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サントリーホール 18:00~ ピット席 バッハ:無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番 無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番 ヴァイオリン:樫本大進 特段の予定を割と最近まで組んでなくて、どうしようか、ああ、これがあったか....と思って取ったのですが、昼公演の前半は既に売り切れ。まぁ、聞くなら後半かな、ということで、聞いてきました。 バッハの無伴奏、チェロはよく聞くのですが、ヴァイオリンは実はあまり聞いていません。特に録音で聞くと、どうもヴァイオリンは苦手で。 だから生で聞きに行った、というわけでもないですが、やっぱり生で聞く方がいいですね、ヴァイオリンは。たまに行くと、特に(笑)実際、ヴァイオリン・ソロのコンサートなんて、随分行ってないような気がします。8年くらい前に、たまたま半社用で行ったグラスゴーで、ヴェンゲーロフを聞いて以来のような気が...... 演奏の良し悪しは、まぁ正直言ってあんまりよく分かりませんです。バッハの無伴奏は、それほど詳しい訳ではないし、そもそもピット席だし。 スタイルとしては、所謂古楽系の弾き方とは違うかな、という感じでしたでしょうか。王道を行く感じというか。ヴィヴラートは掛けてなかったようだけど。気持ち良く聞ける、というところでした。 こうしてみると、我ながら随分ぽかーんとした感じで聞いて来たのかな、と。結構盛り上がっていたようではあるのだけど。いまいち集中して聞いてなかったんかなぁ....... 休憩中、妙にものものしいな、と思ったら、後半皇后陛下が御臨席でありました。なるほど。皇后陛下にはいたくご熱心にご鑑賞遊ばされたご様子にて(ピット席だからね、よく見えるのよ)、やや乗り出し気味に御覧遊ばされておられましたが......あのう、身を乗り出すのは.......まぁ、いいのか、どうせ後ろの席は関係者で固められてるし(笑)
2010年02月28日
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神奈川県立音楽堂 15:00~ 後方中央 ヘンリー・パーセル:セミ・オペラ「アーサー王」 ソプラノ:アナ・マリア・ラビン, シャンタル・サントン=ジェフェリー カウンターテナー:アーウィン・エイロス バリトン:マーク・キャラハン バス:ジョアン・フェルナンデス ル・コンセール・スピリテュエル 指揮:エルヴェ・ニケ ダンサー:小林洋壱、上山千奈、安藤紗織、松浦美穂、清水愛恵、岡博美 演出:伊藤隆浩 まぁ、なんというか、ダメダメな公演で............. 正直、よく分からなかった、といのはあります。パーセルに限らずバロック・オペラは、現代人が観るのには難しいと思います。劇的展開と音楽とに連関性があるオペラを当たり前の様に享受している現代人には、音楽とドラマとの関連性が違い過ぎる。19世紀のオペラで使われる音楽語法は、基本的には今の映画音楽と同じものと言ってもあまり言い過ぎではないのでして、それがバロック期にまだ遡ると、様式が違ってしまうので、どうしてもシームレスとはいかなくなってしまう。 だからつまらないというわけではないのです。ただ、音楽として楽しむのと、それをドラマとして一続きのものとして観て楽しむ - というのは観劇に於けるごく普通の観方だと思うのだけど - というのとではちょっと違って来る。 特にこの「アーサー王」、楽譜に書かれている内容だけでは話は繋がらないので、いきなりこれだけぽこっと持って来られても、話が分かりにくい。だからこそ、プログラムでも、指揮者のエルヴェ・ニケは、美術館の中で名作絵画に囲まれる幸せ、というような楽しみ方を提供出来れば、というようなことを言っていて、まぁそれはそれで分かる。ある意味正しい。 ところが、演出がついていて、舞台がある。中央にオーケストラと歌い手を配置して、両脇に小さい舞台があって、そこで歌ったり、ダンスを見せたり。そして、中央にスクリーンがあって、そこに色々映し出されるのだけど......... これがグダグダでねぇ............. 細かいことは書かないですが、要するに、諦めちゃった訳ですね、舞台として成立させることを。それでも途中まではまだなんとか、だったんですが、後半はもう全然成立しない内容で..........「お粗末でした」って、本当にお粗末です。 演出出来ないんだったら、最初から何もやらなきゃいいのに。演出家というのは、それも古典作品を上演する場合の演出家というのは、「造る」のが仕事ではなくて、如何に「既にあるもの」を抽出するか、が一義的な仕事なのだ、ということを理解してないんじゃないだろうか。現代演出というのも、その前提を踏まえてこそあり得るのでありまして。少なくとも、この音楽を演奏することについて、先述の様に明確なビジョンを持ち得ているエルヴェ・ニケとは雲泥の差。 音楽は、良かったんだと思います。ル・コンセール・スピリチュエル、聞いたのは初めてだと思うけど、面白かったです。「らしい」演奏で。ただ、まぁ、細かいことは正直よく分からないです。この音楽自体、面白くはあるんだけど、なんとなく入り込みにくかったかな、と。 それは必ずしも演出のせいではなかったと思うんですけどね。面白くも楽しくもあると言えばあるのではあるけれど、やっぱりちょっときついなぁ、パーセルは。まぁ、自分にとって相性が悪いというか、よく分かってないだけというか、そういうことだとは思うんですけど。
2010年02月27日
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既に2010年の公式サイトもサイトも出来ていましたが、本日、公演プログラムが公開されました。PDFファイルで置いとくから見てね、という状態ですが。 http://www.lfj.jp/lfj_2010/timetable/ まだ細かい所までは見てないんですが、ざっと見て目を引いたのが、3日のホールA。ポゴレリッチが協奏曲でアサインされてます!ショパンの第2番。確かにこの時期ポゴレリッチ日本に来るんですが(ついでにチケットも買ったけど)、まさかラ・フォル・ジュルネに出るとは.........まさかまさか、ですね。でも、ホールAか.......どうしようかな........ 全体に、声楽系は少なめです。まぁショパンですから当然なんですが、ショパン以外の作曲家も多い割には少なめかな、と。コルボも来ますが、公演はホールAのみ。 毎年の常連では、小曽根真も出ますが、今年はソロコンサートはない模様。むしろ、歌伴奏に回っているのが目を引くかな、と。 やはり数多いピアニストは、いつもの面々で。中に、未定とあるコマがG402やG409にあるのが気になります。誰が出るんだろ....... .........うん。やっぱりショパン愛が薄いな、自分(笑)あんまりこう例年に較べて盛り上がらないような...... 今年もボランティア募集があるそうです。拡大して、これまでのホールD7とD1に加えて、ホールG402/9などにも拡大する計画ありだとか。まぁ、今年もこっち頑張るか......
