祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

May 21, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険



 広場の入り口までやってくると、眼鏡を掛け長靴を履いた中年の男と、水色の制服を着た警察官が綿毛の上で雪遊びでもするように駆け回っていた。彼らは網を持って大慌てで鳩を追い回していた。鳩は一直線に飛び上がり、劇場の庇の先や、信号機の上に止まった。「犬瀬さん、しっかりして!」と女が叫ぶ声がした。人だかりを掻き分けて声の方に近づくと、ヘルメットをかぶった救急隊が犬瀬を担架に乗せて運ぼうとしていた。ぐったりとして顔中を血だらけにしている犬瀬を見るまで、僕は彼が死ぬかも知れないということを全く考えなかったことに気がついた。すっかりそういった可能性を忘れていたのだ。救急車の扉が閉まり、サイレンを鳴らして走り去っていくと、不意にざわめきが耳の奧に蘇り、鳩たちの胸を膨らます息遣いが聞こえた。トラックの運転席から引きずり出された男はぐったりとはしていたが、外傷はないようだった。彼も救急隊に肩を抱えられて救急車で運ばれていった。

 いつの間にか交差点は渋滞する車で一杯になっていた。束の間、街は僕の知らない顔を見せたような気がしたが、すぐさまもとの静かな表情に戻ろうとしていた。僕は広場の入り口で人だかりに紛れて立っていた。数人の男たちが砕け散ったガラスと血痕を写真に写し、警察官が広場の入り口に黄色いテープを張って誰も入ってこられないようにした。トラックが暴走してきた交差点も白い衝立が置かれて封鎖された。横倒しになっていたトラックがクレーンで起こされると、コンテナの腹には「レース鳩専門」という赤い文字が読み取れた。鳩はまだその辺りを飛び交っていたが、おおかたどこか遠くの空へ逃げ去ってしまったのだろう。

 僕は、犬瀬の運ばれていった先の病院を突き止める必要があった。しかし、粉砕された電話ボックスの脇でメモを取っている男に歩み寄ろうとしたとき、「川本さん」と不意に後ろから呼び止められ、腕を捕まれた。振り返ると見たこともない長身の男が立っていて、僕ににっこりと笑いかけた。男は色が白く、イタリア人の好青年のように鼻が高かった。襟元を爽やかに刈り上げた頭髪は黒々と輝いてくるくると波打ち、少しすねたような口元と、訳もなく潤んだ瞳が印象的だったが、全くの見知らぬ人間であることに変わりはなかった。どうして僕の名前を知っているのか。返す言葉を失っていた僕に「塩野健といいます」と早口で告げ、体を開いて循環バスの通り道である横道に並ぶ車列を僕に示した。そこには塩野健が乗ってきた赤いカローラが止まっていた。

 屋上から天窓のついた家々のカラフルな屋根を眺めながら、僕がこれだけのことを思い出すのに掛かった時間は、三分か四分ほどだったと思う。その間、塩野健は少し話しては、黙り込み、また少し話しては黙り込みで、ほとんど話は進展しておらず、事故現場で彼が僕と会ったこところまでを彼は前置きのように話した。同じ三分という時間でも、こうやって黙られて過ごすと、恐ろしく長い。
「そう、確かに僕らは会ったよ」と僕は言った。
「初耳だわ」と慶子が言った。

 塩野健と名乗った男は、無線で何かを話している警察官に手際よく語りかけ、すぐに犬瀬の収容された病院を突き止めてしまった。そして、すらりとした長い足で黄色いテープを軽々と跨ぎ越すと、「一緒に来てくれませんか 、K病院に」と言った。僕は彼を犬瀬の知り合いの一人なんだろうと考えた。

 K病院は僕のアパートのある界隈からも近い、割と大きな病院だった。まだ学生の頃は大学の契約医療機関に指定されていたこともあって、ほんのちょっと頭痛がするとか咳が出るとかといった些細なことで足繁く通い、無料で薬を貰って帰ったものだった。しかし、大学を卒業して以来一度も行ったことはなかった。最後に通院したのはそれまでの内科ではなく、眼科だった。その頃から僕の左眼は急にガラス細工を砕いて掻き混ぜたように白く濁り始めたのだった。太陽を向かいにして右目を瞑ると、世界は急に光量が強すぎて事物の輪郭が飛んでしまった風景写真のように儚くなった。別段僕は困らなかった。むしろ、街がそんな風に光の中に隠れていく様を楽しんだくらいだ。それでも病院に行かなければならなくなったのは、運転免許の検診で診断書が必要になったからだった。医者は僕の右目にペンライトを当てて覗き込み、「これは白内障ですな」と言った。それはもっぱら老人特有のもので、二十歳をいくつか超えたばかりの若者の眼に起こるような代物ではなかった。医者は「まあ、人間何が起きたっておかしくないですからね」と言って自分の言葉に口をすぼめて笑った。白髪で剛毛の歳をとった医者だった。今のところ原因は不明だが、あまり進行の度合いが強ければ右目にも波及する恐れがあると言って進行を緩める目薬を処方してくれた。月に一度は検診にくるようにと言われたが、もちろん僕はそれっきり病院に行かなかったし、目薬も差さず、どこかになくしてしまった。

 眼科は真っ白なカモメが翼を広げたような病棟のちょうど右の翼の先にあったが、犬瀬の収容された救急外来は、カモメの左の肩に位置していた。ロビーから外科病棟に続く廊下にはすでに何人かの報道関係者が待機していたので、受付で聞く手間は省けたのだが、病室の扉の前には真っ黒なスーツを着た男二人が直立不動の姿勢で関係者以外の立ち入りを塞いでいた。恐らくテレビ局の人間だろう。僕は壁にもたれて座り込んでいる記者たちを横目に、黒服の男に近寄り話しかけた。頭一つ分背の高い塩野健は僕の後ろにぴったりと張り付いていて、振り返ると相変わらず爽やかな表情をして二三度頷いた。けれども黒服の男たちから有力な情報を得ることはできなかった。彼らのうち色の白い方がぽつりと「後ほど局で記者会見を行いますから」と言っただけだった。それだけでは犬瀬が無事なのかどうかさえわからなかった。しかしひとまずは記者会見を待つしかない。僕と塩野健は愛犬を散歩するみたいにぴったりとくっついたまま、テレビの置いてある待合室へ行って腰を下ろした。



 前屈みの姿勢から力を抜いて、僕はソファーにもたれた。そしてポケットから煙草を取り出して、「吸ってもいいかな」と塩野健に聞いた。
「どうぞ、どうぞ、僕は全く気にしないッスよ。うん、こういうときはやっぱり吸いたくなるもんスからね。ええ、僕も学生の頃は吸っちゃあいたんスけど、いや、どうして禁煙なんかしちまったのかな、なんてね、ええ、でも僕は全然気にしないッスから、ささ、どうぞ吸って下さい、ほんとに、うん、これっぽっちも気にするこたァありませんよ!」もの凄く早口で、しかも二センチくらい床から浮いたようにして塩野健が答えたので、僕は思わず吹き出してしまった。すると、塩野健も口をとがらせ困ったように笑った。

 渋谷駅のお天気カメラから、テレビ画面が犬瀬の事故映像に切り替わった。劇場広場の入り口の映像だ。それは僕が今朝見たものと全く同じだった。取材カメラの眼が見たもの以外は映りはしないのだからそれは当たり前のことだ。これは映画ではない。アナウンサーの話によれば、暴走したトラックはレース鳩を都内各所のペットショップや注文客に配送する途中、運転手の居眠りによって交差点を曲がりきれずに、広場の入り口に突っ込んだ。そしてちょうどそこに犬瀬がマイクを持って立っていたというわけだった。取材カメラは僕よりも、ずっと近くで運ばれていく犬瀬を写していた。髪の毛の中から大量に出血し、犬瀬の顔面の右半分は真っ赤に染まっていた。それは連日起こる外国のテロ事件の映像とよく似ていた。救急車の扉が閉められ走り去る後ろ姿をカメラは撮していた。そして真っ白な鳩が飛び交う。犬瀬駿は重体の模様。その後画面はニュースのスタジオに切り替わり、平ぺったい顔のアナウンサーが、「九時からご覧のチャンネルで記者会見をお送りします、お見逃しなく」と言った。

 待合室の窓の外からは中庭の枯れた芝生と、薄い水色の高い空が見えた。とても空気が澄んでいる秋の空だ。芝生の端には、ここにも銀杏の木が植えられていた。薄いガラス窓の向こうからは、少しだけ都市のざわめきが聞こえた。クラクションの音や、トラックやバスが通り過ぎるエンジン音のようなものだ。それから芝生の上をゴミをいれたワゴンを押して、一人の痩せた老人が通り過ぎていった。そして、やはりまだいつもと同じ日曜の朝だ、と心の中で呟いたときだった。不意に僕は言いしれぬ不安に襲われた。今、足を付いている待合室の床が、絞首刑に使われる死刑台のように急に二つに割れ、そのまま真下へ落下するように。もう犬瀬は死んでしまっているのではないか?僕はそう思ったのだった。すでに犬瀬は死に、病院の人間もテレビ局の人間も、とにかくそれを隠そうと必死になっている。九時という記者会見は十時に延び、更に午後まで延期され、日本中の人間がテレビの前で犬瀬の死の報告を待つことになる。死の境界線、それは静かな秋の朝のように曖昧だ。しかし、それは確実に過ぎ去った。僕の体の奧で、小さな死の固まりのようなものが目に見えないかすかな膨張を始めているような気がした。もの凄く凝縮された無のような一つの黒点だ。やがてそれは僕よりも巨大になり、僕を飲み込むかも知れない。しかし僕は死に飲み込まれはしない。なぜならそれは僕の死ではないからだ。僕には自分が死ぬという想像がうまくできない。しかし、僕は誰か他人の死を体の奧に育てている。今それを感じることができた。僕は文字通りシリアスな感情の中にいるつもりだった。犬瀬の死の悲しみに対する振る舞いをさえ想像した。だが、体の中のどこか知らない場所でおかしなことが起きていた――それは痒いのでもなく、熱いのでもなく――どうも、内蔵の一つがひとりでに笑っているような感覚だった。普段意識にも上らない――脾臓とか虫垂というような場所が、まるで何かが可笑しくてたまらないとでもいうように、クスクスゲラゲラと、僕がかつてやったことのない笑い方で笑っているみたいだった。


                      つづく





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Last updated  May 21, 2005 03:02:46 AM コメントを書く
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