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2003.10.15
再録・警官の目にも一粒の涙があった
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回想
亡き祖父の若き日のエピソードで、未だにやや驚きと心地よい思いに浸って祖父をしのぶことのできる話がある。ちなみに祖父は明治 23
年、 1890
年の生まれだ。
祖父は結局働き盛りの頃に至るまで、二つの事業を起こしながらも、共に大東亜戦争のために廃業に追い込まれる経験もしている。祖父が起業した一つ目は当時で言う「自動車部品店」で、一家に一台すら車のない昭和初年、これはトラック・タクシーなど、車を使う事業者向けの部品を扱っていた。先に祖父の親類のお宅で藤枝市に店を出したら、たちまちの繁盛ぶりで、当時の大宮町 (
現・富士宮市 )
も商売敵がまだいないので、勧められて祖父は開業し、これが成功することとなる。
ところが我が国は米英などの連合国に疎んじられ、やがて貴重な天然資源などを断たれることとなり、山本五十六のような愚か者が真珠湾に始まる大東亜戦争の無謀な戦火拡大を進めるなどによる戦局悪化となり、遂に鉄製品をも「供出」の名のもとに全国から強制的に没収することになった。もっと有名なところでは、大正初年以来の老舗として現在も営業続けて活躍している増田屋さんなどは、店の大きな看板を供出させられていた。
祖父の自動車部品も、急速に品不足となり、店じまいの余儀なきに至った。
さて、祖父の起業の二つ目は石炭販売である。鉄製品は各種武器製造の目的で国家に取り上げられることになったが、既に資金調達に余念がなく、周到にたくわえていた祖父は、九州大牟田などに石炭山を複数買って、当時は大昭和製紙などの重役たちが価格交渉に祖父を訪ねるなど、貫禄もたっぷりの仕事ぶりだった。
ところが、既に戦局悪化をたどった昭和 19 年暮れ近くから米軍の空襲が本格化し、現に九州往復の途次、乗っていた列車が米艦載機の襲撃を受けたこともあった。
そしてとうとう、九州の石炭山ことごとく、空襲で灰燼に帰した。
波瀾の多い人生と言うのは簡単だが、懸命に働かんとする祖父へのこういう仕 打ちはたとえ戦火の時代とは言え、ひど過ぎた。
それでも祖父は、戦後自宅を都合二件新築していた。
祖父、最晩年の新築家屋の玄関先で、幼き兄と。
長い前置きとなったが、本題はここから。さて、祖父は若き一時期警察官をやったことがある。今で言う外勤警察官だった。当時としては体格が良く屈強でもあった祖父は、無論兵隊検査でも甲種合格となったほどだから、外勤警官の任務も難なくこなせる頑健な体を持っていたわけである。
ある時、自転車でいつもの見まわり勤務をしていたところ、一件の物持ちとおぼしき家に即座に異変を感じて、こぐペダルに一層力を入れて、そちらに急行した。
空き巣狙いが一人、家に忍び込もうとしているところに出くわした。追いついてすぐ自転車を降りると、祖父は空き巣狙いに躍りかかった。
中年のこの男は、抵抗むなしく祖父に取り押さえられて観念した。
当時を簡単に再現してみる。
「おっさん、物取りだな。どうやらこの家 (
うち )
は留守だ」
「へい、もう観念致しやした」
「なあ、おっさん。もしこの家 (
や )
の主や家族が中にいたら、お前さん、そこに持ってる・・・」
いきなり祖父は男の衣服のポケットなど、あちこちをさぐり始めた。
「なんだ、お前さん、何も得物を持ってないのか ?
刃物の一つ二つ持たないで、どういう料簡で入ろうとしたんだよ」
中年男は無言でうなだれたままだった。
「おっさん、人を殺めたり居直ったりするつもりじゃあなかったようだな」
「面目ありません。ただ、金が欲しかったんで・・・」
祖父は男の少し汚れた衣服を手で軽くはたいて、ついた土などを落とすと、ゆっくり言った。
「おっさん、どんな事情があるか知らないけど、これっきりにしとくんだよ。あんたにもかみさんや子供の幾人かはいるだろう。俺もこんな若造でたいしたこたぁできないけど・・・」
祖父はポケットからさいふを出してあり合わせの札何枚かを渡して言った。
「これで何か精のつくものでも食べて、少し頭を冷やすといいよ」
「だんなさん、俺を見逃して下さるんで・・・ ?
