“Love is behind” 0
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「-----獅吼【シコウ】。」静かに深い呼吸の中、隣を歩く連れをやんわりと呼び止める。すると獅吼は可笑しそうに片頬を上げた。「こんな時でも余裕だな、先生。」色悪、という呼び方が似合いそうな獅吼の耳に響く低音の男の艶を孕んだ声が可笑しな呼び名を氷翠王【シャナオウ】に向けてくる。「あんたへの追っ手かもしれねぇ。」なのに何でそんなに落ち着いてるんだい?と面白げに続けて返す獅吼の声はまるでそうあったらいい、とでも言う様に楽しげだ。「性悪、と言われるな。」そんなでは、と氷翠王は微笑を返した。本当は色悪と言えばぴったりだと思ったが賢明にも氷翠王は辞めておいた。色悪--------その容貌は非常な魅力的で、性は最低の下をいく極めて凶悪、など嵌りすぎで笑えない。その気配を読んだのか、獅吼は片眉をあげて笑う形に唇を歪める。「・・・・・今考えたことを当ててやろうか、先生。」色事を紡ぐ様に甘やかな色っぽい声音に氷翠王は再び微笑する。「少しはお前も親切設計で出来ていたらいいのにな。」揶揄混じりの氷翠王の返答に獅吼は声を立てて笑った。「違いねぇ。」その間も二人は足を止めない。着実にこの地とは無縁の人間がいる場所へと足を進めている。ふ、と視界が稀なる銀灰色を映した。(子供・・・・・・・・・・か。)見れば紅の瞳をした少年がこちらを憎憎しげに睨んでいる。近くには銀灰色の髪をした少女が木に崩折れる様にして凭れ掛かっていた。「おいおい・・・・・・・大丈夫か?」心配とは程遠い声が隣にいる獅吼から発せられるのを聞く。それに敏感に反応して少年は眦を吊り上げた。強い視線がこちらに向けられる。それに獅吼が面白げに視線を合わせる。だが氷翠王の視線は銀灰色の髪の少女に向けられたままだった。雪がその視線をさえぎる様に柔らかに再びちらちらと降り始める。少女のどこかに惑う瞳は氷翠王にやはり記憶の底にあるものを思い起こさせた。これが出会いだった。この出会いが後に全ての周囲の思惑を孕んで氷翠王たちの一生を変えることになる。静かに降る雪はそれを暗示する様に美しく、どこまでも深遠に汚れた地上に綺麗に堕ちて、・・・・・・・・そして、穢れた。
2006年01月09日
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身体の芯から末端にかけての全てを奮わせる和太鼓と里神楽のお囃子の余韻が心地よく残る身体に、山中の霊気と新雪の冷気はひんなりと快い。唯一暗路を共にする上等な連れとは今は会話はなく、けれどそれ故に柔らかな空気は粋な派手好きと浮き名を流す獅吼【シコウ】の身にも上等、と銘打たせるほどの中々の心地がする。しゃらん、と連れが腰につけた銀の装飾品がひやりとした音を立てるのに目を向け獅吼は口を綻ばせた。やはり華、と心中で小気味よく言葉を叩き出す。空に鳴る北国の雪の嵐の様な凛列さの立ち姿。血の青い筋が透けて見えそうな白い肌が、山中の松の青やかさに映え、凄まじいばかりの清やかさ。鮮やかな睫がしっとりと潤むあえやかな朱金の瞳を縁取り、白い柔肌の清やかさが氷翠王【シャナオウ】を非常な美貌に見せている。それでもその美貌が氷翠王を柔に見せないのは、その鞭の様な無駄のないしなやかな身体と、あるいはその朱金の眼差しが野生の獣のように高潔な瞳をしているからだろう。熱く激しく乱れる感情をまるで外に出さないのに、その瞳だけはいつもその凄まじさに此方が息を止める程の激烈な光を宿すのだ。生まれてから十九年間の血反吐を吐く様な苦しみも努力も、怒涛の様な祈りも苦痛と悲痛の涙も、突き上げる様な渇望と硬質のダイヤモンドの様なプライドも、全てその瞳に嵌め込んでいる。この瞳を見る度、獅吼は氷翠王の身体中を駆け巡る氷翠王自身の魂の激烈な光の渦と悪流を見る。だからよけいに艶めかしい。誰もが望んでも届かぬ昂みを目指して目指して駆け上がるその姿は、他の誰よりも神聖で神の許しの様な眼差しは誰より侵し難く綺麗だった。思えば、蒐【シュウ】家に十二年間も人質に捕られていた頃もこの様だった、と獅吼は思い返す。蒐家は王より下賜された家門永続の広大な領地を誇っており、多くの華族が自分の領地外の戦争特需にあぐらをかいている間にその火が自分の領地に飛び火して転がり落ちるように没落していく中、大きな財閥と提携を結んで栄え成功した他に例がない一族であった。しかし、その栄華も長くは続かなかった。何度も続く内乱に皓【コウ】国の無政策もあって、国土の一部は荒れに荒れていた。神に守られた皓国も澱んで溜まり過ぎた膿に溺れ腐り落ち始めているとまで噂され、貧困に喘ぐ農民や商人たちの間では新たな信仰宗教が流行りそれによる一揆も多発していた。曰く、『阿弥陀如来か、御領主か』。これは仏と領主である華族の宗主のどちらが偉いかの比較であり、またどちらの報復が恐ろしいかの比較であった。この考えが恐ろしい勢いで身分を問わず多くの者に浸透し、阿弥陀如来に従うべしとそれぞれ鍬や鋤、槍などを手に決起し襲い掛かってきたのだ。この裏にはこれを機に暴力革命を成そうという寺門や扇動者の手が絡んでいたが、どの領主である華族・・・・貴族は中々これに対処できずにいた。寺門は深くその土地に住む者に関わっており、その一揆に領主を主と仰ぐ臣下達でさえ多くが参加していたのだ。無論、臣下の全てが反乱に加わっていた訳ではないがおそらく半分近くが。それでも日に日に勢いを増す一揆連中に、これ以上手をこまねく訳にはいかず全ての領主が力ずくで一揆を治めた。・・・・が、である。半数もの家臣が参加していたため、貴族一門の力は半減、扇動者達の思惑通りに没落していく貴族も多く、蒐家もその中の一つとなりかけていた。これの唯一の例外が朱樺【シュカ】家であり、氷翠王である。他の領国は一揆に勢力を二分にされ息も絶え絶えの心境の中、唯一被害もなくこの一揆を治め、それどころか一揆を逆手に取り朱樺家と家臣、領民との結束をより強固なものにしたのが氷翠王だったのだ。他領地は飢饉を避けられぬ中、氷翠王はそれを上手く利用し対外関係を有利に進めた。この事が皓国の中央にも鳴り響き、その手腕を多くの貴門の者に買われたがその一年後氷翠王が出奔したのはまた別の話である。しかし朱樺家以外の多数の土地ではこの一揆はかなりに渡って続き、十四、五年続いていた。蒐家が滅びかけたのはこの一揆が始まったばかりの頃で、その蒐家に人質として囚われていた氷翠王がその十二年後にこうも見事に朱樺家の領地に起こった一揆を治めた事はかなりの皮肉である。一揆に傾いて滅びかけていた蒐家を救い、立て直したのも氷翠王なのだから。氷翠王は蒐家傘下の財閥の総入れ替えをし、事業の拡大を図った。この前代未聞の働きかけに蒐家の貴族連中は腰を抜かし、全員反対したが病床にあった宗主が氷翠王に賛同し有無を言わさず強行した。皆あの明らかに氷翠王を軽んじていた宗主が何故、と目を見張ったが、それも無理のない事だった。だが氷翠王は一年ほど前病床についた宗主と周りがおかしくは思わない程度に接触をしていたのだ。平時ならばどんな思いやりに満ちた言葉でも気にも掛けず嘲笑で返すであろう宗主の傲慢さも、病床という自分の先への不安と心細さからすっかりなりを潜めていた。まして氷翠王は甲斐甲斐しかった。絶妙のタイミングで与えられる奇跡の様な思いやりに満ちたまなざしと手、それから不安と自分が何もできぬというもどかしさを包んで否定してくれる温かくも優しく柔らかな物腰。実の子供達が臣下の者に任せっきりにし碌な看病もしない事も拍車を掛けただろう。毎日毎日、自分の看病に明け暮れてその白く繊細な綺麗な氷翠王の指が少しずつ荒れていくのを宗主は見ていたのだ。これが宗主でなくとも誰でもほだされただろう。氷翠王が自分を救いにきた自分だけの菩薩にでも見えたに違いない。すぐに宗主の氷翠王に向ける眼差しは親愛と信頼、情愛へと代わっていった。蒐家の人質である、という氷翠王の自分に対して弱い立場もそれに一役買っているだろう。絶対的な信頼を向けている氷翠王の選択に宗主が否を言う筈もなかった。そうして氷翠王は事業を選別して拡大していった。それが着実に利益を上げ、段々と蒐家が立ち直り始め蒐家の臣下や他貴族の信頼を得るようになった頃、羊毛を主としている蒐家の紡績を氷翠王は他貴族に売却した。この紡績はかなりの利益を上げていて、今後もその利益は伸びるだろうと思われていたので蒐家の者はかなりの反発をした。が、氷翠王が『今でこそ羊毛を主とした紡績は行っている者が少なく利益も高いが、他の多くの財閥もそれに目をつけ始めている。もうすぐ嫌でも価格は驚くほど下がるだろう。ならばその前に他に高く売却した方が利益は比べ物にならないほど高い。』と説得すると、氷翠王の意見に傘下の財閥は誰も反対する者はいなかった。これには蒐家の者は度肝を抜かれた。ほとんど独断のような提案に傘下の財閥はもはや反論もしなかったのだ。