emeraldsea

魂を焦がす音、ベイルート


「魂を焦がす音、ベイルート」  2008.01.11日記








仕事から帰宅した後に音楽を聴き続ける。
これは現実逃避の一種であろうか?
いや、
これも現実のもうひとつの表情に向かい合うことだ。
音楽を愛することは、うたかたの夢に戯れることであると同時に、
また、夢の欠片を拾い集め再構築する時間を有するということでもある。


今夜も聴いている、素晴らしい音楽を、
ベイルートという名の異国のバンドのアルバムを。

ベイルート
『ザ・フライング・クラブ・カップ / ベイルート 』
http://item.rakuten.co.jp/neowing-r/wpcb-10044/


このCDにはパソコンで再生出来るミュージッククリップが収録されている。
名曲「ナント」を含む計3曲。
でも僕は敢えてこのクリップを鑑賞することはお勧めしない。
あくまで「音」にのみ触れることで齎される音楽の旅がベイルートのアルバムにはあるような気がするから。
CDに収録されたミュージッククリップに目を通すことで得られるものは、
このアルバムに心奪われることで得られる感動とはまた別なものであろうし、
まるで魔術師のトリックを知った後のような寂しさに身を置くことにもなるかもしれない。

この3曲のミュージッククリップの中で、バンドのヴォーカルであり作詞作曲を手がけリーダーでもある青年は一度たりともカメラに視線を合わせることがない。
何処を向いて歩いているのかさえ定かではない、そんな表情だ。
しかし、視線は決して虚ろではない。
廃墟のような建物の中を、太陽の眩しい場所の木陰のそばをまっすぐに歩いている、歌っている。
目を瞑っているようだけど確かに前に進んでいるのである。
そして誰に対して歌っているのか、これも定かではないけれど、
歌声にはエネルギーがあり聴く者を強く惹き込むのである。

あきらかに、彼は此処とは違う世界や物語を頭の中心に設定している。
だがベイルートの音が声がシド・バレットの奏でるような類の幻影の世界への幽閉に陥っていないのは何故だろう?
それはベイルートが、こことは違う何かへ心を寄せながらも、
自分自身の立っている世界を内から構築しようとする試みが願いが、
時代錯誤的な音の戯れの根底にしっかりと息づいているからであろうと僕は考える。


ベイルートの演奏シーンを安物の家庭用ビデオカメラで追ったような粗い映像、CDに収録された3曲のミュージッククリップに瞳を向かわせることよりも、
『ザ・フライング・クラブ・カップ 』というアルバムの音にのみ触れることで、僕はただ、
魂を焦がす音、内なる旅路の風景と共振していたい。
























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