2010年02月26日
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新国立劇場 14:00~ 3階右側 2度目。 ケツ痛い......... 基本的には前回とあまり変わりませんでした。歌手も大体同傾向。多少の出来の良し悪しなどはあるけれど。ジークフリートは前回とあまり変わらず。若干落ち着いて来たか。ミーメはややお疲れ気味か。ブリュンヒルデは変わらず。ヴォータンもあまり変わらなかったんじゃないかな?全体的に収まるべき所へ近付いたという感じではあるのでしょう。オーケストラは、若干ミスが増えたような気がします。まぁその程度。 改めて観て来て思うのだけど、結局指環というものは、構造とか構成とかいうものが無きに等しいのではないかと思うのです。よく、ライトモチーフが複雑に重なり合って云々、と言うけれど、それ、ラザニアとかミルフィーユとか湯葉巻きとかと同じことではないかと。構成分析しながらラザニア食べないでしょ。 というより、あのライトモチーフという手法を完成させたというワーグナー、実はアホなんじゃないかしら。旋律やフレーズに何かを表象させるというのは、昔からあることで。それを執拗に積み重ねて徹底させたのが独創的(いやその時点で既に独創的ではないのだけど)というけれど、その結果がこのケツの痛くなる長時間の作品になってしまったわけで。「その長さがいい」というドMな人もいるのだろうけど、あの長さの中には、実は「これまでのあらすじ~」コーナーもある。ジークフリートで言えば、1幕のさすらい人ことヴォータンとミーメのやり取りは正にそうだし、2幕冒頭のアルベリヒとのやりとりもそう。あれがなきゃ、或いは内容整理すれば、小1時間は短くなります。4夜連続上演!とか盛んに執拗に拘った割には、これまでの粗筋を書かなきゃ気が済まない、ってのは、観てる人を丸っきり信用してないというか、頭悪いんじゃないの、という気がしてきてしまうのです。まぁ、ヴェルディ的な物語のテンポ感というのは、無いやね。 音楽で全てを表現する、というのも、よく考えると妙な話で。もし本当にそうなら、舞台要らないでしょ。反復を積み重ね、音を積み重ね、長さの割に話は単純化して、それでもって「全てを音楽で表現する」作品を作る。言い換えると、音楽で表現し切れちゃう内容しか........................................... それと、音楽がいいか悪いかは、まぁ別の問題ではあるんですが、オペラ、と言って悪ければ、音楽を伴った劇形式の舞台芸術としては、結構歪なんじゃないかという気はします。2次大戦後の様々な演出変遷も、或いは、この歪さを解決する方策を模索して来た、という一面もあるのかも知れません。 てな意地悪いことを考えると、あれこれとキャッチーな小技を繰り出しつつ、全体の構成はまるで貧弱で収拾が付かなくなってるキース・ウォーナーの演出も、このアンバランスな舞台の空隙を埋める為の方策、と考えれば、その意味では用は足りている、ということなのかも知れません。そう考えれば、むしろこの演出に充満している回収されないノイズは好都合なのかも知れません。擬似的に、視覚的に構成らしきものを、それこそライトモチーフを散りばめる様にばらまくというのも、そんな気分になれるという意味では都合がいいのでしょう。 実はキース・ウォーナーの演出は原作の物語に忠実、という声があるのは、将にこの点を突いた皮肉に期せずしてなっているわけです。事の本質には決して立ち入らない。これが21世紀の東京発のリング、というのも、ある意味情けなくて嫌になっちゃうくらい合っているのかも。 何にせよ、「構成を見つける」ことは簡単なんですよね。何かの関連性を見つけて、それを構成の一部だと主張すればいいのだから。ワーグナーのライトモチーフというアイディア自体がそれで、関連性の積み重ねは簡単なのだけれど、でも本当は、それでは決して構成は生まれない。それがドラマである限り、やはり某か言葉に起因する原理が必要になる。これはもう劇というものが持つ必然と言うべきでしょう。無言劇やバレエというものもあるけれど、そこには、やはり、直接語られないドラマが存在するのだし。少なくともワーグナーが書いたのは、ドラマの存在を前提とする劇なのですから。
2010年02月20日
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みなとみらいホール 19:00~ 1階中央 (プロコフィエフ:交響曲第1番「古典」) 武智由香:Loin, bien loin (遠く、遥か遠くヘ) 江原大介:異界 Different boundary for Orchestra ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版) <アンコール> ハチャトゥリアン:仮面舞踏会~ ギャロップ 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 山形交響楽団 指揮:飯森範親 まぁこんなもの平日に行く暇あるのか?というとないのですが、招待券を頂いてしまったので、行ければ行くか.....というわけで。