いつの間にこれ程の信頼を得たのか。実際数ヵ月後には氷翠王の言うとおりになり、被害を受けなかったのは蒐家と朱樺家だけだった。誰もが氷翠王に厚い信頼と情愛を向けた。誰も氷翠王無しでは蒐家が立ち行かぬ事になっていると気づいた者はいない。これで氷翠王が人質として責を逃れ、自分の臣民の待つ故郷に帰りその上で蒐家の政と財政を動かしても誰も文句など言えぬ程に。蒐家の者は氷翠王の手によって蕩ける程に甘やかされた事に気づいていなかった。自分達が何もしなくてもまるで神の手が蒐家の建て直しを図っている様に、どんどん氷翠王の手から与えられた。気づいた時には誰もが氷翠王の指示なしには何もできない者になっていた。逆に朱樺家の者は君主である氷翠王がいない間、領地を支えなければと鉄の団結を示し奮起していた故に、一人一人の才覚が尖るように際立ち磨かれ凄まじい団結力であった。後に、恐らくこの人質時代があってこその朱樺衆と言われる程に。朱樺家を取り込もうとして逆に取り込まれたのは蒐家の方だった。五歳の頃から人質生活を送っていた氷翠王は猫の子ではなく、まさしく朱樺家の前宗主であった父と同じく猛々しい虎の子であったのだ。とんだ薮蛇をつついたのだ、蒐家は。ここまでの全てが氷翠王の思惑通りであっただろう。唯一の誤算は、他国に追いやられていた色狂いの蒐家の長男が氷翠王の帰郷の時に戻り、『君のために俺は全てを捨てたんだ。』と迫りそれを氷翠王が断れば『お綺麗な顔をして俺の親父まで咥え込んだ淫乱のくせに、俺を拒む気かっ!?』と真も実もない言葉で氷翠王を貶め、挙句の果てには刃傷沙汰になり、それでも飽き足らずこの長男は氷翠王が蒐家に謀反を企てていると嘘ばかりの言葉を流したのだ。氷翠王が十四の時に強姦して子供を生めない身体にしておいて、何が“全てを捨てたんだ”なのかは氷翠王にはさっぱり分からなかったが。蒐家の者は誰も信じなかったが、氷翠王の腹違いの兄だけは違った。氷翠王と兄にはかなりの因縁があった。兄の拷問にも堪えながら氷翠王はそれでも出奔などするつもりはなかった。こんな事がこのままにされて置く筈もないと分かっていたのだ。すぐに、助けと蒐家からじかに手が入れられる事も分かりきっていた。それ程までに蒐家は氷翠王の手を必要とし、無くては生き残る事すら危うい。長男と引き換えにしても手放す筈が無かった。そうでなくともこの男は蒐家の足を引っ張る事しかしていないのだ。・・・・が、その前に朱樺家の古参の臣下が氷翠王のために反乱を起こした。実際、後一歩遅れていれば氷翠王は兄に殺されていたかもしれない。だが現実に起こしてしまった反乱は、はいそうですかと取り下げられる訳もない。このままでは一族郎党が滅びてしまう危険があった。だから氷翠王は反乱組に助け出された後、拷問で負わされた傷と痛みに立つこともままならない身体を駆使して陣頭で指揮をとり、わざと兄と敵対して見せた。そうして反乱組にも兄の郎党にも被害を負わせない程度で引き下がり、反乱組を連れ出奔した。こうすれば兄達だけは身内と敵対してでも蒐家に変わらぬ忠誠をたて、命を削る覚悟もあると言い訳もたつ。朱樺家を半分に割ってしまうが、全滅はしない。氷翠王を見つけて曳き立てるまでは目は向かない。そう思っての苦渋を飲んでの選択だった。それから、二年が経つ。想いを身から離し、雪の積もる木々を見据える。それはとても美しかった。氷翠王は息をつき、立ち止まる。記憶の内に巡る回想を留めたのは、禁足地であるここに仲間の張った結界も近いのに“外”の人間の気配がしたのだ。
2006年01月09日
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凍りついた脆弱な月が、砕け散った自分の蒼い破片を果てしなく世界に散りばめている。ああ、なんて浅ましく脆弱でどこまでも目障りな。このようなものを。雪灯【セツガ】は笑った。よもや、このようなものを美しいと呼ぶか。頬を伝う返り血が、今日はやけに沁みる。もう使い物にならないであろう刀を地に捨て、赤黒く染まった利き腕を無造作に服で拭う。噎せ返る様な血の匂いが鼻につく。これが夜ではなく他の時間帯であったなら、地面を這い伝う血の流れが思うさま見る事ができただろう。もっとも、積まれた死体で地面など見れやしないが。その場の状況を一端把握し直すと雪灯はすぐに興味を失い、視線を他に滑らせる。最初に目に映ったのは、こちらに転びそうな様子で走ってくる男の姿だった。その雪灯の視線に気づいたのか一瞬男はびくりと肩を揺らしたが、再び上げられた目には見苦しい光が宿っていた。男はそのまま走って来、雪灯の前で勢い良く地面に這いつくばり擦り付けんばかりに叩頭する。死体の上に自分の額や足が乗り上げるのもお構いなしに男はヒキガエルのような身体を擦り付けんばかりに許しを請うた。「我らが護衛に就いていながらこのような体たらく!弁解のしようもございません・・・・・・・・申し訳ございませんでした!!」放って置けば靴まで舐め回しそうな勢いだ。だが男の口調には媚だけは溢れ返って張ち切れそうなほどに旺盛ではあるが、謝罪の心は針の先ほども有りはしなかった。男は自分の不始末のために死んだ部下たちを想うでもなく、まして雪灯への心配や申し訳なさのためにこうして舞台役者も真っ青な寒々しい謝罪をしているのではない。ただこの男は恐ろしいのだ。雪灯の、引いては蒐【シュウ】家の不興を買う事が。それによって自分の地位と、国から貪ることのできる蜜のように甘い利益を失うことが。「御身にお怪我は御座いませんか。」これだけの謝罪では足りないと思ったのか、ヒキガエルは更なる卑屈な媚を見せ付ける。趣向を変えてきたようだ。「中々に芸が細かいですね。」独り言の最後に思わず「ヒキガエル(あなた)は」、と付けてしまいそうになり、その途中で「は?」という困惑したヒキガエルの声に止められる。とりあえず、個人的に笑いの極致。そのヒキガエルの反応に微笑を浮かべて返す。「怪我があるように見えるかい。」雪灯の応答にヒキガエルは歪んだ安堵に顔を綻ばせる。それを雪灯は見逃さずに、月闇に瞳を隠して笑った。その笑みは死神の笑みだったが愚かなことにヒキガエルは気づかない。いや、幸福にも、か。「さすが、蒐家の宗主となる御身であられる!心配は無用でしたな。」声を立てて笑うヒキガエルに合わせて笑みを浮かべながら雪灯は言葉を紡ぐ。「僕の一つの教訓を教えて差し上げましょう。」笑み交じりの雪灯の声は穏やかで優しい。けれど優しい声の人間が優しいとは限らない。「成り上がりたいなら、その口を閉じて語らず、耳だけは網の目のようにそこかしこに広げて置くことをお勧めしますよ。」その雪灯の言葉の途中、ヒキガエルの咽喉からくぐもったグフッという妙な音と勢い良く飛び散る水音が響く。雪灯が腰から引き抜いた短刀でヒキガエルの首を真横に薙ぎ払ったのだ。ヒキガエルの血がそのまま真上に撥ね上がって雪灯の耳朶を汚すのを捨て置き、ぐぐっと力を込めて自分の短刀をもう一度引く。ヒキガエルの目は信じられないものを見た様に見開かれていたが、その目に光は無い。「そうすれば情報が得られるばかりか、あなたはその馬鹿さ加減を周囲に披露しなくて済む。求められても口は閉じたままの方が重畳だ。特に成り上がりたいなら自分の情報は与えるべきではなく、その分耳を意識して使い、他人の情報を得る事に専念したほうが良い。・・・・・・・ただでさえあなたは醜すぎる。」と言っても自分は美しいものなどこの世で一つしか知らないけれど。月の令色が痛いほど照らしてくる。ほろほろと金色の光を零して落ちる満月は、ただ一人のまなざしとなって癒しのように雪灯の身体を撫でる。それを受け、当に忘れた幸福を少しでも瞬時に思い出せる僕はもうかなりのお手軽だ。「・・・・・・何度生まれ変わっても僕を忘れてしまうお馬鹿さんな君には、僕に文句を言う資格は有りませんよ。」空高くから見守る月を見ながら呟く。本当は月なんかよりずっと君のほうが綺麗だと思うが。鬼龍【キリュウ】として生まれ、六道輪廻を記憶を持ったまま巡り続けるようになって早何万回目、自分は地獄の鬼や亡者にも第六天魔王と化け物扱いされる始末。今回も君の魂を追って生まれてきたが、やはり君は覚えてはいない。けれど、君は何度生まれ堕ちてもその柔らかい瞳と華奢な指先は変わらない。僕にはそれが嬉しい。その瞳が僕を映しその華奢な指先が僕の体温に触れたことを、その魂のどこかで覚えていてくれている、とそう思いたいんだ。今回の生で、初めて会った時を回想する。出会うタイミングとしては最悪な機会だったと、今でも少し後悔する。君は幼くして朱樺【シュカ】家の宗主で、蒐家に人質として囚われていた。それから九年ほど経った頃。蛹が蝶になるのを女性の成長に例えるのは美しい隠喩だが、その言葉を当て嵌めるが如き美しい氷翠王【シャナオウ】の成長に欲情したらしい、蒐家の長男、今生の雪灯の兄でもある男が氷翠王を強姦した。その当初は兄も氷翠王も話さなかったので、誰にも知られていなかったが、その数ヵ月後、彼女が妊娠している事が分かり発覚した。