、祇園社に屋敷寄付。
弘化4年(42歳)、高倉神社に獅子頭を奉納。
他、系図2巻作成依頼、神社巻物2巻信託、屋敷図面作製依頼。

運平が弘化五年に系図作成依頼した時の家族のメンバーは、養母カツ(4年後に没)、運平43歳、妻ミヨ34歳、婿養子運平直行19歳、跡取り娘ツル14歳であった。

私も、平成3年『子孫の必読本』発行時、数えで43歳。家族は、伯母トキ86歳、父・文武79歳、母・トク68歳、私43歳、伯母と母は母屋住まい、父は病院住まい、ニューファミリーは離れ住まいだ。

(21)若宮神社に絵馬奉納
2、30年前に父と伯母は、赤間の呉服屋フクモトから、『鞍手郡若宮町の若宮神社に蛭子屋出光右兵さんの奉納された絵馬がかかっていますよ。』と聞かされたことがあった。
 平成2年8月、伯母と母と私の3人で若宮神社の絵馬を確認に行った。白馬だった。私の曽祖父・右兵の名前があった。


明治十有九年十一月
赤間蛭子屋福丸支店 出光右兵


添田出光の始祖で、かつ私の曽祖父でもある出光右兵は、蛭子屋の最も発展した過程での若宮町福丸の支店長だった。
明治28年には出光右兵は、885番地の家屋を192円50銭で売っている。ものすごい没落ぶりだ。

明治26年の旗生家の税金額が10円、明治33年の出光藤六氏の年収が600円(赤間村で23位)ということを勘案すると、出光右兵の売値は非常に安い。

普通の40歳の会社員で600万円の年収(平成2年)だから、今の感覚で200万円の売値ということだろう。
昭和49年、350万円で、約80年ぶりに買い戻した。これは、奇跡である。

(22)法然寺本堂の梁より出光名
昭和41年、法然寺本堂の改築の為の解体作業にて、黒田藩と出光名が梁に書いてあったことが赤間の話題になった。
平成2年10月17日、出光名のあったという梁について、出光の下の名前と年号を知りたくて法然寺に行ったが、写真も梁もないという返事だった。摩利支天神社とは、えらい違いである。

現住職は本堂がいつ建ったか頭に入っていない、関心事ではないらしい。天正年間という開祖の年が問題で建物自体の改築には興味なしであった。

その場で、過去帳を見せてもらい、『天正五年の開基より寛政12年まで、220年なり』と読める部分をコピーした。其の後に、133字の漢字で、『前後亡魂願名帳一紙輩為安養』という文が見える。

全く推察に過ぎないが、法然寺の改築が寛政12年だと、出光中家の卯惣太が30歳、本家の甚次郎良里が40代前半、義弟の甚次郎延房が39歳、上家の九平は50代後半、下家では七代目のチカの時代だ。以上の系図、過去帳、位牌の知識をもってすれば、寛政12年の法然寺の梁に書いてあった出光は、本家の甚次郎良里のはずだ。

文武が写した写真、あるいは法然寺の前住職が写した写真がいつの日か出てくることを期待したい。
(実は、写真は、この本執筆に間に合ってでてきた。ただ、編纂は、この時点では未だ出てないので、こういう表現になった、第16章(最後の章)雑記(1)25年間墓地に掲示の立て看板の項目で、その件を詳述する。)

(23)太田静六著「福岡県の民家とその周辺」に我が家の写真
昭和48年発行の太田静六氏の「福岡県の民家とその周辺」は、473頁、限定1500部、4000円の価格である。

氏は我が家には一度の挨拶もなかった。大黒屋の松尾昭平氏は太田先生に我が家を大黒屋の次に古い家として紹介されていたが。太田先生は、東京出身で旗本の出だということだ。出光佐三氏とも面識があるとか。

赤間で在銘指図を所有しているのは、大黒屋と我が蛭子屋だけなのに、太田先生はどうして我が家にお見えにならなかったのか?赤間宿で8軒、屋号と家業と姓名まで載せて我が家については「有田氏宅」(昭和49年買い戻し)しか載せていない。今の出光不動産事務所だ。よその人が見れば、何番地の有田氏か分からない。蛭子屋のものが見れば、自分の所の家紋の鬼瓦なので、紛れも無く我が家だと確信できる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・途中略