実際、それほど早く出たつもりはないのですが、珍しく順調に辿り着けて、丁度前半2曲目の始まる直前に到着。一応メインの筈の現代曲は聞けた訳です。 このコンサート、もう10年以上続いているそうで、前身から数えれば30年以上になるようです。こんなの、あったのねぇ.... Loin, bien loin は、以前この現代曲コンサートシリーズで委嘱、初演されたものの改訂再演だそうで。もう一つの「異界」は今年の委嘱作だとか。 お客さんは意外と多くて、千人くらいは入ってたんじゃないかな、という感じですが、なんとなく関係者とか、招待客が多かったのかな、と。S席5千円だったようですが、本当にその額払って来ている人はどのくらいいたのかしら.... ...............感想ですが、まぁ、新作というものは大抵傑作とはいかないものですから............. ええとね。第一印象は「長い」。どちらの曲も、ある種のサウンドインスタレーションみたいなもので、それが悪い訳ではないし、面白くない訳ではないけれど、正直意味の判然としないものを20分ほど聞かされるのは、ちょっと辛い。1曲目の方は、本当に東京都現代美術館あたりで展示されてそうなインスタレーションのサウンドを豪華にしたような、と言ってしまうのは失礼なんでしょうけれど。つまらないとか意味が無いとか言わないけれど、これが半分の長さでも困らないんじゃないかな、と。 まぁ、突っ込みどころは沢山あるんですが....... 「火の鳥」は.....まぁ、いいんじゃないでしょうか。 演奏そのものは、まぁ想定通り。神奈川フィルと山形響の混成なので、あまり期待していないし、そう思って聞けば、それほど悪くもないかな、と。いや、あの、「火の鳥」とか聞いていると、やっぱり東フィルや新日フィルを聞いた方がいいかな.....くらいの話ではあります。そもそも、オーケストラの良し悪しを期待する類いのコンサートではないですからね。
2010年02月18日
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演出の話ですが、今回、演出はキース・ウォーナーなのだけど、再演演出とかのクレジットが無く、一番目立つのは舞台監督の名前。でも、演出の責任者的扱いではないし、一方でキース・ウォーナーについてはプログラム上では名前が出てるだけで、他の演出関係者も名前がはっきり出て来ない。 なんか、演出の責任者が曖昧化してるのかなんなのか、ちょっと変な感じなんですが、どうなんでしょう? それはそれとして。 前回も書きましたが、確か初演時に、「黄昏」は観たけれど、「ジークフリート」は観ていません。つまり中抜き。なので、多分これが初めてなのですが、やはり予想通りでした。つまり、「ぶちまけたおもちゃ箱の中身を整理出来ない」のです。舞台装置の連続性とかのレベルではありません。問題は、それぞれの場面でちょこちょこと使ってきた「くすぐり」が、意味のレベルで回収出来ていないか、或いは極めて表層的なレベルでしか回収出来ていない。 映画をモチーフに使うのも結構、1960~70年代アメリカの風俗を取り入れるのも結構、けれど、ここには、中途半端でキッチュな取り込みしか無いので、それが某かの意味を持つわけでもなく、一方でそれらを貫き通すことによる何かを生み出すこともない。一方で、意味ありげに何かを置いてみる癖は相変わらず。第3幕冒頭、エルダの住処には、0時0分を示したまま時を刻むのを止めたデジタル時計がある。いや、だから、それで? その一方で、「ワルキューレ」でアンバランスな大きさを示していた家具の類いは、いつのまにか普通サイズに。いや、それはそれでともかく、そこに意味はあるの? 1年前にも書いたけれど、結局、この舞台は、細部にあれこれ細々とした「ノイズ」をばらまくことで意味ありげに見せて、演出であるかのような体裁を整えているだけに過ぎないのだと思います。だから、この一本道みたいな捻り様のない筋の「ジークフリート」に至って、「元のストーリーを損なわない演出」になってしまうのです。そりゃそうだろう。キッチュな風俗で風味付けしているだけで、物語には何も手を加えられていないのだから。ジークフリートとさすらい人との交錯など、もうト書きのまんま。 そのこと自体が即ちいけないというわけではないけれど、それならそれでわざわざ安っぽいノイズを載せるんじゃない、と。少なくとも、ワーグナーが書いたのはあくまで「舞台上で物語が展開される作品」なので、その物語をどう再構築するか、ということを第一に考えるべきだと思うんですけどね。ノイズを載せることを主眼に置くなら、徹底的にやれ、と。こんな出来の悪い「ポップアート」(ポップじゃないんだけどね。ポップっていうのはこういうことじゃないと思う。)を並べて貰って何が有り難いのやら。 二期会の初演演出に戻そうよ。いやマジで。あれだってある意味ベタだけど、少なくともこれよりは真面目に作ってたと思うよ?まぁ、貶しちゃいけない的な妙なプレッシャーの下、一生懸命「ポップ」な「トーキョーリング」なるものを「解釈」するという共同幻想的な悪夢からは解放されるだけでもめっけもんじゃないかと思うのだけど? しかし、今回もう一回買ってしまったのは、どうしよう......パスしようかな.....演出がどうこうじゃなくて、ケツが痛い.......
2010年02月15日
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新国立劇場 14:00~ 3階正面 ジークフリート:クリスティアン・フランツ ミーメ:ヴォルフガング・シュミット さすらい人:ユッカ・ラジライネン アルベリヒ:ユルゲン・リン ファフナー:妻屋秀和 エルダ:シモーネ・シュレーダー ブリュンヒルデ:イレーネ・テオリン 森の小鳥:安井陽子 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:ダン・エッティンガー 演出:キース・ウォーナー 確か、いわゆる「東京リング」の初演時、ジークフリートは観てなかったと思うのですが.......やっぱり観てないかな?少なくとも舞台では観てないと思うけど。 色々思う所ありの公演でした。 それにしても、ワーグナーは長い!ケツが痛くなります。いやホントに。その上に、休憩時間も長い!今回は2度休憩で、最初が50分、2度目が45分。都合一時間半以上休憩してます。お客の都合から言うと、2度目の45分は長過ぎるだろ、という気はします。或いは、初回が短くてもいいかも。 今日は2日目。あまりこのタイミングでは聞かないようにしてはいるのですが、なんでか、この日に取ってしまったので。 まず、演奏の方から。 正直言うと、なんだかんだいっても、やっぱり日本でコンサートやオペラに行っていると、何処かでダブルスタンダードをセットしてると思います。ウィーン・フィルやらなんやらを聞いている時と、日本のオーケストラを聞いている時とでは、正直、求めてるレベルが違います。東フィルで「ああ、いいじゃない」と思う演奏と同等のものをウィーン・フィルで聞かされたら、「どうしたウィーン・フィル!」と叫んでしまう。まぁそういうもの。 で。今日聞いた感想としては、そのダブル・スタンダードを感じさせる演奏でした。勿論オーケストラは東フィルだし、その意味で「いい出来」なんです。が、それだけに、そこまでやるんだったら......という不満を思い出させてくれる。まぁそんな感じの演奏でしょうか。 え?褒めてるのか、貶してるのか、どっちだ?って?....さぁ、どっちなんでしょう?自分でも分かるような分からないような(苦笑) 歌唱陣は、全体的に言えば、確かに公演を維持するだけの歌唱はそれぞれ出来ていたと思います。或いは(特殊効果だけでなく)PAを入れてるのかな?と思う所もありましたけれど、まぁそれも含めて、「よく出来てる」とは思います。 ただ、その上で言うと、やはり出来不出来があるんですよね。声としてはよく出てたのは、ミーメ役のヴォルフガング・シュミット。幾分丁寧さを欠く部分もあったけれど、まぁ、ミーメですし。むしろコンスタントに歌えていたと思います。 問題は、ジークフリート。はっきり言って、ミーメに負けてるんですよね。勿論、ジークフリート役は、通して歌わなければいけないわけで、負担もミーメに較べれば遥かに重い。それはそうなんですが、ミーメと較べた時のバランスが如何にも........ 同じく、さすらい人役のユッカ・ラジライネンも問題。これまた全幕通して結構歌わなければならない役ではあるのですが、もう一つ弱い。聞こえてはいるのです。その意味では出来ているのだけど、その先、もう一歩の深みがない。抽象的な「深み」ではなく、役としての表現を支える、というレベルの声としては弱い。長くなってしまうので演出の問題はまた別途書きますが、やっぱり演出は「弱い」のです。その弱さ故、ここまでくると物語にきちんと語らせて欲しいのだけど、その意味では最も性格俳優的な存在であるさすらい人の存在感が今一歩かな、と。後は、まぁ.........あ、ブリュンヒルデ、ずっこけてました。一カ所、素で叫んでて、思わずこっちもずっこけました。今日は所詮3幕の最後だけだからアレだけど、「黄昏」、大丈夫か? オーケストラは、昨年に続いて、ダン・エッティンガー指揮東フィル。 これがまた.........「日本のオーケストラ」としては、とても良く出来ていたと思います。音もきっちり出しつつ、そこそこ表現も醸しつつ、ワーグナーの世界を感じさせる演奏。勿論、管など、時々事故はあるけれど、それは計算内。ではあるのですが...... これが、必ずしも歌唱と上手く折り合えていたのかどうか、というところではありまして。どうも聞いていると、エッティンガーの解釈で構成されているのは確かだと思うのですが、あまり歌唱に優しいとは言えない演奏であるような気はします。音楽としては、好き嫌いはあると思いますが、良く出来た演奏ではあるでしょう。今日は2日目ということを考えても、今後の「黄昏」、行かなさそうな予定ではあるけれど4月のお披露目定期演奏会と、期待出来そうな演奏ではあります。ただ、「ワーグナーの音楽」として聞く上ではいいなと思うけれど、「ジークフリート」というオペラとしては、オペラ的には歌唱との折り合いが、ドラマ的にはストーリーに対する音楽としての意味合いが、それぞれもう一つという気がしました。 悪くない出来なんですけどね..........悪くないほどに、欲が出るってとこでしょうか。 演出の話は改めて。
2010年02月14日
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ミューザ川崎シンフォニーホール 14:00~ 4階正面 (ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番) エルガー:交響曲第1番 <アンコール> エルガー:変奏曲「エニグマ」~ニムロッド ヴァイオリン:戸田弥生 東京交響楽団 指揮:尾高忠明 東響の名曲シリーズ。天気が悪くて道が混んで、前半はパス。後半のみ聞きました。まぁ、ブルッフはあまり惜しくはないかな......と思って......... そんなわけで後半のエルガーのみ。 エルガーの交響曲、あまり聞いた覚えがない曲です。少なくとも、生では確か初めてだった筈。 この曲、書かれたのは20世紀に入ってから。完成したのは1908年。ということは、マーラーの晩年の頃に当たるわけで、確かに後期ロマン派の交響曲、という感じではあります。 が、当然と言えば当然ですが、やはりエルガーにはエルガーらしさがあって。後期ロマン派と言っても、マーラーがおもちゃ箱をひっくり返したみたいにあれこれ突っ込んでたり、ブルックナーが構成感があるのかないのか分からないような繰り返しを延々続けるのに較べると、ある種の秩序を感じさせるのです。(というかこの二人が秩序無さ過ぎなのか(苦笑)) 秩序というのはちょっと違うか。端整さというか、背筋が伸びてる感じなのですね。どちらかというとマーラーみたいに色々入ってはいるのだけれど、あれほどグダグダにはならない、みたいな。 尾高指揮の東響はまぁ良かったです。このくらい聞ければ御の字。いつも硬くて閉口する東響だけれど、今日は程々の柔らかさで良かった。 どちらかというと、アンコールは蛇足。それほどには感心しなかったのは、曲の問題なのかしら。 アンコール前に、尾高がホールを褒めそやしていたけれど、まぁ確かに全方位型ホールとしてはいいかも知れないけど、それはサントリーとかを基準に考えるからですぜ......と思いながら帰途に就いたのでした。
2010年02月14日
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すみだトリフォニーホール 14:00~ 3階正面 モーツァルト:交響曲第39番 シューマン(ショスタコーヴィチ編):チェロ協奏曲 <独奏アンコール> バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番~ブーレ ショスタコーヴィチ:交響詩「十月革命」 チェロ:タチアナ・ヴァシリエヴァ 指揮:ヒュー・ウルフ ダブルヘッダーの一つ目です。 1月末のアルミンクとの公演から1週間、またも新日フィル。今日は定期公演なので、いつもの3階席。うん、普通に聞こえる.......(あれ?) ヒュー・ウルフ。随分前に、アメリカのセント・ポール室内管で来日したのを聞いたことがあります。オケもオケだし、さっぱりしてるな、という印象で終わってます。今回は客演ですが、さて。 前半はモーツァルトの交響曲39番。まぁ、いつもの新日フィルの演奏、という感じでしょうか。ちょっと気になったのは、ごく普通の変哲の無い演奏だったこと。悪いとは言わないけれど、ブリュッヘンと1年前にさんざんやった「古典派の演奏のルール」というのは一体何処へ........... 指揮者が違うし、という話ではあるんだけれど、どうなんでしょうか。もし本当にそういうルールがあって、血肉になっているなら、自然と反映されるものではないのかしらん。まぁ、もともとよく分からないから、あまり考えても仕方ないけど。 曲自体が好きな曲でもあるし、あまり気にはしませんでしたけど。 後半、最初はショスタコーヴィチの編曲によるシューマンのチェロ協奏曲。確かに「ロマン派」的な作品に仕上がっております。独奏はタチアナ・ヴァシリエヴァ。確か、ラ・フォル・ジュルネに来てたんじゃなかったかな? ロマン派の協奏曲になっておりますが、意外と「ロマン派の協奏曲」って退屈することもあるんですよね.....ある意味贅沢な話ではありますが、「ああ、またか」みたいな。そんなに悪いわけでもない筈なんだけど。 アンコールはバッハの無伴奏から。まぁ、チェロのアンコール曲も、バリエーションはそれほど多くはないし、こうなるのかな。演奏自体は悪くなかったです。 最後はショスタコーヴィチの交響詩「十月革命」 ................はぁ、なるほど........................................革命って感じ? あれですね。R.シュトラウスの交響詩よりは面白いかもしれないですね。正直、私はあれ、あまり好きではないのでして、実は。それよりは退屈しなかったのは確か。まぁ、曲がよく分からないので、云々するのはやめておきますです。 なんというか、まぁこんな感じかなぁ、という気分で出て来たのでした。
2010年02月11日
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ド・ラ・フォルス侯爵:三浦克次 ブランシュ・ド・ラ・フォルス:佐藤亜希子 騎士フォルス:小山陽二郎 クロワシー修道院長:郡愛子 リドワーヌ修道院長:本宮寛子 マザー・マリー:牧野真由美 コンスタンス修道女:大貫裕子 マザー・ジャンヌ:二渡加津子 マティルド修道女:松浦麗 司祭:所谷直生 藤原歌劇団合唱部 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アラン・ギンガル 演出:松本重孝 昨日はサーバーの調子が悪くて、何度もアップされてしまいました。というわけで、昨日の続き。 公演としての出来は、それほど悪くなかったとは思います。 歌唱陣については、出来不出来にムラがあって、それがどうしても気になります。フランス語の発音云々はよく分からないのでパスしますが、中にはそれ以前の歌唱レベルの問題、という面々もあったような。これでも初日よりはよかったとか。 まぁ、そもそもこのオペラを今の藤原が舞台に掛けること自体が意欲的と言うか無茶と言うか、だと思うので。記憶が曖昧ですが、確かプーランクはこのオペラを各国語で上演されるべき、としていたように記憶しています。つまり、「対話」が聞かれることが重要なのだ、というのがプーランクの考えだった筈で、その意味では、原語上演なのはともかく、対話は聞き取れなければいけないと思うのだけれど、これにムラがある。 これは、同じように聞こえるような歌手を10人ばかり、ダブルキャストで20人、というのが結構難しいのでして。その意味ではまぁこんなもんでしょう。一方で、声があればいいというものではないし。ブランシュ役の佐藤亜希子は、幕切れ前のマリーとの対話で、朗朗と自らの弱さを力強く歌っていたけれど、歌が力強いのはいいんだけど、表現としてどうかなぁ、とか思ったり。 もっとも、このオペラの場合、個別の歌手の歌唱の良し悪しを云々してもあまり意味は無いので、全体としてはこのオペラの質感を感じさせることは出来たと思います。上演者の力、というより、作品の力だと思いますけどね。作品の持つ力をそれほど損なわない程度には付いて行けた、というところでしょうか。 オーケストラはまぁよく出来ていたと思います。初日については例によって酷評(何故駄目かは書けない理由なしタイプの)があったようですが、二日目を聞く限り、それほど悪し様に言う出来ではない。金管がずっこける、出が合わない、の類のミスはまぁ並程度にありますが、それ以上に表現豊かな演奏であったことを取りたいと思います。 アプローチとしては、後期ロマン派の音楽の延長線上でやっていた感じで、なので、例えばある種の厳粛さを求めたり、或いは逆にプーランク的諧謔の片鱗を求めたりする人には不満があったかも知れません。けれど、19世紀的語法を引き摺りながら、近代的なものを表現しようとしたと考えるなら、このようなアプローチもありだと思います。むしろ、このオペラが世に出てまだ半世紀少ししか経っていないということ、また、このオペラが極めて現代的なもの、いわばクローズされていない課題としてある、と考えるならば、このオペラにとって「斯くあるべし」ということはまだ固まっていないとも考えられるのではないでしょうか。 というわけで、解釈の一面的なることが悔やまれる公演だったと思います。技術的には、この演出それ自体は決して悪くはない処理をしていたと思います。最終幕にしても、一人一人倒れて最後は十字架の形に、というのを陳腐だとする人も居るようですが、少なくとも私は「じゃぁどうすればいいのか」という具体的な演出が考え付きません。あの場面は、だって、写実的にやることはどうしても無理があるので。ギロチンで首を落とすのを写実的にやるのは、しかもそれでグロテスクにもならず、滑稽にもならない、というのは、至難の業ですから、何某か象徴的にやるしかないと思います。象徴的にやればどうしても陳腐になるし。そんなに奇抜であっと言わせられる、それでいて元を損なわないイメージなんてなかなかないですしね。
2010年02月09日
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東京文化会館 15:00~ 5階左手 ネットでの評判なんて所詮無責任なものですが、この公演、ネット上で随分な酷評がでてます。で、特に無責任だ、と思うのは、これが寸評以下のレベルだから。つまり、「何故それはダメなのか」を全く書いていないのです。いやはや。 では実際今日観て来た結果はどうだったか、というと、なかなか評価が難しいと思います。それは、この公演の出来を言う以前に、このオペラ自体の位置付けが関わると思うからです。 プーランクという人は、第一次大戦後から活躍しながら、戦後までを生き残った作曲家です。で、この人面白いのは、モダンでありながら、同時にとびきり洒脱な作風を維持したことです。その中でも、この「カルメル会修道女の対話」は異色であります。軽妙洒脱なプーランクが影を潜め、重たい音楽を展開している。 その異色作が書かれたのが1956年、というのがポイントです。もう12音技法からすら遠く離れた音楽が書かれている時代にあって、調性の殻を残したような、「耳に聞きやすい」音楽。初演からまだ半世紀ちょっとしか経っていません。このオペラ自体が、まだスタンダードとして位置付けを確立出来ているとは言い難い部分があると思います。 いや、そんなことはない。これまでも何度も日本でも上演されているし、海外では尚更だ、と言われる向きもあるでしょう。それはその通り。しかし、それでは済まない問題があると思います。それは、このオペラが、極めて現代的な問い掛けを投げ掛けているからです。 オペラというものが必然的な存在意義を失った20世紀以降、オペラは作品それ自体の中で完結しない、オープンな問い掛けを持つ方向性を見出します。この種のオペラでは、作品を上演することとは、その問い掛けに時にはクローズさせる為の回答を与え、或いは受け手にその問い掛けを受け取る為、あまりにオープンな問い掛けに方向性を与える、ということでもあります。これは演出に限りません。音楽の作り方もまたそのような様相を呈します。 「カルメル会修道女の対話」もそういった種類の作品です。しかも、ここには、カトリックの信仰に関わる特殊で重要な問題が含まれています。 それは、端的に言えば、「この物語は悲劇なのか?」という問いに集約出来ます。 一般的に言って、これは悲劇です。誰だって死を強いられるよりはそうでない方がいいでしょう。けれども、同時に、オペラの中でも言及される通り、教義的には殉教は神の恩寵でもあるのです。恩寵とまで言うのは乱暴ならば、思し召し、と言ってもいいでしょう。誓願通りに殉教した彼女らは、神により誓願を受け入れられた(これを召命と呼ぶのは、正しいのでしょうか?)という恩寵が与えられている。だからこそ、マリーによって「あなたを救いに来た」と言われたブランシュは、最後にコンスタンスに続いてギロチンに掛かるのです。 これは、決してハッピーエンドではありません。間違いなくバッドエンドではあります。しかし、悲劇かどうかは、必ずしも一様ではありません。むしろ、これを悲劇と断じてしまうと、プーランクがこのオペラに込めた複雑なものを捨象して、一面的なものにしてしまう恐れがあります。 この点に於いて、今回の松本重孝の演出は頂けません。松本は、最終場、処刑の場面で、処刑が進むのに重ねて、独裁者や戦争による迫害を表すイメージを映し出します。ギロチンによる処刑の版画、ゴヤの革命弾圧の絵、アウシュヴィッツの写真、空爆する爆撃機の写真。2幕構成に改変した2幕目冒頭、フランス革命当時の国民構成と革命の歴史をロペスピエール独裁の終焉までとし、それを以って独裁政終わる、として見せただけに、演出の視点が「悪政による迫害・圧殺」にあるのは明白です。 しかし、それはやはりこのオペラの本質を逃していると思うのです。このオペラは「カルメル派修道女の殉教」ではなく、「対話」なのです。もし、迫害、圧殺をのみテーマとするなら、マリーを死なせることには意味がありません。圧制への抗議としての死?否定は出来ませんが。今回の演出の問題点は専らこの点、つまり演出家の視点にあります。映像の使い方とかはまぁ正直言って瑣末事でしょう。 このオペラの最終幕、革命軍の行進曲?を覆うようにして、刑場へ引き出された修道女達がSalve Reginaを歌います。聖母マリアを讃える歌ですが、この歌声の不気味なこと。ギロチンの音を伴奏に、途切れることなく歌い継がれるSalve Reginaは確かに感動的ではあり、力強いのではありますが、このクライマックスにしては、随分と美しくない、むしろ不気味ささえ感じさせる音楽をプーランクは与えています。 いや、正直言うと、これを不気味と感じるのは、私がカトリック教徒ではないからかも知れません。でも、プーランクは、最後に歌い継ぐブランシュに、音楽的解決を与えるかのようにより平穏な祈りの歌を歌わせます。が、それもギロチンとともに途絶え、後には後味の悪い沈黙。 プーランクは、決してこれを単なる「悲劇」として扱ってはいないと思うのです。少なくとも、プーランクの中には、カトリック的な志向と同時に、それを相対化する視線も内在するだけの現代性も持ち合わせていたと思うのです。 一方では、このオペラ、或いは戯曲は、信仰を巡る様々な様相を表現している。「殉教」という生き方を自ら択び取った、という観点からは、ブランシュの宗教的ビルドゥングス・ロマンでもあり、一方では前修道院長のあまりに人間的な死があり、最も強い信仰を持つように見えながら、結果的に殉教することの出来ないマリーがある。(考えようによっては、これは最大の悲劇でもありましょう)その意味では、この作品は宗教劇であり、同時にそれを相対化する力も秘めていると思うのです。 この作品が、殆どオペラとして最後の古典としての地位を確立しつつあるのは、この多重性を秘めた近代性故であると思うのです。19世紀より続くオペラの延長線上にあって、オペラとしての存在意義を失わずに、尚現代に繋がる近代性をも併せ持つことが出来た、希有な存在であると思います。その近代性をステレオタイプな構図に落とし込んでしまった演出の問題は大きいと思います。
2010年02月08日
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NHKホール 18:00~ 3階右手 (ショスタコーヴィチ:交響曲第1番) ストラヴィンスキー:春の祭典 NHK交響楽団 指揮:セミョーン・ビシュコフ ダブルヘッダーで、しかも途中色々あって、前半は捨てて「春の祭典」を聞きに行きました。 ビシュコフは聞きたかったけど、曲目的にはショスタコーヴィチ以上に「春の祭典」を聞きたかったので。 で、演奏。良かったとは思います。ただ、ちょっと考えてしまいました。 いや、「まぁいいんじゃないの?」というレベルではなく、良く出来てはいるんです。御存知の通りの難曲で、下手なオーケストラがやればただの力押しになってしまうところ、きちんと弾ききっていて、幾つかの管の乱れを除けば問題無し。あの広いNHKホールの舞台を埋めた大編成のオーケストラを見事仕切ったビシュコフも流石。 ただ、ねぇ。決して無理を感じさせないいい演奏だったのだけど、その上手さが故か、こう、NHKホールの中にすっぽり見事に収まりました、という感じなのですね。 破綻するよりずっと好ましいのは確かなのです。ただ、ストラヴィンスキーのこのへんのバレエ音楽、つまりは「春の祭典」や「ペトルーシュカ」、「火の鳥」みたいなのは、もうちょっと土俗的というか暴力的なものを感じさせるものではないかな、という気がするんです。 だからといって、よくある、日本のオーケストラの「ロマン派後期の音楽は爆発だぁ!(決して腕が無いからじゃないよ。そうじゃないんだよ!違うんだってばぁ!(涙目))」というスタイルの演奏よりは遥かに好ましいのだけれど。でも、このN響の演奏は、綺麗に収まり過ぎて、それはどうなんだろう、という気もしないでもない。 NHKホールの3階で聞くのがいけないのでしょうか。或いは、NHKホールじゃなくて、他のホールであればまた違うのでしょうか。どうもそれだけじゃなく、音楽の作り方じゃないかな、という気がしなくもないのだけれど、 前半も聞いておけばよかったかなぁ、と若干後悔。
2010年02月06日
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オーチャードホール 15:00~ 3階左手 モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 <独奏アンコール> シューベルト:即興曲 D.899-3 マーラー:交響曲第1番「巨人」 ピアノ:キム・ソヌク 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:チョン・ミュンフン スペシャル・アーティスティック・アドバイザー、ってのが一体何なのか最後まではっきりしねーなー、という役職で東フィルを振るのはこれが最後のチョン・ミュンフンの公演。 前日の新日フィルでうーむむむむ、と唸りながら帰って来たのだけれど、今回はいつもの(?)3階席。安心安心(!?) 