まだ彼女は十四だった。兄は自分のしたことを棚上げし、周囲にばれたことで氷翠王に酷い暴力で当たった。彼女は自分が蒐家に人質に捕られている手前反抗もせず、周囲も蒐家の次期宗主のする事に口を出せず傍観していた。当然の如く彼女は流産し、二度と子供を生めない身体になった。その時自分は海外の異国で生まれ育ち、蒐家の人間でありながらこの国に一度も来た事が無かった。どころか、彼女が蒐家に居ることすら知らなかった。らしくもない誤算だった。いつもなら彼女(あるいは彼)と親しい関係になれる家柄の所に目をつけて転生するのだが、今回は前の転生の際に穢れた魂を癒すことで精一杯だったのだ。突然父に呼び戻され、帰った家で見たものに愕然とし、自分の不覚に取り返しのつかない後悔に身を焼いた。その時に始めて会ったのだ。*雪灯が其処を訪れたのは月も中天に差し掛かる頃。つん、と新しい畳の香りのする部屋の端に白い布団が敷かれ、そこに少女が死んだように眠っている。けれど月明かりに照らされるその顔はやはり空気が柔らかく、静かだった。そこかしこに暴力を振るわれた痕が残り、肌が白い上に更に白く見せる包帯をいたるところに巻いているのが何とも痛ましい。けれど、やはり幾年も探し続けたその魂だった。その空気を柔らかい表情を思い浮かべる度に、縁の無いはずの幸福に似た何かを雪灯は得る。雪灯は笑った。その笑みの下に残酷な感情を押し殺す。この相手に積もり積もった感情。それは絶望という陳腐で滑稽な名が付く。この殺意【愛】は根が深い。此処に戻らなければ良かった。この子もきっと、すぐに僕を忘れる。ゆっくりと眠る少女に近づく。月光さえ撥ね返すような潔く、冷たい視線をしばらく受け、少女は身じろぎをした。『・・・・・・・・・あ・・・?』うっすらと少女は瞳を開け、ゆるゆるとこちらを見上げる。『・・・・・・・父、君・・・・・・?』随分と懐かしい人の夢を見ていたようだ。慕う声音に、それを紡ぐ唇はあどけない。あまりにも残酷な返答に、それでも微笑の相槌を打ちながら答える。『違いますよ。覚えていますか、雪灯と言います。』『・・・・・雪、灯さん。・・・・・・はい、忘れません。覚えています。』可愛いことを言う。けれど君は必ず忘れてしまう、いつも。それでも。『どうして僕が兄から君を救ったのか、君には分かりますか。』その雪灯の問いに思いがけず少女は花のようにふわり、と笑う。『優しい、人だから。』切った唇が痛いのか、声がとぎれとぎれに言葉を繋ぐ。『意外なことを言いますね。実の母を殺して体よく海外に追い出された人間に言う言葉とは思えません。』『あなたはたくさんの傷を負っているから。心の傷を負った人はその痛みが分かるから。・・・・・・あなたはきっとそれに気づいていなくて、人よりもっと痛いから。だからきっと忘れているだけ。温かい優しさを。』少女はいつか雪灯が願ったように、真っ直ぐ雪灯だけに微笑む。それだけで雪灯は報われる。その今までのどの転生の時よりも少女が優しく微笑みかける。誰が本当にこんな輪廻を巡り続けたいと思うものか。本当は、叶うなら、ずっと・・・・・・・・・・・。*鎖にがんじがらめにされて堕ちた月を、ただ雪灯は無心に見上げる。この地獄のような場所。できるならあの愛おしい魂と永遠の眠りにつきたい。健常な理性は当の昔に絵に描いた餅になっている。君の傍ならたとえ地獄でも昇天ができるだろうに。彼が願うのは、救われることではない。(そんなものは無駄だと知っている。)ただひとつ。本当にただ一つであったのに。
2005年12月10日
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あれから人目を避けて町を出、今は踏みしめる雪さえ半ば凍っている山の中を歩いている。空には高く令色の月。地上の純白はその令色の蒼に染まっている。美しい。吐く息は白く凍る。けれどもう慣れたもので、この冬の山を往き慣れない者にとっては極寒の地獄でも、あまり寒さは感じない。何より、禁足地の結界が近い。その山の結界と連動している自分には、この山の極寒は脅威ではない。その代わり瞳に熱が籠もるのを氷翠王【シャナオウ】は自覚した。瞳が疼く様にまわりの血管が異様に脈動する音を感じる。もう限界らしい。だから瞳にかかる少し雪に穢された黒髪を後ろに梳き上げて立ち止まり、獅吼【シコウ】を呼び止めた。瞳の熱感を受けて少し声が低く掠れる。けれど妙に美しく突き抜けて透るその声が獅吼に届いたようだ。獅吼はいつもの人を食ったような視線を氷翠王に返した。「どうしたんだ、先生?」ふざけた様なその呼び名に無意識に反応しながら、氷翠王はその瞳を向ける。「ああ、もう切れちまったのか。」氷翠王の瞳を見、思い出したように近づいて来て獅吼は慣れたように氷翠王の顎を掬い上げた。屈み見るでもなくそのまま背筋を伸ばしたままで氷翠王の瞳を上から観察するように見てくるので、思わず氷翠王は首が攣りそうになる。そのまま文句も言わず、ただ撥ね返るような視線を獅吼に据えると、ニヤついた獅吼の瞳が目に映った。(・・・・・・・・。)反射的に身構えたくなった。「言っただろ、色々と役に立つって。」そう言って不敵な面構えを物騒に笑ませる。時々こういう眼をする、と氷翠王は思う。喰らい付くような眼だ。血迷いが一瞬脳裏をよぎるが、獅吼の言った意味に思い当たった。待ち合わせた場所で、獅吼の冗談への切り口上に、居なくてもそれほど不自由はしていないと切り返した事を言っているらしい。「何だ、根に持ってるのか?」不意の逆襲に、氷翠王は少し肩を揺らして笑った。氷翠王の瞳に和やかで優しい光が戻るのを見、獅吼もその瞳を穏やかに笑ませた。「口が減らねぇな、あんたは。」思わず獅吼は苦笑する。こんな風に時々妙に素直に氷翠王は笑うからたちが悪い。しかもほとんど無意識ときてる。始めは気づかなかったこういう些細なことも今は分かる様になっている。誰も占めることの無かった心の内を、何かが入り込んで、何かが動く。確実に変化していく。夜通し帰ることの無かった自分の屋敷に毎日帰り、午前中から起きて、今はこうやって相手と共に帰路についている。この相手が居るということ。それだけで習慣さえが変わっている。(・・・・・・・・・なんかもう、逝って来い、ってな感じだな。)もう変更のきかない感情を一端後回しにして、獅吼は氷翠王の瞳に再び目を戻した。「痛てぇか?」大分、氷翠王の瞳に溢れる気の流れが荒くなっている。心なしか目尻が紅い。獅吼が施してやった符術が綻んできているようだった。「・・・・・・いや、痛みは無い。」「そうか・・・・・、だがもう町から大分離れたし解いても構わねえだろ。」冷えた水の入った竹筒の中に解の符を溶かし込み、それを氷翠王に手渡す。氷翠王は何のためらいも無く、飲み干した。変化は、劇的だった。凄まじいほど清麗な気が、氷翠王の身に柔らかく風が吹くように満ち満ちる。漆黒の髪が更に深みを増して、月闇の色に代わる。黄金の光輝を流し込んだような琥珀の獅子色の瞳は、まろやかな艶を帯びた朱金の色に代わる。符で抑圧されていた色と魂気が元の姿を取り戻して行く様を、氷翠王は瞳を閉じて追いかける。このままの姿では町へ下りる事ができないし、自分の気が周囲に影響を与えすぎると分かってはいるが、気と色を抑圧されるのは結構辛い。自然な形に完全に解放されたのを感じ、氷翠王は知らず、ふうっと息をついた。ゆっくりと瞳を開ける。瞳は直ぐに月の令色に染まる雪景色を切り取って映した。生き返った心地がする。渇いた咽喉に冷えたおいしい水を注ぎ込まれたように。思わず息をつく。「よっぽど疲れてたみてえだな。」獅吼は少し姿勢を崩し、煙管に火を点けながら心底面白げに笑った。それに氷翠王はゆるく微笑を返し、無難な言葉を選び更に瞳を艶やかに笑ませて歌うように言った。「多少は。」「・・・・・・・やっぱり口が減らねぇぜ。あんた。」俺の符術に文句つける気かい、先生?と獅吼も切り返してくる。妙に男の色気のある声音に凄味が混じるいつもと同じ口調。だが煙管を吹かしながらも逸らされない視線に、氷翠王は少し瞳を細めて聞いた。「何だ?」「あんたを見てる。」問うた疑問はすぐさま簡潔な言葉になって返される。氷翠王は呆れた様にゆるく笑った。けれどその笑みは柔らかい。「見て楽しいのか?」呆れたようなけれど和やかな口調のまま、手の中に未だ少しの水の残る竹筒に眼を移しながら氷翠王は聞く。「楽しいぜ?」と、笑って返し、「あんた酒はどんだけいけるんだ?」と、ふいに思い付いた事を口にして聞いた。そう言えば今更だが、氷翠王と酒を飲んだことが無いことに気がつく。思わず氷翠王に視線を向けると映るのは研磨された気とそれ以上にその性質を表したような綺麗な姿勢とまなざし。他も・・・・・・・美の極致と言ったところか。キリリと引き締まった線の小気味良くしなる身体に、灼熱の太陽よりはるかに激烈な光を宿す朱金の瞳が合わさって、返って妙に艶かしい。女の纏う色香ではない、そんな生ぬるい代物ではなかった。一目で他とは違うとわかる瞳の強さと華(ソンザイカン)。己の誇りに真摯に報いようとするその態度は同性である女よりむしろ“牡”を刺激する。・・・・・・・そうでなくともかなりの眼福である。月などを愛でながら酒を飲むより、この相手を見ながら飲み交わしたほうが楽しいような気さえする。「?それほど弱くは無いと思うが。」それがどうかしたのか、と唐突な問いに、けれど氷翠王は答えを返す。「今度また酒でも一緒に飲もうぜ、先生。」不思議そうに、けれど弱くは無いと言い切る望み通りの返事を頂いたので。笑みつつ、否とは言わせぬ口調で切り込む。「構わない。」それに応と答え、氷翠王は顔を上げて獅吼と視線を合わせた。・・・・・・・・何か、いや、かなり楽しそうだ。と、思わず氷翠王は頭の中で反復する。(・・・・・・早まったか?)思わずこう考えたのも、無理も無い話しである。
