祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

Apr 23, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険

雨(3)

 シートに腰掛け、ぼくは笑い出しそうな気分になった。今更何をしに行くというのか。何もかも間違っている。ぼくの心臓は、嘘だ、嘘だ、と鳴り続けていた。ルームミラーにぼくの顔が映る。今日まであの事実を忘れ、しらをきりとおしてきた二十歳の青年だった。体の中で誰かが泣いていると思った。シャワーの音を聞きながら、まだ小学生だったぼくが泣いている。ずっと誰にも思い出されないまま、気にもとめられずこの場所にいた、ぼくが泣く。昨日までのぼくは何だったのか。この頭に浮かんだり消えたりしてきたいろいろな感情は何だったのか。こんなことがあり得るのか、よくも皆嘘をつきとおしてやってこれたものだ。よくも風呂場で泣く少年の声を無視してやってこれたものだ、と思った。運転手が変な目でぼくを見ていた。その時、これまでぼくに注がれてきた視線は、みんなこんなものだったような気がした。おまえなんか大嫌いだ。いつも殴られてばかりのおまえなんか死んじまえ。こんなことは全部嘘だ。今すぐぼくが消してやる。これから、あの少年を殺しに行くのだ、と思った。もうこれ以上一粒も涙をこぼさないよう、殺しに行くのだ、と思った。

 車は線路沿いを走っていた。街灯に漉し出され、雨が白い光のように降っている。見覚えのある道だった。この先の高架下を抜ければ、マーガレットに着く。そう思ったとき、フェンス沿いにビニル傘をくるくる回しながら歩いている男が見えた。フジオだ。フジオが歩いていた。
「止めてくれ」とぼくは運転手に怒鳴り、フジオを追い抜いて歩道の脇に車を止めた。

「おいっ」扉を開けてそう叫んだ。フジオはぼくに気づくと驚いて立ち止まり、何のつもりか笑い顔で駆け寄ってきた。
「どうしたんだよお、こんなところで」
「いいから、乗れよ」
「乗れってどこ行くんだよお」

「びしょ濡れじゃねえかよお」ぼくは何も答えなかった。さっき電話で話していたことが、ぐるぐると頭の中でもつれ合っていた。
 喫茶店の前で待っているようにと運転手に言い、ぼくたちは店の中へ入った。生暖かいすえた煙草の臭いが鼻をついた。客は誰もいなかった。女とその兄の姿もない。

「おかしいなあ」何も知らないフジオは子供みたいな間の抜けた声で言った。ぼくはつかつかと奥へ踏み込み、カウンターの中を覗いた。二人はそこにいた。女は兄の腕に抱かれ、それに食らいつくようにして泣いていた。この男だ、と思った。
「おいっ」ぼくは息を殺して言った。女の兄がぼくを見上げた。女もぼくの声に気づき、顔を上げた。
「何だよ、おまえらただの変態じゃねえか」ぼくはフジオに聞こえるように言った。
「何言ってんだよお」フジオは言う。「はははっ、おまえはさあ、気づかないの?騙されてんだよ。こんな奴らさあ、辛くも何ともないのさ。やりまんだからさ、兄貴の子産んでなかなか楽しくやってんだよ、知ってんのか?」フジオは状況が飲み込めないように口をぱくぱくさせた。
「だからさあ、こいつら変態なんだよ。おまえはカモられたってわけ」
「おまえに何が分かるんだよ」その時女の兄が叫んだ。「おれの気持ちが分かって堪るか、知らんけどなあ、おまえみたいに誰も愛せん奴は屑だあ」そうさ。その通りさ。ぼくは涙の玉が吹き出してくると思った。
「変態だろ、屑はおまえさ、ぐちゃぐちゃの気違いめ」
「じゃあ、あんたは何なのよ、これより偉いわけ?」女は床に転がっていた玉葱をぼくに投げつけた。知らん。そんなこと知るか。ぼくはカウンターの上にあったものを全て手で払い落とした。食器が砕け、飛び散る音がする。もう嫌だ。ぼくはコーヒーカップを壁に叩きつける。何でもないことさ。馬鹿げてる。ぼくはカウンターの中へ入った。女の兄の髪の毛をつかむ。女が何か声を上げた。殺す、と思った。おまえなんかいなくなれ、消えちまえ。ああ、この手が殴る、この手が殴るのか、譫言のように思う。女の兄は抵抗しようとしなかった。固まったように女を抱きしめていた。畜生。殺してやる。腕を振り上げる。違う。心の中で叫ぶ。違う。こんなことをしても何にもならない。ぼくは上げた腕をそのまま振り回し、棚にあった食器を床に落とした。あああ、あああ。ぼくは笑うように言っていた。
「ちょっとあんたたち、何なんですか」音を聞きつけ、奥から女の店主が出てきた。あ、ああ。ぼくは流しの下にある液体の入った缶を持ち上げ、投げつけた。ぎゃっ、と言って店主が倒れ、ガラス戸にがしゃんとひびが入り、割れた。滅茶苦茶にしてやる。めちゃくちゃに、してやる。