太田先生の労作の役に立つ話を抜粋。
「江戸時代の町屋で、今日まで一番多く残るのは造り酒屋で、次いで多いのは質屋、醤油製造業、雑貨屋、呉服屋、染物屋、麹屋、漆屋、両替屋、木郎製造業である。
両替屋は今は全く姿を消したが、多くは質屋も兼業していた。木蝋製造業も今日では殆ど見られなくなったが、江戸時代には県下の重要な特産物であった。木蝋はハゼの実を圧縮して蝋を作ることから、ハゼ蝋ともいわれる。江戸末期には各藩を通じての成長産業となったため、今まで酒造業をやっていた者が転業したり、各種商売の人が大抵は木蝋製造に1回は手を出しているようである。」

トキ伯母から、ハゼ蝋の話はよく聞いていた。我が家も大黒屋も、油屋(油長)も、幕末はハゼ蝋に手を出している。まさに太田先生のおっしゃるとおりである。

(24)西日本新聞「カメラ新地図」に我が家の大写し
昭和59年10月18日の西日本新聞の夕刊で、連載物の「カメラ新地図」に我が家(2棟)の大写しが載る。本家(赤間880番地=赤間五丁目1番19号)の自動販売機は今は無く、替わって赤間宿の燈篭が市の出費(竹下元首相のふるさと1億円基金)で置かれている。

・・・・・・写真は、省略・・・・・・・

「カメラ新地図」
むかし宿場町 いま学生の町
宗像市(6)
旧唐津街道の宿場町として栄えた赤間は、いまや学生の町。
白壁の町並みをキャンパスギャルが歩く姿はアンノン調。
「歳月の重みを感じ、落ちついた雰囲気がステキ」と女子大生。
「次々に現代風に変わるには惜しいたたずまい」と風化を惜しみ、行政側に保存を期待する声もあるのだが。

(25)宗像市民俗調査報告書ー旧宿場町赤間ー
宗像市民俗調査報告書は、第1集が1987年調査と銘打ってある。そして第3集は1989年調査と銘打ってある。

第1集は、我が家の文久元年在銘指図も入れている。そして、江戸末期、明治8年、大正10年の赤間の町並みを復元している。

第2集は、各家の昭和50年代の間取りが、福岡教育大学の学生の手により写されている。屋号はその当時の屋号であり、江戸期とのつながりはない。また、築年は、殆どの家が百年ほど、さば読んでいる。指導教授の手落ちである。こんな資料を、宗像市は絶対的なものとみなしている。ちゃんちゃらおかしい。

それぞれの資料は、別のURLで見て頂くとして、次に私の感想を書きます。

第1集の藤井隆晴氏の研究者としての態度に敬服します。

江戸末期、出光本家は町並み復元図に表れてこない。上家は、ちょうどつぶれた頃だ。しかし、中家はまだ勢いがあったはず。多分、現在との関わりがないので、聞き書きに表れてこないのだろう。赤間を去って、ここにいないと人々の記憶から忘れ去られる。知っているのは我が家だけかも。

明治8年、中家と下家(我が家)が示されている。本家は農民の表示だ。藤井氏は壬申戸籍を見ただろうか?職業が明記してある。

大正10年、出光中家もつぶれ、北九州に流出。本家は農民だ。我が家は菓子屋となっているが、誤りだ。図の自転車屋は、今と同じく田中、そして薬剤師は有田、菓子屋は溝口。実際はもっと小さい。我が家は今の半分、むかしの三分の一で、大正10年にはここで生活。聞き書きの怖いところである。我が家は確かに、明治35年から大正5年まで、その三分の一の土地家屋をよそ様に貸している。大きな家を貸して、小さな家で生活し、その賃料の差が生活費という、みじめな暮らしだった。だが、一度も、その三分の一は手放していない。そして、大正5年にはカムバックを果たしている。ちょとしたエラーだろうが、許しがたいエラーだ。藤井氏は法務局の土地登記簿、家屋登記簿を見たことがあるだろうか?