2005年12月09日
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ビリビリと心臓を揺さぶる和太鼓の音。目に映るのは燃え盛る紅の篝火。鼓膜を震わす里神楽のお囃子の音が近い。露店から離れた神社の境内は里神楽の舞台に近いからそれも当たり前か。空を見上げると凍り付いて零れそうなほどの蒼い月。今夜が祭りでなければその凍った蒼い月光はすべからく全てをその令色に飲み込んだだろう。かん高くそれでも美しい笛の音を心の奥深くで聴きとめ、月の令色に身をひたす。薄く細めた自分の瞳は境内をそっと這うが、求める姿は見当たらない。約束を果たした今宵の待ち人はいつとも現れない。いつもならそう探さずとも見つけることが出来るし、そう待たずとも相手が自分を見つけるが。・・・・・・・この関係をほかの者は羨ましいと微笑む。(自分はそうは思わない。)だが、これはいい。いつもの探さずとも待たずとも、謀ったようにお互いを見つけ出す賭けの伴ったお遊びより、こうやって祭りの喧騒の中いつ来るかも分からぬ相手を待つほうがよほど性に合っている。待つことは嫌いではない。勝負事に慣れた自分は待たなければならない時があるのを知っている。どこかの坊やみたいに突っ走ってばかりじゃ獲物は手に入らねぇ。まあ、賭け事ならともかく、待つのが人間なら、不快にさせられるかさせられないかはそれも人によりけりだが。待つことが苦痛ではないのはもう幾年も待ち続けている相手だからだ。待ちに待って、疲れてしまったとも言う。いや、違った。脳裏によぎる血迷いが今宵の待ち人の姿となって、神楽のお囃子にちらちらと紛れる夜の闇に浮かび上がる。いつも傍にはいた相手だ。だが自分が魂の底から愛おしんだ相手は少し見ない間に驚くほどの様変わりを遂げていた。いつだって真っ直ぐに微笑む相手の周囲の空気はいつもどこまでも柔らかく水のように澄んでいた。それは今でも変わりなく見える。だが自分はいつもその姿に取り返しのつかない“変質”を見ることが出来た。どこまでも柔らかいその相手の周囲の者を癒す才能は、偶像崇拝を賛美するかのような連中の中にあって、そのまま暗い力を孕むカリスマへと見事なほどの変貌を遂げた。何故あれほどの変貌を目にしながら他の連中はどうして気にもならないのか。考えても埒は明かない。結局。どう変わったとしても、“高嶺の花”は“華”なのだろう。周囲がどう変わってもあの相手だけは変わらずに在れると、そんな都合の良い事を本気で思っていた自分が甘かったか。出来ることなら。ぶちまけてみたいのだ。相手の、陽にさらされない“傷”を。膿んで腐敗していてもいい、聞くに堪えない腐臭を撒き散らしていてもいい。(それすらも愛おしいと思うだろう。)誰にも開かれない“傷”は、いつまで経っても癒えない。ならばいっそ抉り出してその膿みを無理矢理にでも舐めとってやらなければ、相手はそのまま腐れ落ちるだろう。むしろ望んで。最期のとき、相手はそれは美しく微笑むに違いない。だが、思い通りにさせるつもりはない。それでは自分の気がおさまらない。あの愛おしい魂を孤独の底に置いたままは死なさない。わあっと周囲の喧騒が大きくなる。お囃子ではなく騒々しいざわめきの声に、松明がパンッ、と音を立てて爆ぜる。来た。月から視線を流し、喧騒の中心に目を遣る。其処には人目を惹く人物がいるのが見えた。大地を思うさま駆けるためにあるような伸びやかな肢体に、その線に合った上下とも黒の合わせの洋装がよく映える。鴉の濡れ羽のようなその色は何故か夜の海に散る波を連想させる。その黒のいかにもシンプルな中に、触れてもそこに在るのか分からない位の細く華奢な銀の鎖の装飾具が細腰を強調し、艶気まで添えている。個人的には美の極致。けれど最も美しいものは未だはっきりとは此方に向けられない。その人物の視線が無造作に周囲を流れる。見ろ。その目に映せ。自分から声を掛けてやるつもりはない。それでは意味がない。その瞳に映るのは。その瞳が一瞬、ふいに魔が差したように月の令色に向けられる。そして針で空けたような間の後、その令色を纏ったままの瞳がまっすぐに此方に向けられた。思わずゾクリ、と鼓動が沸く。分けの分からない優越感が血の中にジリジリと湧いた。研磨された宝石のような瞳だった。やっと俺を見留めるその瞳を真正面から見返す。そうだ。逃がしゃしねぇ。「よお、先生。」逸らされないその瞳を見据えながら声を掛ける。「獅吼【シコウ】。」先生、という洒落半分の呼び名に幾分目を細めながらも、氷翠王【シャナオウ】は名を呼び返して此方に歩み寄ってきた。そして厭味でもなく、さっさと一人で帰ったかと思った、と言う。少し、いやかなり心外な言われように内心苦笑しながらも獅吼は不敵な面構えを笑ませた。「まるでその方が良かったような口ぶりだぜ?」いろいろと役には立つはずなんだがな、と冗談交じりに見返せば、相手も負けず劣らず、「それほど不自由はしていないがな。」とキリキリと口上を笑みと共に切り返す。こういうのを“類は友を呼ぶ”と言うのか。はたまた“朱に交われば赤”、か・・・・・・・。どっちにしろ、たちが悪いことには変わらない。「おいおい、頼むぜ、先生。」「なら気づいていたなら声を掛けろ。」おかげで探し回ったとそのまま続ける口調はけれど柔らかい笑み交じりだった。こっちが最初に氷翠王を見つけていてそれでも声を掛けなかったことに気づいたらしい。内心舌を巻きながら、けれどその思考は別に気づいたことに塗り潰された。いつもは遠駆けの後はもっとすっきりした顔をしているが、今日は浮かべる笑みにも憔悴が滲んでいる。一瞬、橙火【スミカ】に連れ回されたせいかと思ったがそれにしてはどこか様子がおかしい。「どうした。」短く切るように問い、腕の中に抱き寄せる。微かに血の香がした。だが氷翠王に血は付いていない。触れる皮膚からそれが分かる。呼吸も心拍も通常と変わらない。怪我はしていない様子にほっと息を付き。それでも反論をさせないように更に深く抱き寄せた。「----------------------。」獅吼が口を開く前に、氷翠王が言葉を口に乗せる。その言い様に思わず目を見張った。『お前しか思いつかないんだ。』そう言った。けれど驚いたのはその言葉ではなく、口調だった。縋るような、願うような口調だ。こんな弱みを見せるような態度は未だかつて氷翠王は見せた事がない。「ただの移り香だ。だから、気にしなくてもいい。忘れてくれ。」傷ついたような悲しみの蒼を瞳に映しながら氷翠王は続ける。嘘ではなかった。ただの移り香だ。問題は誰の移り香かであって・・・・・・・。一瞬失う痛みが血迷いが脳裏をよぎる。やはり気づいた、と思った。獅吼が気が付かないはずがない。雪灯【セツガ】の移り香だった。「お前しか思いつかない。私に余計な気を遣ったり偶像崇拝の道具に使わない人間が。・・・・・・・・・・・・・お前しかいなかった。」だから、と。「だから何も言わないでくれ。」悲痛な告白をしながら氷翠王は今更実感する。愚かだ。愚かだ、と。告白は柔な身の逃げだと氷翠王は知っていた。あまりの自分の愚かさに。微苦笑が零れた。けれど、その惨い感情に伴った笑みの割には氷翠王の目は落ち着いていた。惨い言葉を吐く割に、瞳だけ優しい。世界の終わりがそこに待っていることが分かったかの様な瞳の笑み。諦め切った瞳だった。その笑みを見た瞬間、獅吼は今更ながら実感する。本当に、今更・・・・・・・。氷翠王のその瞳は、何度も他の自覚の無い“他人”に執着され、理不尽な目に遭ってきた人間の瞳だった。そしてまた、その執着が遣って来た時と同じく唐突に、理不尽に去って行くことを理解している瞳だ。そうでなければ、このような微笑をその透徹したような表情を浮かべられる訳が無い。氷翠王は此方の目を見ない。触れる体温だけが隙間を埋めようと虚しい空回りを繰り返す。その瞳だけが優しい。その唇から先程の言葉以外、紡がれる様子はない。その唇が紡ぐなら、たとえそれが何の意味も成さぬ音の羅列であってさえ意味を見つけようと自分は躍起になるだろうに。何も成せぬ自分に獅吼は内心ゾッとする。