「警察、警察」店主が床を這いながら、呻っている。
「おい、シゲル、やばいって、もう行こうよ」あ、あ、あ。女が泣いている。フジオに抱きすくめられて、店を出た。

 雨が降っている。タクシーの扉が開き、乗り込む。意識はしっかりしていた。怒りが目に見えるものとして、生きている。
「やばいよ、やばいって」
「うるせえ、知るかよ」

「勘弁してくださいよお」運転手がうんざりしたように言った。ぼくが背もたれを蹴り上げると、仕方なく運転手は車を出した。はあはあとフジオの息も鳴っている。雨の中を車は走っていく。どこへ行くのかは分からなかった。どこでもいい。できるだけ遠く、遠くへ行きたい。誰もいない場所へ、ぼくの人生を台無しにする人間のいない場所へ。
「もっとスピード出せよ」ぼくは怒鳴った。料金メーターがかちゃりと音を立てる。もっと、もっと。ぼくは身を乗り出し、ラジオのスイッチをひねった。

 音楽が溢れ出す。車は加速した。音量をでかくすると、運転手は顔をしかめた。更にでかくする。聞き覚えのある音。数日前フジオと聞いたジャズだった。音がぼくの心臓を食い破る。ピアノとピアノの間に女の泣き声が聞こえてくるようだった。ぼくはもう駄目だ。生きてる価値なんかないじゃないか。
「もう駄目さ、こんなのよお」フジオはポケットから大学の受験票を取り出し、びりびりと引き裂いた。窓を開け、それを投げ捨てる。音楽が鳴り響く。この現実は消えない。声も出ないほどの後悔に押し潰されそうだった。
「お客さん大丈夫ですかあ」と冷たい目で運転手がぼくを見た。

 畜生。畜生。ぼくは駄目だ。いや、そうじゃない。そうは思いたくなかった。俺たちはハッピーだ、一瞬その言葉を思い浮かべてみた。腹が立つ。気が狂うほどに腹が立つ。怒るのは自分にその価値があると思っているからなのか、そうなのか?ぼくほどの悲しみを、おまえたちは味わったことがあるのか、ぼくほどの愛情を持ったことが一度でもあるのか、誰にでもなく、ぼくはそう叫びたかった。ずっと怒鳴り散らしたかった。うるさいほどの音が走る。窓から雨が降り込み、風の中から誰かの声が聞こえるようだった。ぼくは生きている。ぼくは死んでいる。ぼくは損なわれている。消えてくれないぼくの現実、限りない現在進行形の力がぼくを押し出す。ぼくはもう眠りたいと思った。もうどうしようもない。何も変わらない。ただ眠りたいと思った。フジオは黙っていた。ぼくは目を閉じる。車はこのまま走り続ける。くだらないほど暗い夜の闇を、走る、走る、走る。


〈了〉





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Last updated  Apr 23, 2005 01:20:19 AM
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