前半はモーツァルトの協奏曲。23番。いわゆる名曲シリーズ的選曲です。ミーハーなので、楽しく聞かせて頂きました。 独奏のキム・ソヌク(ソンウクと読みたいんだけど、プログラム表記はソヌク。そうなの?)は、2006年のリーズ国際の優勝者だとか。ふーん。 まぁ、普通にいいピアニストという感じで、普通にいい演奏でした。なんというか、こう、特別に目立つ演奏ではなく、非常に正統的に、普通にフレージングをし、表情を聞かせる、という演奏でした。アンコールのシューベルトもそう。若いけどしっかりしている、という印象です。技巧に走るでなく、丁寧でやや控え目ながら堂々と、というスタンスをアンコールまで続けたという所でしょうか。また聞いてみたいピアニストかな、と。 後半はマーラー。ここからは、流石にチョン・ミュンフンの独擅場。最後を飾るにあたっての選曲だけに、いい演奏です。東フィルも、最近はこの種の曲をやる時は、えてしてテンションばっかり高い爆音系になりがちなのだけど、今回はよく統制が取れていて、いい響きで鳴っていました。 これもまた王道を行くという感じで(マーラーの王道って....?という気もしなくはないけれど)、最初から最後まで気の抜ける間もない密度の濃い演奏でした。 まぁもっとも、去年ゲヴァントハウスとシャイーで聞いた演奏に較べると.....というのはあります。あの時は言ってみれば真剣勝負で、それ故にこちらも思う所色々あり、ではあったのですが、それに較べるとさすがに没入感はそこまでではないかな、というか..... 面白かったですけどね。 しかし、なんで「巨人」ってこんなに演奏会によくかかるのですかね。物凄い人気演目なのか、たまたまなのか、そういう演奏会に通う自分がアレなのか。どうなんでしょうね。同じマーラーでも、たまには5番とか9番とかどうでしょう、みたいな。
2010年02月03日
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すみだトリフォニーホール 19:15~ 1階中央 ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ドヴォルジャーク:交響曲第9番「新世界より」 <アンコール> ブラームス:ハンガリー舞曲第4番 ヴァイオリン:西江辰郎 新日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:クリスティアン・アルミンク 珍しくいい所で聞いてます。S席とA席しかなくて、値段差が大したことないから、たまには、ということで..... 先週、第8番を結構楽しく聞けたので、ちょっと楽しみにして行ってきました。 ペンション・ファンド。まぁ、互助会みたいなもんですね。コンサートの前に、アルミンクと団員(ティンパニ奏者とホルン奏者)が出て来て、雑談形式で趣旨を説明してたんですが、ホルン奏者の話で「歯を痛めてインプラントを施術しても、今の法律では保険適用にならないんですね....」というところで何故か笑いが。 あのぉ、そこ、笑うとこと違いますよ.....切実なんですぜ、金管奏者には。 ある意味、補助金がどうとかいうより、こういう特殊業務に従事する人には、特有の疾病傷害とそれに対する保険適用を認める方が、よほど補助になるような気がしたりするんですけどね。 このコンサートの趣旨をそもそも分かってない人が多いんでしょうか。それとも、そもそも興味無いのかな、そういうことには。 さて演奏なんですが...... 一曲目は、コンサートマスターである西江辰郎の独奏で、ブルッフのヴァイオリン協奏曲なんですが。 うーん............. まぁ、いいんでしょう、きっと。それに、新日フィルを1階席中央で聞くのは滅多にないし。だからなんともなんですが、いつもの新日フィルというか..... 思うに、日本のオーケストラの弦セクションって、楽器を鳴らしきれてないんじゃないかと思うのです。そうとしか言いようがないのだけれど、鳴らしきれない→デュナミークを力でコントロール→テンションが余計に掛かる→音、硬くなる という展開になってるんじゃないかと思うのです。 残念ながらこのヴァイオリン独奏もその典型で、要するに、音が小さいのです。単に小さいのではなくて、響いてないというか、楽器が鳴りきれていない感じがするのです。 うーむ。 後半の新世界も、悪い演奏ではないんですが、普段聞き慣れない場所で聞いているのもあってか、楽器が鳴りきってない、響いてないのが気にかかるのです。 同じトリフォニーでも、いつもの3階席だと、よく響くホールを使って鳴らしているので、それなりに聞けるのですが、この位置だと、直接聞こえるその音が、特にこういう曲では気にかかってきます。特に第3楽章から第4楽章に掛けては、特に弦楽器にテンションが掛かってしまうので、そのテンションの掛かったきつい音で、結構な音量で勝負して来るので、これがなかなか厳しいというか........... うーむむむ。 アルミンクの指揮はそれなりに面白いし、全体としてそこそこ聞けたのは事実なんですが、ちょっと「あれ?」という感じで帰って来たのでした。悪くはないんだけど、1階席の真ん中(まぁ前の方ではあるけど)で聞くより、上の方で聞いた方が、それなりによく聞ける、っていうのも、さてどうなんでしょう..... オーケストラが良ければ、かぶり付きで聞いてもそれなりに聞けて、きついな、という聞こえ方はしないものですし、ねぇ。曲も曲だし、というのはあるんだけど。 まぁ、どのみち、もう少し柔らかくやって欲しかったかも。 ところで、帰り掛けに、新日フィルの2008-9 アニューアルレポートを貰って帰って来ました。これ、なかなか面白いので、いずれちょっと取り上げてみようと思います。
2010年02月01日
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