それに気づき、氷翠王は思わず自分を抱きしめる獅吼の背に腕を回した。獅吼の体温はしっくりと温かく、腕になじんだ。それが温かく、優しく・・・・・・・、救われると共に、何より痛い・・・・・・。氷翠王は知らず、先程と同じ微苦笑を浮かべた。泣き顔のような笑みだったのか。笑みのような泣き顔だったのか。獅吼は判別が付かなかったが、けれど自分の行動と意志を実践することはできる。氷翠王の背に腕を回し、その肩をただ撫でてやる。そうしながら心の底で自分への憎しみと苛立ちを飼い殺す。ここまで追い詰められているとは、どうしてやっても何を言っても、自分では氷翠王の痛みを取り除いてやるには至らない。その場しのぎに“禁足地”の村から連れ出してやっても、ただの時間稼ぎにしかなっていない。それどころか、却って氷翠王に堪らない想いをさせている結果になっているかもしれなかった。「どうして・・・・・・・。」と、出掛かる言葉を口の中で噛み砕き飲み下す。その呼吸に気づいたのか、氷翠王は身体を離しかけた。それを許さず、腕に抱く。離すつもりは無かった。何かを欲しがるなら何でも与えてやるつもりだった。人のぬくもりでも、癒されるための嘘でも、その心が責任への呵責に苛まれるならそれを断ちたいというのなら自分が憎まれ役を負うつもりで・・・・・・・・・それこそ、なんでも。だが、それさえ叶わないなら。それさえこの相手が許されないと思っているのなら。せめて、もうしばらくは・・・・・・・・このままで。せめて相手の震えが止まるまで。それぐらいの時間はこの相手に許されてもいいはずだ。「・・・・・・・・。」氷翠王が少し安堵するように身体を預けてくる。それだけが唯一の救いだった。今はこうしてやることが泣けないこの相手への、ただ一つのしてやれることだ。・・・・・・・今は、まだ・・・・・。
2005年12月06日
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すぐ傍から、からん、ころんと少し間延びした愛らしい音が響いている。やけに眠たげなその音は、夜に賑わう祭りの喧騒の中をぬって歌のように何かを訴えかけてくる。それを言葉に表すとさしずめ、眠い、眠くてたまらない、とでもいう所か。傍らを見るとやはり橙火【スミカ】が眠たげに何度も瞳をこすりながらヨロヨロと歩いている。その度に、橙火が履いている可愛らしい細工の入った紅い下駄がからん、ころん、とのんびりした音を鳴らしている。はたから見ている分には微笑ましい光景だが、死ぬほど眠いらしい。氷翠王【シャナオウ】は微かに吐息して微苦笑した。無理もない。あれから箍が外れたように隅から隅まで走り回るようにして露店を見て回ったのだ。よほど嬉しかったらしい、はしゃぎすぎて疲れたようだった。ましていつものこの時間ならとっくに眠っている頃だろうから、なおさら。「橙火。」眠た気な頭になるべく響かないようにそっと低く、できるだけ柔らかく声をかける。それから一呼吸置いて橙火の瞳を覗き込んだ。「眠い?」あやす様に甘いその声音は一層橙火を夢の中に誘い込むようだった。そのあまりの心地良さに橙火は少し小首を傾げ、ビロードのような瞳で氷翠王を見上げた。なんて甘い声を出す人だろう、と夢現に思う。まるでさっき食べたふわりと甘い焼き菓子みたいだ。「・・・・・・・うん。」蕩ける様に眠いので、橙火はこくん、と頷いた。「じゃあ、お兄ちゃんの所に行こうか。」何処に居るか分かる?と柔らかくて甘い声が聞く。「・・・・・・・・えっとな?あっち・・・・・?」半分寝たような疑問形の答えがあっち、という指差しと共に返される。少し困ったような氷翠王の瞳が向けられたが橙火はもう幸せな眠気の中に引き込まれている。(・・・・・・・あっちってどっち?)とは思ったが口には出さず、しょうがない、自力で見つけよう、と決意して橙火を抱き上げて立ち上がった。そうすると間髪を入れず、幸せそうな寝息が聞こえてきた。氷翠王の肩に頭を預けるようにして眠っている。「橙火?」呼びかけても返事はない。なんて幸せそうに眠るんだろうと、浅く吐息し、微苦笑する。自分には一生かかってもできそうにない、と思う。「・・・・・・・・おやすみ。明日の糧になるような良い夢を。」そっと愛おしむように呟き、その額に口付ける。そして、さあ、探さないといけないなと苦笑し、なるべく振動を与えないよう歩き出す。その時の自分の顔に本当に幸せそうな微笑が浮かんでいたことに、氷翠王は気づかなかった。*「こんばんは。」柔らかい、鑿を木に打ちつける音が雨のように優しく響いている露店に近寄り、氷翠王は声をかけた。その露店には面や細工の美しい簪や櫛、陶器物までが綺麗に並べられていた。素人でも上等な作りのものだと分かる。氷翠王の声に今まで面を彫る作業に没頭していた男が顔を上げ、視線を寄越した。「・・・・・・君か。」そして氷翠王の顔を認めると、その手に持っていた鑿を置き、表情をふと和らげた。そうすると厳しかった男の顔が、どこか菩薩のような暖かみを添える。真率さと優しさが際立つこの男のこの表情が氷翠王は好きだった。「橙火を連れてきてくれたのか。」氷翠王の背で眠っている橙火の寝顔を見、重いだろう、預かろう、と氷翠王の背から橙火を抱き上げ上着をひいた茣蓙の上に寝かせた。そして男は顔を上げ、氷翠王に視線を戻した。それからおもむろに言う。「昨日よりも大分顔色が良い。」言われて思わず目を瞬いた。そして苦笑する。「そんなに死にそうな顔をしていたか。斎【イツキ】。」いや、と斎は手元の面を再び拾い上げ、作業に戻り始める。「君はそんな無様な真似をさらす人間ではないだろう。」確認する、と言うよりただ事実を述べている斎の口調に促される。「だがそれは長所でもあるが同時に短所でもある。」トントンと鑿が木を打つ音がそれに賛同するように続く。斎が何を言っているのかは直ぐに分かったが、それ故に容易に頷くことはできない。なぜならそれは自覚を促すほどに正しい。そしてそれは簡単に自分の首を絞めることになる。そして決定的。そうした自分は求められていない。鑿の音が止む。「・・・・・・君は君が思っているほど、幸福ではないようだ。」静かな声が返される。再び鑿が木を打つ音がしだした。「君は深く的確に俺たちを理解しているが、俺たちはいくらそれに努めていても君を理解するには至っていない。」それはそう仕向けたからだ。それは自身の望んだことではあってもお前たちの責任ではない。この思いも口に出すことは叶わない。このことを自分から認めて口に出すことはできない。許されてはいない。斎は氷翠王の研磨された宝石のような瞳を見つめた。その瞳は他人の心に静かに響きすぎるのに、優しさを与えて包み込んでやるには何も欲してなさすぎる、と斎はふと思った。どうすればいいのか分かることもできない自分はひどく鈍感であるに違いない。そして氷翠王の周りには自分と同じ鈍感な者が多すぎるのだ。だから斎はその先を口にした。「俺は君を深く理解しないまま、それを悔いるだけの人間でいるつもりはない。無論、君の心にずかずかと土足で上がりこむような事はするつもりは無いが。」こうでも言わなければ、いつか氷翠王は傷つくだけ傷つき、仲間はそれも知らぬまま永久に氷翠王自身を失うことになるだろう。そうなってからでは遅い。今までも誰に精神的に頼るでもなく、一人で背負い続けることで氷翠王は自身にかなりの無理を強いている。「今のまま、君は走り続けてもいい。だが、皆君を愛しているしきみの力になれればと思っている。それだけは覚えていて黙って受け入れてくれないか。」『一緒に来ないか、斎。たぶんきっと気に入る。優しい人たちだ。優しいお前にきっとなじむ。』これは数年前に氷翠王が暖かい手と共にさしのべてくれた言葉だ。この言葉に少しでも恩を返したい。力になりたいと言ったのは、まぎれもなく本心だ。慈愛のこもった斎のまなざしと声がそそがれるのを、氷翠王はじっと聞いていた。まるでその言葉を心に沁み込ませようとするように。やがて氷翠王はその金色のギリギリ一歩手前の琥珀色の瞳を細め柔らかく息を呑み、笑ませた。その色素の薄い獅子のような瞳に、斎は一瞬目を見張る。今まで見たことも無い強い光を見せるその瞳は、まっすぐに一筋に、全てを受け止めるように斎を射る。まるで全てを統べる王のような誇り高い瞳だった。けれど氷翠王はその自分の美しさに気づいていない。次にやっと向けられた笑みはいっそ屈託が無く、暖かで少しはにかむような微笑だった。「・・・・・・・ありがとう。」ほかに言葉が思いつかない、とほんの少し幸福そうに言う。照れているようにも見えた。それを見て思わず嬉しく思ったのを、斎は否定しなかった。氷翠王が冷え切った自分の肩に思わず手を置くのに、上着を掛けてやりながら大分高く上った月を見て斎は微笑み、言った。「獅吼が待っているんだろう?早く行ってやるといい。」「ああ、そうだな。」じゃあ、また村で、と挨拶をし、踵を返そうとする氷翠王を引き止める。「今度また屋敷に来るといい。その時は夕飯でも馳走しよう。」優しく暖かな斎の微笑を受け、氷翠王は少し目を見張った。「・・・・・・斎には敵わない。」そして本音を口にし、嬉しく笑った。そして二度、心底からの言葉を唇に乗せる。 ありがとう、と。
2005年12月02日
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町が深い藍色に沈む頃合。今日はそれが格別早く、そして格別美しい。暮色の朱を刷いた空は今は磨き上げた宝石の瑠璃色に染まり、しっとりと艶やかさを帯びつつある。風にもどこか夜気を感じる頃合であった。だが今日は通りから人いきれが減る気配はない。もうじき、夜になろうというのに人々は通りに溢れ、多くの店が賑わっている。人々もシャン、と胸を張りどこか楽しげに、藍に染まった空が今艶やかさを添えるのと同じように、昼間見た顔より皆“華”がある顔つきをしている。通りを賑わせている子供たちも弾けるように笑い声を上げ、はしゃぎながら通りを走り抜けていく。夜が近づくにつれて町はにわかに活気付いていくようだった。昼の喧騒とはまた違う町の界隈には艶やかな堤燈が段々と灯されていく。どこかから、里神楽のお囃子が響き始めた。それを境に、町は祭りの歓声に、張ち切れんばかりに沸いた。かん高い笛の音や、店の呼び声が景気良く派手に飛び交い、叩き返される。祭り独特の熱気の華やかさに、やられる。通りに茣蓙を敷いたり台を置いて、居並ぶ露店はそれだけでどこか迫力があり、華やかな堤燈に照らされるその様子はいっそ小気味いいほど艶やかで派手であった。今日は山の方では朝から雪が降っていたが、ここは冬の寒気をどこかに蹴っ飛ばしてしまったらしい。「・・・・・すごい、な。」自然と素直に言葉がこぼれ、氷翠王【シャナオウ】は思わず柔らかい笑みを浮かべた。あのまま白銀に染まる草原で雪灯【セツガ】と別れ、馬を駆けさせてこの町に今着いたばかりだ。獅吼【シコウ】も今日、これがあると分かっていたから氷翠王を村から連れ出したのだろう。活気付く町からは、こんな時期に祭りを開けるだけのこの町の土壌の下強さと、ここに暮らす人々のどっしりとした力強さが分かる。その力強さをとても尊い、と思う。この町の祭りを、外と断絶された村のあの子達にも見せてやりたい。「あ姉ぇっ!」突然、力一杯の声が、かくれんぼの鬼が「見つけた!」とばかりに嬉しげに響いた。聞き慣れたその声が元気いっぱいに駆けて来るのを聞き、声の主の姿を求めて通りをザッと見通す・・・・・・・・・よりも先に、かなりの速さと強さで腰辺りに衝撃がきた。とっさに正面から飛び込んできたのを、なるべく相手に痛みを与えないために両腕を回し、柔らかく抱き止める。「あ姉(ねえ)!やっぱり来とったんや!」どこから走って来たのだろう、かなり熱い身体で、息も大きく乱れていた。ずっと探していたのかも知れない。「大丈夫?」柔らかく促して、ひんやりと冷えた水の入った竹筒を自分の腕の中の少女に手渡した。氷翠王の言葉に一つ大きく頷いて、少女は竹筒に口を付けて水を飲み干した。それで落ち着いたのだろう、息をつき、再び抱きついてくる。「なあなあ、一緒に祭りまわろう?あ姉も来とるて聞いたけん嬉しゅうなってずっと探っしょったんや。」なあ、まわろう?と、また繰り返して見上げてくる。初めて来た祭りにはしゃいで、早く露店を見て回りたいのかうずうずしている。今にも走り出していってしまいそうな感じだ。少女からは幸福の匂いがした。「いいよ、橙火【スミカ】。」その微笑ましさに何気なく橙火の頭を撫でてやると、橙火は照れくさそうにけれど幸福そうに笑った。*見つけた!、と思ったから、その姿が視界に入った途端無我夢中で走ってその白くて細くて温かくて優しいその手を握って、腰に抱きついた。手加減もせず走り込んだまましがみついたから、二人して倒れそうになったけどその人はやっぱりその優しい手で抱きとめてくれた。いつも優しく笑うその人は、だけどこの町で見ると何処か・・・・・・・・橙火の手の届かない遠い何処かへ行ってしまいそうな風に見えて、悲しくなったのだ。だから、抱きついて「一緒にまわって。」とせがんだ。他の人はいつも苦笑しながら困ったように笑うのに、その人は橙火が大好きというみたいに嬉しそうに笑って頭を優しく撫でてくれた。そうすると、さっき感じた悲しさが嘘みたいに遠くに飛んでいって、今度は楽しくって嬉しくってワクワクした。本当は初めて来たお祭りを本当に本当にその人と回りたかったのだ。だけどいつも忙しくて、村から出ないその人とは無理だと周りに言われてほとんど諦めていた。せっかく一緒に住んでいる兄に仕事のついでに連れて来てもらったのだから、大好きなその人と一緒に回りたかったのだ。けれど、しょうがない。その人はその村の人々への責任と義務があるのだ。橙火や皆のためのことなのだと分かっているから、何も言えなかった。皆への愛情が深いその人は、橙火がいつ見ても、朝から晩まで仕事をしていて、深夜遅くに目が覚めて橙火が屋敷から外を見ると、必ずその人の屋敷の、その人の部屋はいつも明かりが点いていた。だから、邪魔はしちゃいけない。すっかり諦めていたけど、今朝、獅吼がその人が今日は村から出て町に行く日だと教えてくれた。それを聞いて、朝から嬉しくて、ワクワクして、その人が来るのは遠駆けの後だから遅いと分かっててもずっと探してしまっていたのだ。「橙火?」大好きなその人の綺麗な声に呼ばれる。嬉しくなってその人の手を握った。その人も笑って握り返してくれて、そのまま手を繋いで歩く。「?何か欲しいものはないのか?」あんなに祭りにはしゃいでいた橙火が、今は黙ってその人と手を繋いで歩いているだけで露店を見ようともしないをその人は不思議に思ったのだろう。けれど橙火はその人と手を繋いで一緒に歩いているだけで幸せでお腹いっぱいだった。「うん・・・・・。なあんにもいらへんよ。」橙火はその人に拾い上げて救ってもらった一人だから、その人を本当の両親のように、姉のように、兄のように・・・・・・・違う、それよりももっと大切な人として慕っていた。橙火は赤ん坊だった頃親に捨てられたが、自分を生んでくれたことをとても心から感謝している。生んでくれてありがとう、といつも寝る前精一杯の心を込めてお礼を言う。自分は今生きて此処に居て、幸せだった。だってこの人にも会えたのだ。もし自分が捨てられていなかったら、この人にはたぶん一生会えなかった。「橙火。口開けて。」優麗な笑みを浮かべて氷翠王は、橙火の目線と合うように地面に膝をつく。「・・・・・・・・・・・?」言うとおりにすると、直ぐに口の中にふうわりとした甘さが広がった。それから何か、柔らかくて甘い香りがする。温かい。びっくりして目の前の相手を見つめると、その人は口の中の甘いものに負けないくらいふうわりと優しい瞳で笑った。「異国の焼き菓子だって言ってた。さっき露店の人がくれたんだ。」美味しいだろ?と橙火の頭を撫で、あげるよ、とお菓子を手渡された。たくさんの綺麗なお菓子が橙火の手から零れ落ちそうになる。さっき、って一体いつの間に貰ったんだろう、と橙火はやはりびっくりした顔を崩せない。焼き立てだから、本当についさっき貰ったはずなのに。魔法みたいだ。この人はいつもこうやって幸せをくれる。「もっと欲しがってもいいんだよ。橙火。他に何が欲しい?」さっき何もいらない、と言った橙火の言葉を拾い上げてくれたのだと橙火は気づいた。思わず、驚いてその人を見つめる。「子供はもっとわがままでいていいんだよ。橙火はもっと欲しがっていい。」その人は両手で橙火の頬を包み込んだ。そしてまるで熱を測るように額をコツン、とあわせた。「今日だって言ってくれれば、橙火と一緒に始めから来たのに。」注ぎ込まれた柔らかくて幸せな言葉は、とても思いがけなくて。「周りのことなんか気にかけなくていい。橙火がしたいことはしたいっていつだって言っていい。」「・・・・・・・・まだ、我慢なんて覚えなくていいんだよ。」真剣な温かいその言葉の後に、それに橙火と一緒に来たかった、とからかうように優しい笑みをくれる。涙が出そうになった。いつだって、自分が欲しいと願っていても自覚できていないような奇跡のような夢をこの人は叶えてくれる。こんな“かみさま”みたいな人を、橙火は他に知らない。だから思う。この人に少しの幸せでもあげたい、と。だから祈る。この人がいつも幸せであるように、と。「あのね・・・・・・・・・・・。」だから、橙火は口にした。いつも、いつだって欲しいと思っていた“そのこと”を。誰よりも大好きで、大切なその人に。
2005年12月01日