(26)またも新聞記事に我が家の大写し
昭和63年9月2日付けの西日本新聞の朝刊に、またしても我が家の大写しが載った。
販売店に頼んで写真の拡大をしてもらうと、なんとトキ伯母と千々和さんが写っていた。
この記事には、宗像市民俗調査報告書が小冊子としてまとめられ、500部印刷、公共施設や教育機関に配布されたことが書いてあった。

・・・原本は、新聞の切抜きの写真・・・・

宿場町赤間を再現
古老から聞き取り
調査報告書まとめる
赤間宿は江戸時代、『唐津街道』に置かれた宿場で、幕府の役人の往来、大名の参勤交代で賑わった。
交通と文化、商業の要衝でもあり、「町屋200軒ばかり、茶屋宿屋あり」など当時の記録ににぎわいぶりが残されている。

(27)赤間宿町並み案内板
平成2年3月、法然寺のそばに、赤間宿町並み案内板が立てられた。

町並みを一枚の案内板で復元すると、無理が生じる。百年前、二百年前、三百年前が入り乱れる。現在ここに居住している家しか表現できない。家々の盛衰推移を表現できない。固定観念を植え付けてしまう。こういったデメリットの中で、冒険的に町並みが復元されている。

我が家(蛭子屋)は、ダントツに古い、築360年との表示だ。

しかし、我が家はえびす屋一統の分家(6代目の分かれ)だということ、えびす屋一統は1620年代に赤間に来たという知識があれば、こういう誤りはしなかった筈。ちょっと、我が家の系図を見せてもらうとか、聞くとか、手段はいろいろあった筈。市もどうかしてるョ。

また、隣の恵比須屋本家は酒造り、旅篭、農業、軍人、公務員と変化したが、赤間では一番長く庄屋職をしている。全く無視されている。面白い事に、絵は、隣の恵比須屋本家だが、説明は町茶屋となっている。すなわち、油屋だ。私の小学校時代、本屋をしていた。

出光佐三氏(出光興産創業者)の家は、紺屋と言っていたが、生業がそのまま屋号だった。誰かが、家格を高める為に松屋と書いていた。屋号の持つ意味が分からない人の仕業か、全くのミスか?

庄屋宅が船津久戸長になっている。これはあり得ない。船津久戸長は、明治10年代に吉武地区の久戸より、出て来た船津一統の本家筋だ。始め、船津屋と暖簾を掲げたが、あとで久戸長と称した。それは、明治後半、大正時代が屋号華やかなりし頃というのと、符号する。

また、町並み案内板は、勝屋について、約110年前と、山本勝屋が三郎丸から赤間に入った年を書いている。勝屋の創業は、三郎丸に始まる。赤間の建物自体は、約200年だ。前の持ち主は、滝口新屋。幕末、新屋は庄屋をしたことがある。没落後、どこに行ったか、不明。

我が一統の蛭子屋(酒造り)は、大庄屋を最低2代はしている。出光卯右衛門、出光卯惣太、2人とも私の祖先だ。この家は、町並み案内板には、絵も解説もなにもない。完全無視だ。宗像郡誌の『藤助』を読めば、この家の繁盛ぶりは明伯。また、摩利支天神社の棟札から、大庄屋出光卯惣太ははっきりと、時代に足跡を残している。この家は、大正時代、職を求め北九州に出、その後、大和郡に落ち着いた。赤間の人達の記憶に残っていない。

我が家が蛭子屋(えびす屋、恵比須屋、戎屋)と、思われている。隣の本家も、江戸末期には農業に転換、屋号を使わなくなっていた。それで、赤間でえびす屋と言えば、我が家が代表だ。隣と我が家が一統というのを殆どの人が知らないという不思議な現象が起きた。たまたま、隣の昇三郎一家が本家の跡目を満州から引き上げて取った事、昇三郎が若死にしたこと、後妻をもらったこと。この3点で、隣自体、我が家だけが赤間での一統だということを認識していない節がある。隣は、ひょっとしたら、石油屋も一統と思っているのかもしれない。

ま、とにかく、間違いだらけの町並み案内板だ。竹下首相のふるさと創生事業の一環だ。この間違いだらけの案内板を訂正させるのに、ものすごいエネルギーが要る。徒労と分かっているが、『おまさ事件』も発覚までに19年。せれは、一つのクーデターであったが、私の町並み案内板を巡る戦いも、一種のクーデターである。古い考えの人達(案内板に関わった人達)の面子がある。ちょっとやそこらで、筋は曲げられない。私とは、力関係で決まる。だから、彼らが老衰で亡くなって、があがあ言うのが私だけになれば、やっと訂正されるわけ。もう5年。

日本全国、案内板ってこういうもんなんですかね?赤間はちょっと、行き過ぎ?

・ ・・町並み案内板、市がくれた観光案内を添付(原本)・・・・・


© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: