祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

Apr 17, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険



 もうこんな場所には来たくない。病院のかび臭い階段を、死に切れない、死に切ることのない肉体にはめ込まれてしまった者に会うために一段一段昇って行くことはやりきれない。苦痛だった。外の冷たい空気がもう懐かしかった。

 家を出たとき、すぐ前に姉の夫がいた。細かい石を敷き詰めた空き地の隅で隣家の老犬をひっくり返し、腹をまさぐるように撫で回していた。茶色の毛並みはぼそぼそとして苔むした、いや、かびが生えたように腐った色をしていた。犬はひくひくと鼻を動かし、「おじいさんだなあ」と姉の夫はぼくの同意を求めるように笑った。

「まだ死んどらんのか」ぼくは倉庫から自転車を引き出しながら、鎖をつけられていないくせにどこへも行くことのできない犬を罵った。「ははは、まだ死なんよなあ、死んでたまりますかい、なあ」姉の夫は愛しそうに老犬の首ねっこを愛撫した。ぼくはむかむかした。そうやって姉の体も抱くのだと思った。
「大学はどうなんだ」姉の夫は言った。とにかく、どいつもこいつも大学という言葉を口にする度に高圧的になる。知らん。わからん。ぼくは何なんだ。お前たちは同類だ。姉も、姉を縛り付け食わせている夫も、犬のような性交を繰り返していろ。「しっかりやってもらわんと、困るぞ」姉の夫は、犬に飽きると傍らに駐車してあった車のフロントガラスに息を吐きかけて曇らせ、ハンカチを取り出して拭った。「まあ、若いんだで遊ぶのは構わんが・・・・・・」ぼくは何にも答えず、自転車に股がった。「どこ行くんだ」姉の夫は言う。、ぼくはただ「病院」とぽつりと答え、「そうか、親父さんも大変だなあ」という言葉が終わる前にはもう走り出していた。

 ああ親父、狂った。病院の階段を昇り切ると、でこぼことしたゴムの敷いてある長い廊下に出た。緑色したゴムは踏みつける度にぶにゅぶにゅと沈んだ。暖房のききすぎた院内のまとわりくような温もりが、酔っ払いの吐く息のようにぼくを苛立たせた。今からちょうど半年前、雨の降る夜、東京のぼくの部屋は駅前から続く繁華街を抜けたあたりの、一階部分に安い靴のチェーン店舗が入った二階の端にありその小さな部屋の床にそのまま置かれた電話が鳴って、ぼくを起こした。眠気に痺れていたぼくの体に姉の声が捻り込まれた。けたたましい轟音のヘリのプロペラが胸の中で回転し続けるような胸騒ぎが、高鳴った。姉は話す。父は、自動車部品を製造する小さな町工場が倒産、閉鎖に追い込まれて以来職を転々とした。姉の夫のパチンコ店の従業員として働き出した頃、高校を卒業し、短大に入ったばかりだったぼくの妹が×××だ。それから一カ月も経っていなかった。父は店を無断で休むようになり、姉が夫から小言を言われるようになると姉は腹を大きくして妊娠した。姉は日に日に膨らんでゆく腹に幸福と希望を詰め込んだように抱えながら一人実家に遊びに来たのだ。その姉を父が引き摺り回す。姉の重い体が畳をささくれ立たせ、止めに入った母は足蹴にされ台所に突き倒された。雨が降っていた。東京と同じ激しい雨が続いていた。怒鳴り散らすわけでもなく泣き喚くわけでもなく、言葉を知らない阿呆同然の男になり、唖になって娘を殴って何にも言わずその娘に足を噛まれ痛みに呻いて窓ガラスを割る。「おとおさあん、おとおさあん」と母はおろおろ床を這い、もう家の中にひっくり返すものが何もなくなったのか最後に仏壇に足を上げようとした父、「それは、いかん」と妻にすがりつかれぶるぶる震え、たった一言何事かを呟いて柱に頭を打ち付けた。昨日までは何でもなかった。その日、父の中の何かが壊れた。父親が駄目になったとき、良くない金属の粉を沢山吸ったのだ、と人は言った。そんなことぼくは知るか。
「もう、あんな親、いらん」電話口の向こうで怒りに駆られ喉に声を詰まらせながら姉は言い、今度はぼくが唖のように何も言えず受話器を握って震えていた。

 その父がベッドに寝ていた。長い袖先がそのままベルトになった患者服を着せられベッドに縛り付けられていた。五十九歳だった。五十八歳で発狂し、どこにも行けないように縛り上げられろくに自分の髭も剃れやしない、ぼくの父親だった。無断で病室に入ったぼくを見咎め、看護婦が近づいてくるのに気付くとぼくの体は強張った。何故自分がこんな場所にいるのか解からなかった。肉付きの良いふくよかな看護婦はぼくをつま先から頭の先までゆっくり眺めると「ご家族の方ですか」と言った。ぼくがそんなはずがない、と思いながら頷くと「困りますよお、受付で名前書いてもらわないとお」と言った。その女の、内蔵を思わせるような肉っぽい声にぼくはむせ、会話を無視して「なんで縛ってるんですか?正月来たときは、あんなんじゃなかったのに」と口をすぼめて聞いた。看護婦はぼくの顔色を窺うようにしてから目を逸らし、早口で答えると去っていった。隣の患者のテレビから若いタレントが、ハワイ、ハワイ、と口ずさむのが聞こえた。ぼくは呆然とした。ぼくは、呆然、とした。この、もう半年近くうわのそらで、生きてるのか死んでるのかも解からない男がぼくの父親が、卑猥なことをしようと看護婦に抱きつき馬乗りになった。ぼくは父親の体に被さっていた毛布をめくった。目を見開いているのに何の反応もなかった。母の持ってきた寝間着を着せられていた。股間が盛り上がっているように見えた。ぼくは吐き気がし、元通りに毛布を戻すと部屋を飛び出した。逃げよう、逃げよう。何もかもから逃げ出したかった。階段を駆け降り外へ出た。もうたくさんだ。こんな場所に春休みだからといって舞い戻ってきた自分に腹が立った。姉の言葉が胸に突き刺さってじいんと体が痺れた。「あんたは逃げた」あの雨の夜、電話口で姉は言った。「あんたは東京で好き勝手なことして、そうやって逃げた」違う、逃げたのではない。ぼくが家を出たあとに何もかもが変わった。妹が×××し、親父が狂った。逃げたのは親父のほうだ。母をおいて、姉をぼくをおいて一人で狂った。腹の中が煮えくり返った。今すぐ病院へ駆け戻り、さっきの看護婦に向かって、こんな男ぼくは知らん、犬だ。発情し狂った犬、狂犬病、恐水病、まるっきり見境がないんだ。頼むから、全身麻痺で死ぬまで水に沈めてしまえ、そう言ってやりたかった。ただただ腹立たしく阿呆らしく、そう言ってしまいたいのと泣きたくなるのが同時だった。





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Last updated  Apr 17, 2005 12:25:57 AM
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