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真冬、早朝の草原ほど美しい場所はない。瑞々しい翠には、朝日に照らされて白銀に光る霜が降り、この世の全ての穢れを払拭したように“錯覚”させる。穢されたものを許し、再生させる神聖な空気。まるで身体に染み渡るような、草や木々のひとつひとつに至るまで生きる神の息吹。凍る大地は静謐と純白に満ちている。みんながみんな白く生まれ変わる。美しくもむごいそれは、神の傲慢。新しい明日を思わず喚起させるそれは、希望。・・・・あるいは、渦。絡めとり、飲み込まれ、堕ちてゆく、“それ”・・・・・・・。けれどそれは、“明日”という日に強迫観念を持つ自分ならではの発想だろうと思いつつ、睡眠不足でチリチリと痛い目を氷翠王【シャナオウ】は細めた。夜明け前ほどから馬で駆け続けた身体が、少し熱をもっている。木枯らしが荒れる冬枯れの空の下、白銀の草原しか見えないのを瞳に映し、氷翠王はゆっくりと目を閉じた。「お久しぶりですね。」その時唐突に、穏やかな。けれど氷翠王の心を絡めとろうとする声が背後から掛けられた。ことさらに、ゆっくりと。蛇が鎌首をもたげるような。逃げ道をゆっくりと歩き潰して行くような。男の声、が。「雪灯【セツガ】。」静かに声の主の男の名を冬の空気にすっかり冷たくなってしまった唇に乗せた。だが振り返ることはしない。木枯らしが物寂しげな音を立て、通り過ぎる。氷翠王が振り向く気が無いことを悟ったのだろう、男が近づいて来る気配がする。と、思うと耳朶に暖かい熱が触れた。「可哀想に。凍えていますよ。寒い思いをしていたんですか?」「寒くなんかない。熱いんだ。離してくれ。」どの宝石よりも美しいプライドを孕む声は、雪灯が心の琴線に触れることを許さない。この姿を他の連中は知っているだろうか、と雪灯は一瞬考える。が、やめた。知るはずが無い、と分かり切っているからだ。雪灯はゆっくりと微笑した。その気配に気づいたのだろう、氷翠王は静かに振り向いた。目が、合う。氷翠王の、その金色のギリギリ一歩手前の琥珀の瞳に自分の姿がくっきりと映っている。その色素の薄い、獅子のような瞳に雪灯は再び微笑を返した。だが雪灯の眼は剣呑な光を宿している。「その洋装、とても似合っていますよ。誰の好みですか。」穏やかな笑みを浮かべ、聞く。氷翠王はいつもの着物姿ではなく、異国の服を身に着けていた。伸びやかで美しい身体の線に沿った黒のズボンに、上も黒の合わせ。いつもの絹糸の刺繍の美しい着物に比べてかなりシンプルだが、腰には触れてもそこに在るのか分からない位の細く華奢な銀の鎖の装飾を身に着けていて品が良い。それに一つだけ付けた装飾具は、かえって周りに染まらない氷翠王の華(ソンザイカン)を際立たせ、その細腰を強調して艶気まで添える。ここまで計算し尽くしてやられると、誰かが氷翠王のために用意したものだと分かる。氷翠王は装飾具を自分から身に付けることは無いし、ほとんど鎖国状態で“異質”を徹底的に厭うこの国では、異国の物を手に入れることすら難しい。そんな手間と時間、金がかかる事を氷翠王は自分のためには行わない。となると、誰かが氷翠王のために用意したものでしか有り得ない。まあ、遠駆けで馬に乗って走らせるのに、着流しや小袖で・・・・・・、とはいくまい。その点でいえば、この洋装は馬に乗りやすいだろう。それに用意してやれば次、遠駆けに出る時も使える。雪灯は氷翠王があの閉鎖された<禁足地>の村から出て、街に行く日の度に夜明けにこの遠い草原まで遠駆けに来ることを知っていた。まるで自由を希求するように。それを知っているから一ヶ月に一回の氷翠王が村から出るこの日に、雪灯はこの場所へ赴くのだが。氷翠王の臣下にこのことが知られたら間違いなく自分が殺されるか、氷翠王は二度と外に出られなくなるだろう。それを思い、雪灯は可笑しくなり、笑った。氷翠王は何も言わず、為されるがままにさせ、ただ前を見据えている。まっすぐに伸ばされた背筋。張り詰めたまなざし。全てを背負ってなお、揺らがぬ鋼鉄のそのまなざし。しかし、孤独な・・・・・・・・。「あなたは変わりませんね、少しも。」自分は無関係だと告げるような笑みを雪灯は浮かべる。それを再び氷翠王は視線を返して、まっすぐに見据える。「あなたも変わらない、少しも。」「辛辣ですね。」氷翠王が何の他意もなくそう言ったのが判っていたが、自分の言ったことを棚に上げ、穏やかに雪灯は笑い直し、それから手招きをした。かなりの細心の注意を払わなければ判らないほど微かに氷翠王の瞳が揺れる。敵との距離を測るように。だが雪灯は氷翠王が自分に決して叛かないことを知っていた。違う。したくても、できないのだ。けれど誇り高いこの相手故に、自分の手を取らせるのは雪灯にとっても命懸けだった。この二つが、お互い判っているからこの喜劇的な再会はいつも一つの制約を持って繰り返される。だからここに来れば雪灯に会うと判っていながら、氷翠王はいつもの慣習どおり、ここに来る。それはこの国の最も古い慣習にあたる、番【つがい】が、氷翠王にとっては自分だと定められているからか。番とは、今ではその慣習も廃れ、意味もほとんど夫婦と同意義になっているが本当はそんな替えの効くものではない。ごく極端な一部分を除けば、ほとんど夫婦と変わらないが。けれど氷翠王が雪灯に叛かない理由はそれが一番大きいものではない。雪灯は朱樺【シュカ】家を取り潰し、取り込もうとし氷翠王を十二年間もの間人質にとっていた蒐【シュウ】家の次期宗主だった。朱樺家唯一人の後継者だった氷翠王を取り込もうと一応、番の誓いをたて祝言を済ました夫婦でもある。今氷翠王は十九歳のはずだから、五年前、氷翠王が十四歳になった日のことだ。だがその三年後、氷翠王が朱樺家に一時帰郷した時、氷翠王が蒐家に謀叛を謀っていると拘束され、拷問の末、死亡・・・・・・・・・とされるが、実際は死亡と見せかけて出奔。見た者が失神するほどの酷い拷問を兄から氷翠王が受けたのは本当だが、氷翠王の臣下がその中で造反し、氷翠王を助け出したのだ。よほど氷翠王は臣下の忠義に報いていたのだろう、少なくともずっと朱樺家に居て臣下を指揮していた氷翠王の兄に逆らってまで氷翠王を立てるほどには。氷翠王は拷問の最中、ただの一言も弁解をしなかったと聞いた。ただ苦悶のえずきと声を堪え、狂ったように自分自身が倒れるまで毎日拷問を繰り返す兄を見ていたと聞いた。なんの真実も含まれていない罪のための罰を受けたのは、言っても無駄だと思っていたからか。それは判らないが、兄との確執が深いことだけはその事で判った。それから氷翠王は、造反した朱樺家の三分の一ほどの家之子と共に出奔・・・・・・・行方は杳として知れなかった。それだけの大人数の出奔ならば、いくらでも情報は入りそうだったが、それは東国一の陰陽師と符術師が共にいるからだろう、有力な情報など皆無に等しかった。雪灯が氷翠王を見つけたのはただの偶然だ。氷翠王が雪灯に叛くことが無いのは、自分という駒のせいで臣下に害が及ばないようにするためだ。好かれても、ましてや愛されていないことなど百も承知だ。そんな甘ったるい吐き気がするような感情は求めていない。求めているのはもっと、血腥い香りがするような、もっと惨く深い本心だ。氷翠王は人質時代の頃より、自分が臣下たちの心の支えであったことを身に沁みて分かっていた。それ故に痛く自分を律してきた。柔らかく慈悲深い、神の許しのような、菩薩のような微笑を浮かべることは多々あっても、怒りや不安、悲しみなどの負の感情を面に出すことはなかった。暖かく、水のように柔軟に姿を変え相手の心におさまる。時には激しく、それでも優しく。悠然と誇り高く、強く揺るがず。不可能どころか、奇跡のような、その在りよう。澱むところのないそのまなざしは、ほとんど驚嘆するべきものだった。たとえ泥の中でも地獄の底でも、菩薩のようにあれるとさえ思った。その心が無理に律されているものだと、知っていても。けれどだからこそ、皮膚を剥いた惨くとも血腥い本心からの想いを引き摺り出したいと思うのだ。それは一部、成功している。他の誰の前でも、自分に危害を加えた者に前でも決して崩されない慈悲深い微笑は雪灯には向けられない。それはあまりにもあまりだった人質生活のことと今の関係、その他もろもろの良いとは言えない感情面によるだろうが、時々、本音めいたことを誰にも向けたことの無い瞳で氷翠王は語った。深沈とした、どこか寒さを堪える痛い瞳で。それが少なくとも真実を含んでいるように感じる。だから、逃げ道を潰してやった。氷翠王の耳朶に触れていた指で、そのまま氷翠王の髪を梳く。手の中で蜂蜜のように溶けて逃げそうな、漆黒の柔らかく流れる髪。「雪灯・・・・・・。」草原を静かに揺るがす声に呼ばれる。その海に溺れる。「そうだ。星、いりませんか?あなたのせいで露店で買ってきてしまったんです。」「ほ、し・・・・・・・?」突然楽しそうに笑った雪灯に、氷翠王は戸惑ったように少し首を傾げる。その様子は始めて見るもので、余計雪灯は笑った。(露店で、星・・・・・・・・・・?)戸惑いながらも、この人なら何でもありかもしれない、と氷翠王は妙な納得をするが雪灯には知られない。「手を出してください。」と請われ、素直に両手を差し出していた。それを微笑ましく思い、雪灯は始めて氷翠王の前で屈託の無い目を見せた。その手の上に、美しく桜色に染められた布に包まれているものを置かれる。それを広げると、その布と同じく桜色や、空の青、雪の白などの彩がさまざまの可愛らしい金平糖が転がった。その思いがけなさと金平糖の綺麗で愛らしいのに氷翠王は目を奪われた。「可愛いでしょう?甘くて美味しいですよ。」口を開けて、と言われその通りにすると、口の中に金平糖を一つ放り込まれる。その際唇の端に雪灯のひやりと身体が震えるほどの体温の指がかすった。口の中の少し冷たい金平糖を舌の上でころがす。すると、とろり、と暖かい甘さが口の中をひたした。「甘い。」思わず目を上げて微笑むと、雪灯と目が合った。そのことが最も世界で大切であるかのように雪灯は、氷翠王に口付けた。