」
「はっきり言って、空き巣狙いを目こぼしするようじゃあ、新米のくせに俺も警官失格だけどな・・・。物騒なもの一つ持たなかったおっさんのことも気にかかるんだよ」
「だんなさん・・・」
中年男は涙ぐんでいた。
「早まった考え起こしちゃだめだよ。俺な、ほらあんたも知ってると思うけど有名な分限者 (
ぶげんしゃ。金持ちのこと )
の種屋さんの二階に部屋借りてるんだ。さっきも言ったように、たいしたことしてやれないけどな、女房子供泣かすことする前に、何か困ったことあったら、休みの日に訪ねて来てくれ。話するだけでもいいじゃないか。さ、人に見られないうちに、さっさとここから立ち去りなよ」
これこそ、うそのようだが、実際にあった話である。亡き祖母が時々語っていた事実談だ。私はこの話を母からもたまに聞いた。
その中年の人は、時々「だんなさーん」と声をかけて、祖父の間借りする種屋という金持ちの家を訪ねたそうである。
さらに、後日談だが、逮捕をまぬかれたこの人はのちに更正して、住まいのある富士宮市のやや北のほうで、仕事に成功してちょっとした土地の顔となり、戦中戦後のやや食糧事情困難な一時期、今度は時々訪ねる祖父に、米は言うまでもなく、味噌・しょうゆさらに酒までも都合して快く渡して持たせてくれた。無論、無償である。そのおかげもあって、我が家は、満足な食事に恵まれたという。
お話変わって、私の免許更新のことだ。
私にはおそらく父の遺伝と思われるが、ややひどい乱視がある。運転免許更新に行くたび、普通の人にはなんのことはない視力検査が毎回苦痛だった。
この視力検査、なぜかわからぬが五十音交じりでいろいろ読ませた昔の検査と違い、円形記号の上下左右を切り取ったものだけを読ませる。
乱視の目で見るとかなりの大きさでも関係ない。欠けた箇所がふさがって見えて、「右」などと判別できない。
私はバイクに多く乗るのでメガネをかけたくなかった。ヘルメットにメガネだと、かなりきつくなる。なるべく裸眼を通したかった。第一運転に何ら支障ない。あの記号が不適当なのだ。
だからカンも使って例えば「ひ、左・・・」などと答えると、とたんに係の警官が「これだぞお」と、こんな大きなものがわからぬかといういやな顔をこちらに向けて、ぶっきらぼうに言う。
私は内心「このバカ、乱視というものを知らぬか」とうんざりしながらも、必死に見極めようと思って答え、これまではなんとか裸眼合格してきた。
ついでのことだが、オートバイばかり乗っていた若い時期、私はいくたびかスピード違反のため、講習を受けねばならなかった。これも星だと思っているが、なぜか一斉取締りにひっかかることが多かった。
ある時の講習時間中、なにゆえかわからぬが講習担当の警官が、「今捨てたタバコの温度が 800
度などとも言いますね。 800
度で正しかったんだったかな。ま、とにかくタバコでも車でもマナーが何よりということです」
「バカかこのやろ。消防の講習会じゃねえんだぞ」と思っていたら、突然名簿かなんか見て、「どうですか、村松厚和さん ?
」と名指しで呼ばれたからドキッとしたが、舌戦に弱い私もなぜかこの時は、妙な言葉を思いついた。
「今捨てたタバコの温度が 800
度、ついでに太陽 6000
度。上には上があるようで」ととんでもないことを言った。
ややあって爆笑が起こった。だがこの警官のおっさんの顔は笑っていなかった。
「君は、この講習会を何と心得ているんだ !!
ふざけたこと言ってると、公務執行妨害になるぞ !!
」
私はゾッとして、すぐ「ど、どうもすみません」と詫びたが、不愉快だった。
帰る道すがら、ふと祖父の若き日のことが頭に浮かんだ。「くそばかおまわりめ。俺のおじいちゃんには情があったんだぞ」と心の中で言い、ついでに「どーこの誰かは知ーらなーいけれど・・・」と月光仮面の歌を歌いながら帰った。
目こぼしがすべていいとは思わぬが、明治生まれの警官の中には、罪を憎んで人を憎まずの精神を持った警官もいたのだ。ついでに盗人も、凶悪なだけではない神妙な者もいたのだ。さて、今年は何回目かの免許更新である。今度こそ乱視が進んで、多分無理だろうから、メガネを買おうと思っている。
最後に。これも書くだけムダとわかっているが、明らかに安全確認出来るようなところで、一時停止違反なんぞ取り締まるなよ。最徐行で充分だろ。
カラーライズっぽくした祖父の写真。背景は芦ノ湖。
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