2005年11月29日
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慎ましくも和やかな村のすみずみまで橙に染まる頃合。その間、夕日の色そのままに潤む空は、三度の“赤”に焼ける。淡く美しい橙に空が染まり始めたと思うと、次の瞬間には夕日の暮色は温かなどこかまろみのある朱(あけ)の色にしたたるように潤んでゆく。そしてしばらく、夢のような間(あい)の時間が過ぎると、空と夕日は同時に血の如く赤い“深紅”の残照にそのままの色の絵の具をお湯に溶かさずに落としたように一面に染まり、夕空と村の景観が溶け合うような心地がする・・・・・・・・。そして後には夕闇の美しい“藍”が残る。「いつもながら美しい・・・・・。」氷翠王【シャナオウ】は、柔らかく息を呑み、笑ませた。静かに透る声が周囲の空気を心地よく震わせる。その声に、一歩下がって後ろを歩いていた男が静かに言葉を乗せて返してきた。「はい。格別に・・・・・・。今宵の月もさぞ美しゅうありましょう。」いつもは切れすぎる利刃が一閃するような、と言われ、続く間に散って咲く血の花まで見えるようだと言われた男の武人の声は、けれど今は暖かでまるで守るように、村を包み込むように響いた。それを男自身も自覚し、夕日が美しいとゆう言葉に頷きながらも、その劇的な変化を与えた人の後姿だけをその目に映し続けた。その視線はいつものことだったが、その人は振り返った。「九鬼【クキ】。」どうした、とも何だ、とも聞かずにその人は柔らかく唯一人の男の名を呼んだ。何かを聞こうとしている九鬼の様子をその視線に感じ取ったのだろう、静かで柔らかい口調にうながされる。「氷翠王様・・・・・・・・大事ありませぬか?」「・・・・・・・・・・。」村の子供たちが童歌を歌いながらそれぞれの家に帰るのを、柔らかに瞳を笑ませながら見ていた主君(氷翠王)がそれを聞き、わずかに首をかしげる。「大事、とは?」子供たちから視線を外し、こちらに向けられる瞳は淡く微笑してその輝きを強めた。(儚さが。)と、九鬼は心の中でつぶやく。気になるような儚さが、この若い主君には付き纏っている。それでいて、常に利剣の如く鋭い光を宿すのだ。『例え一時であっても朱樺【シュカ】の指揮官が入れた者は我が家の子だ。ましてや、お前たちは朱樺家に心血を注ぎ尽くしてくれたいた。お前たち在っての朱樺家だ。・・・・・・・成人し、国に帰れることが許されれば、私は全てを捨てよう。この身も心も全てお前たちのために生きると誓う。・・・・・許せ。辛いことを言っていると分かっている・・・・・・・、だが、・・・・・今しばらく、堪えてくれ。』それは切るような真剣さと血を吐くような切実さで、この人が告げた言葉。たった五歳からの十二年間もの人質生活の中、氷翠王が自分たちの家臣たちに言った言葉だ。この言葉を氷翠王が告げたのはまだたったの十四の時だったと思う。長い間続いた朱樺家も氷翠王の祖父と父の死で滅びかけていた。その際、氷翠王はまだ四歳だった。それから氷翠王は十二年間もの間人質として、蒐【シュウ】家に送られていた。この間の朱樺家の家臣の状況は悲惨だった。すでに氷翠王の父が亡くなった今、当主は氷翠王だったが、その幼い当主すらも蒐家に奪われ、なまじ勇猛と唄われる朱樺家の武将だったばっかりに、ほぼ毎日のように戦に駆り出された。敬愛し、忠を尽くした御当主の御形見である氷翠王が成人し、再び帰参することだけを希望にし、日々多くの者が戦で死んでいった。土地に残されたのは、若い男を除く、老人や女、子供で、田畑を耕すことすら覚束無かった。その朱樺家代々の土地すらも、大半を蒐家に奪われながらも、『氷翠王様の御為。今は堪え忍ぶ時ぞ。氷翠王が御成人なさるその時こそ・・・・・・・。』と、激しい飢えと貧困、身体を酷使することに十二年間堪えてきた。皆、文字通り、血と泥にまみれながら、死に物狂いで生き、姿を見ることさえ叶わぬ氷翠王に希望を繋いできた。そんな中で与えられたのが氷翠王のこの言葉だ。会う事もできぬ中で、かなりの苦労を強いて氷翠王が送ってきた文だった。この言葉が、氷翠王の自筆のこの文がどれだけ朱樺家の家臣の心を支えたか・・・・・・。我らの心は氷翠王様に届いていた、と家中の者は皆一晩中男泣きに盛大に泣いた。これが、さらにその後強く強く、家中の者を支えてくれた。よくもここまで立派に育ってくれたと。初めて氷翠王に会ったことを思い出す。九年前だった。『氷翠王様でございまするか・・・・・・?』言いながら声音が震えた。否、声だけではなく、全身が震えていた。(・・・・・・・ようやく・・・・、ようやく・・・・・我が願いが・・・・・。)あまりの感情の高まりに、気さえ失いそうだ。相手はそれに応えず、『其は何者ぞ。』と、よく透る涼やかな声で言った。九鬼は、この子供の声、姿に、空に鳴る北国の雪の嵐のような凛冽さを感じ、(なんと御子柄の優れたることよ。)とひたひたと感じつつ。なかば祈るように、これがもし、ずっと探し求めていた御方ならばどれほどか・・・・・・・・。(どれほどか嬉しいであろうか。)と、心中で何度も請うた。『九鬼、と申しまする。』言い、面を上げる。そして、その稚児の視線を正面から受け止めた。『・・・・・・・・・。』九鬼は言葉を失った。(・・・・・・・・・なんという・・・・・・。)血の青いすじが透けて見えるような薄く、白い肌が、烏の濡れ羽のような漆黒のその中に蒼ささえ含む髪に映え、凄まじいばかりの清らかさ・・・・・・。九鬼は呆けたように稚児を見つめた。鮮やかなまつげがしっとりと潤む朱(あけ)の瞳を縁どり、白い柔肌の清やかさがこの稚児を非常な美貌に見せている。(・・・・この清やかさは一体何であろうか・・・・・。)九鬼には戦慄が芽生え始めている。『・・・・・御子の名は・・・・・・。』自然と請うような眼差しで聞いた。やがて、稚児の声が聞こえた。『氷翠王。』で、あった。現か、と自分を疑い、“もう一度”と請う。その御子は拒まず、再びその名を重ねた。その声の涼やかさは、九鬼の耳には天上の御声のように聞こえた。その時にはもう、九鬼は両膝を折り、御子の前に身を伏せてしまっている。泣いていたのかも知れない。「どうか、したか・・・・・・・?」やはり、同じく涼やかな声に過去の記憶から引き上げられる。「・・・・・・いいえ、随分とお疲れのようなので・・・・・・。もうお休みになられては。」「そうだな・・・・・・・・、皆はもう休んだか?」「いえ、まだ数人は事後処理に。」言いながら、九鬼はしまったとほぞを噛んだ。この方は臣下の誰よりも朝早くから仕事を始め、夜は皆が休むまで眠らない。これが破られたことは一日たりともない。気の荒い朱樺の武者を“鉄の結束”とまでいわしめたのは、こういう氷翠王の心があってこそのものだ。一見目立たず、簡単に見えるこれらの事は、実は何より得難く、困難なことか九鬼は知っている。そしてそれが家中の者の心にどれだけ沁み渡り、激励し、誇りに在らせたか。では、氷翠王はどうだろうか。決して氷翠王は自分の身体のことを疎かにすることは無いが、その心は果たして一人で心労を抱えていることはないだろうか。この村には氷翠王にとって臣下しかいない。自分たちは氷翠王の後ろをついて走ることはできるが、氷翠王には其れは許されない。一人走り続けなければならない。弱さや孤独は臣下の前ではさらけ出すことはできない。それでも九鬼は、氷翠王の身だけではなく、その心を、その志を守りたかった。氷翠王を守るために自分で切り落とした利き腕の部分を見る。そこには何も無かったが、あの瞬間から自分はもっと大切なものを得た事を知っていた。「九鬼。明日は獅吼【シコウ】と外に出る。」涼やかな声がそれでも柔らかく気遣うように九鬼を包む。だから大丈夫だ、とでも言うように。九鬼の考えていることなど、とうに察しているのだろう。獅吼が、捨て置けば休みもしない氷翠王のことを気遣って、息抜きだ、と村の外に何回か連れ出しているのを知っている。「だから、後のことはお前に任せるぞ。」そのどこまでも九鬼を気遣う言葉に、目が熱くなる。故に、九鬼は打てば響くような返事を返した。「はっ。」その応答に、氷翠王は輝くばかりの笑みを、向けた。
2005年11月26日
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